第一部 第五章 噂
夫の視線が、息子の嫁で止まった。老年の妻は沈黙で家族を守れるのか――壊れていく形の中で小さな灯りを探す物語。
人の噂というのは、最初は小さなさざ波のように聞こえる。
けれど、それが繰り返し耳に届くと、やがて押し寄せる波になって人を呑み込む。
私がそれを身をもって知ったのは、あの法事の日だった。
親戚が集まる本家の座敷。仏壇の前に線香の香りが漂い、障子越しの冬の日差しが淡く畳を照らしていた。
私は親戚の女性たちと並んで茶をすすっていた。
「清子さん、最近どう? 会社は順調なの?」
世間話のように問いかけられ、私は笑顔を作った。
「ええ、なんとかね」
そのときだった。
別の女性が、にこやかにこう言った。
「そういえばあのお嫁さん、あれって……どっちの嫁なの?」
空気が一瞬止まった。
笑いを含んだ声色だったが、その刃は鋭く私の胸を切り裂いた。
「いやねえ、息子さんにもお父さんにも、同じくらい大事にされてるみたいだから」
冗談めかして続けられた言葉に、周囲がどっと笑った。
私は喉が渇き、茶を飲み込むのがやっとだった。
「そんなこと、ありませんよ」
笑顔を作って答える。
けれど、その笑顔は頬の筋肉がひきつり、苦痛でしかなかった。
***
数日後。
商店街で買い物をしていたときのこと。
白菜を選んでいると、隣で立ち話をしていた二人の女性の声が耳に入った。
「社長さん、嫁を間違えてるんじゃない?」
「ほんと、あの二人、一緒にいると夫婦みたいだもんね」
私は手にした白菜を棚に戻した。
指先が冷たく震える。
聞き耳を立てているわけではなかった。
けれど、耳は勝手に言葉を拾ってしまう。
見知らぬ二人の声。
私を知っているのかどうかも分からない。
けれど、その内容は私に直接突き刺さるものだった。
トマトを手に取ったが、視界がぼやけて赤い実が二重に見えた。
会計を済ませ、外に出ると、冬の風が頬を切った。
その痛みよりも、胸の中の重苦しさの方が強かった。
***
さらに追い打ちをかけるように、別の日には親しい友人からも同じような言葉を投げかけられた。
「ねえ、清子。変な噂を聞いたんだけど、まさか違うわよね?」
私は微笑んで答えた。
「もちろんよ」
声は落ち着いていたと思う。
けれど心の中では、怒りと羞恥と悲しみが渦巻いていた。
***
親戚の冗談、商店街の囁き、友人の確認。
一つひとつは小さな石ころにすぎない。
けれど積み重なれば山になる。
その山の重みに、私は押し潰されそうになっていた。
――もう、私だけの思い込みじゃない。
その現実を、認めざるを得なかった。
疑念は確信へと変わりつつあった。
けれど、証拠を突きつけられたわけではない。
だから誰にも言えない。
沈黙の中で、私はただ自分の胸に石を抱え込み、動けずに立ち尽くすしかなかった。
***
夜更け、布団の中で目を閉じても、耳の奥に声が残る。
「どっちの嫁なの?」
「嫁を間違えてるんじゃない?」
その言葉が、何度も何度も繰り返される。
眠りにつくことはできず、暗闇の中で天井を見つめた。
――私の家族は、すでに世間から“壊れたもの”として見られている。
その現実が、何よりも苦しかった。
老年の妻・清子は、年下の夫・茂、息子・秀樹、娘・ユキと暮らしてきた。息子の離婚を機に現れた新しい恋人・美希は、幼少期の孤独と病を抱え、やがて茂と共振する。家族の食卓に走る一言の嫉妬。会社での“二人席”。親戚や街に広がる「どっちの嫁?」の噂。疑念は確信へ、しかし息子は「真実を知れば生きていけない」と震える。清子は沈黙を選び、娘と二人で小さな暮らしをはじめる――利害で離婚しない現実と、灯りのような救い。家族をめぐる倫理と愛の境界を、静かな一人称で描くヒューマンドラマ。




