二十四の太刀 異世界で生きる本当の意味
「ねえ、あれってどう見てもゴブリンやオークじゃないよね?」
伊織は瞬きをすることも忘れ、抑揚のない声でルリと赤猫に向かって尋ねた。
けれども、ルリと赤猫の二人は無言で案山子のように立ち尽くしている。
もちろん、伊織にも異様な姿の巨猿がゴブリンやオークの類でないことは十二分に分かっていた。
それでも思わず二人に尋ねてしまったのは、見当違いなことを訊いてしまうぐらい今の伊織の心境がおかしくなっていたからだ。
そして伊織は尻もちをついた状態で固まり、まったくその場から動けなかった。
ルリや赤猫だけでなく、他の冒険者たちも同じような心境だったのだろう。
誰一人として悲鳴を上げず、ただ呆然とギガントエイプを見つめている。
まるで目の前に迫り来る、絶望という名の大津波を眺めるかのように。
「うう……うわああああああああ――――ッ!」
どれほどの時間が経ったときだろうか。
突如、一人の冒険者が喉を壊しかねないほどの声量で叫んだ。
それだけではなく、その冒険者はあろうことか剣を構えた状態でギガントエイプに突進したのだ。
「馬鹿! 自暴自棄になるな!」
と、高らかにファングが叫んだときには遅かった。
ギガントエイプはその巨大な手で向かってきた冒険者を掴むと、愉悦を含んだ鳴き声を発して握り潰したのだ。
グチャッ、という身も凍るような音がその場にいた人間たちの耳朶を打つ。
そして冒険者の一人が圧死されたとき、次々と他の冒険者たちも悲鳴に似た叫び声を上げながらギガントエイプに向かっていったのである。
精神の錯乱が引き起こす、人間の行動爆発であった。
『ウキャキャキャキャキャキャキャ――――ッ!』
やがてギガントエイプにおける、一方的な殺戮の嵐が吹き荒れた。
男女の区別など関係ない。
一線を越えた恐怖で自暴自棄になった冒険者たちを、ギガントエイプは強大な暴力で確実に黄泉の世界へと落としていく。
特に悲惨な目に遭ったのは、少数の女性冒険者たちであった。
ギガントエイプは女性冒険者を捕まえると、頑丈な革鎧ごとボリボリと食べ始めたのだ。
「いやああああああ、助けて!」
阿鼻叫喚とはまさにこのことだった。
ほんの数十メートル先で始まった惨劇に、我に返った伊織は我慢できずに嘔吐してしまった。
「逃げるで」
「逃げるッす」
ルリと赤猫の二人がほぼ同時に呟く。
「お前も暢気に吐いてる場合やないぞ! さっさと立つんや!」
ルリは呼吸を荒げていた伊織に一喝する。
「そいつの言う通りッす! 早く立ってここから逃げるッすよ!」
続いて赤猫も伊織に早く立つよう促したが、尻もちをついたままの伊織は一向に立つ気配を見せなかった。
当然である。
腰が抜けてしまって、立ちたくても立てなかったのだ。
では、ルリと赤猫の二人は伊織を見捨てて逃げようとしたのだろうか。
答えは否であった。
ルリと赤猫は二人がかりで伊織を立たせると、伊織の両肩を二人で挟むように担いで現場から遠ざかろうとしたのだ。
「クソでか拳法女、お前がこいつを担げ! うちじゃ身長差があって無理や!」
「そんなこと分かってるッす! いちいち言うなッすよ、チビかす魔法使い!」
赤猫が伊織を担ぐと、ルリは伊織がずり落ちないようにサポートする。
「どうして……私なんて見捨ててもいいのに……」
そうである。
腰が抜けて動けない自分とは違い、心身ともに正常だったルリと赤猫ならば、すぐにこの場から逃げれば助かったかもしれない。
しかし、完全な足手まといである自分を助けてしまっては駄目だ。
このままでは助かる命も助からなくなってしまう。
「はあ? そんなもん金のために決まっとるやろ。お前には三口も水をやったんやから、最低でも銀貨三枚はきっちり徴収するさかいな。その銀貨をもらうまで死なせへんで」
などと言ったルリの言葉はすべて建前で、困った人間を見捨てることができない性格なのだと伊織は察することができた。
「あんたを見捨てたら私が師父(お師匠)に殺されるッすからね。まったく、お目付け役の辛いところッすよ」
そう言った赤猫からも、ルリと同様の性格の良さが感じ取れる。
だからこそ、伊織は二人への申し訳なさで胸が詰まりそうになった。
それだけではない。
大怪我を負って動けなかったのならばまだしも、腰が抜けた程度で二人の命を危険に晒している自分の不甲斐なさに伊織は絶望したのだ。
「ごめん……ごめんなさい……」
伊織は目頭に涙をあふれさせ、ただひたすら二人に謝った。
同時に伊織は心の中で自分自身を激しく責める。
何て自分は無力で卑劣なのだろう、と。
もしも自分が本当の強者だったとしたら、実際に闘う力がなかったとしても、二人に自分を置いて逃げて欲しいと言えたはずである。
けれども今の伊織は謝ることしかできず、赤猫の背中に担がれながら必死に助けられている。
「あほか。ガキみたいに泣くくらいやったら、とっとと自分の足で歩けるようになれや」
「その点だけはルリに同意ッす。さすがにこの状態で逃げるのは――」
きついッすね、と赤猫が二の句を紡ごうとしたときだ。
一陣の黒い風が、三人の頭上を凄まじい速さで通り抜けていったのである。
「やっぱりアカンか……」とルリ。
「みたいッすね……」と赤猫。
二人の諦めを含んだ声に、伊織も心から同意したくなった。
『ウキャキャキャキャキャ――――ッ!』
脳を揺さぶるほどの大きな鳴き声とともに、大量の返り血を浴びた絶望の権化が目の前に現れたからである。
『オ前ラダ、オ前ラガ一番ニ美味ソウナ匂イガスルゾ』
白と黒のまだら模様の毛に、額に鬼のような角が生えている巨猿は、口元についていた血を舐め取りながら口の端を吊り上げる。
まるで目の前にあるご馳走を、どう食べるか嬉しそうに選んでいるようだった。
「おい、赤猫。いよいよアカンみたいやぞ――ステータス・オープン!」
ルリは左手の掌上に、水の形のステータスを顕現させる。
「そうみたいッすね」
そう返事をした赤猫は伊織を地面に下ろす。
「伊織さん……私らも腹をくくるッすから、あんたも腹をくくって欲しいッす。こうなったら一蓮托生ッすよ」
赤猫は右手の掌を上に向け、「过来(来い)、通背鬼剣!」と口にした。
すると赤猫の掌上に、見慣れない一本の刀剣が現れる。
日本刀や西洋剣とは違い、カンフー映画などで見るような形の中国刀であった。
よくしなる柔軟な剣刃が特徴で、確か腰帯剣という名前だった気がする。
もしかすると、この中国刀が赤猫の天掌板なのだろうか。
「赤猫、お前の〈練気化〉はどれぐらい持つんや?」
ステータスを出した状態のルリが赤猫に尋ねる。
「出しているだけなら五分。形状変化をするたびに減るのは一分ずつッす……でも、どんなに変化させたところで私だけの力じゃ勝ち目はないッすね。そっちはどうッすか?」
「うちも似たようなもんや。そうは言っても、どのみち小技程度の魔法が通じる相手やない」
「小技程度の魔法以外だったらどうッすか?」
「賭けてみるか? ある程度の時間さえ稼いでくれたら、やるだけやってみるで」
「正確にはどのぐらいっす?」
「三分や……いけるか?」
「いけるも何も、やらないと終わりッすよ」
「せやな」
早口で会話していたルリと赤猫は、何かのやりとりを終えたあとにすぐさま行動に移った。
ルリは庇うように伊織の前へと移動し、一方の赤猫はギガントエイプと真っ向から対峙する。
「内気止まらず、外動からず、走火によりて入魔ならざるとき、精、気、神の三宝によりて周天の高みへと至らん――」
赤猫が抑揚をつけた意味深な言葉を吐くと、伊織は不意に襲ってきた頭痛に顔をしかめた。
赤猫の下丹田の位置に、眩い光を放つ光球が出現する。
やがてその光球からは黄金色の燐光が噴出し、瞬く間に光の渦となって赤猫の全身を覆い尽くしていく。
冒険者ギルドで武蔵と向き合ったときから薄々と感じた。
やはり赤猫も自分と同じ、天掌板を顕現できる天理使いだったのだ。
そして伊織の頭痛は数時間前よりも軽いものになっていた。
今の頭痛は十分に耐えられる程度の痛みである。
そんな伊織の頭痛のことなど知らず、全身に黄金色の光を纏った赤猫は、空中に浮かんでいた中国刀を手に取った。
「あとは頼むッすよ! 下手打っても恨まないッすからね!」
赤猫は大きく気合を発しながら、ギガントエイプに立ち向かっていく。
「そのときはあの世できっちりワビ入れたるわ」
ルリは赤猫の背中に向かって呟くと、今度はおもむろに伊織へ自分の仕込み杖を投げて寄越した。
伊織はわけが分からなかった。
どうしてルリは自分の武器である仕込み杖を手放したのだろう。
「伊織……いう名前やったな。いよいよとなったら、それで自害せえよ」
ルリは伊織の言い分など聞かず言葉を続ける。
「今からうちは最大の魔力を込めた魔法を使う。せやけど、その魔法を使うためにはある程度の詠唱の時間がいるんや。ありがたいことに、その時間はあの赤猫が稼いでくれる」
けどな、とルリは顔だけを向けた状態で言った。
「その魔法が通じなかった場合、うちらは全員仲良くあのエテ公の腹の中や。せやから、生きたまま食われるのが嫌やったらそれ使って自害するんや。いいな?」
それだけ言うと、ルリはすぐにギガントエイプを見据えて詠唱を始める。
しかし、ルリの詠唱は最後まで唱えられることはなかった。
『ウキャキャキャキャキャ――――ッ!』
ギガントエイプは赤猫の中国刀による連続攻撃を次々と躱していき、大きく隙を作った赤猫の肉体を張り手で突き飛ばしたのだ。
それだけではない。
ギガントエイプはルリが攻撃の準備をしようとしたことを見抜いたのか、大蛇を思わせる長大な尻尾を振ってルリの小さな身体を弾き飛ばしたのである。
『匂ウ……匂ウゾ!』
ギガントエイプは恐怖で顔を蒼白にさせていた伊織に手を伸ばした。
伊織は咄嗟に逃げることもできず、簡単にギガントエイプの手中に捉えられる。
『ヤッパリダ。ヤッパリ、オ前ガ一番ニ美味ソウナ匂イガスル。何デ? 何デ?』
ギガントエイプは片手で伊織の身体を持ち上げ、至近距離で耳障りな鳴き声を発する。
そしてギガントエイプを間近で見た伊織は、あまりの絶望感と無力感で逆に冷静になった。
(ああ、そうか……異世界で生きるってこういうことだったんだ)
伊織は死に直面したことで、異世界で生きるという本当の意味を理解した。
魔法や魔物が存在するこの異世界において、人間という生物の命はあまりにも軽すぎる。
それは魔法や天理という、特別な力があるからどうということではなかった。
言うなれば、現地の異世界人と地球の現代人との死生観の違いである。
ルリや赤猫がそうであった。
一度は逃げることを選択しながらも、逃げられないと判断するなりすぐさま死を受け入れた。
自殺を選ぶということではない。
死に物狂いで生きて駄目だったら、そのときは死ぬだけだと割り切ったのだ。
『頭カラ食ウノハ勿体ナイナ。手足ヲモイデ、ユックリ食ウカ』
そんなことを考えていた間に、ギガントエイプの顔がゆっくりと近づいてくる。
やがて伊織の脳裏に今までの思い出が走馬灯のようによぎった。
自分を生んでくれた両親。
時代劇を一緒に楽しんだ祖父。
剣道や居合を教えてくれた叔父。
離ればなれになったクラスメイトたち。
そして、この異世界で出会った本物の剣聖。
(お師匠様……)
伊織は異世界で師匠と決めた男の姿を思い浮かべた。
そのときである。
空気を切り裂くような鋭い音がしたと思ったら、ギガントエイプが嬉々とした声とは打って変わった苦痛による叫び声を上げたのだ。
そのせいでギガントエイプは伊織を掴んでいた手の握力が落ち、そのまま伊織は地面へと落下する。
伊織は無意識に受け身を取り、何とか頭から落ちることを回避した。
もちろん、その際に無傷とはいかず軽い打撲を負ってしまう。
だが、そんなことはどうでもよかった。
伊織は全身の痛みに構わず、苦悶の声を上げたギガントエイプを見る。
(あ、あれは――)
小刀であった。
ギガントエイプの右目に、見たことのある小刀が突き刺さっていたのだ。
伊織はギガントエイプから顔を逸らし、その小刀が飛んで来たであろう方向へと顔を向ける。
「伊織、無事か!」
そこには異世界で師匠と決めた男――宮本武蔵の姿があった。
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