タイトル未定2025/08/04 19:04
昭和六十二年、春。
駅前の公衆電話には、いつも列ができていた。十円玉を何枚も手に持ち、順番を待つ姿。言葉を選ぶように、沈黙の中で小さく揺れる受話器。
今思えば、不便だった。けれどその“不便”の中には、なにか確かな“意味”があったように思う。
僕が彼女に出会ったのは、図書館だった。
高校三年の六月。まだ梅雨も明けきらず、湿気の残る午後。館内の窓際で、彼女は分厚い本を広げていた。
「……それ、好きなんだね」
とっさに声をかけた理由は、自分でもよく覚えていない。ただ、彼女がページをめくる仕草が、まるで時間を大切に扱うように丁寧だったから、思わず話しかけたのだと思う。
「うん。毎年、同じ時期に読むの」
彼女はそう言って笑った。
それがすべての始まりだった。
互いの学校は違った。彼女は少し遠くの女子校に通っていて、会えるのは週末だけ。連絡手段は家の電話番号。けれど、夜の八時を過ぎて電話をかけるのは、なんだか申し訳なくて、いつも迷った。
だから、僕らは手紙を書くようになった。
最寄りのポストの前で、彼女の便箋を受け取るのが、いつからか習慣になっていった。水色の封筒、万年筆のインクの匂い、丸みのある文字。それらが届くたび、胸が温かくなった。
「この前の電話、うまく話せなかったね。でも、声が聞けて嬉しかったよ」
「今度、図書館で会おう。あの席、空いてたらいいな」
恋は静かに、けれど確かに進んでいった。
好きだとか、付き合おうとか、そういう明確な言葉は一度も交わさなかったけれど、互いに手紙を出し続けること自体が、答えだった。
ある日、彼女からこんな言葉が届いた。
「私たち、今の時代でよかったって思うの。だって、“すぐに会えない”って、たぶん愛の形を深くしてくれるから」
僕はその手紙を、何度も読み返した。
そのたびに、自分の中に確かに芽生えていた気持ちが輪郭を持っていった。
会いたい。でも会えない。
だからこそ、“言葉”に心を込める。
彼女が書く一文字一文字に、どれほどの時間を費やしてくれたのだろう。
そう思うと、簡単に「好きだ」とは書けなかった。
八月。彼女が遠くの大学を受験するという話を聞いた。
「東京に行こうと思うの」
手紙にはそう書かれていた。
ポストの前で、その一文を見つめたまま立ち尽くした。夏の陽射しが、紙の上を照らしていた。なぜか、泣きそうになった。
それからの日々は、まるで砂時計をひっくり返したように早かった。
会える日も、手紙を受け取る時間も、ひとつずつ減っていくような気がした。
そして九月の終わり、最後の手紙が届いた。
「元気でね、とは書かない。だって、まだこれで終わりじゃないと思ってるから。
私たち、偶然出会ったけど、偶然だけで終わらせたくない。
だから――
東京の下宿先の住所、書いておきます。
会いたくなったら、迷わず手紙をください。
きっとまた、巡り巡って、あなたとひとつになれる日が来ると信じてる」
風が、手紙をなぞるように吹いた。
遠ざかる気配と、つながっている感覚が、胸の奥でせめぎ合っていた。
彼女は東京へ行き、僕は地元の大学へ進んだ。
季節がいくつか過ぎても、僕は返事を書けずにいた。自分の気持ちがまとまらなかったわけじゃない。ただ、それを「文字」にしてしまうのが、怖かった。
それでもある日、ふとした瞬間に、封筒に手を伸ばしていた。
「東京の空の下で、元気にしていますか?
僕はまだ、あのポストの前で君の手紙を待っているような気がしています。
今でも、君のことを、世界のどこよりも近くに感じてる。
会いたい。君に――会いたい」
宛名を書いて、切手を貼った。
ポストに投函するとき、指先が少し震えていた。
それが、僕が人生でいちばん勇気を出した瞬間だったと思う。
手紙は、彼女のもとに届いた。
それから一ヶ月後、戻ってきた封筒の中に、小さな手紙と切符が入っていた。
「駅のホームで、待ってます。あのときの図書館の窓際みたいに、静かに座ってるから。見つけてね」
今でも思う。
この時代でよかった。
時間がかかることに、意味があった。
遠回りの言葉が、想いを深くしてくれた。
簡単につながれないからこそ、やっと出会えたときに、一つになれる。
ポストの前で育った恋は、今もどこかで続いている。
君がくれた手紙は、今日も、引き出しの中で青く光っている。今でも思う。
この時代でよかったと、心からそう思う。
会いたいときにすぐ声が聞けなくて、
言葉を贈るのに数日かかって、
その間に何度も書き直して、
封筒に宛名を書くときの、あの丁寧な緊張感
それら全部が、僕の想いを、
彼女のもとへゆっくりと、確かに届けてくれた。
簡単につながれないからこそ、
すれ違いの中で名前を呼ぶような、
そんな恋だった。
もし、いま君がすぐそばにいたなら、
手紙じゃなく、言葉で伝えたいと思う瞬間もある。
でも、あの頃の僕らにしか描けなかった時間が、
今も僕の中に確かに残っている。
ポストの前で育った恋は、時代が変わっても色あせない。静かで、遠回りで、けれど真っすぐだった僕らの気持ちは、ずっとそこにある。
君がくれた手紙は、今日も、
引き出しの奥で青く光っている。
あの文字も、あの匂いも、あの温度も
今もずっと、僕の胸の中で生きている。