泡になれない人魚姫は、男装して彼を追いかける
人魚はでてきませんが、人魚姫をモデルに書いています。
革手袋から、白い紙が落とされた。
金の装飾が端にされた上質な紙は、まっすぐ盃に落ちた。ひらりと、風に舞うこともなく。底が丸い銀盃に落ちて、紙がとん、と小さな音を立てた。
エネはこぼれんばかりに目を開き、紙を見つめる。
紙には婚約の文字と、エネの名前。そして、紙を落とした人物──婚約者のアドルフの名前が書いてあった。
すぐに紙を掴まなくては、燃やされてしまう。
頭では分かっているのに、エネの体は小刻みに震えるばかりだ。なぜ、彼がこんなことをしているのか分からず、床に縫いつけられたみたいに、足が動かなかった。
彼は盃の横にあった燭台を手にした。一本の蝋燭がこうこうと燃えている。奇妙なほど、はっきりとそれが目に映った。
まるで、エネとの思い出を消すように、彼は紙に火をつけた。
婚約の文字が焼かれていく。橙色の炎に食べられて、紙は黒くなり、火の粉をあげた。
彼との繋がりが、消えてゆく。
この部屋で、ふたりで婚約聖書を書いたことも。彼が約束してくれた未来も。はじめて口づけをしたことも。
何もかもが、灰になってしまう。
「嫌……いやっ……」
エネは蒼白になって、炎の中に手を入れようとした。火で指を焦がす前に、彼がエネの手を掴んだ。骨を折りそうなほど、乱暴に握られた。
かっと、エネの頭に血が昇る。
身をよじり、もう片方の手を火に向かって伸ばす。でも、その手も掴まれてしまった。
離して、と言いたかったのに喉が詰まり、声は出てこなかった。
彼の右目が冷ややかに、エネを見下ろす。
その瞳が優しく細くなるのが、好きだったのに、今は見るのが辛い。
左目に視線をむければ、額から頬にかけて、生々しい傷跡と閉じられた瞳がある。彼は隻眼だった。
顔の傷は、彼が狂戦士といわれるまで戦い抜いた証。誇らしいものだ。傷を見るたびに、彼に近づきたい気持ちが大きくなり、エネも剣技を磨いてきた。
途方もなく、彼が好きだった。
一生に一度の恋だと思い、彼に溺れていた。
やるせなさが胸を焦がし、エネの金色の瞳は涙に濡れた。嗚咽をもらしても、彼は眉一つ動かさない。代わりに、事実だけが告げられた。
「これで君との婚約は破棄された」
彼が言い終えたとき、紙は炎に包まれ、二人の名前は消えていた。
エネは打ちのめされ、はくはくと口を動かす。まるで、陸に打ち上げられた魚みたいだ。吸っても、吸っても、酸素が足りない。
「どう、して……」
「海賊討伐に行くからだ。最初に話しただろ」
それでは答えにならない。
「どうして、婚約破棄なんか……!」
悲痛な声でいうと、彼はエネの手を離した。すっかり燃えて灰になってしまった盃をとり、彼は懐から袋を取り出す。
袋には、エネと彼の名前の刺繍があった。迷いのない手つきで、彼は灰を袋に入れた。
「教会へは俺が行く」
婚約証書が燃やされた灰を、ふたりのネーム入りの袋にいれて、教会に渡せば、正式に婚約が破棄される。エネと彼は赤の他人になってしまう。
彼はこれ以上、話すことはないと言いたげに、背を向けて歩きだした。
エネは彼の背中に、とっさにしがみつく。
「理由を……理由を教えてください……」
突然、家にやってきた彼は、エネが籍をおいていた海軍の除籍と、婚約破棄を突きつけた。
一方的に、エネの恋を終わりにする。こんなの納得できない。
海賊討伐に行くなら、一緒に付いていきたかったし、それが叶わないのなら、せめて彼の帰還を待ちたかった。なのに、彼はどちらも許してくれない。
悔しい。憤りが腹からわきあがり、叫びとなって、喉からでた。
「私が人魚姫になっても、悲哀にしないと言ってくれたじゃないですか!」
人魚姫みたいな運命の恋をしているの、と話したとき、彼は悲恋にしないと誓ってくれた。
──エネが人魚姫でも、泡にはさせない。王子さまと結婚するんだ。人魚姫は幸せになれる。
誠実に言われて、一生、この人に付いていこうと決めた。なのに……
約束を思い出してほしい。願いを込めた叫びは、冷笑で返された。
「君は人間だ。人魚ではないだろ」
その言葉に、エネの思いは粉々に砕けた。氷の剣で胸を貫かれたような衝撃と痛みが走る。
力が抜けて、彼の服を掴んでいた腕がだらりと下がった。
彼は無言で、歩きだす。靴音がやけに大きく感じた。扉が開く音も、これほど大きかっただろうか。
「アド……」
名前を呼ぶ前に、扉がしめられた。
バタン──と、音が鳴った瞬間、エネは呆然とたちつくした。
足がふらりと、彼の影を追うように動く。
右足を動かして、次は左足。震えて、何度も転びそうになりながら、エネは家の外に出た。
扉を開いた先は、何もなかった。
穏やかな陽光が差し込み、のどかな空気がただよっている。彼の気配はない。馬で駆けていった後なのだろう。
エネは瞠目したまま、膝から崩れた。
全て夢だったかのように、小鳥が軽やかに囀ずっていた。
その日は、どうやって過ごしたのか覚えていない。
二日後、新聞を見たエネは、紙面に涙を落とした。
婚約破棄の記事に彼の名前があった。彼の名前しかないのは、エネが爵位持ちではないからだ。彼はナイト伯を持っていた。
世間的にも、赤の他人とみなされた。
捨てられた、という現実を見ていられず、エネは背中を丸めて新聞に顔をうめた。
──泡になって、消えてしまいたい。
「ふ、あ…ぁぁ……」
喉を開いて泣きわめく。
「あああぁああ! うああああっ!」
エネは叫び続けた。
このまま喉がつぶれてしまえばいい。
彼の名前を呼べないのなら、声なんていらない。
いらないから、魔法をかけて。
泡になる魔法で、今すぐ自分を消して。
泡になれないのなら、誰か。
どうか誰か。
恋の忘れかたを教えてください。
泣いて泣いて、それでも彼を諦めなきれなかったエネは、海軍の仲間、コンラドを尋ねた。みっともなく泣きながら事情を離すと、彼は狼狽しながらも慰めてくれた。
「あいつから理由を聞くから。な? な? だから、そんなに泣くな」
エネは感謝も伝えられずに、何度も首を縦にふった。
彼の家から帰る道、エネはふらりと酒場に立ち寄った。
カウンターに座り、木目をじっと見る。注文を聞かれて、口から出たのは、彼が好きな酒の名前だった。
自嘲の笑みを口元に浮かべながら、カウンター越しに、差し出された金色の発泡酒を受けとる。
グラスに盛り上がった白い泡を見つめ、飲めば自分も泡になれるのかなと、愚かな考えが頭をよぎった。
「──おまえは行くのか? ほら、国軍が指揮してる海賊狩り」
不意に背後で男の声がして、エネは後ろを振り返った。藁にもすがる思いで、男たちに話を聞く。
「大暴れしてる海賊を狩るから、傭兵を募っているって話だ」
──傭兵。金をだせば、何でもする者たちのことだ。
エネは男に短く礼をいい、発泡酒分の代金を彼に手渡す。
カウンターに戻ると、発砲酒を一気に飲み干す。冷たく刺すような炭酸が、喉をすべった。
飲んでも泡にはなれなかった。ならば。
「恋を諦めなくても、いいですよね……」
居ない彼に呟き、支払いをすませて店をでた。
──じゃきり。
エネは鏡台の前で、髪を切った。腰まであった長い栗色の髪を、無造作に短くする。
──エネの髪はきれいだな。長いのが俺は好きだ。
彼が好きな自分を失くしていく。髪ごと思い出が床に散らばっていくようだ。
さらしを巻く。ふくらんだ双山を押し潰すように、きつく締め付け、男の服装を着た。
今日、エネは死んだ。
これからは、男として彼のそばに。
王子さまを殺せなかった人魚姫と同じように、エネも彼を剣で刺せない。剣は鞘におさめて、顔をあげる。窓の外は晴れやかな青空だった。
亡き両親がいる天にむかって、エネは呟いた。
「女を捨ててごめんなさい。でも、許してね……」
泣き笑いで両親に語りかけ、エネは窓から視線をはずした。
*
エネから話を聞いたコンラドは、大股で歩いていた。
目指すのは自分の上官であり、幼なじみでもあるアドルフがいる部屋だ。血が昇った頭でアドフルの屋敷を歩き、ノックもせずに乱暴に部屋の扉を開く。
「アドルフ! おまえ、何考えてるんだ!」
窓枠に腰をかけて、発砲酒を飲んでいたアドルフは驚くでもなく、静かにコンラドを見た。
顔には無精髭が生えて、頬もやつれている。目の下の隈もひどい。精悍さがなくなった様子に、コンラドは舌打ちして、彼に詰め寄った。
「エネと婚約破棄したんだってな。なんでだ?」
アドルフは持っていたグラスを口につけて、酒を煽った。
何も言わない彼に嫌気がさして、コンラドはグラスを奪い取る。グラスから黄金色の酒がこぼれ、空を舞い、床を汚した。
コンラドはグラスをテーブルを置くと、彼の胸ぐらを掴んだ。
「愛してるんじゃなかったのかよ? お前の左胸に刻んだ誓いはどうした」
アドルフの目の色が変わる。光のなかった漆黒の瞳は、焔のように燃えていた。
彼はコンラドの手を叩き落とすように、振り払った。
彼女の為に、古いしきたりに従って焼いた左胸が熱くて痛い。苦痛に顔をゆがめて、アドルフは思いを吐く。
「エネを死なせないためだ」
コンラドはぐっと喉を鳴らした。
アドルフは肩を震わせながら、目元を手で覆う。これ以上、感情が外にでないように、口元は固く引き結んだ。
彼が何を決意したのか察して、コンラドは怒りを沈めた。
「ガマード伯のせいか……」
アドルフは頷かず、奥歯を噛みしめた。思い出すだけで、虫酸が走る相手だ。
コンラドは天を仰ぎ、場に沈黙が落ちた。
アドルフが率いる騎兵隊は、王国において無敗を誇っていた。
彼が前衛で蛮族を凪払う姿は、神話に語られる狂戦士や、英雄とまで言われるほどだ。平民出の彼が一代限りの名誉、ナイト伯を持てたのも、功績のためだった。
状況が変わったのは、三ヶ月前。海賊サッチが修道院を襲ったとき。サッチは極悪非道の男だった。
「根こそぎ奪え! 抵抗する奴は、血祭りにしろ! 髑髏を槍に刺して、掲げるんだ! ガハハハハ!」
我が物顔で海と陸を蹂躙しだした海賊に、王は腰を抜かした。
急ごしらえで、王国海軍が設立されたが、そのせいで貴族が台頭した。今まで船の軍事は貴族が仕切っていたからだ。
ガマード伯爵はその筆頭で、前々から庶民出のアドルフを毛嫌いしていた。騎兵隊を海軍の指揮下におき、エネを囮にする作戦を立てた。
「女だてらに、なかなかの剣の腕前なのだろう? 商船に紛れ込ませてやれば、サッチの首も取れるんじゃないか? 海の乞食たちは、女が好きだからなあ」
アドルフの最も大事なものを傷つけてやろう、という意図が透けてみえる作戦だ。アドルフが猛抗議して作戦はながれたが、伯爵は嫌らしくも、エネに近づいた。
たまたま二人が会話をしている所に気づいて、割り込んで、事なきを得た。囮作戦は彼女に知られずにすんだが、アドルフは肝を冷やした。
作戦を知ったら、彼女は進んでやりそうな気がしたからだ。
そんな無茶をさせたくないし、自分が憎いなら、自分を狙えばいい。
アドルフは独断でエネで除隊させ、彼女と婚約破棄した。彼女を醜悪なものから、守りたかった。
伯爵はこれみよがしに、アドルフに海賊討伐を命じた。
「君は英雄なんだろう? なら、サッチを捕らるのは簡単だろねえ。あぁ、私の部下は優秀なので、使わないでおくれよ。傭兵でも集めて、せいぜい頑張っておくれ」
せせら笑う伯爵の顔が忘れられない。思い返すだけで、腸が煮えくり返る。
事情を聞いた、コンラドもまた彼と同じ気持ちだ。私欲しかない者の下にいる今が、口惜しい。
「婚約破棄するのが一番なんだ……エネを守れる……」
アドルフの瞼の裏には、彼女の思い出が映っていた。凛とした横顔も、はにかんだ姿も、触れた唇のやわらかさも。すべてがアドルフの胸をしめつける愛しいものだ。
その笑顔を、泣き顔に変えてしまった。
婚約破棄に傷ついた顔は見ていられなかった。隙間なく抱き寄せてしまいたくて、何度、拳を握ったことか。
それでも。それでもだ。
アドルフは振り返れなかった。
コンラドはエネが来たとはいえず、打ちひしがれる友人を見て「飲むか」と酒に誘った。
──エネにどう説明するかな……
嘆息していたずらに時を過ごしていると、コンラドの元に客人がやってきた。家にいた彼は、扉越しに聞いた訪問客の名前に眉根をよせる。
──ジル・ニールセン? エネの母方の苗字だな……誰だ?
扉についた覗き穴から相手の姿をみて、ひゅっと息をのんだ。鍵をはずして、焦りながら扉を開く。
「……エネ……?」
髪型が違うが、顔形はエネだ。だが、太陽のように輝いていた彼女の金色の瞳は、燃え落ちて沈んでいた。
「……その髪、どうしたんだ……」
ひどく動揺しながら尋ねると、相手は淡々と家の中で話したいと言ってきた。コンラドは動揺しながらも頷き、相手を家に入れた。
家に入ると、相手はコンラドを見て、涼やかに言った。
「僕はジル・ニールセンです」
「……何を言っているんだよ……」
「コンラド・ラーセン中尉にお願いがあります。僕を傭兵として雇ってくれませんか? 仕事がしたいんです。たしか、中尉は傭兵を集めていましたよね? 酒場で聞きました」
「それはしてるけど……いや、それよりも、エネ……」
コンラドは最悪の結果を想像しながら、生唾をのむ。
「……アドルフと婚約破棄したから、傭兵として、同行する気か……?」
わずかに肩を揺らしたのち、彼女はつとめて冷静に言った。
「アドルフって、誰ですか? あぁ、噂の狂戦士でしたっけ?」
それを聞いて、コンラドは目眩がしてきた。顔を手でおおって、天を仰ぐ。
エネであることは、間違いない。幸せになれと、願った女だ。見間違えようがない。
──そこまでして、一緒にいたいのかよ……
過去にしたはずの想いがしくしく痛む。コンラドは軽く頭をふって、胸の内から感傷を追いだした。
「人員確保は、俺の判断に任されているけど、おまえは雇わない。帰った、帰った」
犬でも追い払うように手をふって、背をむける。心の中で詫びをいれていると、彼女が蚊のなくような声で呼びかけてきた。
「コンラド……」
エネじゃないと言ったのに、その声は卑怯だろう。
振り返ったらいけないと思うのに、泣き声まじりの声にほだされた。ちらりと横目で見ると、彼女は泣き笑いを浮かべていた。
「理由……教えてくれないんでしょ?」
コンラドは眉根に深い皺を刻み、彼女から目をそらした。
「お願い……私を連れていって。あの人のそばにいたいの」
コンラドは荒々しく前髪を指でつかみ、考え込んだ後、ため息をついた。
「変装をしても、あいつは君の嘘を見抜く……」
自分と同じように、の言葉は飲み込んだ。彼女は悔しそうに下唇を噛むと、ふっと表情を変えた。沈む太陽のように、彼女の金色の目が濃くなる。
「顔が分からなければ、いいのね……」
彼女は帯刀していた短刀を抜くと、自分の頬を傷つけた。
「エネ!?」
白い肌に血の線が引かれて、コンラドは咄嗟に彼女の手首を掴んだ。
「なにして!……バカ!」
彼女の手を掴んだまま、包帯がある引き出しを開ける。中身をひっくりかえしながら、包帯をみつけ、すぐ止血した。思ったより傷が深い。
「医者行くぞ!」
彼女を横に抱いて、近くの診療所まで走った。
腕の中で、彼女は小さく震えていた。
「ごめんなさい……バカで、ごめんなさい……」
「もうわかった。……わかったから。治療が先だ」
頼むから幸せになってくれよ。
口にはできない言葉を飲んで、コンラドは治療院へ走った。
*
海賊討伐の人員がそろったとコンラドから聞いたアドルフは作戦を指示するために、全員を集めた。
集まったのはアドルフを慕う兵士数名と、民間人の船長。あとは傭兵。一人一人の名前を確認していると、エネの姿を見つけた。アドルフは目を見張った。
動揺して息苦しくなり、頭が真っ白になる。
なぜ彼女がいる? 髪はどうした?
頬の傷は……どうした!
コンラドの肩を掴んで、問い詰めるような視線を向ける。彼は憮然としたまま口を開く。
「彼はジル・ニールセン……聞いてなかった?」
「コンラドっ!」
エネだろ、と大声では言えず、奥歯を砕けるくらい噛みしめた。コンラドは鼻をならし、しれっと彼女に顔だけをむけた。
「大尉」
ハスキーな声で呼ばれて、アドルフの肩が跳ねる。彼女は迷いのない足取りで自分に近づき、挑むような目で見上げた。
「僕のことがお気に召さないようですね。実力を見ますか?」
「なに、を」
予想外の提案に、アドルフの心臓がどくどくと脈打ちだす。彼女は挑発的に薄く笑った。
「狂戦士のお手並み、拝見したいです。宜しくお願いします」
「馬鹿な……」
「いいんじゃない」
彼女を後押ししたのは、コンラドだった。信じられなくて、アドルフは瞠目したまま、声をなくす。コンラドは首をゆらして、淡々と言った。
「実力がある者は評価するし、される。おまえの口ぐせだろ?」
今、それを言うのか!
かっと脳天が燃えるように熱くなり、アドルフは顔をしかめた。
エネは筋力で男にかなわないと、愚痴をこぼして、うなだれていたことがあった。
彼女の剣筋はそこら辺の男よりは遥かに勝っているし、努力していることもアドルフはしっている。
──男だろうと、女だろうと関係ない。実力があれば評価するし、される。気にするな。
エネは胸を膨らませて、はにかんだ。可愛いらしい笑顔だった。
男装する彼女の前で、同じ事を言われるとは。
これは、悪夢か?
アドルフの苦悩を気づいていないのか、彼女は剣を抜いた。
「大尉。早くやりましょう。時間が惜しいです」
打ち負かせば彼女は船に乗らないのか。アドルフは動揺しながら、帯刀していた剣を抜いた。
場に緊張感が走る。
どちらが仕掛けるか。固唾を飲んで周りが見守るなか、動いたのは彼女だった。
踏み出した一歩目から、二歩目にくるのが早い。瞬きしていたら、見逃しそうな速さだ。
この速さこそ、彼女の最大の武器。音もなく相手に近づき、その首をとる。
剣は正確に、アドルフに向かってきた。
──キンキンッ
剣を交じえるごとに、彼女の太刀筋は熱を帯びていった。本気なんだ。本気で、彼女はアドルフを屈服させようとしている。
殺気のこもった金色の瞳は、揺るぎない意思の顕れだろう。時間が経つと、焦燥感は遠くなって、彼女しか見えなくなる。
ぞくぞくと、首裏が震えた。
離れたくない、愛している、と言われているみたいだ。心が仄暗い喜びに包まれていると。
疾風のような一太刀が、アドルフの剣を弾いた。
アドルフの敗けだ。
彼が落とした剣を蹴って、彼女は剣の切っ先をアドルフの鼻先につけた。
「あなたの実力は、この程度ですか。大したことないですね」
しらけたように首をかたむけ、剣を鞘におさめる。
「相手は悪名高い海賊なのですから、もっと、しっかりしてください」
ふんと鼻を鳴らして、彼女は背をむけた。
アドルフは呆然と彼女を見送った。冷たい態度は、勘違いするなと突きつけられているようだった。悪い夢は続いているようだ。
剣の実力を認めて、彼女も一緒に行くことになったものの、彼女はアドルフの前で、一切の情を見せなかった。冷徹を貫く態度に、アドルフは混乱するばかりだ。
極めつけは、たまりかねて「エネ」と呼びかけてしまった時の返事である。
「エネって、誰ですか?」
柳眉をつり上げて言われてしまい、アドルフは氷水でも浴びたように愕然とした。
──エネではないのか……?
疑う心がでるほどに、彼女はアドルフが知る彼女ではなかった。
婚約破棄したことを絶対、許さないといわれているみたいだ。アドルフは心臓の辺りの服を掴み、自嘲の笑みをもらした。
「当たり前、か……」
それからは、彼女を詮索しなくなった。焦がれる視線を彼女に送っても、想いは胸に閉じ込めた。
海賊狩りの作戦が練られる。その時、船長がとある提案をしてきた。
「海賊ってのは、酒好きだ。無人船に酒樽をたんまり乗せとけば、勝手に奪っていくだろうな。酔っぱらせちまえば、有利なんじゃないか?」
彼は商船を動かしていて、何度か、海賊を目にしている。経験からの立案だった。
「警戒されないか?」とアドルフが尋ねると、船長は肩をすくめる。
「毒でも仕込んでなきゃ、持っていくだろ」
「毒か?」
「乗組員の一人に毒味をさせるんだと。海賊サッチは地も涙もない極悪だからな。乗組員がぽっくりいっても構いやしないのさ」
船長の話は、急ごしらえの海軍にはない情報だった。海賊に関しては、情報が錯綜して、噂までの真偽までとれていない。軍より、船乗りたちの方が、よっぽど海賊を知っていた。
アドルフは思案に暮れ、作戦を決めた。
「海賊が酔ったところを奇襲しよう。コンラドは船底を狙って穴を開けてくれ。奇襲部隊には俺が行く」
「なら、僕も行きます」
声をだしたのは彼女だ。
「ダメだ。ひとりで乗り込む。君は──」
「僕、あなたに勝ちました」
「あれはっ……」
「勝ちましたよね?」
アドルフが苦虫を噛み潰したような顔をする。
コンラドが咳払いして、二人の間に割ってはいった。
「一人では戦力が足りない。あの武器を使ってもな。彼を連れていけよ」
アドルフは口を引き結んだが、結局、彼女は奇襲部隊になってしまった。
作戦当日。アドルフたちに天は味方した。
海賊は嬉々と、無人船から酒樽を持ち帰ったのだ。
船上では、飲めや歌えやの大騒ぎだ。殴りあいまで始まって、無法者たちは大口を開けて笑い、酒に酔い、眠った。
コンラドと船長、数名の者が小船で海賊船に近づいた。いびきが聞こえる船の底に向かって、火砲を放った。
轟音を響かせながら、無防備な木製の船に穴が開く。コンラドはすぐさま第二砲を撃ち込んだ。
「放て──!」
木片をまき散らしながら、船の底にできた穴が広がる。海水がはいりこみ、船は傾いた。
「なんだあ!?」と、泥酔した海賊たちは慌てふためいたが、酒が抜けきれず動きは鈍い。混乱している隙に、アドルフと彼女は船に潜り込んだ。
海賊サッチはぐびぐびと酒を飲んだあと、充血した目でニヤリと笑った。
「やるじゃねえか。久しぶりに楽しめそうだあ。野郎共! 鼠狩りだ! 船に張り付く鼠を一掃しろ!」
船から紐をたらして、海賊たちがコンラドの船を襲う。コンラドは剣を抜いた。
「こいよ! てめえらのせいで、泣いた女たちの分まで、叩き切ってやる!」
足場の悪い小船の上で、コンラドたちは海賊を切り捨てた。
船の下の戦闘を見ていたサッチの元に、乗組員が転がるように走ってくる。
「せ、せせせせんちょう! やばいですよ! イカれた奴がきました! あいつは人間じゃないっす!」
「あぁん?」
サッチが前を向くと、突風が吹き込んできた。マストの帆がゆれる。風を起こした男を見て、サッチは度肝をぬかれた。
獣の頭蓋骨のような兜。熊の毛皮をマントのように背にして、男は巨大な斧をふりまわしていた。海賊を凪払い、マストまでへし折ろうとしている。
その姿、その破壊力は、神話で語られる狂戦士そのものだ。かつて彼らは船に乗り、傷つけられても立ち上がる力をもって、大陸に国を作った。
船を壊しながら、斧を振るう戦士の背後に誰かがいる。
小柄な体で飛び交う様子は、妖精のように見えた。可憐な剣さばきで、次々と海賊共を追い詰め、甲板にひれ伏させていた。
二人の連携は見事なものだった。
狂戦士の破壊力、妖精のスピード。
たった二人だというのに、誰も手出しができない。
船が浸水してかたむいたこともあり、甲板から転げ落ちる者もいた。
狂戦士アドルフもまた、彼女との共闘に心が踊っていた。
──こんなに、戦いやすいなんてな……
彼女に助けられていた。
アドルフの斧は大きすぎるゆえに、一撃を出すまに時間がかかる。わずかな瞬間、背中が無防備になる。
狭く人が密集した船上では、命取りになる隙だ。
馬に乗っていたときには分からなかった感覚だった。
彼女が背後を守ってくれている。
だから、アドルフは斧を力強くふれた。
──君の実力を信じられなくて、ごめん……
海賊を捕縛したら、謝ろう。そして、許されるなら、もう一度──
「はああああ!」
アドルフは決意を込めて、サッチに向かった。嵐に巻き込まれたように、船はぐらつき、足場は安定しない。だけど、アドルフの足は、力づよく進む。
サッチは歯茎をむきだしにして、高笑いをした。
「面白いッ! 狂戦士よ! 受け立つぞ!」
サッチは黒いマントを翻し、腰につけていたベルトから手榴弾を出す。爆弾魔サッチ、手製の武器だ。
「せ、せんちょう! そんなもの投げたら、船がああ!」
「邪魔をするなあ!」
乗組員の頭を掴み、甲板に叩きつける。彼の目は正気を失い、ギラギラと鋭利な刃物のように輝いていた。舌なめずりして、狂戦士を見据える。
「こんなに血が沸くのは久しぶりだッ! 木っ端微塵にしてやるわあ!」
手榴弾を投げつけるサッチ。
アドルフは寸でのところでかわしたが、爆弾は甲板に大穴を開けた。
木が燃えて、船が業火に包まれていく。アドルフは彼女に駆け寄り、とっさに腰を掴んだ。
──え……?
ジル、いやエネは瞳を瞬かせて、彼を見上げた。アドルフは右目を細くして、愛しげにエネを見る。エネを安心させる優しい笑顔だ。
「あいつは俺がやる。逃げろ」
彼の名前を呼ぶ前に、船のそとに放り投げられた。
手を広げて、腕を伸ばして、彼の体を掴もうとする。指先は空を切って、何も掴めなかった。
「アドルフ!」
焔を纏いながらも、サッチを切る彼の姿が見えた。
彼の姿が遠く、小さくなる。
背中に激しい痛みを感じた。視界がゆらぐ。海に落ちたと気づいたとき、船から爆発音がした。
視界が青空の色から、炎の赤に染まる。
海賊船が沈没する。
彼を閉じ込めて、墓場のように、海の底に落ちていく。
──アドルフ! 嫌っ!!
ごぼっと、エネの口から空気がもれた。声にならない叫びが泡になって昇っていった。
こんな結末は嫌だ。なんのために男になって、紛れ込んだのだろう。愛しい気持ちを殺して、彼のそばにいたというのだろう。
嵐の海に投げ出された王子さまを探す人魚姫のように、エネは彼を探した。
尾ひれはないけど、彼と一緒に鍛えた足は、魚のように動いた。海の住人のように、水中を泳いでいく。
沈む木片をかきわけて、エネは愛しい人を探す。
諦めない。彼はきっと、生きている。
だって、彼はとても強い人。
非力な王子さまじゃない。
彼は、彼は、彼は──
ごぼっと、エネは空気を口からはいた。息苦しくなり、海面に顔をだした。
海水が口に入って、喉がひりつく。涙目になりながら、再び潜ろうと海面をみたとき。
小さな泡が昇ってくるのが見えた。
泡を追いかけるように、大きく広がる影。
あれは──
「──アドルフ!」
エネは空気を肺いっぱいためて、再び海にもぐる。
泡に導かれて、足と手を動かす。
進むたびに彼の輪郭がはっきりして、エネの顔がくしゃりと歪んだ。
やっぱり彼は強い人だ。
海に投げ出されても、怪我をしても、自力で泳いで帰ってこれる人。
片腕だけで泳ぐ彼を見て、エネは泣きながら笑った。
彼の目が見開き、口が開く。口のかたちが〝エネ!〟だ。だから、エネもジルだった仮面をとって、彼の胸に飛び込んだ。
二人は強く抱きしめ合いながら、海面に出る。
ごほっとむせて海水をはいたが、エネはすぐに彼に声をかけた。
「アドルフ、怪我はだいじょうっ──」
大きな手がエネの後頭部に回され、引き寄せられる。優しくない、噛みつくようなキスをされた。
彼は怪我をしているのに、早く治療しなくてはいけないのに、離れがたくて、エネは目を伏せた。
──しょっぱいよ、アドルフ。
伏せた瞳から涙を流して、エネは多幸感に包まれた。
*
海賊たちの残党は多くが捕縛された。コンラドたちも怪我をしたが、全員、無事だ。
大怪我をしたアドルフだったが、また剣を握れるだろうと医師から言われた。
海賊討伐の後、事態は好転した。船長が民間の新聞社にリークして、大々的にアドルフたちの功績は広まった。「報償金の礼だ」と船長は笑った。海の男は、荒くれ者で義理がたいのだ。
ますますアドルフは英雄扱いされ、流されやすい国王は、異例にも彼に伯爵の地位を授けた。
一方、ガマード伯は自分が作戦を立てたと捲し立てたが、彼の部下が一人もいなかったことから、むしろ無能扱いされている。しかも、水虫にかかってブーツが履けないとかで海軍にきていない。
王国海軍はアドルフが筆頭で指揮することになった。
エネも海軍に復帰することが決まった。
彼女の家に行く前、コンラドはアドルフに向かって、左胸にストレートパンチをした。
「今度は離すなよ」
怪我が治っていないアドルフは左胸を手でおさえて、顔をしかめたが、頷いた。
「痛かったか?」
「あぁ」
「くっ、ざまあみろ」
コンラドは快活に笑い、アドルフも口の端をあげた。
全ての事情を話してアドルフは、エネに深く詫びた。彼女の頬についた傷を手でふれて、苦しげに眉根をよせた。
「傷までつけさせて、すまなかった……」
「傷のことはいいです。お揃いですね」
エネは快活に言ったが、指を一本立てて、胸を張った。
「婚約破棄したことは許しません。だから、今度はちゃんと話をしましょう。一人で決めないでくださいね」
エネは頬に添えられた手に自分の手を重ねた。
「あなたが振り払っても追いかけます。しつこいですから、諦めて一緒にいてくださいね」
アドルフは泣きそうな、でも幸せなそうな顔をして、彼女を腕のなかに閉じ込めた。
泡になれなかった人魚姫は、今も船の上にいる。
隣には隻眼の王子様がいて、二人は結婚していた。
白い帆を張り、船が進む。
地平線の見える青い海は、ふたりを祝福するように煌めいていた。