過去の想い・今の思い ②
年が明け中京圏にとってはシーズン前の前哨戦である高大校親善試合のために西経女子相撲部も始動していたが相変わらず稲倉映見は稽古に顔を出していない。4月から新主将として部を引っ張る吉瀬瞳にとって映見不在の部を引っ張っていかないと云う現実味が・・・。石川さくらを出稽古に呼んで映見の相撲に対しての情熱を取り戻させる作戦は失敗したのだ。
「瞳!なにやってんだ!高大校まで二か月切ってるんだぞ!」と稽古中倉橋の怒号が飛ぶ。
監督は稲倉映見が稽古にこないことに一切口にしない。瞳ももう映見は来ないと割り切って来年度からの部の在りかたを模索はしている。それでも女子大学横綱である映見がいないと云う事は部にとって各大会においてでの苦戦は必至。新主将として瞳自身の集大成として迎えようとしている構想の中に映見不在は全くの想定外だった。
下級生相手に稽古をつけている瞳は苛ついていた。稽古をつけている下級生は瞳より遥かに体格がよく映見にに近い。いつもの瞳なら素早く相手の懐に潜り込みレスリングで云うタックルに近い形で足取りに行くのだがその自慢の瞬発力もスピードも全くない。そして結局あっさりと相手に掴まれてしまう。足がダメなら相手の手首を無理やり取りに行ったりと相撲ではなくレスリングかプロレスなのだ。
「瞳!土俵から下りろ!」
「私はまだ稽古が・・・」
「下りろと云っているんだよ!早く下りろ!!」と倉橋
相撲場が一瞬無音になる。倉橋がこんなに大きく荒げた声を上げたことは本当にここ何年もなかった。倉橋は雑な荒っぽい稽古しかできていない瞳に苛立っていた。どんなに時にも冷静に対処してきた瞳を見てきた倉橋にとって今の彼女は単にストレスを発散するだけの稽古にしかなっていない。そのことは怪我も誘発してしまう。自分ならずも相手にも・・・さすがに監督としてはそんな冷静さを失った瞳に稽古をさせるわけにはいかなかった。
「下りろと云っているのが聞こえないのか!!」
「次!ナツ!」と瞳は下級生の部員を土俵に上げさせる
「上がるなナツ上がらなくていい!!誰も上がらなくいい!!」と倉橋の怒号が響く。
瞳は一人土俵に立ったまま土俵の周りには部員達が突っ立たまま俯いたまま誰一人声も出せない。
「真美、おまえが下級生の稽古相手になれ・・・瞳、邪魔だから下りろ・・・」と倉橋
瞳は唇を嚙締めるような表情をしながら土俵下りて相撲場の壁に体を預けた。
副主将の大野真美を中心に稽古が進んでいく倉橋を稽古の様子を見ながら瞳の様子を見る。壁に寄り掛かったまま下を俯きもう三十分近く同じ姿勢ている。倉橋は見て見ぬふりをして稽古の様子を座敷上がりの縁に腰掛け見ている。
四年生が引退して来年度主将の瞳は率先して部を引っ張らなければならないはずなのに部を引っ張るどころか部の足を引っ張るような態度は部の士気にも大きく影響していた。稲倉映見が昨年の世界大会以降稽古にろくに出ずそのことが瞳を苛つかせているのだろうがそれ以上に全く相撲自体に集中できない瞳の姿に倉橋は落胆していた。
(瞳も普通の女子大学生と考えればよくやってきたと思う。でも今のお前はその功績も信頼も全部なくしてまうぞこんな姿勢で主将としてやるつもりなのか・・・)
倉橋自身も映見の協会批判と称される問題以降色々云われることが多くなった。世界大会で映見がメダルを取れなかったことなどその他もろもろあるが倉橋自身はそのことに対反論するつもりはないし逆に映見の発言には共感できる部分もある。ただ自分が云ったことには責任を持てと外野に云われて子供みたいな態度をするなら最初から云うなと・・・。多分ここのところの吉瀬の態度も映見の事が影響しているのではと倉橋は考えていた。ただそれにしてもここのところの瞳の態度には目に余ることが多くなった。気持ちが不安定と云うか何がそうさせているのか正直わからないでいた。
稽古が終わり相撲場の掃除などが終わり部員達が帰るなか瞳は着替えた後相撲場の座敷上がりにいる倉橋のところにやってきた。
「監督上がって宜しいでしょうか?」
「上がれ」と倉橋は瞳を座敷にあげた。座卓を挟み自分の前に瞳を座らせた。
「今日の稽古は最低でした。すいませんでした」と正座をした姿勢から頭を畳につけた。
「もういい。頭を上げろ」
瞳はゆっくり頭を上げた。上げたその自信なさげの顔はいつもの彼女とはまるで違う何か弱みを隠せなかったようなそんな感じなのだ。
「最近のお前はらしくないな」
「すいません」
「新主将は波乱の船出か色々な意味で」と倉橋は怒るわけでもなくやわらかい表情をしながら喋り出す。
「お前身も感情を表に出すんだなぁーどんなに嫌なことや苦しいことがあっても淡々としていたお前が誰が見てもわかるような態度を取ったのは少なくとも初めて見た」
「・・・・」
「人間なんだから抑えきれない感情を表に出しても構わない。ただ部員達の前で出すのはやめろ!主将である者があれでは部の士気に影響する。どうしても抑えきれなかったら私にぶつけて構わない。少なくともおまえよりは人生経験長いんだからお前は全部自己完結で対処してきた。それは私は認めているだからお前を信頼してきた。部の運営においては私はお前には敵わないと思っている。ただお前はまだ若い。偶には初老一歩手前のバツイチ女に相談してもいいんじゃないか?」
「監督・・・・」
「お前は他の人間から見るとどちらかと云うと冷たい印象を持たれるかもしれないでも部員達からはおまえは信頼されている。映見の事もそうだが全部自分で抱えるなもう少し部員達に頼れそうしないともたないぞ」
「すいません」とただただ謝りの言葉を繰り返す瞳
「今日は帰って早く寝ろ。それと少し稽古を休んで気持ちをリフレッシュしてから戻ってこい精神的に疲弊している今の状態じゃ稽古の意味はない」
「大丈夫です!もう高大校まで時間がないのに主将の私が休むわけには」
「今週は休め。副主将の真美に任せて休め。これは監督命令だ」
「わかりました」と瞳が力ない声で
倉橋をそれだけ云うと座敷から下りると瞳の頭を撫でながら後ろから両手で包み込む。
「私が離婚していなかったらあなたぐらいの娘がいてもおかしくないのね。でもあなたみたいな娘だったら私は・・・」
倉橋は瞳の体が震えていることに気づく。私が抱き着くような真似をしたからの緊張感からの震えなのか?
「監督、聞いていいですか?」
「何?」
「り、離婚されて後悔してますか?」
「後悔ねぇ・・・」と云いながら瞳を強く抱きしめる。
「後悔はしているわ。後悔していない何って云ったらそんなのは大嘘。今でも夢に出るは、初めて好きになって愛した男の人だったから・・・云い歳したおばさんが何云ってるのと思うかも知れないけど・・・でもその愛を捨てて相撲を選んだことは少なからず後悔している」とさらに強く抱きしめる倉橋。
「私、・・・・濱田の娘なんです」
「・・・・?」
倉橋は瞳が何を云っているのか理解できなかった。自分が濱田と離婚をして以降忘れることはなかった。だからと云って彼が今どんな生活をしていることを調べようと思ったことはなかった。ただ再婚したことは何で知ったかは忘れたが知っていた。
「濱田光は私の父です。ただ私が二歳の時に離婚したので正直云って記憶にはありません。監督と父との関係はネットで調べました。父が離婚してしまったのは監督が原因だった。父は監督の事のことが忘れられなかった。そのことは母にとっては悔しかった。その後母は再婚して私には弟二人がいます」
瞳はただ淡々と話していく。瞳を抱きしめていた倉橋の腕はしだいに緩くなりその腕を離した。瞳は振り向き倉橋の顔を見る。
「私はある意味監督と同じ境遇かもしれません。父を母に振り向かせるのには自分は役不足だったのでしょう?」
「ちょっと待って・・・正直何から云えばわからないけど・・・・それと自分に対してそんなことを云うべきではないわ」
倉橋にとって吉瀬瞳から監督の元夫の娘ですと云われたところでなんと返事をするべきなのか言葉が見つかるはずもない。
(この子は最初から私が濱田光の元妻だったと知っていて接していた。それも全く表情一つすら出さず)
「私は別に監督を騙すとかそんな意図は全くありませんし別に隠す必要もなかったと云って云う必要もないと思っただけです。偶々父のことを調べていくうちに相撲をやっていて高校・大学と相撲をやっていた中で高校時代の資料に監督の名前があった。調べていくうちに父と結婚していたことがわかった。そこから監督のことをどうしても知りたかった」
「・・・」
「高校時代から相撲を通して付き合い大学卒業後に結婚されたのに・・・。離婚後、西経女子相撲部の監督になられた。私が中学の時に地元の新聞に取材を受けられていたのをネットの検索記事で読ませていただきました。女子相撲をやっている学生達のためにできることをしたい見たいな記事だと思いましたがそれに感銘したと同時にそれが別れる理由だとしたらあまりにも失うものが多いのになぜ?
私は、ある意味異父の子供と云う特殊な位置づけです。弟二人は吉瀬電機の後継者としての存在なら私の存在は重要ではないし・・・」
「吉瀬、そんな云い方はよせ。少なくともここまで育ててもらったと云う事を思えばご両親に感謝はしても批判する話じゃないだろう・・・」
相撲場の壁にかけてある時計は九時を指している
「今でも濱田光に想いはありますか?」と人を茶化すような表情は一切なく真剣に聞いてくる瞳
倉橋は瞳のその問いに答えは持ち合わせてはいなかった。そのことは自分の心の中で思いつつけている話。それでも自分にケリをつけて自分の中に封印したこと・・・なのにこの子はその封印を意図的に破らせようとしているように・・・。
「ご存じかと思いますが犬山で相撲クラブの代表をしているそうです。ちなみに稲倉映見はそこの出身です。監督命令で強制休暇のようなものをいただいたのでそこに行って会ってきます。構いませんか?」
倉橋はただ瞳の目を睨みつけるように見ているだけ別に敵意とかそんなのではないはずなのに・・・ただ瞳が濱田光の実の娘であることその娘が同じ相撲部にいることが倉橋の心には耐えられなかった。




