第六話 びぃー
トランペットの体験入部は、昨日とは違い人が全く来なかった。
「でもよかったー。今わたし一人しかいないから、昨日みたいに六人とか来たらどうしようかと思ってたんだよー」
ゆるふわ先輩はホッとした様子だ。
「よかったね絵ちゃん! これで先輩を独り占めできるよー!」
「独り占めって……」
私もいるんだけど。
朝乃ちゃんは再びトランペットを吹けることに舞い上がっているのかご機嫌だ。
「はい、じゃあ楽器体験始めようかな。一応ちゃんと自己紹介するね。……二年トランペットパートの不破かりんです。よろしくね」
「不破先輩……ゆるふわ先輩って呼んでもいいですか?」
「絵ちゃんはすでにそう呼んでるじゃん」
名前が分からなくてゆるふわ先輩って呼んでたけど、さすがに失礼すぎたかな。
「えっと、三島さん。全然大丈夫だよ。わたしのことは好きに呼んでくれて」
「ありがとうございます!」
ゆるふわ先輩こと不破先輩は少し恥ずかしいのか、少し顔を赤くしながら私たちに紹介を促した。
「一年四組、三島絵です。トランペットに憧れて吹奏楽に興味を持ちました! よろしくお願いします!」
「昨日も体験来ました、南朝乃です。絵ちゃんと同じくです。よろしくおねがいします」
うんうんと、我が子を見守るような柔和な表情のゆるふわ先輩は、見ているこっちが緩んでしまいそうになる。
「よし、じゃあ南さんは昨日もやったから吹き方わかるよね、はいっ」
朝乃ちゃんがゆるふわ先輩からマッピを受け取る。
ん? それがマッピ!? めっちゃちっさっ!
「それがトランペットのマッピなんですか?」
「うんそうだよ。あ、そっか三島さんはトロンボーンのマッピしか見たことないんだ。あれからすれば、トランペットのマッピはちっちゃいよねー」
そう、かるーく、ゆるふわーっと解説しながら、“ぶぶー”っとマッピを吹く先輩。
正直、あんなに小さいマッピであのおならの音が出るとは思えない。そんなこと出来るのか?
『ぶぶー』
右隣の朝乃ちゃんもこなれた様子でマッピを吹き始めた。
「えぇー!! すごっすごっ! 朝乃ちゃんっすごっ!」
「! 絵ちゃん、どうしたの急に。絵ちゃんだってトロンボーンのマッピ、昨日吹いたんじゃないの?」
「こんなに小さくなくて、もっと大きかったからすぐ鳴らせたんだけど……」
そんな簡単に鳴るのか?
「三島さん。とりあえずやってみよう! 金管楽器はどれも原理はいっしょだから。はいマッピ」
ニコニコした顔で渡してくるものだから拒むわけにもいかず、マッピを受け取る。そして感じる、めちゃめちゃ軽い。
「そんな難しい顔しないで? 昨日トロンボーンでやった時みたいにすれば鳴ると思うよ?」
私はまるで、トマトを食わず嫌いする子供のような感情を持ちつつ、お母さんが食べなさいというので、仕方なく食べてみることにする感覚を味わっていた。
小さな小さなマウスピースに唇を当てる。冷たい。そんな感情よりも先に出たのは息だけだった。
『ふすうぅー』
マッピの管を通して息だけが流れていく。ふすぅー、と。
いくら息を流しても音は鳴らない。どちらかというと、管が細いせいかトロンボーンの時よりも、息が詰まるというか窮屈な感じがする。
「南さん。えっとね、もうちょっと落ち着いて、リラックスしてみよう。リラックス、リラーックス」
落ち着いて息を入れなおしても、ただただ息が管を抜けるだけだ。
「昨日、比村先輩にバズィングに教えてもらったりした?」
「バズィング?」
ゆるふわ先輩から訳の分からない言葉が飛び出す。
「そっか。まあそりゃそうだよね。えっと、バズィングっていうのは、こう唇と唇をぶるぶる震わせることのを言うの」
そう言ってゆるふわ先輩は、マッピなしで『ぶるぶるぶるー』と唇を震わせる。
「すごい……」
「えへへ。そうかな? 三島さんもすぐできるよ。こう唇をマッサージするように」
『ふすぅーふすぅー』
だめだ。マッピがあろうとなかろうと、息がそのまま抜けて行ってしまう。
「えっとね。もっとこう、息を直接唇に当てる感じ?」
『ぶるぶるぶるー』
「お、そうそう、そんな感じ!」
やっとバズィングができた。
「そしたら、今マッピなしでやってるけど、その状態のままマッピを添えるだけ。原理的にはほんとにこれだけなの」
「マッピは添えるだけ……」
確かに音が出る原理は分かった。でもこんな小さいマッピに“ぶるぶる”が入るか? いや入らない。
試しにマッピを添えてみても、唇とマッピを合わせた途端バズィングが止まってしまう。どちらかと言うとバズィングが無くなる感覚に近い。
「もしかしたら、トロンボーンとかはバズィングの振れ幅が大きいから、トランペットの場合はもっと振れ幅を絞らないといけないかもねー」
「振れ幅を絞る?」
「トランペットみたいに高い音を出すときは、唇の両端にある筋肉を少し引っ張って、唇を張るの。バイオリンとかの弦楽器もそうなんだけど、基本的に弦とか金管楽器の唇は、張ると音程が高く、緩めると音程が低くなるの。だから、トロンボーンの時よりも少し張ったほうが音が出やすいかも」
なんだか難しい話になってきたけど、トロンボーンのマッピを吹いた時と同じようにいかないことは分かる。要はリコーダーで穴をふさぐように、金管楽器では唇と張らなければいけないということ、かな?
「絵ちゃん、めちゃめちゃ嘘くさい笑顔になってるよ」
朝乃ちゃんから遠回しに変顔だと指摘された。
「三島さん、口角を上げるよりも、平行に引っ張る感じが良いかも」
「分かりました」
平行に平行に。唇を引っ張って、バズィング!
『びぃーー』
「でたっ!!」
「そうそう、三島さん飲み込み早いねー」
トロンボーンのマッピの時とは違う音だ。“ぶー”というより“びぃー”って感じで少し高い? 音なのかな?
「じゃあトランペット、吹いてみよっか」
「ぅっし!」
「絵ちゃん、すごい声」
あまりの嬉しさに心のガッツポーズが漏れる。
「はいここにマッピ差して―。ここに指置いてー」
「もう吹いていいんですか?」
「許可なんていらないからね。さ、思い切って行ってみよー」
待ちに待ったトランペット! いよいよ、いよいよ人生初楽器だ!!