終章 小さな灯り
私は結局、茂と離婚はしなかった。
愛情が残っているからでも、夫婦としてやり直せると信じているからでもない。
ただ、年齢、財産、世間体――さまざまな利害を考えれば、「別れない」という選択しか残されていなかった。
冷たい計算だ。
自分でもそう思う。
けれど、この年になれば、現実を直視するしかない。
理想や感情だけで生きられる年齢は、とうに過ぎた。
――それに。
秀樹のことを思えば、なおさらだった。
もし真実を突きつけてしまったら、あの子は壊れてしまう。
「生きていけない」と言った声が、私の耳から離れない。
だから私は黙った。
黙ることが、あの子を生かす唯一の手段だと信じて。
その代わりに、私はユキと二人で新しい暮らしを始めた。
狭いマンションの一室。
畳もないフローリングに、安いラグを敷き、ちゃぶ台代わりのテーブルを置いた。
夜になれば、窓の外から隣家のテレビの音が漏れてくる。
決して快適とは言えない。
けれど、この空間には重苦しい沈黙も、誰かの影に怯える視線もなかった。
小さな失敗に笑い、半額の惣菜を「ごちそう」と呼ぶ。
そんな何気ない時間が、私にとっては宝物になった。
夜、布団に横になると、不安はやはり押し寄せてくる。
秀樹は大丈夫だろうか。
本当にあの子は、この先やっていけるのだろうか。
そして茂と美希は――。
考え出すと眠れなくなる。
けれど、隣の部屋からユキの笑い声や電話する声が聞こえてくると、不思議と胸の奥に小さな光がともる。
それは弱々しく、吹けば消えてしまいそうなほどの光だ。
けれど、確かにそこにある。
私はもう、大きな幸せを望んではいない。
ただ、この小さな灯りを守り続けたい。
明日も、あさっても、ユキと一緒に笑い合える日常があれば、それでいい。
――いつか、この葛藤から解き放たれる日が来るのだろうか。
穏やかに笑える日が訪れるのだろうか。
答えは分からない。
けれど、今ここにある小さな灯りを、私は見失わずに生きていきたい。
たとえそれが儚くても、たとえ揺れ続けても。
その光こそが、私にとっての救いなのだから。
私は今日もまた、ユキと並んで小さな食卓に座り、明日のパンを焼く。
それが焦げても笑い合える――そんな暮らしの中で。




