第一章 其の六
「ありがとうございました~!」
あれから、無言のままに食事を進めて俺たちは店を出た。
目の先に広がる海は、春の柔らかい陽の光を受けて煌めき、波の音が心地よい。ふらりと誘われるままに、海辺へと足を向けた。
相も変わらずつかず離れずの位置を保ってついてくる後ろの気配は、常人であれば気づかぬだろうほどに薄い。これも刀を握るがゆえのものなのだろうか。だが、だとすれば彼女はそれなりの経験をしてきた兵と変わらぬほどの武人といえるのではないだろうか。
そんなとりとめのないことをぼんやりと考えながら後ろを振り返ってみる。もちろん、こちらが歩みを止めれば、彼女も立ち止まる。
「私から将軍様にお話しできることはこれ以上ありません。」
口を開きかけた俺を制するように、彼女が先に釘を刺した。
あの夜や今日のこともそうだが、領地のことについてはなんの問題もなく話をしてくれる。だが、彼女自身の話となるといつも口を閉ざす。この差はいったいなんだろうか。
「俺が、今日の案内人として君を選んだことを恨んでいるのか?それとも、大名の娘を遠ざけることに君を利用したことを怒っているのか。」
彼女に怒りなどの感情がいっさいないことをわかっていて、あえて聞いてみる。
「なぜ、そこまで姫様をお嫌いになるのでしょうか?」
「...本気で言っているのか?」
少ししてから返されたのは、質問に対する答えではなかった。それに、俺としては耳を疑いたくなるような問いで、思わず眉を顰めてしまう。だが彼女は気にした様子もなく、海を見つめながら続けた。
「将軍様にとって、姫様はこの領地とも繋がりを得ることができる大切なお人でしょう?もてはやす...とまではいかなくとも、それなりの対応をされるのだと思っておりました。」
まさかそこまで見透かされているとは。
そう、最初は彼女の言う通りこことの繋がりを持てれば...という淡い期待はあったし、そのために大名の娘との関係値を築くという手段も考えてはいたのだ。しかし、いざ大名やその娘と会って話をしてみると、この者たちと手を取り合って歩んでいくなど到底無理だ、という思いにしかならなかった。率直に言うと価値観などすべてにおいて合わない。
「ここは、海と山の資源に恵まれ、異国との貿易も盛んに行われています。それに比べて将軍様の持つ領地は海から離れた内陸。そして枯れた地が多いために資源の確保も思うようにいかず、まわりと友好関係を結ばなければ維持は難しいでしょう。ならば姫様と婚姻関係を結ぶことで、安定した供給を得られるのではありませんか?」
むしろ恐ろしいと思えるほどに彼女は賢い人だった。
自分の住む領地のことであれば、詳しくてもそこまで疑問を抱かなかった。まさか、俺の領地のことまで知っているとは。この様子だと、彼女はすべてを最初から知っていたのだろう。
「君は何者なんだ?」
大きく膨らんだ疑問はするりと口をついて出る。
あの屋敷で、他に女中として働く者たちとはなにもかもがまるで違う。その佇まいや豊富な知識、巧みに気配を操る様、刀を握ることについても。なにより、彼女側から意志を持って近づいてこない限り接触する機会が全くないことが不思議でならない。
一番の極めつけは、名前を偽って生きていることだ。
彼女は俺へと緩慢に視線を戻し、じっと見つめた。
「あのお屋敷で働く、女中のひとりです。」
そういってどこか泣き出しそうに小さく微笑んだ。
「このままでは日が暮れてしまいますので、そろそろお屋敷へと戻りましょう。」
それは有無を言わせぬ、そして俺に対する明確な拒絶を示すものだった。
多少意地になっていることは認めよう。だが、どうしても彼女について知りたいと思ってしまった。
「これだけは教えてほしい。君が俺に教えてくれた名前は嘘だったのだろうか。」
「......いいえ。」
短く、それ以上を答えてくれることはなかったが、嘘ではないのだとすればここの大名にさえ名前を隠しているというのに、なぜ俺には真名を教えてくれたのだろうか。
なにも知らなかったとはいえ、あの場で安易に名前を出してしまったことに、いまさらながらに後悔を覚える。
「すまない。今朝、大名たちの前で君の名を口にしてしまった。一応聞き間違えた、と訂正しておいたのだが...」
「あの方たちは、おそらくそこまで気にされていないと思いますので構いません。ですが、今後は他の方に私の名を告げるのはお止めいただけると助かります。」
軽率だった俺が悪いというのに、彼女は頭まで下げた。
「いや、俺が悪かった。今後このようなことがないように約束しよう。だが、なぜ名前を隠しているんだ?」
「隠しているわけではありません。どちらも本当の名です。」
俺は内心どういうことだろうか、と首を傾げた。ふたつ名が存在している人にはこれまで出会ったことがない。というか、普通は名前はひとつだろうと思う。
ますます訳がわからない、と傍から見ればただじっと立っているだけに見えるが、内心ではかなり混乱していた。
「差し出がましいようですが、日が暮れます。まだこの辺りは夜になれば冷えますのでお屋敷へと戻りましょう。」
そんな俺に彼女は再度促した。今度こそ強い口調で言われたその言葉に頷き返しながら、増えた疑問を抱えながら帰路へとついた。




