第一部 第八章 揺れる息子
夫の視線が、息子の嫁で止まった。老年の妻は沈黙で家族を守れるのか――壊れていく形の中で小さな灯りを探す物語。
フォトウェディングが終わってから数日、私は夜ごと胸の奥にざらついた感覚を抱えていた。
あのアルバムをめくるたびに、美希の笑顔がこちらを挑発するように感じられる。
秀樹の笑顔は無理矢理にでも作っているかのように見えた。
――でも、家族の中の空気は、少しも良くならなかった。
その夜、秀樹と美希が夕食を食べにやってきた。
台所で茶碗を洗っていると、廊下の奥から声が聞こえてきた。
秀樹と美希。
私は無意識に水を止め、手を布巾で拭いて廊下に立った。
扉は閉まっていたが、押し殺した声は漏れ出してくる。
「ねえ、信じてよ」
美希の声。甘えるような調子。
「……でも、母さんが……」
秀樹の声は弱く、掠れていた。
「お母さんの言うことなんて妄想だって。
私とお父さんのことなんて、あるわけないでしょ?」
私は壁に背を預け、息を殺した。
布巾が手の中で湿ったまま固まる。
「でも、みんなが噂してる……」
秀樹の声が震えている。
「噂なんて、、、、。他人なんて面白おかしくいうものよ。
私は会社を支えてるだけ。お義母さんが勝手に曲解してるの」
衣擦れの音。
布団の軋む音。
私の頭の中に、息子が必死に縋る姿が浮かんだ。
「……でも、もし本当にそうだったら……俺は……生きていけない」
その一言に、私は壁に手をついた。
足元から力が抜ける。
“生きていけない”――その言葉は、私の胸を鋭く貫いた。
私はふらつく足で廊下を戻った。
背後から足音が近づき、振り向くとユキが立っていた。
彼女は真剣な目をして、低い声で言った。
「……母さん、聞いた?」
私は頷いた。声は出なかった。
ユキは唇を噛み、それから吐き捨てるように言った。
「兄ちゃんには、絶えられないよ、父さんと美希さんのこと。
美希さんは兄ちゃんの弱さを分かってて、そこに入り込んでるんだよ。
だから真実を認めたら、兄ちゃんは壊れる。下手したら……自殺する」
私は「そんな……」と呟いた。
頭では分かっていた。
けれど娘の口からはっきり言われると、現実が鋭く突きつけられた。
ユキは続けた。
「だから母さん、兄ちゃんを問い詰めちゃだめ。
認めさせちゃだめ。
兄ちゃんを守れるのは、もう母さんと私しかいないんだから」
私は両手で顔を覆った。
涙が指の隙間から溢れ出す。
「……どうすればいいの?」
震える声で問うと、ユキは私の手を握った。
「沈黙するしかない。母さんが声を上げたら、兄ちゃんは壊れる。
だから私たちが黙って、耐えるしかないんだよ」
その夜、布団に入っても眠れなかった。
「生きていけない」と言った息子の声が、何度も耳に蘇る。
私は枕を抱きしめ、闇の中で祈った。
――どうか、あの子の心が壊れませんように。
――どうか、私の沈黙が、あの子を生かす盾になりますように。
でも同時に思った。
沈黙は、私自身を蝕んでいく毒でもあるのだと。
老年の妻・清子は、年下の夫・茂、息子・秀樹、娘・ユキと暮らしてきた。息子の離婚を機に現れた新しい恋人・美希は、幼少期の孤独と病を抱え、やがて茂と共振する。家族の食卓に走る一言の嫉妬。会社での“二人席”。親戚や街に広がる「どっちの嫁?」の噂。疑念は確信へ、しかし息子は「真実を知れば生きていけない」と震える。清子は沈黙を選び、娘と二人で小さな暮らしをはじめる――利害で離婚しない現実と、灯りのような救い。家族をめぐる倫理と愛の境界を、静かな一人称で描くヒューマンドラマ。




