1話
冷たい。
目を開けた瞬間に、冷たさだけが先に理解を始めた。
体がないのに、冷たい。
いや、体がないから、冷たいのか。
白い天井。白い壁。白い光。
病院の白より、もっと“理由のない白”。
「……ここ、どこだ」
声が出た。
……出たはずなのに、音が部屋に落ちない。
自分の声だけが、自分にだけ返ってくる。
世界に拒まれたみたいだった。
その静けさが、やけに冷たかった。
視線を落とすと、銀色の台の上に白い布。
布は人の形をしていて、嫌な想像を完成させるのに十分だった。
(やめろって)
扉の向こうで足音が止まって、少しだけ引き返す気配がして、それでも戻ってきた。
扉が開く。
中から、場違いなくらい丁寧な声がした。
「……失礼します」
スーツの男が入ってきた。胸に警察の身分証。
背筋は伸びているのに、空気だけがどこかズレている。
男は布のそばに立ち、ほんの一拍置いて、息を整えるように言った。
「……失礼します」
独り言みたいな声。
でも、ちゃんと弔いの形をしていた。
次の瞬間、男は迷いなく布をつまみ、顔の部分を剥いだ。
白が外れて、見えた。
俺の顔だった。
(……は?)
「え? 俺?」
理解したくないのに、理解だけが先に終わる。
心だけが置いていかれる。
それが一番怖い。
男は札を見る。そこに書かれた名前を、声に出さずに読む口の動き。
伊吹 透。俺の名前だ。
男はきっちり名乗った。
「結城理人。今回の担当です」
「誰に名乗ってんの?」
結城は、まるで台本を読むみたいに淡々と続ける。
「樫原五条四丁目。コンビニ裏。腹部に木材が刺さった状態で発見」
(いきなり情報量が多いな)
「発見者は近隣住民、笠原京子、六十二歳。通報に至る。他に目立った外傷は――」
結城は言いながら、遺体の胸元に手を置いた。
素手で。
「……いや、手袋は?」
結城は顔を近づけて、頬のあたりを指で確かめるようになぞる。
素手で。
「それ、大丈夫なの?」
「やめろって。今の俺、証拠品側だろ」
結城は腹部のほうへ視線を移し、今度は指先で“軽く押す”ような仕草をした。
素手で。
「押した。今、押したよね?」
結城の指に、うっすら色がついた。
結城はそれを見つめて、しばらく固まってから、落ち着いた声で独り言を言う。
「……合理的に考えましょう。今のは、触れてはいけないやつです」
「気づくの遅いよ」
結城はポケットを探る。左右、内側、外側。
そして、短く言った。
「……手袋がありません」
「大丈夫かコイツ!」
結城は一拍置いて、遺体に向かってきれいに頭を下げた。
「……すみません。弔いに来たのに、まず不適切でした」
(言葉だけ丁寧なの、余計に怖いんだよ)
結城は鞄を開けた。
中身が一瞬ぐちゃっと見える。段取りが崩壊してる。
その中から、くしゃくしゃの袋を引っ張り出す。
「……ありました」
「あったのかよ」
結城は手袋をはめる。左右を間違える。外す。はめ直す。
その間も独り言が止まらない。
「手順。手順。落ち着け。落ち着いている。私は落ち着いている」
(落ち着いてない人のセリフだな)
ようやく手袋をはめ終えた結城が、遺体を見下ろして小さく言った。
「伊吹透さん。……私は、あなたを弔いに来ました」
短いのに、妙に真面目で、妙に重い。
伊吹はツッコミで逃げたくなる。
「弔うのはいいけど、さっきの素手は何だったんだよ」
結城は静かに霊安室を見回す。
そして、独り言みたいに呟いた。
「……被害者と話ができるなら、助かるんですが」
「そうだな」
結城は遺体に向き直り、メモを取ろうとして――ペンを探して――また見つからず、
小さく舌打ちした。
「……不覚」
「全部だよ」
その瞬間、霊安室の隅から声がした。
「おい、新入り」
伊吹は反射で振り向いた。
そこにいた。
小太りのおじさん。
スーツでも白衣でもない、妙に生活感のある格好。
そして何より――頭が、へこんでいる。言い訳できないくらい。
生きてる人間の形じゃなかった。
それなのに、妙に日常の空気をまとっていた。
おじさんは、へこんだ頭を気にするでもなく、伊吹を値踏みするように見た。
「お前、なにしたの?」
間髪入れずに、へこんだ頭を指でトントン叩く。
「転んで死んだの?」
(その頭で言うと、説得力がありすぎる)
結城は当然、何も見えていない。
遺体のそばで一人、段取りの独り言を続けている。
「よし。整理しましょう。私は落ち着く。次に――」
(お前は黙れ)
伊吹は、へこんだ頭のおじさんを指さしたいのに指がないまま、頭の中で叫んだ。
「……誰お前?」
おじさんはニヤッとして、軽く胸を張る。
「先輩」




