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公爵令嬢リリオールは、決して決してポンコツではない。〜婚約破棄と断罪をされ、没落したい悪役令嬢と絶対に没落させたくない王子の戦い〜

 「アイリスと彼女を慕うもの達が治めた国は、長く、末永く誰もが幸福にいられる国となりました。」


 彼女リリオールは、前世と今世、合わせて二十年以上もの時間、そんなありがちな一文を忘れられずにいた。


 初めて見る景色ではあるがどこか見覚えがあり、どこか見覚えがあるのに来たことなどあるはずのない土地。

 煌びやかな美しい校舎と、どこか浮世離れした空気を纏った生徒たち。誰もがその華やかさに目を奪われるような光景の中、一歩、また一歩と踏み込んでいく。


 足先や手足は震えて、神経がそのまま痛むようだ。


 そんな彼女の名前はリリオール。この国の王太子との婚約者であり、侯爵家の長女である。

 ここにいるおおよそほとんどすべての人物よりも高い地位におり、教師達どころか理事長などであっても礼をするのは向こう側という立場の彼女だが……。


 まるで、産まれたての子鹿か何かのように手足をガクつかせて右手と右足、左手と左足を同時に出しながら校舎を潜る。


 周りの生徒達はそんなリリオールを見て「えっ、あれはいったい……新しいダンスだろうか?」「いや、おそらくそういう儀礼があるのでは……?」と口々に囁き合うが、当のリリオールには当然そんな気はなかった。


 ──ああ!! 来てしまった!! 来てしまった!! メインストーリーの場所まで来てしまったぁ!!


 口に出せば誰もが首を傾げる内容の言葉を頭の中で巡らせて、それからゆっくりと振り返る。


 ──たた、た、たしか……ここで緊張した「主人公」が私にぶつかって……。


 と記憶を思い返していると、後ろからダダダダッ! と駆ける音が聞こえる。


 ──ああよかった。ストーリー通りにいっている。


 十数年前、リリオールは死んだ。正確に言えば、リリオールの前世である愛染千夏が長い闘病の末にその命を全うし……いつのまにか、千夏が生前楽しんでいたゲームの「悪役」である侯爵令嬢のリリオールとして生まれ直していた。


 主人公ではなく悪役。それも……どのエンディングにおいても主人公に悪辣な嫌がらせを続けたことで、主人公の攻略キャラである王太子から婚約破棄を突きつけられ、家も没落するという結末にたどり着くキャラクターである。


 一時は絶望した千夏だったが……けれども色々と考え、ゲームではないこの世界に触れてひとつの決意を固めた。


『そうだ。断罪された方がいいっぽいぞ』と。


 けれども、それでも大勢の人から責められることになることは恐ろしく、一歩一歩、ゆっくりと進めている脚は自ら断頭台に登ろうとしているかのように重かった。


 そんなリリオールは背後から迫る足音を聞き、この後の展開を思い出す。


 平民との間に産まれたある貴族の私生児だったアイリスという主人公が、ひょんなことからその貴族に見つかり、貴族の娘として学園に通うことになるというストーリー。

 その開始直後に、慌てて走っているとゲームの悪役キャラであるリリオールにぶつかってしまうというものだ。


 最初の方ということもあり、しっかりと覚えているセリフを何度も頭の中で繰り返し、しっかりと表情を作って待ち構える。


 そして背後からやってきたアイリスとぶつかり、その違和感に気がつく。

 ──浮遊感。足が、身体が地面から微かに離れている。まるで世界がスローモーションになったようにゆっくりと、けれども自分の手足も自由に動くことはない。


 思ったよりもぶつかるときの威力高かったたんだ……?


 リリオールの胸中にそんな感想が浮かびながら、まるで跳ね飛ばされるようにリリオールはずささーっと倒れる。


「す、すす、すみません! すみません! 大丈夫ですか!?」


 全然大丈夫じゃない。走る勢いが強すぎる。

 そう思うがそんなことはゲーム内の台詞になかったので、グッと堪えて、地面に倒れ込んだまま口を開く。


「──制服が汚れてしまいましたわね」


 リリオールはそう言ってから、本来なら「平民風情が触れてるんじゃねえ」という意味だったセリフが、「怪我はしてないわ」という意味になってしまったことに気がつく。


 いや、だって実際に転がったせいで制服が泥だらけだし。

 くっ、しかし、それでもまだ悪役令嬢として挽回出来るはずだ。


「すす、すみません! 今お手を……あっ、いたっ」


 アイリスはぶつかった拍子に自分も倒れていた体を起こしてリリオールを起こしに行こうとするも、転けた拍子に足を挫いてしまっていたようで足を抱えてしゃがみ込む。


「う、うう……痛い……」

「全く……こんなに慌てて、入学式に参加するには相応しくないようですわね。入学式には出ずに休んでおいた方がよいのでは? なんなら、良い場所をご紹介しますよ」


 リリオールは倒れたままゲームの中のセリフを読み上げる。

 よし、完璧な悪役令嬢ムーブ、と心の中でガッツポーズをしているとアイリスは「そ、そんな……」と口にする。


 必要なこととは言えども意地悪を言いすぎたかとリリオールが心配していると、何故かアイリスは目を輝かせてリリオールを見つめる。


「そ、そんな、私が不注意でぶつかってしまったというのに……お気を遣って……しかも保健室まで連れて行ってくれるだなんて……。なんてお優しい」


 アイリスの言葉を聞いてリリオールは「……あ、確かにそういう意味で捉えられなくはないなー」と気がつく。

 しかし、確かゲームの中のアイリスは入学式にはちゃんと出席していたはずだ。しかしこのまま放置していたら入学式に出席は難しい……気がする。


 リリオールはアイリスを連れて保健室に行き、入学式のためかいない保険医に代わってテキパキと手当てをしてアイリスを入学式に送り出し、ひとり保健室で息を吐く。


「……いや、これはなんか違いません?」


 可能な限り原作ゲーム内の再現をしたつもりだけどどうにもなんか印象が違うというか、ただの親切な同級生になってしまっている気がする。


 リリオールは頭を悩ませながら、ハッと思い出して慌てて入学式へと向かった。


 後日、リリオールは自身にまとわりつくようにぴょこぴょこ跳ねているアイリスを横にして「どうしてこうなった……」と頭を抱える。


 本来なら「怖い人」ぐらいに思われていなければならないのに、あの一件のせいで妙にアイリスから好かれていた。

 しかもそのアイリスが色んな人に「リリオール様はとっても優しいんですよー、うふふ」と楽しそうに言い振らすせいで、周りからも「冷たいフリをしながらも、実は優しい女の子」という目で見られることとなってしまっていた。


 それを挽回するために横暴に振る舞ったりしてみたリリオールだが、即座にアイリスが「リリオール様は恥ずかしがり屋だからつい照れて意地悪言ってるだけなんですよ!」というフォローなのか追い討ちなのか分からないことをするせいで評判がまったく下がらない。


 それでもなんとか劇中のセリフを言うことで対抗しようとするも、リリオールは……アドリブ力に欠けていた。

 演技をしようとするもアドリブ力のないリリオールに対し、原作を一切守る気のない……というか、知る由もないアイリス。


 リリオールがまともに手綱を握ることが出来るはずもなく、いつも敗北を喫していた。


 しかしそれでも、リリオールはまだ諦めてはいなかった。


「創立記念パーティ、楽しみですね!」

「ふ、ふふ、ふふふ、そうね。楽しみですね」


 そこでゲームのルートにキッチリハメてやる。アイリスがこれまでの学園生活で一番よく話していたのは(リリオールを除くと)リリオールの婚約者であるシリウス王子(リリオールと関わることが多いため)である。


 この学園の創立記念パーティでは一番好感度が高いキャラとアイリスが踊ることになる。……つまり、アイリスとシリウスをくっつけさせれば……と、リリオールは邪悪な笑みを浮かべる。


 創立記念パーティの中、リリオールは相変わらずアイリスにひっつかれていた。ちなみに、アイリスはドレスを用意するのに必要なフラグを立てておらず用意出来ていなかったのでリリオールが渡した。


 背景の場所を節約するためか、リリオールが断罪される場所もこのパーティ会場と同じだった。

 ゲームの画面を見ているときには何も思わなかったこの場所も、リリオール自身となった今は別の意味を持つ。


 ほんの少しの震えと、身体が冷えるような感覚。

 覚悟はしていても、それでも多くの人から責められるのは、ただ怖い。


 パーティを楽しむことも出来ずにそんなことを考えていたリリオールの手をアイリスが握った。


「リリオール様、一緒に踊りませんか!」

「え、ええ……いや、それは違うんじゃないでしょうか……?」


 今、アイリスと一番親交が深い人物と踊らせないと……と思っているリリオールは、近くに来ていた婚約者の男、シリウスに目を向ける。


「あっ、し、シリウス様! あ、アイリスさんがシリウス様と踊りたいと……」

「いや、私はリリオール、君を誘いに……」


 どこか困ったようにシリウスは言い、アイリスは気を使うようにそそくさと離れていく。


 それに対してリリオールは「あれ、こんなイベントあったっけなぁ?」と首を傾げて、首を横に振る。


「い、い、いえ! ここはアイリスさんと……って、アレ?」

「どうかしたか?」

「いえ、アイリスさんがいつのまにか……」


 いなくなっていた。

 そのことに気がついたリリオールは首に冷や汗を垂らす。


 まずい。とてもまずい。ゲームの中の最後の一文に辿り着くためにはアイリスとシリウスが踊らなければならない。

 なのに、何故かアイリスが急にいなくなったことに気がつき、リリオールは慌てる。


「あっ、アイリスさんはいったいどこに……! す、すみません! 探してきますっ!」

「お、おい、リリオール」


 慌ててその場から離れたリリオールはパーティ会場をくまなく探していく。けれども人が多く広いパーティ会場で人をひとり探すのは難しく、焦燥感の中、時間が過ぎていく。


 結構な時間が過ぎたところで、料理に舌鼓を打っているアイリスの姿を見つけてリリオールは慌てて駆け寄った。


「あ、リリオール様、この料理とっても美味しいですよ!」

「も、もう……探しましたよ」

「どうしたんですか? あ、シリウス様と踊れましたか?」

「あ、そ、そうです! 踊らないと!」


 リリオールはアイリスの手を握り、慌ててシリウスのところへと引っ張っていく。


「ど、どうぞ、お連れしました」

「い、いや……その……リリオール、お連れしましたと言われても……。君の奇行には慣れたが……どうしろと」

「踊ってください!」

「なんで……?」


 困惑するシリウスにアイリスを押しつけてリリオールは急いでその場から離れる。ゲームではシリウスとアイリスが踊るシーンにリリオールがいるはずがないからだ。


 これでやっとちゃんとしたルートに戻れた……とリリオールが安心したのも束の間、シリウスとアイリスが走ってやってくる。


「えっ、な、なんで!? なんで追いかけてくるんですか!?」

「当たり前だろ……。婚約者とほとんど話もせずにパーティを終えるなど……」

「そ、そんな……だって、シリウス様は楽しそうにアイリスさんと踊っていたじゃないですか」

「人聞きが悪いな。何の話だ!?」


 ゲームの話である。

 慌ててシリウスからリリオールは逃げ出し、パーティ会場の外なら追って来ないと思って外を走る。

 アイリスは「やっぱり、おふたりはいつも仲良しさんですねー」と追いかけるのをやめたが、シリウスはリリオールを追いかけるのをやめない。


「し、シリウス様! 戻ってくださいっ!」

「それは私の言葉だろう──!」

「アイリスさんと踊ってください!」

「何でだ!? 何故あの子と私を踊らせたがる!?」


 走りながら話をして、酸素不足で頭が回らない中、リリオールは会場近くの景色に視界を向ける。

 ゲームが好きだった。シリウスもアイリスも、ほかの登場人物もずっと好きだった。


 病気がち、入院ばかりのリリオール……愛染千夏のころから好きだった世界に転生して彼女が思ったのは、喜びよりも先に「もう家族と会えないんだ」という悲しみと寂しさだった。


 それを埋めてくれたのが、この世界の人達で、入院時にゲームをしていたときよりもより一層にこの世界を愛するようになっていた。


 だから……酸素不足で働かない頭の中、ルートからズレていることに焦燥を覚えて思わず口にしてしまった。


「っ! シリウス様が、アイリス様と踊ってくれないと……私が、断罪されて、没落しないじゃないですかっ!」

「意味が分からないことを……!」


 シリウスの手がついにリリオールの手を握り、リリオールは切れた息を整え切れずにシリウスを見る。


「わ、私が断罪されて、没落したら、みんな、幸せになるんです!」

「っ……断罪とか、没落とか……させるわけがないだろう!」


 追いかけてきたシリウスの手を振り払い、リリオールは息を切らせながら想いを吐き出す。


「ッ! わた、私はっ! 没落したいんです! 没落、しないとダメなんです! 貴方から、婚約破棄を言い渡されて、家も没落して……!」


 地面にへたり込み、ドレスの裾を握り込んだリリオールの前に、シリウスは地面に膝をついて彼女の顔を見つめる。


「シリウス様には、分からないでしょうが」

「……少しだけ知っている。リリオールがいなくなり「アイリスと彼女を慕うもの達が治めた国は、長く、末永く誰もが幸福にいられる国となりました。」……だろう。踊るとか何かは意味が分からないが」


 シリウスが、リリオール以外のものが知っているはずのない文章を口にする。

 一瞬、リリオールはシリウスが何を言っているのか理解出来ずに呆気に取られてしまう。シリウスはドレスの裾を握り込んだ彼女の手を取って「すまない」と言葉を漏らす。


「な、なんで……その、文章を知って……だって、あれはゲームのモノローグで……」


 混乱の中、震える口でリリオールが尋ねると、シリウスは地面で衣服が汚れることも気にせず膝を付いた姿のまま、リリオールの目元の涙を指先で拭う。


「君の侍女が……私に相談をしたんだ。本来なら立場からして話すべきではないが、彼女がリリオールを助けたい、と言ったから。隠れて会い、話を聞くこととした」


 一介の侍女が直接王太子に談判なんて、あり得ないことをシリウスが口にしてリリオールは驚きに言葉を失う。


「話を聞くことや密会を行うこと自体は不思議ではないだろう。……私は、君の婚約者だ。いや、違うな。君を大切に想っている。だから……「リリオールを助けるため」であれば、誰の話でも聞くだろう」

「そ、そんなはずは……ありえません。だって私は、悪辣で、アイリスさんを、虐めて……他の庶民の人にも、横暴に……」


 王太子であるシリウスの耳に、リリオールの悪評が届いていないはずはない。

 だってゲームではこの辺りの時期では、既にリリオールを断罪するための証拠を集めているはずなのだ。


 シリウスは冷たい夜風からリリオールを守るように上着を脱いでリリオールに被せる。

 香水に混じった汗の匂い、彼がリリオールを探して走り回ったのだろうと簡単に推理出来るものだった。


「君は…………演技が、下手だ」

「……へ?」


 どこか呆れたような声色のシリウスは、ため息混じりの息を漏らす。


「私の元に悪評が届いていたことは事実だ。だが……意地悪なことを言う前に深呼吸をするな。アイリスもかなり困惑していたぞ。「リリオール様……私に何かを言ったあと、決まって「いい仕事したぁ」みたいな表情をするんです」と」

「へ……? な、なな!? そんな表情してませんよ!?」

「してるからな……。それに色んな人物に嫌がらせをするのに、その後に胃を抑えていたり、ふとしたときに素が出て誰にでも小さく会釈したり、ぶつかったら「す、すみません」と謝ったり……」

「そそ、そんなことは……」


 シリウスは顔を真っ赤にしているリリオールを見て、額を指先で軽く弾く。


「それでみんなで不思議に思っていたら、君の侍女がたまたま目にした君の日記を読んで……君の事情を知り、私に助けを求めたというわけだ」

「そ、そんな……」


 リリオールは困惑して羞恥を浮かべていた表情を一変させて、絶望のものへと変える。


「……君の性格は分かっているつもりだ。前世のゲームというものの最後の一節「アイリスと彼女を慕うもの達が治めた国は、長く、末永く誰もが幸福にいられる国となりました。」を知っていたから……その最後の一節に辿り着こうとしたのだろう」


 シリウスは「馬鹿だな」と王太子が口にするようなものではない言葉を口から漏らし、その腕でリリオールの体を抱き寄せる。


「……え、へ?」

「君がいないそんな国に、私の幸せなどあるものか。だから、その一文は間違いだ。間違いなんだ」

「そんな……そんなはずは、ありません。だって、これは、私への罰なんですっ!」


 シリウスに抱き寄せられたリリオールは抵抗の様子を見せるが、シリウスは強く抱きしめて離さない。


「何が罰だ。君が何の罪を犯したと……」

「かぞっ、家族を! 苦しめました! 何年も、ずっと、ずっと……苦しめましたっ! 私が、私が……弱く産まれたからっ! ずっと入院して、家族で遊びにもいけず、お金も使ってばかりで……わた、わたし! が、ず、ずっと……弱いから、入院してたからぁ……ひぐっ」


 リリオールが溢れる涙と共に吐き出した言葉の半分もシリウスは理解出来ていないだろう。けれども抱きしめて離すことはない。

 咽ぶ声を漏らし、シリウスの服を涙で濡らす。


「……こ、これは、私の罰で、罪で、贖罪なん……です。ひっぐ……。大切な、家族をずっと苦しめて、その罪を、償うために生まれなおしたんです。私は、あの一文を、あの一文のため……ひぐ……う、生まれて、きたのです」


 シリウスには分からないことだらけた。異世界である日本の話など分かるはずもないし、咽び泣いているリリオールの言葉も分かりにくい。けれども、分かることはあった。


「私は、リリオール、君に幸せになってもらいたい。前世のことなど分からない。神から与えられた天命も理解出来ない。だが、それでも……君に笑顔でいてほしいんだ」

「っ……この国の、平和よりも、ですか」

「既に、既にあの一文は間違っている。私は君がいない国で幸せになどならない。君の侍女も、父母も、アイリスも……君が関わった人達は、皆、君の幸せを願っているのだから!」


 強く抱き寄せられて、喘ぐように漏れ出る鳴き声をリリオールは塞ぐように口を開く。


「……この時間、あなたは、アイリスさんと……ひぐっ、踊って、いないと……」

「……それでも、ここにいるよ。私は、俺は……君も含めて、きっと全員を幸せにしたい」


 夜の風がリリオールの髪を揺らす。

 冷えるはずの身体が冷えないのは、情けなく泣いてしまっているからか、それともシリウスが隣に座っているからか。


 きっとパーティは終わったのだろう。原作にあった共通ルートの再現は既に不可能となり、リリオールが望んだあの一文には手が届かないこととなった。


 絶望と、それと共にやってくる微かな安堵。

 もうどうしようもないのだ。これ以上は足掻かなくてもいいのだ。そう思う自分を、リリオールは許すことが出来なかった。


「……私は、現世も、前世も……どちらも人を不幸にしてばかりです」


 シリウスは答えることもせずにリリオールの瞳を見つめる。泣き腫らした目の下にはまだ雫が残っていた。


「……助かる見込みがないのなら。お金を使わせて、自由を奪うだけならば、さっさと自分で始末を付けたら……それで、家族を助けられたのに」

「……私は、君の前世というものをよく分かっていない。なんとなく病気で苦しんでいたのだろうと、察するのがやっとだ」


 月や星の位置が、ゲーム内で見たスチルにはなかった場所にある。パーティはとっくに過ぎて、きっとアイリスたちも帰ったことだろう。


「……当たり前だ。私が知っているのは侍女が泣きながら持ってきた君の日記だけ、それだけの情報で、たかだか紙面に少し書かれた文字だけで……何が分かるだろう」


 リリオールの涙をシリウスが指先で拭い、どこか寂しそうに愛おしそうに彼女を見る。


「君の見た文章は、きっとそれと同じだ。たったの一文、その中にある現実は、もっと多様なものだろう。……死別という苦しみがないはずがないだろう、人と話せば揉めることもあるだろう。幸せという言葉は曖昧で、きっとそんな諍いや悲しみも含んでいる……それは、今から訪れる未来も同じだ」


 シリウスは幼子をあやすかのようにリリオールに笑いかけて、その手を握る。


「でも……ありがとう。みんなのために頑張ってくれて。……君の存在がこの国の……いや、私にとっての幸せなんだ」

「……役に、立てませんでした」

「君が不幸になることを「役に立つ」なんて思いはしない。私は、俺は……」


 シリウスはゆっくりと、わざと単純な言葉を口にした。


「君が好きだ。婚約者だとか関係なく。君のことを愛している」

「……へ? えっ、い、いや……何言って……私、その、悪役令嬢ですよ?」

「悪役令嬢というのはよく分からないが……その反応は少し傷つくな」


 リリオールが混乱していると、シリウスは彼女の手を握ったままゆっくりと立ち上がる。


「……リリオール、私は、君のことが好きだ。ずっと好きだった。その前世の記憶の中ではそんなことがなかったのだろう。なら、始めから成り立っていないだろう」

「そ、それは……そうなの、でしょうか」

「だから、君は幸せになっていい。幸せになるべきだ。こんなにも……自分の身を犠牲にしてまで、この国を想っているのだから」


 シリウスの言葉で、ほんの少しだけ軽くなった心で周りを見る。

 約束された幸福はなくなって、定められた道筋から大きく離れた。けれど、けれども……星は美しく、草木は青く、学園は荘厳で、悪役令嬢リリオールの婚約者であるシリウスは、ゲームで見た画像よりも、優しげに微笑んでいた。



 翌朝、リリオールは目を覚ます。

 いつもの部屋、いつもの寝巻きに、いつもの窓から漏れ出る光……何も変わらない世界がそこにあった。


 ゲームのルートから外れたら終わってしまうという強迫観念めいた想いがあったのに、実際に外れてしまったら何のこともない世界がいつものようにそこにあった。


「……たぶん、最初からゲームとそのまま同じなんてこと、なかったのかもしれませんね」


 似ている世界ではあるけれど、最初から違ったのかもしれない。

 思えば、初めてアイリスがぶつかってきたときもゲーム内では「アイリスの突進がリリオールを吹っ飛ばした。」なんて文章はなかった。


 始めから……馬鹿な妄想だったのかもしれない。リリオールは自嘲するように、ベッドの上で乾いた笑いを漏らして、それからふと思い出す。


「君が好きだ」というあまりにも直球すぎるシリウスの言葉を。


「ふ……ええ、あ、ああ!? こ、告白されてた!? 告白されてました!?」


 嘘、嘘、嘘!? とリリオールはベッドの上でもがき、それからやっと落ち着いて、真っ赤になった顔を上げる。


「こ、これから……台本もなしに……お話、するんですか? わ、私のことを好きな、シリウス様と……」


 前世、あるいはゲームの話。それから解放されたリリオールは、やっと自分の人生を歩み始めることとなる。


 けれども「リリオールは持ち前のポンコツぶりを発揮しながらも幸せになりました」なんて未来を定める一文を最後に書くのは、きっと野暮なことだろう。


 未来ではなくたった今この時、リリオールは羞恥に負けて枕に顔を埋めながらも、分からない未来に怯えながらも、この瞬間は幸せでした。

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