第一部 第六章 三者対立
夫の視線が、息子の嫁で止まった。老年の妻は沈黙で家族を守れるのか――壊れていく形の中で小さな灯りを探す物語。
その日の夕方、秀樹と美希が来ていた。
家の空気は雨上がりのコンクリートみたいに湿って重かった。
台所で味噌汁の味を見ていると、居間から低い話し声が聞こえてくる。
耳が勝手にそちらへ向いた。
嫌な予感は、たいてい当たる。
「ユキ、謝れ。」
秀樹の声だ。押し殺してはいるが、今にも崩れそうな張りつめ方をしている。
「謝る理由がない」
ユキの声は平坦で、冷たく、真っ直ぐだった。
私は鍋の火を弱め、布巾で手を拭きながら居間へ出た。
テーブルを挟んで立つ三人。秀樹は顔を紅潮させ、ユキは腕を組み、美希はいつもの微笑を貼りつけている。
茂はソファに腰を沈め、テレビの電源を落としたままリモコンを手の中で弄んでいた。
「どうしたの?」
私が問うより早く、ユキが一歩、前へ出た。
「はっきり言う。私はあなた(美希)に、頭を下げてまで付き合う気はない。
兄の嫁でありながら父と噂になって、母を苦しめている――そんなあなたに、私が好意的に接する理由はないから」
空気が一段冷えた気がした。
美希の笑みが、ほんの一瞬だけ引きつる。けれどすぐに整え直し、柔らかい声で返した。
「……お母さんの妄想ですよ。私は会社のために、社長――お父さんを支えてるだけです。
この家のためにも、会社のためにも、私が動いてる。それを曲解してるのは、清子さんの方です」
“清子さん”。
距離を取るための呼び名。わざとらしい敬意。
胸の奥がひゅっと縮んだ。
「妄想かどうかは関係ない」
ユキは美希を正面から見据え、声を少し低くした。
「母が苦しんでる時点で、私はあなたを許さない」
「やめてくれ!」
秀樹が叫ぶ。
「どうしてそんな言い方をするんだ、ユキ。美希は悪くない。母さんの被害妄想に踊らされるなよ!」
「被害妄想……?」
思わず私は反射的に言葉を繰り返していた。
喉が乾き、声が上ずる。
美希が、さらに薄く笑った。
「ねえ秀樹さん、私はね、あなたの家族のために、いい時間を作ってるつもりなの。
お父さんにも、いろいろ美味しいものを食べさせてもらって。仕事の合間にだって、みんなの士気が上がるでしょ?」
“いい時間”。
その言葉が刃物の縁のように、音もなく私の皮膚を切った。
ユキの視線がギラリと光る。
「ほらね。そういう言い方が、愛人そのものなんだよ。
この前は『私がいるのにお母さんを呼ぶわけない』って言ったよね。
それ、母の居場所をわざと消してるんだよ」
秀樹の顔から血の気が引いた。
「本当に言ったのか……美希?」
消え入りそうな声で問う弟に、美希は小首を傾げる。
「文脈って、ありますよね。誤解を招く言い方だったなら謝ります」
謝罪の形をしているのに、何一つ認めない言葉。
茂が、ようやくリモコンをテーブルに置いた。
「……家族というのはな」
茂のいつもの、もっともらしい声が部屋に満ちる。
「放っておけば元に戻るものだ。無理に裁けば、余計に壊れる。
ここで誰が正しいとか、誰が悪いとか、言うべきじゃない」
“綺麗事”。
その言葉が頭の内側で明滅する。
私は黙って茂を見た。
彼の目は私を見ていない。自分の立場、自分の面子、自分の“安全地帯”だけを映している。
ユキが鼻で笑った。
「それって『自分は何もしない』ってことだよね。
父さんはいつもそう。いい顔して、誰の前にも立たない。
親の自覚、ある?」
茂の口元がひきつる。けれど反論はない。
沈黙。
沈黙は、時に何より雄弁だ。
「ユキ、もうやめろ……」
秀樹は頭を抱え、視線を泳がせた。
「俺は幸せになりたいだけだ。美希とやり直したいだけなんだ。母さんだって、それを望んでるはずだろ?」
“幸せになりたいだけ”。
その言葉は祈りに近い。
私は胸の内側に触れ、確かめるように息を吸った。
――本当は、この子を抱きしめて泣いてやりたい。
けれど、私が泣けば、秀樹はもっと簡単に壊れてしまう。
「秀樹」
私は静かに名を呼んだ。
「私は、あなたが幸せであればそれでいいの。
でも、誰かの痛みの上に無理に築いた“幸せ”は、いつか必ず崩れる」
秀樹は、何も言えなかった。
美希がすかさず肩に手を置き、柔らかい声で囁く。
「大丈夫。私がいるから。ね?」
そのとき、茂が声を発した。
「清子、このままじゃいけない。形を整えよう。
変な噂があるなら、なおさら“公式”にして外を黙らせるべきだ。
……つまり、秀樹と美希の結婚だ」
胸の奥がずしんと沈んだ。
――来た。
逃げ腰の綺麗事は、いつだって保身の提案とセットで現れる。
ユキが鋭く顔を上げる。
「は?」
秀樹は驚いたように美希を見て、そして父を見た。
美希は、ほんの一瞬だけ目を細め、それから伏せた睫毛の陰で、笑った。
私は唇を噛んだ。
“形を整える”。
たしかに外聞は良くなるのだろう。
でも、それはこの家の内部に巣くう腐臭を、香水で消すようなものだ。
居間に残された私たちは、しばらく誰も動けなかった。
時計の秒針だけが、乾いた音で時間を切り刻んだ。
老年の妻・清子は、年下の夫・茂、息子・秀樹、娘・ユキと暮らしてきた。息子の離婚を機に現れた新しい恋人・美希は、幼少期の孤独と病を抱え、やがて茂と共振する。家族の食卓に走る一言の嫉妬。会社での“二人席”。親戚や街に広がる「どっちの嫁?」の噂。疑念は確信へ、しかし息子は「真実を知れば生きていけない」と震える。清子は沈黙を選び、娘と二人で小さな暮らしをはじめる――利害で離婚しない現実と、灯りのような救い。家族をめぐる倫理と愛の境界を、静かな一人称で描くヒューマンドラマ。




