いただきますまでに
ホットケーキを焼くときにできる空気のふつふつ。黄色の生地に小さくパンッと膨らみ、生地の上に一個二個できるふつふつは、あたしの口から発せられる破裂音に似て、なんだか汚らしい。あたしは唾を小さく膨らましパンッと鳴らす。汚い。
膨らんだホットケーキをひっくり返し、その焦げの模様に、うへえと唸った。これ、園児に食べさせんの。焦げてますけど。
丸いホットケーキを四等分に切り分ける。大きさがまばら。だってきれいな円形じゃない。どうやったって等分にならない。
鉄板から上る熱気に汗が噴き出る。緊張からくる汗の量の方が多いだろう。いつ主任の檄が飛ぶか冷や汗ものだったから。あたしはいつだってこの調理室で緊張をしている。
いつだって主任の先生に対しては必要以上にペコペコしてしまうのだ。私がどんなに謙虚に振る舞ったって、こいつになんの影響もないだろう。主任の生活に私のペコペコは、私が宿しているほどの一点の曇りだって落とすことはできない。私のペコペコは闇を纏っている。ペコペコと同時に腰を十五度曲げ折る度に、あたしは負のオーラを放出し、主任に向かって闇のエネルギーを発出している。そんなことだってヤツは気づかないんだろう。
「ねえ、今日のおやつなあに?」
園児の破顔がふたつお行儀よくならぶ。ふたりとも、おとこのこ。
「ホットケーキだよ」
ヤツがカウンターにおっかかりながら園児に向かって猫撫で声を上げる。あたしは鉄板と格闘中でヤツの背中をちらと睨むとすぐに鉄板に視線を落とした。
「なんか、あまいにおいする」
「そうでしょうお、ふふふ」
実際きもちわりいな、ババアめ。そう思いながら生地を鉄板に落としていく。何枚焼かせる気だ。あたしは息を大きく吐きながら、焼けたものから順にまな板に移していって、等分に切り分けていく。数えながらホットケーキをバッドに並べていく。
「大きさ疎らじゃない。見て、これとこれ。」
いつの間にか主任が私の隣に来ていた。さっきまで一緒に話していた園児もカウンターの向こうにはもう姿はない。おまえは一生ダベってりゃいいのに。小言かよ。
「すみません」
「もし自分の子どもが、こっちのホットケーキを配られたら嫌じゃない? 自分の子どもに不公平があったら嫌な気分になるんじゃない? そういうつもりでやってねっていつも言ってんじゃん!」
「はい、気をつけます」
「気をつけます、じゃねえって言ってんの。気をつけますって言ってるけど、ちゃんと気をつけてないじゃんって言ってんの。見てよこれ、焦げてんじゃん」
フライ返しを奪われ、ヤツはホットケーキをパンパン叩く。
「これとこれ。あと、これ。出せないからね。こっちに避けといて。これもちいせえなあ。なんだよこれ。どうしてこうなるんだよ」
ちっと舌打ちする。あたしは腰を十五度曲げたまま、俯きながら生地を返していく。
俯いていると、ヤツの脇汗の酸っぱい臭いが鼻についた。奥歯で苦いものと酸っぱいものを同時に噛んじゃったみたいな微妙な味わいが頬の内側をしわしわにしていく。
「夏木」
それが自分の名字だと気づくまで二秒ほどかかると、あたしはゆっくりと顔を上げた。ヤツの目尻の皺に目線をやると、一瞬、それを数えてみようかと思い至るが、やめた。夏木はあたしの名字だったけど、あたしは返事しなかった。ただ垂れ目の両目でヤツをガンくれてやったあと、鼻をすん、と鳴らした。なんだかそれがしおらしかったらしく、ヤツはふわりと笑顔をこぼした。
「二時に推しの会員限定セールやるの。私、事務入っていい?」
「はい、お願いします」
おばさんのドルヲタめ。あたしは背中に向かってピンっと人差し指を弾くと、切り分けたホットケーキを数え始めた。年長、年中……の順に数え上げ、未満児クラスのためにもう半分ずつ小さく切り分けると、いち、にい、とゆっくり数えて並べる。年長に余ったおまけ分を足して入れてあげるとバッドをラップにくるんだ。あたしは息を吐き、水槽にお湯を溜め、食洗剤を入れると、洗い用の大きなエプロンを締めた。
まだ熱いままの鉄板を水槽に突っ込む。鉄板はジュッと音を立てて水槽に沈み、あたしはスポンジでそれを擦り始めた。丁寧に上下に腕を動かし、泡を這わせる。隣の水槽にお湯を張り、蛇口から湯気が立ち上る。鉄板を表裏ひっくり返し、同じように擦っていくと、隣の水槽にじゃぼんと勢いよく流し入れた。
手には塩素で焼けた傷がいくつもできており、洗剤がきりきりと染みる。お湯の中で手を泳がせるようにして鉄板を撫で上げる。事務をするヤツの背中から独り言の奇声が聞こえてくる。二時ぴったりに入ったけど、間に合わなかったらしい。忌々しそうに短く吐く嘆息が、あたしのほうまで流れ来て、あたしの頭をすかーんと打っていく。後で愚痴ってくるはずだった。
そのとき鳴ったインターフォンにあたしは蛇口を閉め、はーいと声を張った。牛乳の配達業者が来たはずだった。あたしは奥歯をかみしめ、ぎりりと鳴らす。エプロンを勢いよく剥ぎ、勝手口のドアを開けたのだった。
こたつに潜っていると、のあが勢いよく布団を剥ぎ、あたしの耳元でママぁと叫んだ。
あたしは肩を竦ませ、のあから見つからないように布団の奥へと逃げ込もうと身体を丸めると、のあはあたしの肩に跨がってぴょんぴょん跳ね出したのだった。
あたしは閉じていた目を開けると、目の前にのあのふくらはぎがある。タイツに包まれたのあの足をアップにあたしは、の、あ、の、の、あ、と呼びかける。
「ママ、リカちゃんあそび。リ、カ、ちゃ、ん」
のあの右手にはリカちゃんが握られている。のあがあたしの上で弾む度にリカちゃんの髪が上下に揺れる。
のあは明らかにリカちゃん遊びというより、あたしを下敷きに弾んでいるのが楽しいといったようだった。けたけた笑い、のけぞってこたつの机に頭をぶつけた。いたあい、と声を上げながらまだ笑っている。
「リカちゃん遊びするから下りて。の、あ、ちゃん!」
「ママ、ちゃんとするんだよ。ママもリカちゃん持って」
はいはい、と言うと、跨がっていたあたしから下りてリカちゃんを渡す。
のあはリカちゃんの髪を梳きながら、ああん、とため息をつく。
「美容師さん、髪をゆってほしいの。ほら、リカはこんなにながいでしょう?」
「お客様、今日はどのようにいたしましょう」
「ここを三つ編みにして、くるっとおだんごにしてほしいの」
「かしこまりました」
あたしはリカちゃんを恭しくお辞儀させる。リカちゃん片手にのあの厚い前髪の上で光る王冠を見つめる。キューティクルでつやつやの髪に恨めしい視線を送ると、厚ぼったい一重のまぶたに、自分の顔の上に載っている目だの、鼻だのを思いはせる。決してきれいな顔立ちと言えない親子が並んで、なんだか惨めなようだと、鼻をすん、と鳴らした。
あたしを奴隷のように扱わないで。そんな視線を送る。言ってやれないことなどないのに、あたしは子どもの言いなりだ。リカちゃん遊びなんて、もちろんしたいわけではない。これもすべてがのあをかわいいと思う限りに奴隷根性が働く。あたしは奥歯をぎりぎり噛みしめて無理矢理ごっこ遊びの言葉を捻出させる。リカちゃんの髪を細く三つ編みを作り上げると、くるくると巻きだした。お客様いかがですかぁと、ひっくり返った声を出す。「ここ、みだれてますけど、直してください」
「ほんと? これでよくない?」
「ああん。ちゃんとリカちゃんごっこして」
のあが口をとがらす。お世辞にもかわいいと言えない仕草。我が子ながら中途半端だと眉間に皺を寄せる。
「かしこまりました。お客様。少々お時間ありますでしょうか?」
「はやくしてね」
「至急、お直しさせて頂きます」
せっかく結った三つ編みをほどくと、手に絡ませ、三つ編みを結い直す。何度もやり直すのは癪だったから真剣に編み込んでいく。
「こちらでいかがでしょう」
あたしは無理に口角をあげると、小さく息を吐いた。のあはリカちゃんを抱いて大切そうに髪を撫でた。
「いいわ。今日はデートなの。メイクを直してください」
「かしこまりました。お直しさせて頂きます」
あたしはリカちゃんの顔を周辺を、指をせわしなく動かして、いかにもメイクアップしているといった演出を施す。のあは厳しい視線を送りつつ、リカちゃんの髪を梳く。のあが性格ブスに育ったらあたしのせいだろうな、と懸念しながら、あたしはリカちゃん遊びを楽しんでいるのあのお友達役を演じる。こんなに都合のいい友達もいない。
「美容師さん、リカを清楚なお嬢様系にしてください」
「どういった色味がお好みでしょう」
「そうね。やっぱりピンクで」
「ねえ、のあちゃん、宿題は? やったの?」
あたしはたまらなくなって急に匙を投げた。のあは顔を真っ赤にして、
「ちゃんとやるよ! リカちゃん遊びやったらやるよ!」
と怒鳴りだした。
「つづきやって! やって!」
急にヒステリーになったのあを前にして、あたしは眉尻を下げた。ここであたしはかちんと来たりはしない。困ったなと唇を堅く結び、ご機嫌取りに伺うしか手立てはない。
「ピンクですね。グラデーションをつけて陰影をつけてあげますと、立体的な仕上がりになってよろしいかと思います」
「かわいくお願いします」
「かしこまりました」
私は気取られないように時計を見上げた。そろそろお風呂にも入らないとのあは眠くなってしまう。まだ宿題も手につけてないならそろそろ切り上げなければ。どんな口上でごっこ遊びを切り上げるか、頭を巡らす。のあは得意そうにリカちゃんの髪を梳き続け、独り言をぶつぶつつぶやく。こんな時ののあをみると、かわいそうだな、とつい思ってしまう。欲望にひたむきな姿が実に不憫だ。哀れだ。楽しそうであればあるほど、なんとも可哀想だった。
「ただいま」
夏木がリビングに顔を出す。いつの間に帰ってきたのだろう、驚いた顔をあげると、その四十も間近な夏木に明らかな疲れた表情が上乗せされ、老い、という言葉がとっさに浮かんだ。
「のあ、お風呂まだじゃないのか? 体操着着てるじゃないか」
のあはリカちゃんを放りなげると、ランドセルに手を掛けた。ノートとドリルを取り出し、開き始める。
「なんだ、のあ。宿題もまだなのか? 一年生になったら宿題を頑張るって言ってたのに、もう守れなくなったのか?」
夏木がするどい視線を送る。その言葉はのあに、というより、あたしを責めている。
のあは黙々と鉛筆を動かし、ノートに俯いている。あたしは急いで取り分けておいた夏木の食事をレンジで温め、味噌汁の鍋に火を掛けた。
夏木は監視するようにのあを眺め回し、腰に手を当てながら、のあの横にぴったりとついた。ごはんをよそり、温め終えたおかずを前に、あたしは声を掛けた。
「夕飯、食べない?」
「のあが終わるまでつきそっている」
強ばった夏木の顔つきは怒りに満ちていて、あたしをつい竦ませる。温めたおかずにもう一度ラップを張ると、あたしは所在なくダイニングの椅子に腰を下ろした。どこをみるともなく視線を泳がせ、沈黙のリビングに時計の秒針ばかりがかっちかっちと目立って聞こえてくる。夏木は肩をいからせ、のあは時々叱責を受けながら黙々と机に向かう。小さくしゃくりあげているようにも聞こえるのあに、憐れにも思って、夏木に声を掛けた。
「おまえは黙ってて。のあの将来のためにもよくないから。それに、おまえ、今日の弁当はなに? 鶏肉が生焼けだったよ。あんなの食べれないよ。口に入れた途端、噛みきれないし、生臭いし。オレは出されたものを残すのが嫌だから全部食べたけど。後でぞくぞくしてきたよ。おまえ、それでも給食の先生なわけ? 園児に生焼け食べさせたりしてるの?神経どうにかしてるよ」
のあに向かって俯いたままの夏木の背中をみつめ、あたしはただただ固まる。生焼け?嘘でしょう? 朝は確かに時間がなかったけど、しっかり焼いたはず。おぼえがないこと不意に咎められ、あたしは顔をしかめた。夏木は振り返り、あたしをにらむと大きく息を吐いた。
「しゅくだい、おわった。お風呂はいってくる」
小走りに駆けていくのあはあたしにも目もくれず、脱衣所で体操着に手を掛ける。苛々があふれ出しそうな夏木と二人、リビングに残るとあたしはいてもいられず俯いた。
「なんかぞくぞくする。熱、あるかも。体温計どこ?」
あたしは急いで引き出しの中の体温計を取り出す。夏木はそれを奪うように受け取ると、
「食中毒かもしれない」
とため息をついた。
「あの、ごめんなさい」
「弁当つくりが大変なんだったら無理にいいよ。仕出しだってあるから、おまえに作って貰わなくても大丈夫。薬どこ?」
あたしは慌てて薬箱に手を掛けた。
「整腸剤……どこ……」
「いい。自分でやる」
そういって夏木は取り出した錠剤を口に放り込み、コップに水を注ぐ。飲み下すとしかめ面をしてお腹を押さえた。
「今日は夕飯はいいから。ああ、やっぱり……」
そういって差していた体温計を引き抜くとあたしに渡す。あたしはそれに目を落とすと、にわかに信じられず目を瞠った。夏木のいう生焼けの鶏肉の話はどこか信じていなく、投げやりに聞いていた分、実際に発熱しているとなると一気に罪悪感が持ち上がる。あたしはぎりりと奥歯を噛みしめると、夏木を見上げ、ふと目があってしまった偶然に目線を落とした。
「寝るから」
そういってリビングを後にする夏木を見送って、あたしは小さく嘆息した。夏木はいつも疲れている。そしていつも苛ついている。子育てに協力的だと本人は思っているだろうが、ただのあに管理的なだけだ。のあはいつも夏木にビクビクしている。決して父親を嫌っているわけではないんだろうが。
夏木は中学の教員で、夕方は進路指導、土日は部活指導と、休みらしい休みがなく、多忙であるのが当たり前の毎日を送っていた。たいした給料もいいわけもないのによくやってるよな、というのがあたしの正直な意見だった。昇級した分、税金も上がってしまった、と嘆いているのにつけても、疲れが滲み出て、たいした余暇も過ごさず、この先もこのままなのかと、うんざりした。いつも正論であたしをやりこめるのが日常で、夫と言うより、舅に近い存在だった。
生焼けの鶏肉をわざわざ完食するのも、夏木らしいと思った。いつも自分には隙がなく、自己犠牲的ですらある。それが夏木の正義に似たようなもので、あたしはいつも悪役をあてがわれた。夫婦におけるその二項対立の配役を決定づけさせるのに、あたしの至らなさは十分だったし、あたしの役どころはお似合いと言えばお似合いだろう。職場においてもあたしは主任からやりこめられて当たり前の能力しかないと言えば、それまでだし、夏木にとっても誰にとっても、いまいち足りない、役立たずでしかない不十分なパートナーでしかないんだろう。あたしはそれに気づかされる度に、いつも自分にも仕事にもすべてのことに投げやりになるし、表面は謙虚に振る舞っていても、心底は胸くそ悪いとしか思えず、反吐を吐くチャンスを盗み見ては、こそこそと吐き出していた。
夏木と結婚したことも、のあを子育てすることも、住宅ローンの返済のために始めた給食の仕事のことも、奴隷根性をむき出しに、ひたむきに従事している振りをし続けなければ、到底続かないことだったし、そんな毎日から解放されたいとも思えず、そんな自分でも従属させて頂き、ありがとうございます、といった態度で、毎日起きては弁当を作り、のあを食べさせ、洗濯をし、仕事に行き、主任に怒られ、推しの話を延々と聞かされ、相づちを愛想よく差し挟み、園児たちには笑顔で接し、と延々と続く幸せであった。自分の人生としてはこれで十分なのだろうと納得をし、媚びへつらい、すみませんを連呼しては、今日も疲れてただ眠る。それが自分にとっては美徳にも思えたし、そんなことで美徳かよ、と笑える自分も愛すべきと思えたし、失敗を繰り返す自分にも、それでも投げやりでしかないと反省に至らぬ自分にも、ただ一心に愛すべき人生と思えた。
これが愛すべき人生かよ、あたしは嘆息すると、ラップに包んだ夏木の夕飯を冷蔵庫に入れ、お勝手に立った。皿と皿のぶつかり合う音、水が勢いよくシンクを弾く音、すべてが爆音に自分の身体にぶつかってきては、自分を粉々に砕いていく。砕かれたあたしは、シンクの向こうの排水溝を流れていっては下水の中へ諸共なく溶けてゆくのだ。
あたしは汚水の一部でしかないんだろう。ヘドロにまみれ、汚臭をまき散らし、ただ煙たがられる存在でしかないんだろう。そう思ったら自然と笑えてきた。
愛すべき毎日はいただきますまでに大変な労力を要す。それと心得よ。ふんっ。あたしはちいさく笑った。