或る夏の日に
以前坊ちゃん文学賞に応募したものです。
全然音沙汰なかったですが、ちゃんと書き上げられた作品なので、誰かに見てほしくて応募しました。
白い猫がいた。どこかの家の軒先から風鈴の音がする。アスファルトが強い日差しに晒されていた。遠くに逃げていった猫がぼやけていくのを女は見ていた。
蝉の音がやけにうるさい。それは墨汁がたった一点から周囲を真っ黒に染め上げる様に木に留まるただ一匹からその音を辺り一帯に響かせていた。それが何匹もいるというのだから堪らない。奴らの住処の並木通を抜け、地下鉄へと続く階段を降りていく。ちょうど目当ての電車が来ていた。薄暗く蒸し暑い空間と人工的に冷やされた煌々とした空間の薄気味悪いグラデーションを肌で感じながら男は電車へと乗り込んでいった。
―次の停車駅は○○ ○○ー
その声ではっとした。手すりを掴む細くしなやかな指を見る。長い黒髪を上半分だけ後ろで纏めた姿が窓に反射している。眠気眼な顔を見つめながら、ぼんやりとした頭の中で感じた初めての感覚は違和感であった。遠くでやけにうるさい蝉の音が聞こえた気がした。
(さすがに夜になると蝉の声は聞こえないな)
男は暗がりの中家路を歩いていた。何だかついこの間まで今みたいな夜道を歩いていると誰かにもし襲われたら、そこに立ち向かえる力量の無さからくる不安が体中に満ちていたような気がするのに、今はそんな気持ちは少しもなかった。男は体格が良く背も高い。だからこそ万が一があっても大丈夫であるという自信が湧くのも自然だ。男は自分の大きなごつごつとした指を見ながら、自らについて考える。今年の九月で31歳を迎える。生まれは千葉で両親、弟2人の5人家族。男は大学進学と共に上京し、そのまま東京で就職した。日々忙しいが、今日まで何とかやっている。現在恋人もおらず、所帯もない。周りは次第に次々と結婚していく中、少々気後れする気もするが、独り身は何だかんだ楽で、一生独り身も良いと思い始めていた所存であった。
そんな考えを巡らせる。
(そうだ俺はこういう人間だ。こんなにも自分を明確に具体的に語ることが出来る)
そう自分を安心させようとする。
しかし、ここ数日一つの考えが男の頭から離れない。俺は本当に俺なのか。自分の存在の輪郭が確固たるものとして保てているのか。自分という枠組みが曖昧で自分が自分である気がしない。そんな考えがよぎるとき必ず、ぼやけた白猫が脳裏に浮かんだ。
「暑い」
女は営業の外回りで、住宅街を歩いていた。先程担当したお客の契約をなんとかとることが出来てほっとしていたが、そんな感情も眩暈がするような暑さでぼんやりとしてくる。遠くで蝉の音が聞こえる。
(またこの感じ)
ぼんやりとした頭に既視感という言葉が浮かぶ。
(いや、音だから既聴感?)
回らない頭でそんなことを考えていると、突然目が白い物体を捉えた。
頭は働いていない筈なのに、尋常ではないほど体が反応した。急に過敏になった目を凝らしみると、その白い物体は猫だった。
(知ってる猫?いや知らない)
ぼんやりとした頭であるが、頭では確かに見たこともない猫だと判断した。その筈なのにやけに目がその猫を捉えて離さない。鼓動が大きくなっていくのを感じる。女と目が合った白猫は、足早にその場を離れていく。気が付くと、ぼやけた小さい白い物体がアスファルトの上でゆらゆらと揺れていた。その映像がなぜだか鮮烈に目に焼き付いて、とっさに女はポケットからメモ帳とペンを取り出した。どこかの民家から風鈴の音が鳴り響いていた。
―白い猫がいた。どこかの家の軒先から風鈴の音がする。遠くで蝉の音もする気がした。強い日差しに晒されたアスファルト。遠くに逃げていった猫がぼやけて見えた。―男は仕事帰り、道に落ちていたメモ帳を拾った。そこに書いてある文章を読んでみると、一行一行目を通していく度に頭に大きな衝撃が稲妻みたいに走った。
(なにこれ、私これ知っている。え?私?)
しかし、混乱する頭の中でも、明確に引っ掛かることがあった。(私、蝉の音なんて聞いてない。というか蝉の音って変じゃないか、声って言わないか、普通―
その時声が聞こえた。
「あの」
聞いたことなんてない筈なのに確かにその声を知っていた。何千回も何万回も聞いたことがあった。顔を上げると長く黒い髪をハーフアップにした女が、細くしなやかな指でメモ帳を指していた。よく知った顔だった。そして、不思議と相手も男のことをよく知っているのではないかと感じた。
男と女が肩を並べて、暗がりの中歩いていく。女は、横目で斜め上にある男の顔を見た。短く刈上げてある髪の毛、一重瞼、筋の通った立体的な鼻。
(うん。知っている)
さっき、まだ日が沈み切っていない頃、女はメモ帳がポケットに入っていないことに気付いた。一瞬焦ったが、冷静になって来た道を辿ってみると、男がメモ帳を持っていた。一目見た瞬間、知っていると思った。そして何故か相手も自分を知っているのだと感じた。
「うちに来ませんか」
気が付くと、そう話しかけていた。
女が家のドアを開ける。男はその中に続けて入っていく。部屋に入った瞬間優しい香りが男の体を包んだ。
「ラベンダー」
思わず、そう呟くと、
「うん。そうだよ。好きだよね。きっと」
女は優しく微笑みながら答えた。
「ちょっとそこ座ってて」女の部屋は、手入れが行き届いていた。綺麗な部屋特有の無機質さも全く感じられず、ぬくもりを感じさせる部屋だった。赤茶色の木目調を基調とした家具に、白黒の花柄でクッションやカやカーテンは統一されている。そして棚一面にアロマオイルが並び、天井につるされているドライフラワーが良いアクセントとなっていた。
(やっぱり素敵な部屋)
この部屋に合う、オレンジ味の強い温かな照明に照らされながら、無意識のうちに男は思っていた。
女が、ストロベリーティーを注いだカップを持ち向かってくる。女はカップを男の前に差し出しながら、男の正面のいすに座った。
「どうぞ。」
部屋中が纏う優しいラベンダーの香りとはまた違う、ストロベリーティーの甘い香りを吸い込んで、男は心を落ち着かせた。そして一口、口に運んだ後少し間をおいて口を開いた。
「さっきの白い猫の、メモ帳は。」
「あれは、自分でも不思議なんだけど、この前白猫を見たとき、何でか分からないけどすごく体が反応して、目に焼き付いて、思わず書き記した。でもそれだけではなくで、最近ずっとなんだか変な感じ。蝉の音が遠くから聞こえてくるような。あなたと出会ったこともほんとに不思議で、なんなんだろうなんなんだろうね」
遠い目をして女が言う。
「・・・それさっきも思ったのだけど、蝉の声じゃないの?」
「蝉の声?」
「そう。蝉の音じゃなくて、声って言わない?」
女は少し目を丸くさせ、次第に笑い出した。
「変なところ妙に気にするんだね」
笑いながら女は言う。男は自分では、至極真っ当なことを聞いたつもりだったが女の予想外の反応で、なんだかつられておかしくなってきた。
「まあ、たしかに言われてみたらそうかも」
そう言いながら男も笑った。
そこから二人は他愛もない会話をした。仕事のこと。家族のこと。趣味のこと。そしてどれもがお互いよく知っていた。いたく懐かしく、優しい気持ちになった。
一通り話した後、男はここ最近自分がずっと感じている感覚を彼女に話したいと思った。傍から見たら可笑しいことなのかもしれないけど、女なら分かってくれると思った。いや、女には言わなければいけないことだと思った。
「自分が自分でない感覚ってわかる?」
男が言うと、女は少し目を見開き、頷いた。
「ここ最近ずっと、そんな気持ちなんだ。いやずっとではないかも。俺は俺であるし、俺のことは分かっている。生活もしっかり送れている。だけど、大事な何かを忘れている気がするんだ。自分の根底となるような何かを。今思うと初めてこの違和感の芽吹きみたいなものを感じたのは、そうだあの時電車を降りたとき、初めてそう思ったかもしれない。そして本当の自分を突き詰めようと考えるとどうしても、白い猫がよぎるんだ。それで、今日君のメモを見て、これ知ってるって気持ちになって、ごめん。なに言っているか分からないよな忘れてくれ」
「ううん。忘れない。すごく分かるもの」女は男の目を見つめながら言った。
「私も自分がよくわからない。あなたの猫のように、私は蝉の音が聞こえる。いつもどこか遠くから。私が聞いたのでなくて、何かもっと深いところで聞いた気がする。それこそあなたの言う、本当の自分が聞いたような。でもあの白猫を見たときはそれとはまた違う感覚で体がすごく反応したの、頭じゃなくて体がやけに過敏に反応して、気付いたらメモしてた。そしてあなたに会った。あなたのことも今日初めて会ったはずなのに本当によく知っているの。すごくよく知っているんだ。」
その時お互い、あることが共通して一つ心に浮かんだ。だが互いに口には出さなかった。
「でも案外自分というのは脆く弱くて最初から形なんてないのかも」
女は続ける。
「そして本当の自分なんか忘れてもなんとか生きていけてしまうのが人間なのかも」
「それってすごく便利なようだけど、すごく悲しい気もするな」
「悲しみもあるけど、そうやって生きていくことで得られるものもあるのかもしれないよ。まだ今はその状態への悲しみが勝つけど、そうやって自分を騙しながら生きて得られる幸福もあるのかもしれない。でも結局、人生の最後何も嘘偽りなく生きたと思える人の方が幸せなんじゃないかって本当の自分になれない悲しみが勝つ、今の私達はそう思ってしまうのかもしれないね。」
女は目を伏せながら言った。男はその様子を見て、少し声のトーンを上げて言う。
「そういえば、散々色々な話をしたのにまだ自己紹介をしていなかったね。」
「そういえばそうね。教えて。あなたの名前。あなたのことよく知っているはずなのに名前だけ思い出せないの。だから教えて。」
声が二人きりの部屋にやけに響いた。
お互い明確な意識なく入れ替わった二人が出会ったらというお話です。