引き際と潮時と ⑤
真奈美は竹ぼうきで土俵の内側をはき整えていく。土俵を整えることは、荒れた土俵を清浄に戻すという意味もあるのだ。真奈美は元絶対横綱「葉月山」と女子学生横綱「稲倉映見」のために土俵を整えていく。
「ザァーザァー・さぁーさぁ」と竹ぼうきがはかれる音。大きくゆっくりっと・・・。
本来は部員がやることなのだろうが今日はどうしても自分がやりたかった。大ファンの元横綱葉月山と自分の育てた映見が稽古とは云え取り組むと云うのは夢のようなのだ。自身がグランドデザインを描いている相撲のシミレーションゲームでなら対戦させたことはあるがそれはあくまでもゲームの話。結論から云えば勝てるはずはない。
ただ相手は元絶対横綱とは云え引退した力士。それに一発の集中力なら映見の方が分があると云うのは真奈美の予想なのだ。本当は敵わないのは百も承知だが真奈美自身が葉月山と手合わせをしたい。まして映見が不調であったにせよコテンパンにできたことが余計にそのような想いにさせている。50女とは云え相撲大好き少女と大して変わらない。心底好きなのだ。
(映見が大学で相撲をやめるまでは監督を続けよう・・・)
主将の吉瀬に監督を辞めたいことを云ったのはちょっと前の話。あの時は本当にそう思ったし映見は終わったと本当に思っていた。稽古に来なくなった時から何か力が抜けた云うか・・・。そんな気分の中での映見との手合わせは久しぶりに興奮した怒りに似た自分の感情を抑えきれなかった。元夫との再会。そしてその娘が相撲部の主将という事実と女子アマチュア女王の映見の存在。そしてこれから葉月山が映見に稽古をつけてくれる。これだけ濃密な時を今私は相撲を通して生きている・・・。相撲指導者として生きたことに後悔していたのはなんだったろうか?
(主将がもし監督にその気になってたら困るけど・・・)
相撲場に二人が入ってきた。威風堂々と引退したといえやっぱり元横綱の葉月山。それでも映見はけして見劣りはしない体格もそうだが表情も・・・。二人はそれぞれ四股・鉄砲・股割・摺足とやっていく。真奈美は相撲場に備え付けのカメラをパソコンで操作する。稽古や模擬試合などの様子を録画して個々の解析をしていき技術的アドバイスの参考にする。女子相撲における動作分析などの論文というほどではないが相撲雑誌に載せたこともあった。相撲記者の中島京子にうまく乗せられて連載を頼まれて二つ返事で了解してしまった。それを読んだスポーツ運動学の大学教授から称賛されたことがあり客員教授の話もあったのだが丁重にお断りした。でもちょっと嬉しかったけど・・・。
「稲倉さん。体も温まってきたし三番稽古始めましょうか、先に二勝した時点で終了ってことで」と葉月
「お願いします!」と気合の入る映見。
その様子を座敷上がりの縁に座りながら真奈美は見ている。
二人は仕切り線の前に立つ。葉月はもういきなり構えの体制に、映見も同じく。
(私はいくら元絶対横綱とは云え遠慮はしない。これは稽古じゃない真剣勝負!)
(そんなに気合を表に出して・・・いいわそこまでの表情をするのなら学生横綱の力見せてもらうわ)
葉月も気合が入る。昨日のさくらとの対戦はお互い力勝負でなんとか勝つことができた。正直高校生相手だとタカをくくっていたのかもしれないがそこは元横綱のプライドとして負けるわけにはいかなかった。
(倉橋さんが最高傑作と云う稲倉映見。タカをくくる気なんかさらさらないけど・・・)
(元横綱ならおもいっきてあれをやってみよう・・・一発の集中力なら勝てる自信はある)
映見が両手をついた瞬間ほぼ同時にお互い低い体勢からぶつかり合う。葉月山の反応がほんの僅か反応が良かったように見えたが・・・・。映見はその動きに動じることなくあえて遅らしたようであわてていない。葉月山は突き押しを狙っていたようだが映見はさらに低い体勢で。
一瞬、葉月に迷いが出た瞬間を見透かされたように映見は下からおもいっきり右腕で突き上げ葉月の咽喉をとらえる。
(なんていう力なのさくらの比じゃない!当たりの重みがまるで違うしスピードが尋常じゃない!)
葉月の体は完全に起き上がってしまい視界には天井の照明が・・・。映見はそこから一気に鋭い出足で突き出したのだ。映見の完璧な相撲に葉月山はしばし呆然と・・・。
それを見ている真奈美は一瞬笑みをこぼしてしまった。本来は組んで力を発揮するのが稲倉映見の相撲。それをあえて押し相撲できたのには葉月を慌てさせたに違いない。いくら過去絶対横綱だったとしても実戦を離れてしまえばこんなもの・・・。
(意外な手を使ってきたわねぇ。あなたそんな相撲嫌いだったのに勝ちに拘る・・・ってことなのねぇ。でも次はそうはいかないわいくら引退したとはいえ元横綱葉月山がこのまま連敗するわけにはいかないでしょ?次は本気でくるわよ映見。私にあなたの本気と云うのを見せてよ!)
久しぶりに相撲で興奮している倉橋真奈美がいた。
(アマチュアのくせして・・・。あなたがその気ならもう容赦はしない。椎名葉月としてではなく横綱葉月山として)
久しぶりに相撲で興奮しているのは椎名葉月も同じ。
稲倉が正攻法の組んでの相撲だと決めつけていたことが間違いだった。石川さくらは自分の得意な相撲できたから稲倉もと思い込んでいたことに腹が立つ。葉月は映見を睨みつけたが全く動じない。それどころか何か自信めいた表情で・・・・葉月は真奈美に視線を移すと何か笑みの様な表情で・・・。
(教え子してやったりって表情ですね。油断していた気はないけど完敗です。でも次はそうはいかないし引退したとはいえ女子大相撲のプライドがある。次は正攻法で来てもらわないと組んで力づくでも五分に戻す)
葉月は大きく深呼吸して顔を叩き気合を入れる。千秋楽の大一番に挑むようにそれも挑戦者のように・・・。ただそんな自分に嬉しくて興奮しているもう一人の葉月がいるのも事実。心に相撲を楽しむ自分が・・・。
二人は仕切り線の前に立つ。両者両手をついた瞬間ほぼ同時にさっきと同じようにお互い低い体勢からぶつかり合う。見た目にはさほど違いがないような立ち合いだが重心が低いのは映見だった。葉月は若干腰が高い。どちらも右おっつけの様な大勢だがそこを映見は左をスパッと入れるとおっつけて搾り上げていく。葉月はだんだん我慢できなくなり右わきが開き効きが弱まっていく。
「はぁ、はぁ、はっ…はぁ、はぁ…」
「ふぅ…ふぅ…くっ…はぁ…はぁ…」
映見はここぞとばかり一気にかぶり寄っていく。完全に映見の終始攻勢。葉月にここから逆転できる余力など全くない。
「はぁ、はぁ、は、は、は、はぁ、はぁ、はぁ」
「はぁ、はぁ、は、は、は、はぁ、はぁ」
絶対横綱と云われた葉月山がここまで必死になる姿は見たことはないぐらいに慌てている葉月山。
(ここまで腰が低いとおっつけも効かない・・・くっそぉ負けるわけには)葉月の脳内は錯乱状態。
映見はそんな葉月山をあざ笑うかのように一気におっつけ上手を引いて寄り切ったのだ。映見の完勝。そして葉月いや葉月山2連敗の完全敗北。
がぶりよって相手の腰を浮かしての四つ身の体制はある意味の完成形。全盛期の葉月山が得意技の一つとしていた形を女子大学横綱の映見にしてやられたのだ。
葉月は膝に手を当てたまま俯いてしまっている。
映見も全神経を集中させての二試合は体力的にも精神的にも本当にきつかった。引退したとはいえ葉月山と云う偉大なる大横綱を実力で叩きのめしたのだ。
それを見ていた真奈美にしても映見の精神的な成長に驚きを隠せなかった。臆することなく大横綱に立ち向かっていくその姿は感動すらおぼえるほどにそしてつい涙をこぼしてしまった。
葉月は一瞬天井を向いたのち映見に声をかけた
「完敗だわ。あそこまで完璧な相撲をされたら私に逆転の余地は全くなかった。悔しいけどさすが女子横綱だわ」
「ありがとうございます。でももうこの二試合が限界です。まるで何番もとったように精神的に消耗してしまっと云うか・・・私、この二番で偉大なる大横綱に完勝した何って思ってませんから・・・」と映見は葉月から視線をずらすように・・・。
「私にそんな気を使うのは逆に馬鹿にされているようで不愉快だわ」と葉月は苦笑しながら・・・。
「あなたは私に完勝した。私は本気で相撲をして負けた。引退したからとかそんな言い訳は通用しない私の方からあなたにお願いして完敗したんだからこれが今の私とあなたとの実力の違いと云うか格の違い。私の目は節穴じゃなかったと云う事が体で実感できたわ悔しいけど・・・」
「葉月さん・・・」
「あなたを日本代表に選んだことは間違いではないと思った。まぁ今日一日考えて明日監督の方に返事して」
「わかりました」
葉月は土俵に一礼して真奈美のところへ・・・。
「倉橋監督。昨日・今日と色々有難うございました。私なりに色々考えることができました」と葉月は云うと真奈美に一礼した。
「完敗でしたねぇ。うちの稲倉に」
「お世辞でもなく稲倉はアマチュア最強の女子相撲選手だと思います。石川さくらとは格が違うと思います」
「葉月山からそのような言葉をいただけるのは光栄です。ですが嫌味の一つでも云わせていただければあんな必至な形相は本場所でも記憶にありませんが」
「あの低い体勢からあっさり左を差されたらおっつけも効かない万事休すです」
「現役当時なら突き放して行けたと思いますが?」
「相四つでは現役当時でも無理だと思います」と葉月はきっぱりと。
「久しぶりに相撲に興奮しました」と真奈美
「私もです。正直、石川さくらには負ける気はしなかったが稲倉には最初の一番の前でちょっと気合が入り過ぎて」と葉月は苦笑い
「映見!」と土俵を竹ぼうきではいている映見を呼び寄せた。
「葉月山を風呂に案内してお湯を入れてあるから」
「わかりました」
「葉月山さんご案内します」と云うと二人は相撲場を出ていく。
真奈美はパソコンで先の二番の動画を見る。二番とも映見の相撲の完璧さに感心すると同時に勝負への執念が見て取れる。世界大会まで一か月弱。真奈美は自分が出るわけでもないのに興奮が抑えきれない。
(今度の大会はアマチュア世界大会とは全く意味が違う。真の女子相撲国別世界一を決める大会。映見は日本の最終兵器。必ず使わざる状況になる。百合の花や桃の山の両横綱以上に映見は対等以上に世界の力士と戦える)
相撲の指導者の引き際を考えていたのはついこの前の話。もうそんなことは今の真奈美にはなかった。
「私は映見に救われてばかりいるのねぇ・・・京子は女神だと云ったけど・・・」




