2話
「先輩」
胸を張った小太りのおじさんは、へこんだ頭のまま誇らしげだった。
誇る要素が、どこにもない。
先輩は俺の顔を覗き込んで、当たり前みたいに言った。
「声、出せ」
「……え?……はい」
先輩は満足げに頷いた。
「よし」
(何が“よし”だよ)
先輩は、へこんだ頭をトントン叩く。
「で、新入り。お前、何で死んだ」
「知らねぇよ。記憶がない」
「うわ、めんどくせぇタイプ」
「俺がめんどくさいのかよ」
俺は言い返してから、ふと聞き返した。
「……先輩は?」
先輩はあっさり言った。
「酔って階段。以上」
「以上じゃねぇよ」
「あと、嫁に『黙れ』って言った」
「最悪だな」
先輩は肩をすくめて、へこんだ頭をもう一回叩く。
「最悪のまま死んだ。だから未練」
俺は一瞬、言葉が止まった。
先輩はそれが嫌だったみたいに、すぐ雑に続ける。
「ほら、黙るな。そういう空気いらねぇ」
「お前が作ったんだろ」
先輩はあくびをするフリをして、霊安室の白を見回した。
白い天井、白い壁、白い光。理由のない白。
「ここ、涼しいだろ」
「霊安室だからな」
「新人も来る」
「嫌な待ち場所だな」
俺は結城を見る。
遺体の前で、丁寧に頭を下げて、丁寧に独り言を言っている。
「手順。手順。落ち着け。落ち着いている。私は落ち着いている」
(落ち着いてない人のセリフだな)
「なあ先輩。俺、あいつに話しかけても意味ない?」
先輩は秒で言い切った。
「ない。見えない、聞こえない、触れない。完全に透明」
俺は手を振ってみる。結城は反応しない。
ドアノブに触ろうとして、すり抜ける。
壁にも触れない。
「……使えねぇ」
「幽霊は便利じゃない。地道だ」
「地道って何だよ」
「歩け」
(歩けって……)
俺は結城の背中を見たまま、先輩に聞いた。
「……先輩、なんでここにいるんだよ」
「暇つぶし」
「霊安室で?」
先輩は顎で結城を指した。
「結城が来る日がある」
「知ってんの?」
先輩は当然の顔で言った。
「知ってる。抜けてる」
(お前、その頭で言うな)
「抜けてるって、何が」
「真面目にズレてるところ」
結城は遺体の前で、妙にきっちりした声を出す。
「……被害者と話ができるなら、助かるんですが」
(また、言ってるよ)
先輩が鼻で笑う。
「ほら。今も抜けてる」
「どこが」
先輩は答えず、顎で結城を示した。
結城は遺体の腹部に視線を落とし、眉をほんの少しだけ寄せた。
声は落ち着いている。仕事の声だ。
「……腹部の木片は、何故刺さったのか」
(そこ見るよな)
ポケットからICレコーダーを取り出す。迷いなくスイッチを入れ、机の端に置いた。
先輩が小さく笑う気配がする。
(おい、やめろ)
結城は遺体に向けて、低く言った。
「伊吹さん。転倒ですか。それとも――何かが落ちてきましたか」
返事はない。
(あるわけない)
それでも結城は息を吐き、赤いランプを見ながら淡々と言う。
「……これで音声が入ってたら、ホラーですね」
(真顔で言うな)
何事もなかったようにレコーダーを止め、遺体に一度だけ頭を下げた。
「ほらな」
先輩はニヤリとした。
そして、少しだけ声を落として言った。
「そいつ、俺の担当だった」
「は?」
「事故なのに、事件って言い放った」
「事故なのに?」
「事故なのに」
先輩は淡々と続けた。淡々としすぎて、逆に面白い。
「現場が混乱した。家族も混乱した。上司が怒った。鑑識が困った」
「そりゃそうだろ」
「結果、無能扱いになった」
先輩はへこんだ頭を叩いて付け足す。
「真面目なのにな」
「真面目は免罪符じゃない」
「だな」
俺は結城の背中を見たまま、口の中だけ乾いた。
「……じゃあ、俺の死も」
先輩は肩をすくめる。
「刺さってたって言ってた。腹に木材」
「……」
「今は抜かれてるけどな」
俺は息のない呼吸をした。
腹に木材。そんなの、放っておけば間違いなく“事件”になる。
結城は、遺体の顔を布で覆った。丁寧に。丁寧に。
「これで左右対称です」
(ありがとな!)
結城は鞄を閉めて、深呼吸した。
覚悟を整えるみたいな動き。
そのまま扉へ向かう。
「……行きましょう」
(おい。どこ行く気だ)
先輩が俺のほうを見た。
「お前、何も分かんねぇんだろ」
「分かんねぇ」
「だったら、ついてけ」
「無理だろ。俺、見えないし」
「見えなくても、歩いて後ろにいればいい」
「雑だな」
「雑に生きろ。死んでるけど」
俺は結城を見る。
真面目で、抜けてる。
放っといたら、また余計な混乱を作りそうだ。
……でも。
あいつが“絶対に辿り着く”って顔をしてるのも、分かる。
先輩が、いつもの調子で言った。
「悩むなら、歩け」
「うるせぇ」
結城が扉を開ける。
俺はドアノブに触れない。
それでも、扉の向こうへ行くことはできた。
俺は結城の後ろに立つ。
一歩、踏み出す。
白い部屋の冷たさから、外へ。
置いていかれるよりは、マシだった。




