第一章 其の九
「生きているべきではない、というのは...」
「きっと将軍様には理解できないでしょう。」
どういうことかと問おうとした俺を遮り、彼女は笑みを浮かべたままとんでもなく正直で、真っ直ぐな言葉を口にする。もはや間抜けのように口を開けてじっと見つめることしかできない。
「どうか、これからも理解できないままでいてくださいませ。」
人の機微に疎い俺でもわかる。
これはまごうことなく俺を嘲るものだ。少なくとも、俺はそう受け取った。どこか怒ってるようにも思える彼女は、けれども静かに深く、頭を下げた。
「出過ぎた真似をいたしました、申し訳ございません。将軍様にとって都合がいいようにしていただいて構いませんが、私をそばに置くことはしないでくださいませ。」
言い終わると、彼女はこちらの返事を待つことなく立ち上がり、部屋を去って行った。
ぼんやりとひとり残った部屋で、先ほどの言葉を反芻する。
なにをすれば、どのような扱いを受けていれば、あのようなことが言えるのだろうか。
彼女の扱いが良くないのは、かなり早い段階で気づいてはいた。初めて会った夜に見えた袖口の痣や、ともに海辺へと出掛けたときに足を引きずるような仕草もあったが、触れてほしくなさそうな態度を見てなにも言わなかった。あの日、足を引きずっていながらも俺に付き添って歩いた彼女はなにを思っていたのだろうか。「馬がいいだろうか」と聞いたその真意に気づいていたかどうかはわからないが、痛むであろう足を無視してでも俺を尊重し、長い道のりをなんてことないように歩いて見せた。
「理解できない......か。」
彼女の言葉はひどく胸を抉る。
お前と私の生きている世界は違うのだと、こちらへと踏み込んでくるなという拒絶。いや、現実を突きつけられた、という方がしっくりくるだろうか。たしかに、俺は彼女についてはなにも知らない。だが...
「君も俺のことを知らないだろう。」
零れた言葉はだれにも届かない。
足を投げ出して、天井を仰ぐ。人が人についてすべてを知ることなどできない。だからこそ知りたいと思い、少しでも近づこうと言葉を交わして時間をともにする。俺はそう思っているからこそ、彼女へ近づこうとした。だが、どれほど近づいてもその心を見ることは叶わず、この手は空をかくだけ。今まで多くの人を見てきた俺は、少し言葉を交わせば相手がどういった人間かはなんとなくわかる。それなのに、彼女だけは好意も嫌悪もなく本当にただそこに在るだけでしかなかった。掴もうとすればするほどにすり抜けるのに、忘れることもできない。
そこまで考えてから、ふっと息を吐き出して考えることを止める。今更どれだけ考えようと、今までも答えが出ることはなかったのだから無駄だろうと苦笑いすら漏れる。ふと視界に入った、彼女が運んできた料理に手をつける。けれど、それはもうすでに冷たくなってしまっていた。
あれから、大名や他のひとと会わないといけないといったこともなく、彼女ともなにを話すでもなく時は穏やかに過ぎた。
「もう明日には帰ってしまわれるとは、時が経つのは早いものですな。いかがでしたか?ゆっくりと羽を伸ばすことができたのであればよいのですが。」
「もちろんです。ここは穏やかで、普段とは時の流れが違うように感じたほどでした。」
半分は本当であり、半分は嘘でもある言葉を感情をのせることなく放つ。最後だから、とまた多くの者たちを集めて宴を開くと言ってきかず、来たときと同じような騒がしさにまた包まれていた。様々な人たちから挨拶を受けつつも頭を占めるのは別のこと。
来たときとはたしかに異なる、持って帰りたいものができたという点。今日はこの話をどう切り出そうか、確実に頷かせるためにはどうすべきか、そればかりに思考を取られてまわりの話は正直頭に入ってこない。大名も、その娘も今までとは違って最初の挨拶のときに少し話をしたのみで、その後言葉を交わすことがなかったのも、どこか不安を感じさせるものだった。それでも、最初の宴のような華美さはなく、どこか労わるようなそんな配慮が感じられる時間に、心が波立つことはなく落ち着いてゆく。けれど、そういった時間があればあるほどに心は別のことに囚われてゆき、結局悩んでいるうちに時は過ぎて宴はお開きとなった。
このままではと思い、遠くに見える大名のもとへ赴こうとすると、そんな俺を遮るようにひとりの男に話しかけられる。
「少しお時間をいただけますか?」
「いえ、その。大名にお話がありまして...」
「であれば、ちょうどようございます。」
にこりと笑みを浮かべた男は、こちらに顔を寄せると小さな声で囁いた。
「大名様が将軍様とお話をしたいと申しております。ご同行願えますか?」




