第二章 其の六
『遠夜、こちらの方が皇子であらせられる。よく、お仕えするように。』
ぽん、と肩に手を置かれて俺は隣のその人を見上げた。穏やかに笑っているはずなのに、その瞳は震えあがりそうなほどに冷たい。
悟られぬように同じように笑みを浮かべ、目の前の同じ年ぐらいの子へと視線を移す。
(あぁ、この子も同じだ...。)
自身の親の影に隠れるように佇んだその子は、暗い瞳でただ地面をぼうっと見ていた。
頭上では「よろしく頼む」「お任せください」などと交わされているのが聞こえる。自分の子どもたちのことなんてまるで無視して進められるそれらは、不愉快でしかなかった。
『さあ、ご挨拶を。』
今度は背中を押されて、一歩前へとよろめくように進み出る。
頭上から降ってくる重たい視線に、自分の中のすべてを遠くへと押しやり、その場に膝を折る。
『お初にお目にかかります。遠夜と申します_____』
ふっと目を覚ませば雨の音が遠くに聞こえる。
(あぁ...くそ.........)
朝から最悪の目覚めだ。
のそりと体を起こして、くしゃりと髪を乱す。忘れたいのに、いつまで経っても忘れられない遠い記憶。憂鬱な気分のまま、もう一度寝床へと倒れこむ。今日はもう一日中こうしていたい。そう思い、そのまま眠ってしまおうかと瞼を閉じようとすれば、外でかたりと音がした。
「じいや、水を頼む。」
仕方ない、と目覚まし用の水を頼めば、いつもならすぐに返事を返すじいやの応答がなかった。たしかにそこに人の気配があるはずなのに、なぜいつもと違うのか。そこまで考えて、どこか既視感のあるそれに思わずため息が出る。
「鈴音、か?」
「その、申し訳ありません。すぐに水をお持ちいたします。」
「ああ、頼んだ。」
もはやなにかを言う気にもなれない。じいやのしてやったかのような笑い顔が脳内にありありと浮かび、気分は一層と落ち込んだのは言うまでもない。
いつまでもこうしていても仕方ないと起き上がり、支度やらなんやらしていれば彼女が戻ってくる。
「やはり、慣れるには時間がかかりそうか?」
手渡してくれた水を受け取りながら尋ねれば、どこか言い辛そうに身じろぐ。この質問すら答えるのが難しいほどなのだろうかと心配になれば、意を決したように口を開いた。
「あの、笠平様より、本日から将軍様のもとでお仕事のお手伝いをするように...と言われております。」
「そのことか。君が今朝そこにいた時点でなんとなくわかっていた。」
返ってきた答えに、想像していたような不安は見受けられずひとまず安心する。それにしても、じいやの負担を軽くしようという増員だったのにも関わらず、俺につけてどうするんだと思わないこともない。もちろん今まで、俺が不在の間だったりに変わりを担ってくれていたりしたが、彼女に任せるのがよりによってその部分ではなくてもいいのではないかと抗議したくなる。
しかし、それが顔に出ていたのか、申し訳なさそうに俯いてしまう彼女になにかを言えるわけもなく、ぐっと飲みこんだ。
「俺のことを手伝う、といってもおそらくやることは向こうとあまり変わりないだろうから気負わなくていい。例えば...」
自室に持ち込んでいたいくつかの紙を手渡す。
「書斎にこういった文書が届くから、それを分別したり内容がわかるのであればまとめたり、意見などを書いておいてもらえると助かる。」
「承知いたしました。」
じっと紙を見ながら、即座に返ってきた恭順の意にこちらが驚いてしまう。まさか困るようなそぶりすら見せないとは、なんでもかんでも任せてしまいたくなる。だが、それではあちらの大名となにも変わらない、と自分を叱咤する。
あんな風にはなるまい、と胸を叩いて刻み付けていると、訝しげな表情をされて苦笑を返す。
「飯を食べたら書斎の場所まで案内しよう。」
「ありがとうございます。いってらっしゃいませ。」
「え?」
「?」
丁寧な言葉で送り出そうとしてくれた彼女に、俺の間抜けな声が出ると不思議そうに首を傾げられる。そして我に返り、恥ずかしくなった。べつにここではともに食事をとる理由はないのだ。さも当たり前だと思い込んでいたこちらに対して、まったくそのつもりがなかった彼女の返答に、悲しくなればいいのか殊勝な心掛けだと頷けばいいのか、もはや迷走する。そんな俺に、彼女はこちらを案じるように窺う。
「もしかして具合でもお悪いのでしょうか?笠平様をお呼びしてきます。」
ぱっと踵を返そうとした彼女をとっさに引き留める。
「大丈夫だ。目覚めは最悪だったが......いや、なんでもない。とにかく、なにも問題はないから呼ばないでくれ。」
今呼ばれでもしたのなら、きっとすごくいい笑顔を浮かべたじいやが嬉々としてここに来る。絶対に。またもやその様子がありありと浮かんで舌打ちが出そうになる。が、寸前で彼女がいることを思い出して我慢する。
「あー...その、いろいろと話したいこともあるし、君もともに来るといい。」
そう、効率の問題だとひらきなおる。まだまだしないといけない話はいくらでもあるのだから、と自分に言い聞かせて彼女を誘えば、ふっとおかしそうに笑う。
「...そういうことであれば、ご一緒させていただきます。」
どこか見透かされているような羞恥を知らんふりして、彼女とともに部屋を後にする。
ああ、なんと愚かだろうか......。




