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月鬼桜 ~薄明の願い~  作者: 釉亜


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第二章 其の三

長い、長い沈黙の末に、彼女はそっと息を吐きだした。

そしてすっと背筋を伸ばし、丁寧な所作でゆっくりと頭を下げた。

「ご迷惑をおかけすると思いますが、何卒よろしくお願いいたします。如何様にもお使いくださいませ。」

「それでいい。ひとまず、屋敷の人手が足りないゆえに連れてきたのもあるから、なにかしらできそうな事か、やりたい事があればそれを手伝ってもらう形になるかと思う。それで構わないか?」

「承知いたしました。女中としての仕事や財政管理など、一通りのことはできます。」

「俺が幼い頃から世話になっている者がいる。その者に屋敷の管理は任せているから、明日にでも紹介しよう。」

正直、屋敷のことについては側用人であるじいやにほぼ丸投げ状態のため、当人に話を聞くのが一番だろうと結論付ける。彼女も断ることなく頷いてくれたため、この件についてはひとまずこれで良しとし、次に悩んでいた件を相談することにする。

「それで...これからこの屋敷で過ごすにあたって、君のことはなんと呼べばいいだろうか。」

帰ってきたときにもそうだったように、なんと呼べばいいかわからずに挙動不審になりたくはない。というより、自分のことをそういった配慮ができる人間だと思っていないため、最初に決めておかないときっとすぐに襤褸(ぼろ)が出てしまう。

しかし彼女は慣れているのか、なんとも思っていないのか。淡々と返される。

「深鈴、とお呼びいただければと思います。」

「...真名が鈴音で合っているか?」

「真名といえるかどうかはわかりませんが、子どものころにそう呼ばれておりました。今となっては深鈴として生きた時間のほうが長いのです。」

もう少し踏み込んでも許されるだろうか、とおずおずと尋ねた俺に、少し悩むそぶりを見せた後、そう答えてくれた。

「子どものころというのは...」

「あぁ、いえ。あの屋敷ではすでに深鈴として生きておりました。子どものころ、と申しましても記憶すらおぼつかないほど遠い昔のことになります。」

俺の言いたいことがわかったのか、すぐに否定をして説明をつけ足してくれた。しかし、説明をしてくれたとしても疑問だらけで首をかしげる。あの屋敷、というからには先代大名の頃よりそうであったということ。それよりも前に、あの屋敷以外のどこかで、別の名で生きていた時期があった...?

どういうことだろうか、と考えていると、じっとこちらを見つめる瞳に気がつく。まずい、踏み込みすぎだろうかと思わずじわりと汗ばむ手を握りこむ。

だが、すぐにふっと視線を逸らした彼女は、どうすればいいかわからないような、自身を嘲るような小さな声で笑った。

「先日、先代大名が私の父だとお話しましたが、血の繋がりがあるわけではありませんでした。」


俺の頭はついに疑問だらけで思考を停止した。

固まる俺を見て、申し訳なさそうにさらに説明をつけ足してくれる。

「父がいなかった私を、引き取り育ててくれたのが先代大名となります。」

「そ、れは...。」

それでは、彼女は二度も父を失っていることになる。幼いながらに父を失い、挙句育ての親である父は殺されて、そしてその先に待ち受けていたのがあのような扱いである、と?

無意識のうちにぐっと拳を強く、強く握りしめる。

このようなときに、俺はかける言葉を知らない。なんて歯痒いのだろう。

「そのような、話を俺にしてしまってよかったのか?」

「将軍様のことは信用しております。それに、これからお仕えするお方にこの事を隠していては、いざというときに早急の対応が難しくなると判断いたしました。」

「俺は、君に信用してもらえるような人間じゃない。」

わからない、なぜ、と顔を歪ませれば、彼女は俺の目を真っすぐに見つめて、柔らかく微笑んだ。

「信用できます。少なくとも将軍様は私を憐れむことも、同情するふりもされませんでした。それどころか私を見て、私という人間を高く評価してくださいました。こうして強引に連れてくるほどに。」

後半は少し揶揄うように言われて慌て、そして項垂れる。

「いや、それは、その......無理やりだったのは、すまない。」

「将軍様の...力強い眼差しが、とても綺麗だと思ったのです。.........あの人のように。」

最後の言葉は、聞こえていないと思っているのだろうか。俺に届かないようにと思ったのか、小さく呟かれた言葉と、ふっと崩された相好に、その瞳はだれかを思い浮かべているのであろうことが窺えた。


「君さえ嫌でなければ、ここでは鈴音として、本来の君として過ごしてみないか?」

あの夜に見せてくれた柔らかなその笑顔を、先ほど見せてくれた愛おしさを灯す美しい瞳を、もっと見せてほしいと願う。きっと、それが本来の彼女に近いのだろう。ここではなにに脅かされることもなく、穏やかに過ごしてほしいと思わずにいられない。

しかし、彼女はその唇を引き結び、瞳を揺らす。

いつも、その瞳に宿る不安や悲しみを今すぐに取り除くことは難しいだろう。ましてや俺ではなおのこと。だから、ひとまずはここで引き下がろう。

「すぐに決めることでもない。時間はいくらでもあるから悩んでみてほしい。この屋敷で君に害をなす者はいない。そんな者がいるのであれば、遠慮なく言ってくれ。なにか困りごとがあるときも。もちろんそんなのがなくともいつでも頼ってほしい。」

安心できるようにと、穏やかな笑みを浮かべる。その信用に応えるべく努力をしよう、という決意を胸に。

「今日は疲れただろう。ゆっくり休んでくれ。明日またほかの者を交えて話をしよう。」

なにかを言いたそうに口を開いて...閉じて。そして結局、彼女はなにも言わずに頷くのだ。

「承知いたしました。」

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