第一章 其の十四
「あのときの言葉に偽りはない。ちょうど人手が欲しかった。」
本当に嘘ではない。少し前から悩んでいたことで、彼女と関わるうちに良いのではないかと思ったのだ。
「それに、君をあのままあの屋敷に置いておくのは惜しくてな。」
そして、よくはわからない、かなり直感に近いものではあるが、ここに留めておくべきではないと感じた。だが、どう伝えていいかはわからずに苦笑しながら言えば、彼女が首を傾げる。
「...惜しい?」
言われた言葉の意味を、考えているのであろう眉を寄せたその表情が、どこか面白くて喉の奥で笑う。
「君は、自分に価値がないかのように振舞うが、その賢さや細かな気遣いは俺が欲しがるものであり、つまりは将軍である者が欲しがる人材だということだ。」
彼女の前に人差し指をぴっと立てて、おどけたように言う。そんな俺の物言いがおかしかったのか、彼女もころころと笑ってくれた。
「ずいぶんと、私のことを買ってくださっているようですが、将軍様が欲しがっているものを私は持ち合わせておりませんよ?」
なんて、意地の悪いことを言ってくれる。あぁ、面白い。やはり彼女との会話は心地よく弾む。
「いまさら隠しても意味などない。人を見て柔軟に対応を変え、その先を読んで行動することは誰にでもできることではない。加えて、領地のことだけに留まらず、その周辺の土地に対しても詳しく政の話ができるような女中はそうそういない。...というより初めてだな。」
ゆらゆら、ゆらゆらと、揺れる炎をその瞳に映す彼女は、なにかを隠すようにふっと瞼を伏せた。
「......すでに、お気づきかもしれませんが、大名様よりそちらの情報を定期的に渡すように、と仰せつかりました。私が快く送り出されたのは、間者としての役割を期待されたからに他なりません。」
ぐっと拳を握りしめたその手から、ふっと視線を外す。
驚くことはなかった。なんとなくそういう気はしていたし、予想もできていたことではあった。誤算があるとすれば、彼女に素直に打ち明けられたことくらいだろうか。むしろそちらに対する驚きのほうが強い。
「それがわかっていながら、どうして頷いたんだ?なんとなくだが、君は大名に対して意見できるように見えた。しかも、素直に君の言うことを聞くほどに信頼されていたのではないのか?」
ぐっと彼女は唇を引き結び、その手は白くなるほどに強い力で握りこんでいる。なにが彼女をそうさせるのだろうか。娘殿との関係は良くなかったのだろうが、大名には進言できるほどの信頼関係があるように見えた。確信は持てないが、あの取引の件も彼女が大名に伝えたのであれば、賢い彼女はどうとでもできただろう。
となりで、すぅっと息を吸う音が聞こえた。
「......あの、地獄のような。意味もなく、生きる日々から。」
顔を両手で覆ったその隙間から涙がこぼれ落ちるのが見えて、次いで震える声で吐き出されたそれがどうしてか、深く心に突き刺さる。
「逃げ出してしまいたく、なったのです......。」
言い終わると、彼女は立ち上がって俺の前でなぜか平伏した。
「そのために、将軍様を利用いたしました。誠に申し訳ございません。」
慌てて俺も膝をついて、その華奢な肩を掴み起こす。
「そのように謝る必要はない。俺は君という優秀な人材を欲しがった。そして君はそれに答えた。ただそれだけに過ぎない。」
彼女は地獄だと、逃げ出したいと言った。俺が見た、あの屋敷の人たちの彼女に対する扱いはきっと断片に過ぎなかったのだろう。なぜ、もっと気遣ってやれなかったのだろう、もっと早くに行動していれば、と今さら後悔したところで後戻りはできないが、どうしても不甲斐なくて情けない。
俺だって君を利用しようとしているのだから気にしなくていいのだと、どうしたら伝わるだろうか。
「今から向かう場所はさして何もないし、有益となるようななにかもない。むしろ君が大名になにも言えることがなく怒られないか心配なほどだ。」
なんとか考えて捻りだしたそれは、自分でもよくわからない内容だったが、言いたいことは伝わったのか、彼女が首を横に振る。
「私が間者として将軍様とともに行くことはありません。ここで別れましょう。」
「いや、それはできない。君が嫌でなければうちに来るといい。」
暗にここで捨てろという彼女の言葉を、間髪入れずに否定する。もはや手放すつもりは毛頭ない。間者としてでもなにも問題はない。先ほども言ったようにうちの領地になにか有益となるようななにかなどありはしないのだから。そのことを伝えるだけになるのだから、そのうち向こうの大名も呆れてなにもしてこなくなるだろう。
俺がなにを考えていたのかを悟ったのか、またもや彼女は首を横に振った。
「そうではありません。大名様は必ず、そのうち私を連れ戻すでしょう。そのときに将軍様になにかしらの被害が及ぶのが嫌なのです。」
「なぜ、君を連れ戻す?正式な取引のもと、君は俺のところへ来ることになったのだから、それを強引に破棄しようとすれば敵対することになり、損でしかないと思うが。」
どういうことかわからずに首を捻った俺に、彼女は口を歪ませて嘲るように笑う。
「将軍様には、あの大名がそういったことを考えられるお人だと思っているのですか?」
思わない、と思うと同時に頭の片隅でかちり、かちりと歯車がかみ合うような音が鳴る。
「あの大名が領地を治めたことなど一度もありません。私が......それらをすべて裏で担っておりました。」




