第二章 其の九
その日の夜。
もはやふて寝をして床に転がっていた俺に、帰ってきたじいやが呆れたように言った。
「旦那様、仕事もせずになにをなさっているのですか。」
「見てわからないか?寝ているんだ。」
自棄になって幼稚な返しをすれば、やれやれといった様子で床に散らばった紙たちを拾い上げながらお小言が続く。
「鈴音殿に頼ってもらえず、拗ねたかと思えば今度はお仕事を放棄なさる...と?」
「お前たちも仕事を放り出して町へ遊びに行ったのだから構わないだろう。楽しかったか?」
できる限りの皮肉をまぜて問いかければ、盛大なため息が返ってくる。
「まさかこのように子どもじみた旦那様を見られるとは。鈴音殿には感謝しないといけませんね?」
ああ、なんと不毛だろうか。
この件に関してはこちらに非があるのだから、じいや相手に悪態をつけばつくだけ不利になるというのに。
「...子どもじみていて悪かったな。」
険のある声で返せば、まったく反省が見られない俺をじいやはじっと見つめる。窘めるでも、怒るわけでもなく、ただただこちらを見る痛いほどの視線に、ついに居心地が悪くなって今度こそ素直に反省する。
「冗談だ。全面的に俺が悪かったことはきちんと理解している。」
しかし謝罪を口にした俺に、じいやは不思議そうに瞬きを繰り返しただけで、なにか変なことを言っただろうかとこちらが困惑してしまう。
腕を組んで眉を寄せた俺に、じいやはすぐに気づいてくすりと笑う。そして、先ほどまでの揶揄うような含みもない柔らかな表情を浮かべた。
「旦那様、私は嬉しゅうございますよ。幼い頃から聡く、大人びていた旦那様がこのように感情を表に出されるなんて。」
「なにを言うかと思えば...。もとよりわかりやすい質だっただろう。」
「そうではありません。旦那様は幼き頃は心を殺し、将軍となられてからは不愉快なことがあろうとも、どうでもいいようにあしらわれていたではありませんか。」
言われて今までの自分を思い返す。
幼い頃は父上との軋轢によりなにかを感じる心を捨て、将軍となってからは確かにすべてにおいてどうでもよくなっていた気はする。どちらかというと、人との関わりが煩わしくなって興味を示さなくなっただけなのだが、じいやの目にはさらに悪化したように見えたのかもしれない。
「それほどまでに、鈴音殿が大切ですか?」
ぼんやりと過去を思い出していた俺は、じいやの唐突な問いに思わずびくりと肩を揺らした。そして長い沈黙の後、ちらりとじいやを見て、なんとか声を絞り出す。
「.........そんなに、わかりやすかったか?」
「おや、自覚はおありだったんですね。」
意外だとでも言うように、目を丸くされてついには顔を手で覆う。じいやはどこか楽しそうで、とてもご機嫌だ。
「女人を厭う旦那様が、あれほどそばにあることを許しているのです。屋敷の者はみなそういうことなのだろうと思っておりますよ。」
もはや穴があれば入りたい。まさか屋敷の者たちにまで見透かされていようとは。
顔が熱くなるのを自覚して、その場に蹲る。これからどんな顔をして過ごせばいいんだと悶える俺に、それでも容赦なくじいやは語り続けた。
「旦那様、鈴音殿が大切なのであればきちんとお話をなさいませ。彼女は未だだれかに頼るということを知らないままなのです。旦那様はああ言いましたが、私とて話をするのはこの領地に関係のあることのみで、彼女自身についてのお話をされたことは一度たりともありません。」
それを聞いて、ふと顔をあげてじいやへと問いかける。
「いや、鈴音のことは聞いたと言っていなかったか?」
「聞いたのは柊の大名との関係や思惑のみです。それも、もしなにかが起こった場合にすみやかに対処ができるように、といったもので、彼女がどのように生きて、なにに困っているのか、そういったことを聞いたことはありません。」
じいやからの返答に、なんだと一気に脱力する。
俺と同じではないか。
鈴音が日々なにを思い、どんなことを考えて過ごしているのか。なにが好きで、なにが嫌いなのか。なにひとつ聞いたこともなければ、尋ねたこともない。その、努力をしてこなかったことに今さら気づいた自分に嫌気がさす。あれほど、ここでは心穏やかに過ごしてほしいと願っておいて、なにひとつ行動に移せてやしない。
優しくしているつもりで、
心を砕いているつもりで。
でもそれは独りよがりな押しつけでしかなく、自分が満足するための格好に過ぎなかったのだ。
気づいてしまえば、愚かでしかない自分が滑稽に思えて笑いすらこみ上げる。
黙り込んだかと思えば、いきなり笑い出した俺を憐れむように見ながら、じいやも痛みを堪えるような表情をする。
「...それでも、見ていればわかります。その辺の庶民とは違い、美しい所作をしているのにも関わらず、身の回りのことはすべてひとりでこなせる術が身についている。あれは、幼き頃よりしっかりと教育をされていたのにも関わらず、ひとりで生きていかなければならなかった者の在り方です。」




