土俵に落ちる涙 ⑨
(映見・・・)
椎名葉月にとって映見との出会いは、二年前の郡上八幡以来である。映見はワイドデニムのコーデで、コバルトブルーのヴィンテージ感のある絶妙な色落ちのワイドパンツに白のボリュームスリーブ、そこに薄いトレンチコート。右手にアイボリー色のキャンバストートバッグ。久しぶりに会った映見の表情は、いい意味で引き締まりまるであの東京での大会のように懐かしくもあると同時に、やれることはやっているのかという感じである。
「久しぶりね、私はてっきり青森勤務だと思ったけど?」
「はい、私も青森で研修医と相撲をと思ったのですが、稽古をやれる環境は苫小牧勤務で苫小牧北高校 女子相撲部で数を踏んだ方がいいと南条監督が」
「そう・・・。私に手紙をくれた時には、苫小牧勤務なんて書いてなかったけど?」
「隠すつもりとかなかったんですが、何か葉月さんに言う事に躊躇してしまって、あの文面で私の想いは言えたので、あとは女子大相撲に入門できる条件が整ったら改めて、あくまでも優勝できたらという事ですが」
「そう・・・」
何か素っ気ない葉月。それは、自分の緊張を覆い隠すため。映見とは実業団大会の前にどこかで会うことになるだろとは想っていた。山下紗理奈や遠藤美香が、私に何かしらの稽古ではないが稲倉映見と接触させたがっていることはわかってはいた。でもそれがこんなところでとは思ってもいなかった。そのうえ中学時代の同級生であり、相撲で切磋琢磨した美知佳が絡んでる何って、まるで何かのシナリオライターがいるかのように、いつの間にかその流れに乗せられているかのように・・・。
「映見、もう少し早く来れたら面白いもの見れたのに」と美知佳はちらっと葉月を見ると含み笑いをしながら映見に言った。
「面白いもの?」
「そちらの方が、稽古用の雲斎木綿の白い廻しを締めて部員に稽古をつけてくれたのよ」
「えっ?」
美知佳に、「椎名葉月がうちの相撲部に来るけど、来れない?」と言われた時、何か息が詰まるような錯覚になってしまった。それは、葉月とおなじく緊張と云うか、会って何を?自分で決めたこととは言え、実際に研修医としての医療現場に立ってみれば、女子大相撲入門のために研修医と言う立場を使っている自分に何とも言えない後ろめたさを抱いてしまっていたのだ。柴咲総合病院 相撲部監督 南条美紀に、研修医としての籍を置きながら実業団で優勝し女子大相撲に入門するという映見にとっては、ベストな選択に迷う余地はなにもなかった。でも、その気持ちが僅かに揺らいでいた。僅かだが・・・でも、もう止められない、電車道の如く。もう!
「・・・・」(余計な事を!)
「稽古をしに来られるのですが?」と映見
「今日、初めてよ、そもそも、相撲しに来たわけじゃないし」
「美知佳さんに中学の同級生で相撲を一緒にされていたって」
「美知佳もそれなりに強かったけどね」と葉月は美知佳を見ながら
「よく云うわよ、葉月が相撲を初めたおかげで私の威信は地に落ちたけど」
「威信?たいしてして強くなかったくせに」
「映見、意外と葉月は性格悪いからね、気をつけな」
「美知佳とレベチが違うのよ、相撲は当然として、勉強の方もね!」
「ハイハイ、反論のしようもございません」
「当然よ!美知佳如きに!」
そんな二人を見ていた映見の表情が緩む。
「何、映見?」と美知佳
「仲いいんでんすね」
「まぁ腐れ縁みたいなものよ、また、相撲関連で再会しちゃうところがね、ねっ、葉月」
「・・・・」
葉月は返答することなく、二人に背を向けると摺り足をしながら鉄砲柱に向かう。柱の前に立ち「パッン・パッン」とリズムよく叩いていく。無心に無心に何回も何回も・・・。
「映見、部室の鍵置いていくから、帰り正門の守衛室に預けておいて、私は帰るから」と美知佳
「えっ、でも・・・」
「せっかくだから」と、映見の右肩を叩くと相撲場を出っていた。
ジャージ姿の葉月は、黙々と鉄砲柱に両手を打ち込んでいる。力士を引退してもう何年も経つのに、その響き渡る音と波動のようなものは、否が応でも映見の相撲魂を揺さぶる。映見は直立不動で葉月を見る。葉月は鉄砲をやめ「ふぅ」っと息を入れ振り向く。
「あれ、美知佳は?」
「あぁぁ先に帰られました」と直立不動のままの映見
「ハァ?なんなのよ美知佳は全く!」と額に汗を浮かべる葉月。葉月は手元のタオルで額の汗を拭う映見と視線が合ってしまった。映見は葉月を見据える、その視線の圧に負けそうになる。
映見がもう相撲を辞め、医師として邁進しているうえでの再会なら、素直に懐かしむことができたはず、でも、彼女の相撲人生は続いている。それも、研修医としての大事な期間を一時、中断してまでも・・・。
>「私が少女の時求めていたのはあなたみたいな生き方だったのよ。自分のしたい勉学に励み相撲に熱中して・・・でも厳しい現実には逆らえなかった。映見!本気でそう思っているのならやってみなさいよ!結果はどうあれ自分に納得しきれるのならやった後悔よりもやらなかった後悔のほうが多分一生尾を引く。遅まきながら私がやれなかった馬の仕事をやってみようとそれと女としての生き方も、少し寄り道はしてしまったけど・・・」
女子プロアマ混合団体世界大会決勝戦において映見はアンナの強烈なぶちかましで土俵下まで叩き落され軽い脳震盪を起こし救急搬送された。あの日、一晩映見と病室で夜を明かしたあの日の会話の一部が頭を過る。あの日に言った自分の言葉に嘘はない。映見は自分の思い描いていた人生を歩んでいる。それは、自分ができなかったこと・・・。中河部牧場の跡取り息子である孝之との結婚は、運命づけられていたもの、それを強引に捻じ曲げた。牧場と一緒に娘も譲渡されました見たいのは、絶対に嫌だった!自分の椎名牧場の娘としてのプライドが許せなかった!時が経ちまるで振り出しに戻ったかのように、そこに決断は必要なかった。もし、あの時に嫁いでいればどうなっていたのか?多分、幸せにはなれなかったかもしれない、中河部家に嫁げば、両親と弟は自ら命を絶つことはなかったのか?だとしたら殺したのは私なのか!【時が解決してくれる】とはよく云ったものだ。女子大相撲後にあった不幸は、葉月の生き方を決定づけた。「もう日高には戻らない!」と・・・・。
「決心したのね、女子大相撲に行くことに」
「はい、ここまでしていただいた以上・・・もう後戻りはできないと」
「このまえ、百合の花あぁいや小田代ヶ原親方に会う機会があってね、もし、実業団で優勝したら行くんでしょ、小田代ヶ原部屋に?」
「そのつもりと云うか、私の知らないところでそこまで話が進んでいて・・・」
「医師としての大事な研修医としての時間を一旦棚上げしてまでも・・・あなたは」
「三十歳で、引退します。その時の番付がどうであれ」
「三十歳で引退?」
「終わりを決めれば、その日まで相撲に邁進できる。三十歳までに横綱を目指す!そこで私の女子大相撲の人生は全うできる!後腐れもなく」
「後腐れもなく?」
「引退後は、もう一度研修医として」
「所詮、女子大相撲などその程度か・・・」
「えっ?」
「映見にとっては、アマチュア相撲の延長・・・その程度なんだよ」
「ちょ、ちょっと待ってください!私はそんな風に想ったことは一度も」
「三十歳で引退?それは、ある意味の現実的話だろうけど、もし、横綱になっても三十歳になったので引退させて頂きます?随分尊大な言いぐさね」
「私はそんな!」
「まぁ、そんな気概ならせいぜい前頭がいいとこだよ、その前に実業団で優勝できたらの話だけど」
「・・・・」映見の視線が葉月を刺す
「なにその目は」
「私が女子大相撲に入門することをけしてよしと想っていないんですね」
「腰掛見たいな姿勢が気に入らないのよ!」
「・・・同じことを、勤務先の相撲部の部員でもある女性医師に言われました。あなたの考えにがっかりしたと・・・・」
「・・・あなたの女子大相撲への道は、色々な意味で犠牲の上で動いている。研修医として入ったのにも係わらず、半年で辞めて女子大相撲に行くかもしれない・・・普通はあり得ない!十和田富士さんの力添えがあったにせよ、病院としてあなたを受けい入れたいという想いは違うんじゃないの!三十歳で引退する?だったら女子大相撲に行かず、研修医として真っ当に勤務するのが、あなたにとっても、病院のためにもベストな選択、違う?」
「・・・・」視線を落とし、口を真一文字に歯ぎしりでもしてるかのように・・・。
「自分の人生、もう少し冷静に考えなさいよ、あなたには自分自身が想っている進むべき道がある。それなのにあなたわ!
女子大相撲界はあなたの入門を切に望んでいる。百合の花も、あなたを迎え入れる覚悟はしてるけど・・・。
中国 春秋時代 における 哲学者 老子はこう書いてたわ。
明らかな道は暗く見え、
前へ進むべき道は後戻りするように見え、
平らな道は凸凹して見える 【老子道徳経 第四十一章】
医師としての道を中断してまでも行くのなら、医師としての道を断つつもりで行かなければいけない、あなたにはその使命がある!それなのに、五年後はもう引退しますはないわ!あなたは、この決断をするうえで相当悩んだはず、その自分自身の障害を一つ一つ乗り越えて来たはずよ、そこまでしたはずなのに、三十歳で引退するの真意は、自分自身が乗り越えるべき障害の回避と女子大相撲に賭けると言うい似而非。女子大相撲に入門すれば【遅れて来た大器】と言うべきかどうか知れないけど、あなたにはそれなりのハンディがある。その障害をのりきることができるかどうかは、結局は映見自身。老子の云いたかったことはそう言う事だと想うわ。
映見!もう一度よく熟慮しなさい。その上で、女子大相撲に入門するというのなら、私があーだこーだ言う事はしないし、言う資格もない。それと、その時は、【葉月山】の四股名を使いなさい!葉月山を名乗ることで妥協は許されない!女子大相撲に行くのならその覚悟を持って!そして、あなたがぼろぼろになり引退する時、【葉月山】も永遠の眠りにつく、蘇ることは永遠に来ない。それがあなたへの言葉よ!椎名葉月としてではなく、元絶対横綱【葉月山】の言葉として!」
「・・・・葉月山として・・・・」
お互いに見合ってしまう二人。これから女子大相撲に行くかもしれない映見。絶対横綱として君臨し女子大相撲を常に引っ張ってきた葉月。お互いを尊敬しつつもけして想いは一致しない。葉月は中河部牧場に行くか、女子大相撲に行くかの二択から、女子大相撲を選んだ。その選択は間違えではなかった。富と名声を手に入れた。そして、もう一択だった中河部牧場に嫁ぎ、競走馬ビジネスの世界へ。人に言わせれば、女子大相撲で絶対横綱、そして、かたや、日本の競馬界において中河部牧場は確固たる地位を固めようとしている。その一翼を担っているのは、中河部葉月。そんな葉月のストーリーを羨望のまなざしで見るだろう。外から見れば・・・。
「時間も時間だから、もう帰るわ」
「葉月さん私・・・・」
「葉月山は、もう一人の私。絶望の淵から私に生きる糧をさずけてくれた!映見!葉月山の四股名を継ぐ覚悟がないのなら、女子大相撲は諦めなさい!葉月山の四股名など女子大相撲の期待を裏切った時点で殺せばよかった!でも、殺せなかった。実業団選手権まで三か月あるわ。中途半端な決断はしなさんな!それじゃ」
葉月は、そのまま、映見の顔も見ず出入り口の鉄扉のドアノブを廻し相撲場を出る。「ガッチャン」と鉄扉が閉まる。
廊下の電気は消され、足元の非常出口の案内照明板が妙に明るく足元の廊下を照らす。葉月はその廊下を歩く、暗闇の先に見える非常ベルの赤色灯は、まるで今の葉月の胸の内を表すように・・・・。




