犬の気持ち
『もう! いい加減にしてよ! ああ、うるさい! なくのをやめなさい! あんたなんか捨てたっていいんだからね!』
ぼくは、どうやら野良犬になるらしい。
この一週間、ごはんがいつものドッグフードから美味しいお肉に変わった時点で、なんとなく嫌な予感はしていた。
車を運転するママの横顔は、どこか寂しげだった……と、思いたい。でも、たぶん違う。
ぼくは無駄だとわかっていながらも、段ボール箱から飛び出し、全力で車を追いかけた。けれど、まるで映画のワンシーンみたいなその光景は一瞬で終わり、車はあっという間にスピードを上げて遠ざかっていった。
こうして、人けのない野原に、ぼくはぽつんと取り残されたんだ。
まったく、ひどい話だ。
ぼくは試しに遠吠えしてみた。でも、それは細く短くて、ぼくは野生とは程遠いことを証明するだけだった。
生まれたときのことは覚えていないけど、ガラス張りの明るい部屋で育ったぼくが、野生に向いていないことは確かだった。
アヤカちゃんの家に引き取られた日。あれは、ぼくにとって記念すべき日だった。しかも、それはアヤカちゃんの誕生日でもあった。ぼくは嬉しくて、誇らしかった。
『あんたがちゃんと世話をするって言ったから、買ってやったのよ!』
ママのお友達の男の人が買ってくれたんだと、アヤカちゃんが教えてくれた。
ぼくはアヤカちゃんが大好きだったし、アヤカちゃんもぼくを大好きだった。でも、ぼくはぬいぐるみじゃない。ごはんを食べるし、おしっこもうんちもする。遊びたいし、散歩にも行きたい。ぼくは我慢強いほうだから、なるべく迷惑をかけないように気をつけていた。だけど、思い通りにならないことがあると、つい声が出ちゃうんだ。
『うるさい! なくな! ああああ、もううう! あんたのせいで!』
でも、それは仕方ないことだよね。だって、ママもアヤカちゃんも、思い通りにならないときは大きな声を出すんだから。
アヤカちゃんはぼくを大事にしてくれていた。でも、あるとき急にぼくを無視するようになった。押し入れに隠れて、ぼくを避け、ぼくへの愛情も日に日に小さくなっていくのが、はっきりとわかった。
ぼくは悲しかった。でも、お腹は空くから、ママが用意したごはんを食べた。本当は、アヤカちゃんの手からもらいたかったのに。でも、仕方なかったんだ。
『もういいや……あんた、いらない』
こうして、ぼくは捨てられた。
でも、どこへも行かず、その場でママの帰りを待ち続けた。
もちろん、ぼくは馬鹿じゃない。ママが戻ってこないことくらい、わかっていた。でも、『待つこと』が体に染みついていたんだ。
ぼくを捨てるために用意された段ボール箱が、今のぼくのおうちだ。飛び出したときにうっかりお漏らししちゃったから、中には入りたくないけど。ぼくはその周りをうろうろしながら、ただひたすらにママの帰りを待った。
何日か経ち、もう絶対に帰ってこないだろうと悟ったある日、車が近づいてきた。ママの車じゃなかった。でも、なんとなくママと関係がある気がした。だって、この場所には車も人もまったく来ないんだもの。
車は、ぼくの段ボールのそばに停まった。数人が降りてきて、辺りを見回している。ぼくは近くの草むらに隠れ、その様子をそっと見た。
やがて、ぼくに気づいた誰かが声を上げた。たぶん、ぼくを呼んでいるんだろう。野良犬として生きる覚悟が、ようやく固まりかけてきたところだったので、ぼくは悩んだ。
「ほら、おいでおいで、チュチュチュチュ」
「ほっといてもいいんじゃないですか?」
「いや、この子が飼われていた犬に間違いなさそうだ。網を持ってくればよかったな」
「別に、犬が何か証拠を持っているわけじゃないでしょう……。それより、あの林のほうが怪しくないですか? 防犯カメラがあればな……」
「まあ、ここからは手分けして探すしかないな。応援を呼ぼう。あと網もな」
「だから、犬は別にどうでもいいでしょう……」
「……いや、そうでもないかもしれんぞ」
「なんです? 犬が証言してくれるとでも?」
「いいから見てみろ。段ボールの中だ」
「あ、これは……」
ぼくはその人たちに近づくことにした。きっと悪いことにはならないはずだ。だって、ぼくのうんちを見て、あんなに喜んでいるんだから。
それから数日が経った。ぼくは、どうやら警察犬になるらしい。
『被疑者逮捕』のご褒美だそうだ。ぼくのうんちの中に入っていた、アヤカちゃんの歯が決め手になったんだってさ。