第一部 第一章 影を連れた女
夫の視線が、息子の嫁で止まった。老年の妻は沈黙で家族を守れるのか――壊れていく形の中で小さな灯りを探す物語。
第一章 影を連れた女
息子の秀樹が最初に結婚した日の朝、私は早く目を覚ました。
まだ薄暗い台所で湯を沸かしながら、二十数年前の自分の結婚式を思い出す。
あの頃は未来に疑いなどなく、ただ希望だけを抱いていた。
けれど今日の私は違った。
胸の奥に小さな石のような不安を抱え、それを隠すように笑顔を作っていた。
「母さん、ネクタイこれでいい?」
寝癖を撫でつけながら秀樹が居間に顔を出す。
胸元の白いネクタイは少し曲がっている。
私は指先で直しながら、無理に明るい声を出した。
「似合ってるわよ。……緊張してる?」
「してない」
そう言う声は上ずっていた。
式は滞りなく進み、相手の花嫁も白無垢がよく似合っていた。
だが私は、ずっと胸に石を抱えたままだった。
“できちゃった婚”。
その言葉は親族の口には出されなかったが、空気の底に沈んでいた。
私は母として、息子を支えるしかないと自分に言い聞かせた。
結婚生活は数年続いた。
秀樹は一見幸せそうに見えた。
仕事にも励み、家にも帰ってきていた。
けれどある日、突然電話がかかってきた。
「……お母さん、俺、離婚するかもしれない」
低い声の底に、ひび割れがあった。
理由を聞くと、生まれた子が自分の子ではなかったという。
裏切り。絶望。
私は電話口で何も言えず、ただ「帰っておいで」とだけ絞り出した。
それから、秀樹は部屋に閉じこもった。
昼夜の区別を失い、布団から出てこない日もあった。
私はドアの前に弁当を置き、ノックしてから離れる。
食器はいつの間にか廊下に出されているが、ほとんど減っていない日もあった。
夜更け、廊下で洗濯物を抱えて立ち尽くすと、ドアの向こうから小さなすすり泣きが聞こえてきた。
扉に手をかけたが、開けられなかった。
息子の心の闇に、私は踏み込む勇気を持てなかった。
数か月が過ぎたころ、少しずつ変化が現れた。
秀樹は髭を剃り、アイロンをかけたシャツを着るようになった。
外に出かけ、コンビニ袋を提げて帰ってくるようになった。
私はわずかな変化を拾い集め、希望のかけらのように大事にした。
そしてある日、玄関のチャイムが鳴った。
「母さん、紹介したい人がいる」
ドアの向こうに立っていたのは、一人の女性だった。
濃い色のワンピースに、控えめなペンダント。
礼儀正しく頭を下げるその姿はきちんとしていたが、目の奥に薄い影を宿していた。
「初めまして。美希です。よろしくお願いします」
声はよく通るのに、どこか遠くから届くような響きがあった。
居間に通し、茶を出すと、秀樹は真剣な表情で言った。
「同棲しようと思ってる。結婚を前提に」
茂は「そうか」と短く答えただけ。
私は「まあ早いわね」と笑顔を作るしかなかった。
その夜、美希から身の上を少しだけ聞いた。
父を早くに亡くし、母は住み込みで働き、祖母に育てられたこと。
姉と二人で寂しい幼少期を過ごしたこと。
そして、てんかんを抱えていること。
「薬を飲んでいれば大丈夫なんです」
努めて明るく言うその声が、かえって私の胸を締めつけた。
私は頷きながら思った。
――影を背負った人だ。
その影は、息子の傷と共鳴しているように見えた。
けれど、その影がやがて私たち家族を深く蝕んでいくとは、そのときの私はまだ知らなかった。
老年の妻・清子は、年下の夫・茂、息子・秀樹、娘・ユキと暮らしてきた。息子の離婚を機に現れた新しい恋人・美希は、幼少期の孤独と病を抱え、やがて茂と共振する。家族の食卓に走る一言の嫉妬。会社での“二人席”。親戚や街に広がる「どっちの嫁?」の噂。疑念は確信へ、しかし息子は「真実を知れば生きていけない」と震える。清子は沈黙を選び、娘と二人で小さな暮らしをはじめる――利害で離婚しない現実と、灯りのような救い。家族をめぐる倫理と愛の境界を、静かな一人称で描くヒューマンドラマ。




