魂のカヌレ ③
秀男の運転するポルシェは新東名から第二東海自動車道・名古屋高速三号大高線へ高辻で下り鶴舞公園の近くにあるパティスリー「玉鋼」の向かいにあるコインパーキングに車を止め店内へ・・・。
店内では接客のスッタフ達が冷蔵ショーケースのなかに商品を陳列していく。奥の厨房ではパティシエ達がケーキ作りに没頭中。秀男は店内の片隅で従業員達の様子をにこやかな表情で見ている。店の前には十人ほどのお客が開店を待ちわびてる
秀男の今の立場は外部相談役と云ったところだろうか、神奈川県葉山に住み始めて馴染みのパティスリーを継ぐような形になったことがこの世界に入るきっかけに・・・。個人経営のこじんまりした店ではあったが評判の店で秀男は葉山に別荘に来た際には必ず寄っていたのだ。
「紗理奈の云っていることは正論でも相手の機微を感じ取れ、でもそれは自分にとっては大きな心の負担にはなるけども・・・相手のことを想うほどに・・・・それでもいまの女子大相撲を引っ張って行く気概があるのなら、でもそれはよっぽどの精神力と統率力がないと・・・それでもいまの女子大相撲を引っ張っていけるのは紗理奈しかいない間違えなく、もう少し自分の今の立ち位置を考えろ!おまえはもう単なる力士としての妙義山なんかじゃなく女子大相撲の命運を背負ってるんだよその自覚が足りないんだよ!おまえわ!」今迄で鷹の里が紗理奈に本気の怒りを見せたことはあの一回しかない・・・あの理事長に呼び出された後の深夜の出来事だった。
引退後は部屋を持つものだと想っていた妻紗理奈からしてみれば晴天の霹靂であったが・・・・。
角界を去り、秀男は葉山の別荘で過ごすことが多くなり半ば別居状態に、だからっと言って離婚なんってさらさら考えていなかったしそれは紗理奈も同じ。週に一泊二日、紗理奈が東京から来るという生活が今も続いている。他人から見れば「離婚でしょう別居状態って?」と想われてもしょうがない状況だろうが、それは今の二人にとっては最良の選択なのだ。
葉山での生活は殆ど隠居生活のようなもんで力士時代とは流れる時間も違う。仕事は個人トレーダーダーの真似事のような感じで・・・力士時代から株式投資はしていてそれなりの資金は持っていた。一億弱の資金をもとに年平均30%の利益は出しながらの生活が三年続いたのだ。そんな生活を続けている事に精神的満足のようなものは満たされてはいなかったが唯一の楽しみは朝の山歩きと夕方の砂浜歩き、そして週に一度訪れるパティスリー【たたら】でケーキを食すこと、秀男と同世代の旦那さんが奥様と営んでいるこぢんまりした店なのだ。
葉山には名店と云われる店は多いが【たたら】は開店して一年で地元民にも浸透していないのはしかたがないところではある。それでもSNSなどでもあげられ評判は上々、そのなかで若き店主が力を入れているのがカヌレとマカロン。フランス焼き菓子の中でも最難関と云われるこの二つはフランスでの店主修行時代においてそのおいしさに感動したと同時に作り手として辛酸を嘗めさせられた二品なのだ。
そんな【たたら】に週に一度訪れながらマカロンが売られていたのは知ってはいたがカヌレは知らなかったのだ。秀男の目に「今月の定休日のご案内」のカレンダーが目に留まり第三土曜日に【カヌレ】の文字が・・・。
「拓さんこの土曜日のカヌレって?」
「あぁ、秀男さん家のカヌレ召し上がったことありませんでしったけ?」
「土・日は家から出ないし・・・」
「カヌレ知ってますよね?」
「えぇ・・・でもうまいカヌレって食したことないしそのせいかもしれないけどちょっと・・・」
「そうですか・・・カヌレとマカロンは僕の魂を賭けた作品なんで是非とも食べて頂いて」
「魂・・・・」
カヌレの正式名称は、カヌレ・ド・ボルドー。名前のとおりフランスのボルドー地区で生まれた伝統的な焼き菓子である。当然にボルドーと云えばワインでありそれがどうカヌレと関係があるのか?
ワイン造りの最後の工程にワイン樽に卵2〜8個分の卵白を入れかき混ぜ三週間ほど放置するとワイン樽の中に溜まる澱と卵白が絡み最後はその澱が底に沈む上澄みの綺麗なワインが残るという手法があるそうです。卵などのアレルギー反応の予防のために2009年からは、このやり方を使った場合には、ワインのラベルに載せることが義務付けされるという法律ができたそうです。アレルギーの問題もありますし・・・。当然のごとく卵白を使えば卵黄が残る・・・それでカヌレと云う由来があるとか・・・。
そんなこともあって初めて土曜日に店に行くことになったのだが意外にも午前10時開店前に10人ほど並んでいたのにはびっくりしたのだ。店舗の脇にある専用駐車場には数台の品川ナンバーの車が・・・。先頭からカヌレの注文を妻である美奈がとっていく。
「秀男さんわざわざありがとうございます」
「拓さんに魂を賭けた作品なんて云われたら食わない訳にはいかないし」
「まぁ大袈裟に聞こえますけど・・・で何個します?」
「二個貰います。下の海岸で食いますからクロ・ルネ のフルボディを持ってきましたから」と小瓶を鞄から取り出す。
「わかりました。ワインでカヌレですか」と云うとメモに書き次の人に、列はいつの間にか秀男の後ろに10人ほど続いていた。
開店後、店内で紙袋入ったカヌレを奥さんから貰いながら奥の仕事場で黙々と作業している旦那に会釈をし店外へ出て県道を渡り海岸際のガードレールに腰かけワインを一口飲み袋からカヌレを一つ取り出す。外側にきっちり焼き色を付け異様に硬い!秀男は前歯で切り裂くように鼻に香ばしさがそして内側の触感はしっとり」けして「ねちょ」ではなくあくまでも柔らかくそれでいながらももちもち食感を残す絶妙さは想わずやられたと・・・・。薄力粉と強力粉の繊細な配合バランスが一つの要因だろうと推測した。そして奥様の気遣いは秀男が海岸で食べると云ったからなのか大きめの耐油紙で二重に包み込まれていた。秀男が「たたら」に通うのはケーキは勿論最高だがそれ以上の気遣いと二人の人柄なのだ。
紗理奈と別居状態になっているのは彼女が自分の事で大相撲を辞めさせてしまったという負い目があるから自分にもう好きなように生きてほしいと想っていることは痛いほどわかるでもそれは半分当たってはいるが半分は違う・・・。大相撲に行きたい気持ちを押してくれたのは紗理奈であり言ってくれなければ行くことはおそらくなかった。大関まで登りつめ横綱になれなかったのは結局は自分に心技体が備わっていなかったのだ。受け身的な自分と積極的な紗理奈それは良いバランス関係のはずなのに、どこかそんな紗理奈に嫉妬していたのだ。
秀男と紗理奈には二人の子供がいる、長男の鷹之、つい自分の四股名である鷹の里の一文字を入れたく鷹之にしてしっまた。小中高と相撲に邁進し角界からも誘いの話はあったがそれを断り大学へ相撲は学生で終止符を打つと入学直後に宣言し角界からは「親父があれだから」と皮肉めいたことも云われたようだが今は卒業し科学メーカーに就職し頑張っている。長女は二代目妙義山の愛莉。二人とも秀男が葉山の別荘で生活を始めた頃には高校・中学と多感な大事な時期でありながら子育てをある意味放棄して葉山にある種の移住をしてしまった。
そんななかでパティスリー「たたら」の店主である拓氏が交通事故で命を失ってしまった事は衝撃的出来事であると同時にに店を閉じるべきかどうかの事態になってしまったのだ。奥様であった留依にとって最愛であり尊敬するパティシエを失ったことは計り知れない。留依自身もパティシエであり拓にひけをとらないだけの腕はある。しかし・・・・。葬儀が終わり「たたら」をどうするのか?
「もう店は閉じようかとさすがに一人でやるのには・・・」
「だったら私にやらしてもらえませんか?」
「秀男さんが?」
「留依さんもやっていただけるのならですが?」
「やっていただけるのならって・・・」
「パティシエの人生終わらせますかもう?拓さんも裏切られたもんだな」
「だめですよ私を嗾けても・・・」
「お子さん達はどうするんです働かなければ生活はできないんですよ?」
「従業員としてなら働き口はそれなりにないわけじゃないので、拓さんのようには私はできないしクオリティーは保てないしそれはお客様を裏切ることになる。だから・・・」
「留依さんだってフランスで修行しそこで拓さんと出会った、拓さん言ってましたよ、単身女性でフランスでの修行は男以上に厳しかったはず、その中である意味戦ってきた留依には頭が上がらないって、マカロン焼かせたら僕も敵わないって、本当は接客などさせないでケーキ作りに没頭させてあげるべきなんですが、留依には申し訳ないって」
「・・・・・」
「少し休んで考えたらどうです?あなたに対する拓さんが与えた試練!とてつもない試練だけど・・・」
「秀男さん・・・」
「私も微力ながら手伝いますよ」
あれから「たたら」に係わり最初は接客から始まり経営的なものは秀男が請け負いいつの間にか従業員も増え店舗もそのことは成功ではあるのだがそれはもう好き勝手に理想の想いでだけでやれる店ではなくなっていたし個人経営レベルから一つの会社になってしまった事に、本来なら喜ぶべき事なのに・・・。
10店舗ほどになった店の店名は「玉鋼」にしたのは留依からの提案だった。「たたら」をここまで大きくしてくれたのは秀男の手腕であり留依では絶対できなっかったそれは拓でも同じ。パティシエ、そして「たたら」を閉じることなくこの地で今でもやっていられるのは秀男がいたからこそ二人の子供達も今はフランスでパティシエとして修行中、留依にとっては夢のような・・・・。
秀男にとっても、角界を引退し金には困っていなかったものの次なる生きがいなるものが見つからなかった。そんな時に出会った「たたら」との出会いと「カヌレ」との出会い・・・。
「たたら」と聞くと宮崎駿監督のアニメ『もののけ姫』をイメージする人も多い。アニメに登場するたたら場は砂鉄から鉄を取りだす作業を行う場所で、いわば昔の製鉄所。実は鎌倉にも存在していたことは意外と知られていない。鎌倉にある稲村ヶ崎海岸は黒い砂浜であるが黒い砂浜は砂鉄がたくさん採れることで有名なのだ。
「秀男さん「たたら製鉄」知ってます?」と拓
「あぁ、もののけ姫に出てくる製鉄方法ですよね」と秀男
「もののけ姫って・・・まぁそうなんですけど」
「すいません・・・」
「ここに店を持つ前に留依と鎌倉とかその周囲はデートでよく来ていて、その時よくこの辺の海岸も歩いていてその時に落ちていた石見たいのをふと拾ったら大きさの割には重くてよく見たら鉄だったんですけどその中に砂のようなものが混じっていて取り込まれているんですよ、最初は気にもしなかったんですが色々調べたら鎌倉に「たたら場」があったってことを知って、多分その精錬した残骸見たいのが海に流れて葉山まで来たのかと・・・・その時、店名が閃いたですよ!それで「たたら」にしたんです」
現在、葉山の店以外は「玉鋼」を店名としているのはたたら製鉄からできた玉鋼と云う日本刀の製作には欠かせない最上質の鉄をイメージとしての店名なのだ。ただ葉山の店だけは「たたら」を残したのは「玉鋼」の原点であり「たたら」と出会なければ秀男はこの業界に来ることはなかったから・・・。
葉山の「たたら」は「玉鋼」の研修施設という意味で新人のパティシエは一年ほど研修してその後、各店舗に派遣される。即戦力を求める時代に無駄なようなことだがそれは秀男のパティスリーとのしてのポリシーからなのだ。
「月に一回か二回ちょっと高いが本当に美味しものを食べることの楽しみ。それに等しいケーキを作る、リーズナブルなものは作りたくない儲からないかもしれないけどパティシエが妥協するものは作りたくないんです。「玉鋼」のケーキを理解して納得していただけるお客様だけに食べて頂きたい、ただそれはパティシエにとっては多大なプレシャーがかかりますが、常に真剣勝負!拓さんが常に真剣勝負であったように・・・」
「秀男さん・・・」
「いつも言っていますが葉山の店は収益は考えなくていいです。ただ若いパティシエが配属先でそれなりに仕事ができる基本的な事を徹底的に叩き込んで下さい。その先の事は自分で考えさせてくださいあなたからしたら歯がゆいでしょうが・・・」
「わかりました。でも本当はヨーロッパの大会で入賞された秀男さんがやるべきだと?」
「大会と実戦は違いますよ、そこは各店舗で働いているパティシエ達と比較の対象にもならない!だから口出しはしないと・・・・」
秀男は最初は「たたら」の応援程度で考えていたが拓の死で想像だにしない方向に、経営だけのつもりが飽き足らず洋菓子の専門学校それでも納得せずフランスでの修行、日本に帰り自分の店をやりながらコンクールでの入賞までやり遂げてしまった。そんな非凡なる才能だが結局は経営の方に落ち着き今は相談役のような立ち位置に落ち着いたのだ。
「「玉鋼」の生みの親は「たたら」であり留依さんであり拓さんだあり・・・私に生きていく靄を晴らしてくれたのは「たたら」だから」
「私こそ・・・・・」
葉山での生活において拓さん亡き留依さんとの関係を真剣に考えたこともあったがそうはならなかったのは彼女が大人だったから・・・。




