第四話 ミディアム
鏡に私の姿が映っている。ちょうど肩くらいまで伸ばされた髪は水でしたたり、その雫は浴室の床にリズムをとるように次々と落ちていく。
「ああぁー! なんであんなこと言っちゃったんだろう私ーっ!」
今は午後七時、たぶん二十五分くらい。あれから帰宅してすぐにお風呂に入っている。そして、帰り道で『吹奏楽、やってやるー!』とか言ってた誰かさんのせいで、とても後悔している。
「ほんとに私が私じゃないみたい……」
自分に嫌気がさして、浴室の壁に手を着く。
恥ずかしさは勿論のこと、今は困惑の感情も大きい。小学校では大人しくしてたのに、ほんとどうしちゃったんだろう私。
「そもそも私ってこんな熱血タイプだったっけ?……」
少し冷えてきたので、湯船に浸かって考えることにした。
「あったけぇー……」
極楽極楽とおっさん染みた声を出しつつ。物思いにふける。
そもそも、なんでこんなことになった? 私はただ吹奏楽部に入って煌びやかな演奏をすることを夢見ていただけなのに。本気とか……情熱とか……私に一番無縁だった言葉のはずなのに。
――なのに本気になってしまった。
自分の中で確かに自信を持って言えるのは、吹奏楽というものに対して、この三島絵は完全に火が付いたということ。それだけはパズルの最後のピースがはまったみたいに気持ちよくて、何度でもやりたくなり、憧れるのだ。
「でも、トロンボーンかあ……」
トロンボーンなんて名前すら知らなくて、成り行きで今日の体験はトロンボーンだったけど、ほんとはトランペットとかクラリネットとかが吹きたい。ドラムとかもいいかも。
これは錯覚だと信じたい自分がいる。今日寝て明日起きたらこんな熱量はどこか行ってしまっていて、いつもの三島絵に戻っていれば良いなと思う。でも変化を望んでいて、変わりたいと願っている自分がいることも分かっていた。
「考えてもわかんないなあー」
浴室の天井を仰ぐ。
真っ白にほんの少しだけ黄色をを混ぜたような色の天井には、雫が少し付いていて。
「明日は明日の風が吹く、かぁ……」
それは私らしくはない行動指針だったけど、今はその言葉が一番気楽だった。
「ちょっとー絵ー。溺れてないでしょうねー?」
あまり長風呂しすぎたみたいだ。
「ごめんお母さん。今上がるー」
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上がって時計を見たら八時半を過ぎていた。
「え! こんなに長く入ってたの私!?」
「気を付けてね、溺れると危ないんだから。あ、あと三人で先にご飯食べちゃったからね。自分で温めなおしなさいね」
お母さんに皿を洗いながら片手間にそう言われた。
「あ、うん……」
私は結構お風呂を上がるのは早い。髪もそんなに長いほうじゃないし、肌のケアなんて生まれてこの方したことがない。湯船に浸かるのも少し苦手で、トータル十分くらいだろうか。
「お姉ちゃん、もっと身だしなみに気を遣えばいいのに。素材は悪くないんだからさ」
艶やかな長い髪を持つ小学生の妹におせっかいを焼かれる。
「素材って……」
「あ、そうだ! 幸がおしえてあげよっか? もちろん有料で!」
居間のテレビ前のソファでうつ伏せになりながら、ポテチを片手にファッション雑誌を読んでいるこの妹を見て『はいよろしくお願いします』と言う人なんているんだろうか。
「いらない……そもそも幸のシャンプー代どこから出てると思ってるの? ……小学生のくせに」
「幸は絶対いいと思うんだけどなあー。あと小学六年だし! お姉ちゃんと一才しか違わないし!」
ぶつくさ言っている幸を無理やり押しのけ、ソファの空いているところに座る。
「今日はご飯いらないかも」
「そう。じゃあ、自分で冷蔵庫入れといてね」
「はーい」
いつもみたいにゴールデンタイムのバラエティー番組を眺めながら、就寝時間を待つ。その時間はまさにいつも感じていた、退屈感やつまらなさで。
「幸さー。いっつもその本読んでるけど、飽きたりしないの?」
「ぅんー?」
幸は口いっぱいに放り込んだポテチを飲み込むと、
「飽きないよ。だってこういうの好きだし」
酷くシンプルな答えが返ってきた。
好き。好きだから飽きない。好きだから興味がある。
「そっかー」
「??」
幸は『今の質問何だったの?』という顔でこっちを見たけど、すぐに興味を失ったみたいで雑誌に興味を戻した。
「……もう寝る」
「あら、おやすみ」
「おあうひー」
まだ九時にもなってないけど、眠りたい気分だ。特別寝不足というわけでもない。明日が早いというわけでもない。なんだか起きていられないのだ。
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次の日の朝は五時に目が覚めた。そして、自分の中の熱が冷めているなんてことはなかった。私自身、その事実が嫌で、でもホッとしていた。
余裕を持った朝に私がすることなんてなかった。昨日の夜と一緒だ。ただどうやったら時間が一番つぶせるかを考えるだけ。でも今日の朝は違った。
「楽器が吹きたい」
そう思ってしまった。
比村先輩は確か今日も体験入部があると言っていた。今日は絶対にトランペットを吹きたい。いやクラリネットもいいな。
そんな妄想をしているだけで時間は結構経ってしまっていた。
「絵ーー。朝よー、起きなさーい」
まだ着慣れないブレザーを着て、居間へ降りた。
「お姉ちゃん、おはよう」
「ん、おはよう」
洗面台は幸が使っていた。
「お姉ちゃんさー。中学校でもその髪型で行くの? なんか恥ずかしいんだけど」
「……なんでよ?」
「ふっつーのミディアムヘアーって言うかさ、前髪も大して整えてないし……。幸と同じでせっかく癖っ気のない髪あるのに台無しじゃん。そうだ! せっかくだしイメチェンとかすれば? 中学デビュー! 中学デビュー!」
なんで他人のことで、こんなにはしゃいでるんだこの子は。
「……いらないよ。幸見てても長い髪とか毎朝大変そうだし」
「乙女にとって、朝は戦場なのです!」
「そう……」
いつもみたいに適当に溶かしてストレートになる髪は、生んでくれたお母さんに感謝だと思う。けど別に今のままでもおかしくないと思うのは私だけか?
ほんの少しでもおしゃれをしようと思った私は家に置いていき、昨日より少し早く家を出て朝乃ちゃんを迎えに行くことにした。