表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
家族の影  作者: hoku love
5/12

第一部 第四章 挑発

夫の視線が、息子の嫁で止まった。老年の妻は沈黙で家族を守れるのか――壊れていく形の中で小さな灯りを探す物語。

ある日、茂が言った。

「来週、福井に出張がある。免停中だから、清子、お前に送ってもらいたい」


免停。

確かに茂は最近、車のハンドルを握ることができなかった。

私は頷いた。

「分かったわ。早起きして運転するから」


夫に頼られることは、今では少なかった。

だから小さな役目でも、妻として必要とされるなら、と心の奥にかすかな灯りがともった。


ところが――数日後、従業員の何気ない言葉が私を打ちのめした。

「美希さん、社長を福井まで送っていくんですってね」


私は耳を疑った。

「……運転手を雇うって聞いたけど?」

「いえ、ご本人がそう話してましたよ。『社長を送ることになってる』って」


頭の中に、茂の二つの言葉が並んだ。

私には「送ってほしい」。

美希には「送ってもらう」。

――二枚舌。


どちらが本心かは、火を見るより明らかだった。

胸の奥が冷たく沈み、怒りよりも虚しさが広がった。


数日後、仕事終わりに美希と二人きりになる場面があった。

彼女は妙に明るい声で、私に話しかけてきた。


「お父さんにはね、いい時間を過ごさせてもらいました。

 美味しいものも、たくさん食べさせてもらったんです」


一瞬、耳を疑った。

言葉の端々に、隠しようのない“女”の匂いがあった。

私の夫を“お父さん”と呼びながら、にやりと笑うその顔。

挑発以外の何ものでもなかった。


さらに彼女は、追い打ちをかけるように言った。

「だって、私がいるのにお母さんを呼ぶわけないじゃないですか?」


その言葉が、私の胸を鋭く切り裂いた。

“お母さん”と呼びつつ、そこに敬意も思いやりもない。

勝ち誇った女の顔。

――夫の隣は自分のものだ、と告げるように。


私は曖昧に笑って「そう」とだけ返した。

それ以上、何を言っても惨めになると分かっていたからだ。


夜、台所で洗い物をしていると、ユキが帰ってきた。

私は我慢できずに、昼間のやり取りをそのまま話した。


ユキは皿を拭く手を止め、目を見開いた。

「何それ……完全に愛人のセリフじゃん。母さん、舐められてるんだよ」


「やっぱり、そう思う?」

私は弱々しく尋ねた。

どこかで、自分の妄想だと否定してほしかった。


けれどユキは首を横に振った。

「普通に聞いてもおかしいよ。母さんの勘違いなんかじゃない。

 むしろ、父さんとあの人の関係を隠そうとして、わざと挑発してるんじゃない?」


私は深く息を吐き、シンクに両手をついた。

美希の言葉が頭の中で反響する。

「いい時間を過ごさせてもらいました」

「お母さんを呼ぶわけない」


――もう、逃げられない。

疑念は確信へと変わり始めていた。

老年の妻・清子は、年下の夫・茂、息子・秀樹、娘・ユキと暮らしてきた。息子の離婚を機に現れた新しい恋人・美希は、幼少期の孤独と病を抱え、やがて茂と共振する。家族の食卓に走る一言の嫉妬。会社での“二人席”。親戚や街に広がる「どっちの嫁?」の噂。疑念は確信へ、しかし息子は「真実を知れば生きていけない」と震える。清子は沈黙を選び、娘と二人で小さな暮らしをはじめる――利害で離婚しない現実と、灯りのような救い。家族をめぐる倫理と愛の境界を、静かな一人称で描くヒューマンドラマ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ