魂のカヌレ ④
開店30分前、秀男は店内のカフェスペースの椅子に座りあるものを待っていた。午前四時に葉山を出て途中休憩を挟み名古屋の「玉鋼」へ来たのだ。チーフパティシエである木崎から若手の味を見てほしと云う依頼だった。秀男にとって立場上は「玉鋼」のトップであるが実際のところは一回り下の世代が「玉鋼」動かしている。
「玉鋼」の前身「たたら」を再開したものの業界のみならず角界からも陰口を叩かれたがそんなことは覚悟の上、グルメ評論家にも70点の域を超えられないと書かれたことも多々あった。正直、留依さんには申し訳ないことをしてしまったと・・・。しかし、その批評は留依を覚醒させた元々の負けず嫌いが爆発したように、それは秀男も同じなのだ。そんななかでもとにかく無我夢中で・・・。そんなかふと秀男は留依のケーキに違和感を感じていた、そして今までは留依の聖域であるケーキ作りには足を踏み入れなかったが・・・。
「力量以上の作品ができたところで明日も作れるんですか?一週間後、一ヶ月後、半年後作れるんですか?あなたの旦那だった拓さんは常に真剣勝負!でも必ず余力を残していた毎日全力でなんてやれるはずがない!もう少し気持ちに余裕を持って、クリーム一つとっても棘がある。グルメ評論家にも70点の域を超えられないと書かれたけど今のあなたの作品は100点ができても次の日が40点じゃ話にならない!」
「40点ですって!?」
「プロだったら最低80点を維持する。今のあなたは気がばっかり先走って立ち止まる事をしない、そんな状態の時にプロトタイプなんか作ってるんじゃないってことですよ!」
「プロトタイプですって!」
旦那亡き後の留依の頑張りは秀男が一番よく知っているし、旦那が認めていたパートナーとしてのパティシエール(pâtissière)の実力は確かなのだが・・・・。SNS・グルメサイトの評価など気にはしていないが参考程度には見ることがあるのだがその評価が両極端なのだ。旦那の死後、留依一人が「たたら」のケーキ作りをすべておこなっている。そのことはお客も知っていることなのだが当然その評価は旦那と比べてどうなのかと云うことになる。
常にベストのものを作ることが理想ではあるが実際は8割のできのベターな商品ができれば最高なのだが・・・。
「単にケーキを作るだけなら拓さんと遜色ないどころか凌駕するような時もある。でもその意味ではあなたはアマチュアであってプロではない!単に良い商品を作ることがプロじゃない留依さんはプロの意味を理解していないんだよ!」
「( ゜Д゜)ハァ?」
「私は、SNSやネットの評価など気にする必要はないと想っていますがだからと言って見ないのもちょっと違うと・・・・留依さんが拓さん亡き後店を再開してやられている事にはあなたの強さを感じていますしパティシエールの力量も認めます。ただ、あなたのマストの商品のできは良くない波があり過ぎる!プロはどのような状態でも最低限のクオリティは保たなければならないあなたは時たまそれができない時があるそれ以上にそのことに気づいていない!いや本当は自覚があるのにそのことを隠してますよね!」
「・・・・・・」
「正直に言ってください!味覚に迷う時があるんじゃないんですか?」
「・・・・・・」
留依は次の言葉が出せなかった、拓が亡くなり失意のどん底、もう店はやめるつもりでいたのに・・・幼い子供達を抱えながらの店の営業はとても考えられなかった。そんな私に秀男さんに挑発的に嗾けられつい「かっ!」となって店を続けることに、元来負けず嫌いの留依は秀男に弱気を見せてしまったことに本心では腹だたしかった!店の再開後、留依は亡き夫のことを忘れ去るようにケーキ作りに邁進した。しかし、それも気持ちだけでは続くわけはなかった。そして目に見えない周りの無言のプレシャーは留依の体、そして心を蝕む・・・。
一定の評価を得ることはできた、でも枕詞のように・・・「旦那さんとは・・・・」と云う言葉と「あのカヌレはもう無理か・・・・」
新生「たたら」になってからまだ一度も【カヌレ】を作っていないのだ。そのことは本来、留依の得意の焼き菓子であるマカロンにも・・・・。カヌレやマカロンは、シンプルであるゆえに誤魔化しがきかない。そして意外にも精神的労力が想像以上に必要ななのだ。特にカヌレとマカロンは洋菓子においては最難関の二品なのだ。留依が得意とするマカロンが何故に最難関と言われるのか?それは工程において他の菓子とは特異な生地を乾燥させるという工程があるのだ。生地の水分量には繊細さが要求される素材としてメインの卵を扱うのにおいては卵の水分量を加味したうえで作らなければまともなマカロンはできない、そのうえでの乾燥時間は全く持って神業なのだ。マカロンは最高難易度かつ美しいお菓子と云われる所以なのだ。
でも、夫である拓を失った後、店頭にはカヌレどころか留依が得意とするマカロンも並ぶことはなかった。なぜか?それは秀男が販売サイドとして許可を出さなかったのだ。ケーキ作りはある意味科学であると云われることがある、ならば同じ素材を同じように調理すれば、同じようなものができる・・・はずなのだが?拓の【カヌレ】留依の【マカロン】に近いものはできても同じものはできない!なぜなら非化学的な感性が要求される芸術家でなければできないのだ。でも今の留依に感性が要求される仕事はできなかった、何度か作ったことはあったがそれなりにできてもそれはあくまでもそれなりに・・・。
「よくこんなもの・・・」と秀男は想わず口に出して云ってしまった、それも留依の前で言い放った。
新生「たたら」になって初めて作った【カヌレ】はあまりにも・・・・・不味いわけではないだからと言って美味しいのか・・・・。
「これでいいと想っているんですか?」秀男は押し殺したように・・・。
「・・・・」留依は何も答えず
「自分でわかっていますよね?」
「しょうがないじゃないですか・・・・」
「しょうがない?しょうがないって・・・」
「しょうがないんですよ!言わせないでくださいよ!言わせないで・・・・」
留依の強気だった顔が崩れていき目に涙が浮かぶ。秀男は「たたら」再開にあたり焼き菓子である【カヌレ・マカロン】は封印した。そのことに留依は猛抗議をしたが秀男は頑として譲らなかった。ある種の感性が要求されるこの二品は今の留依では無理だと判断したのだ。とにかくある程度落ち着くまでは生ケーキで勝負する。秀男も接客の傍ら力仕事は一手に引き受ける。生クリームをかき混ぜ、小麦の袋や鉄板などの運びなどパティスリーの仕事は力仕事が多いのだ。そして毎日の単調作業は忍耐強さをもっていなければ務まらない!そしてパティシエとしての最も必要なのは芸術的センスと理論的な頭と云う二律背反する才能を持っていなければならないのだ。
拓が生きていた時の留依は、常に明るく拓を引っ張るが如きに・・・そんな留依が拓を失い「たたら」としてのパティシエールの魂を失ってしまったのはある意味当然なのだ。
「辞めますか「たたら」?辞めたいと云ったあなたを無理矢理やらしてしまったのだから・・・正直、あなたの疲弊していく姿は私もつらい、申し訳なかった」と秀男を頭を下げると静かに店を出て行った。留依は俯いたまま出て行く秀男を見ることもなく。
----------------葉山・秀男の別荘-----------------
「たたら」を再開して一年、何か歯車が嚙み合っていないながらもやってきた。それなりの評価も頂いてきたがそれでもやはり「カヌレ・マカロン」が商品として出せないことは「たたら」にとってのイメージにはマイナスなのだ。
>「しょうがないんですよ!言わせないでくださいよ!言わせないで・・・・」
多分、旦那が亡くなる以前のカヌレやマカロンを知らなければ店頭に並べたところで他のパティスリーの商品と同等ではあると想う、でもこの二品は「たたら」にとってはアイデンティティでありこれを妥協の産物であってはならない。
秀男はリビングから葉山の海、その先に江の島が見える、黄昏色のキャンバスに力感あふれる油彩画のようの景色は、沈む太陽が何かドラマチックな時間をくれるように・・・。
あの日の翌日の早朝いつものように店に行くと入口に一枚の張り紙が貼ってあった。
「しばらくの間休業いたします。申し訳ございません」とマジックでの走り書き・・・・。本来なら留依に問う話なのだがそれはできなかった。自宅に行って今後の事を話し合うべきなのだが今はとてもそんな気にはなれなかった。
それから一週間、店には行かず留依とも連絡はとっていない、菓子材料やフルーツなどの業者には留依が暫く休む旨の連絡は入れてあった。
その間、秀男は名店と評価されている都内の名店を回ってみた。確かに名店と云う名に相応しい商品ではあったが意外にも「カヌレ・マカロン」を扱っている店は少なく、扱っていたとしても他の生ケーキからすると見劣りがしたのだ。それと同時に「カヌレ・マカロン」は素朴な焼き菓子であるゆえに誤魔化しがきかない!そんな日々を過ごしながら夜明け前、別荘裏手の大峰山の軽い山歩き、力士時代は巨体を揺らしてトレールランニングもしたが流石に今は無理。それは毎日の日課になっていた。
そんなある日、いつもより二時間早く起きてしまい寝付けず山へ、こんな時間に大峰山に上がっているのは秀男しかいない。山頂から月明りに照らされる相模湾を望む、
「遠い地平線が消えて、深々とした夜の闇に心を休める時、遥か雲海の上を音もなく流れ去る気流は、たゆみない宇宙の営み(途中からは「限りない宇宙の営み」)を告げています。
満点の星を頂く果てしない光の海を、豊かに流れゆく風に心を開けば、煌く星座の物語も聞こえてくる、夜の静寂のなんと饒舌なことでしょうか。
光と影の境に消えていったはるかな地平線も瞼に浮かんでまいります。
これからのひと時、月曜から金曜の毎晩、(日本航空が)あなたにお送りする音楽の定期便「JET STREAM」。
放送作家 堀内茂男
今も続くFMの音楽番組『JET STREAM』 初代 城達也さん(1967年7月~1994年12月)のオープニングでの名セリフ。
力士を辞め、葉山の別荘に引きこもり見たいなことになってしまった。別に紗理奈や子供達との別れを望んでいるなんてさらさらないし、紗理奈は週一・子供達は月二回ほど来てくれるのだ。正直言うと角界から一切手を引いたことに若干後悔はしている。うまく立ち回り生きていけば、大相撲を変革できたかもしれない、それは紗理奈が女子大相撲界において孤軍奮闘しているように、秀男は逃げたのだ。その後ろめたさから逃げるためにここ葉山に来たのだ無意識に・・・。
秀男はナップサックから小型の双眼鏡で葉山の町並みを見る。明かりが点いている店は何軒かのパン屋ぐらい。
(えっ?)
秀男は慌てて双眼鏡をしまい一目散に山を駆け下りる!
(留依さん店に戻って来たんですか!)
「たたら」に明かりが灯っている。それは見た秀男はもう居ても立っても居られない。転げ落ちるように山を下りる。大きな地響きをたてながら・・・・。




