第一部 第七章 保身の結婚 前編 顔合わせ
夫の視線が、息子の嫁で止まった。老年の妻は沈黙で家族を守れるのか――壊れていく形の中で小さな灯りを探す物語。
茂の「形を整えよう」は、すぐにでも実行となった。
秀樹は戸惑いを隠せず、美希は「私、正式にしてもらえたら安心します」と小さく頷く。
ユキは椅子の背にもたれ、「それ、父さんの保身でしょ」とだけ言って箸を置いた。
私は、喉の奥に小さな石をひとつ飲み込んだみたいに、言葉が通らなかった。
夕食の後、茂は当たり前のように言い出した。
「親戚筋の目もある。いっそハワイで式をやろう。盛大にな」
私は即座に首を振った。
「反対よ。私は一銭も出さない」
茂は表情を変えず、ユキに向き直る。
「お前からも母さんを説得してくれ」
ユキは乾いた笑いをひとつ。
「誰のための結婚よ、父さんが説得しなよ。」
ハワイの話は、そこでいったん尻すぼみになった。
「母さんが協力しないなら仕方ない」
茂はそう言い置き、フォトウェディングに切り替えると決めた。
「今時なら、フォトウェディングでもいいかもな。秀樹は2度目だし。」
その言葉に、私は返す言葉を失う。
それでも結婚話は着実に進んだ。
「向こうのご家族と一度、顔合わせを」
言い出したのは茂で、段取りをしたのは美希。
美希の提案で駅前のファミレスに決まる。
彼女の母は旅館勤めで長居ができないという。
昼下がり、窓際の席に水滴の輪がいくつも並ぶ。
少し遅れて、黒いジャケットの美希の母が現れた。
席に着くなり腕時計を見て、短く頭を下げる。
「すみません、すぐ戻らないと」
「これ、どうぞ」
差し出された紙袋の口を開けると、温泉饅頭の箱に赤いスタンプ。
――見本。
旅館の売店で客に見せるサンプル。
「忙しくて、買いに行けなくてね。味は変わらないから」
悪びれない口調に、茂は「お気遣いなく」と笑ってみせ、秀樹は所在なげに頷く。
私は会釈しながら、喉がひりついた。
花嫁の母の手土産が“見本”――この結婚は、本当に大丈夫だろうか?
「うちの子、昔から体が弱くて。よろしくお願いします」
挨拶もそこそこに美希の母親は時計を見て立ち上がった。
テーブルには水滴の輪だけが残る。
階段を下りる背中越しに、美希の小声が零れた。
「だから言ったでしょ、母は、こういうのむかないって」
「仕方ないよ」秀樹の声は小さい。
耳の奥で、見本の赤が、点滅し続けた。
老年の妻・清子は、年下の夫・茂、息子・秀樹、娘・ユキと暮らしてきた。息子の離婚を機に現れた新しい恋人・美希は、幼少期の孤独と病を抱え、やがて茂と共振する。家族の食卓に走る一言の嫉妬。会社での“二人席”。親戚や街に広がる「どっちの嫁?」の噂。疑念は確信へ、しかし息子は「真実を知れば生きていけない」と震える。清子は沈黙を選び、娘と二人で小さな暮らしをはじめる――利害で離婚しない現実と、灯りのような救い。家族をめぐる倫理と愛の境界を、静かな一人称で描くヒューマンドラマ。




