第一部 第四章 挑発
夫の視線が、息子の嫁で止まった。老年の妻は沈黙で家族を守れるのか――壊れていく形の中で小さな灯りを探す物語。
ある日、茂が言った。
「来週、福井に出張がある。免停中だから、清子、お前に送ってもらいたい」
免停。
確かに茂は最近、車のハンドルを握ることができなかった。
私は頷いた。
「分かったわ。早起きして運転するから」
夫に頼られることは、今では少なかった。
だから小さな役目でも、妻として必要とされるなら、と心の奥にかすかな灯りがともった。
ところが――数日後、従業員の何気ない言葉が私を打ちのめした。
「美希さん、社長を福井まで送っていくんですってね」
私は耳を疑った。
「……運転手を雇うって聞いたけど?」
「いえ、ご本人がそう話してましたよ。『社長を送ることになってる』って」
頭の中に、茂の二つの言葉が並んだ。
私には「送ってほしい」。
美希には「送ってもらう」。
――二枚舌。
どちらが本心かは、火を見るより明らかだった。
胸の奥が冷たく沈み、怒りよりも虚しさが広がった。
数日後、仕事終わりに美希と二人きりになる場面があった。
彼女は妙に明るい声で、私に話しかけてきた。
「お父さんにはね、いい時間を過ごさせてもらいました。
美味しいものも、たくさん食べさせてもらったんです」
一瞬、耳を疑った。
言葉の端々に、隠しようのない“女”の匂いがあった。
私の夫を“お父さん”と呼びながら、にやりと笑うその顔。
挑発以外の何ものでもなかった。
さらに彼女は、追い打ちをかけるように言った。
「だって、私がいるのにお母さんを呼ぶわけないじゃないですか?」
その言葉が、私の胸を鋭く切り裂いた。
“お母さん”と呼びつつ、そこに敬意も思いやりもない。
勝ち誇った女の顔。
――夫の隣は自分のものだ、と告げるように。
私は曖昧に笑って「そう」とだけ返した。
それ以上、何を言っても惨めになると分かっていたからだ。
夜、台所で洗い物をしていると、ユキが帰ってきた。
私は我慢できずに、昼間のやり取りをそのまま話した。
ユキは皿を拭く手を止め、目を見開いた。
「何それ……完全に愛人のセリフじゃん。母さん、舐められてるんだよ」
「やっぱり、そう思う?」
私は弱々しく尋ねた。
どこかで、自分の妄想だと否定してほしかった。
けれどユキは首を横に振った。
「普通に聞いてもおかしいよ。母さんの勘違いなんかじゃない。
むしろ、父さんとあの人の関係を隠そうとして、わざと挑発してるんじゃない?」
私は深く息を吐き、シンクに両手をついた。
美希の言葉が頭の中で反響する。
「いい時間を過ごさせてもらいました」
「お母さんを呼ぶわけない」
――もう、逃げられない。
疑念は確信へと変わり始めていた。
老年の妻・清子は、年下の夫・茂、息子・秀樹、娘・ユキと暮らしてきた。息子の離婚を機に現れた新しい恋人・美希は、幼少期の孤独と病を抱え、やがて茂と共振する。家族の食卓に走る一言の嫉妬。会社での“二人席”。親戚や街に広がる「どっちの嫁?」の噂。疑念は確信へ、しかし息子は「真実を知れば生きていけない」と震える。清子は沈黙を選び、娘と二人で小さな暮らしをはじめる――利害で離婚しない現実と、灯りのような救い。家族をめぐる倫理と愛の境界を、静かな一人称で描くヒューマンドラマ。




