第三話 空を飛ぶ
「どうしよう……」
とっさに朝乃ちゃんを背負って音楽室を出たは良いものの、途方に暮れてしまった。とりあえず職員室に行くか、それとも通りすがりの人に訊くか――。
このときの私は私らしくもなく、判断と行動にイマイチ歯切れがなくて、うじうじと廊下で悩んでいた。今なら分かることだけど、それくらい当時の私は吹奏楽というものに衝撃を受けて、頭の整理が追い付いていなかったんだと思う。
一分も経たないうちに、後ろでドアが開く音が聞こえた。
「よかった、まだいて……保健室とか分かんないよね、案内するからついてきて!」
それは、体験入部の時の比村先輩とはまるで別人で、険しい面持ちで大きな責任を背負っていそうで、でもそれはやっぱりあの可愛らしい比村先輩で。どちらかというと、第九を吹いていた時の先輩だった。
「はい。お願いしますっ」
変に気が動転していた私は我に返り、比村先輩に一階にある保健室に連れて行ってもらった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「もう大丈夫よ。ただの貧血ね。」
保健室についてからは保健の先生が全て対処してくれた。比村先輩に戻るように促したけど『今戻ってもどうせ途中だし』と言われ、二人で朝乃ちゃんのそばにいる。
「さっき音楽室で“よくある”って言ってたけど、……朝乃ちゃんだっけ、こうやってよく倒れたりするの?」
「はい。朝乃ちゃん、人混みとか結構苦手で、あんまり長い時間いると頭が真っ白になるとかで」
小学校入学から、クラスは違ったりもしたけど、放課後はいつも一緒に遊んでいた。遊んでいたといっても、公園で大人数で遊んだりはせずに、お互いの家でたわいも無い会話で門限まで喋っていただけだ。それでも、その空間、瞬間が私は好きで、心底朝乃ちゃんが友達でよかったと思う。
「……もしかして『私がミニコン来て』って言ったから?」
「いや、全然そんなんじゃないです。私が聴きたかったから朝乃ちゃんも無理に付き合わせて……」
「そう……」
元はと言えば私が悪いんだ。なんであの時止めなかった? なんであの時朝乃ちゃんを無視してまで聴こうとした?
「音楽だ……」
「……? カイちゃん?」
今日、比村先輩の音を聴いてからというもの、何かおかしい。自分の中に何かふつふつと煮えたぎるような、いやもしかしたら燃え上がるような、そんなものが心の中に芽生えているのを感じる。……これは多分野心だ。これだけはどんなことをしてでも絶対にやりたい。やらなくちゃいけないと思うほどに本能が燃えている。
こんな感覚は初めてで、正直自分が自分ではない気がして気持ちが悪かった。
「カイちゃん大丈夫? カイちゃんも横になったほうが良いんじゃない?」
「大丈夫です……」
あの日聴いた遊星高校の演奏の時とも違うこの胸の高鳴りは何だ。
心臓がバクバクして息が苦しくなる。
「カイちゃん!? ちょっと大丈夫!?」
「……大丈夫です」
比村先輩の声でいくらか我に返る。すると朝乃ちゃんにも聞こえてたみたいで、
「……ん、あれ……ここは?」
「あ……、朝乃ちゃん、起きたのね……よかったぁ」
「えぇーっと、あの司会のトロンボーンの人? ……絵ちゃんもいる」
起きた朝乃ちゃんは元気そうで、
「あれ私どれくらいの時間寝てた? ミニコンってもう終わってる!?」
慌ててメガネを探しながら、倒れてからどれだけ時間が経っているのかを訊くルーティンをする余裕っぷりだ。
「まだ十分も経ってないよ。三曲目、最後のアンコールの途中かな」
「えー! アンコール何だったんだろー」
会話をしている二人を尻目に、私の脳内にはいろいろなものが反芻していた。
朝乃ちゃんに謝りたい。その意思は確かにあるのに、先輩がいる手前小恥ずかしくて……いや、先輩がいなかったとしても、恥ずかしいんだ。あまりに親しい相手過ぎて、思いを口にする事が出来ない。思えば小学校の頃から、ずっと私は朝乃ちゃんを振り回してばかりで、でも謝ったことなんて一度もなくて、そもそも喧嘩したことすらない。
「朝乃ちゃんも起きたことだし、私は音楽室に戻るよ。二人ともすぐに家に帰ってね。あと今日は来てくれてありがとう。明日も来てくれると嬉しいな」
そう言って比村先輩はショートボブを揺らして、優しくて温かい笑顔を向けてくれた。
比村先輩が保健室を出ると、すぐに静寂が訪れた。
二人にしては慣れない空気感に、朝乃ちゃんが痺れを切らす。
「帰ろっか」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
校門を出るとすぐ目の前に街の商店街が広がっている。日はもうすぐ落ちそうで客は少ないとはいえ、本当に少ない。お母さんの話では、近くに大きいスーパーができて客足が遠のいているんだとか。
そんなどうでもいいことを考えないといけない位、二人にしては会話が弾んでいなくて、酷く寂しい帰り道だった。
「今日の絵ちゃんなんかいつもと違う気がしたの」
先に喋り出したのはまたしても朝乃ちゃんだった。
「何ていうか絵ちゃんって、いっつもつまんなさそうにしてるって言うか。ああ、もちろん放課後に家で遊んでる時はもちろん楽しそうなんだけど、何ていうか学校の間は授業とかに全然興味なさそうで。私からしてみればいつもテストで点がいいし、委員会活動とかクラブ活動とかでも先生たちに褒められてたりして……ただただすごいなあって思ってた。でもきっと絵ちゃんには私にも話せないくらいの何かがきっとあるのかなってずっと思ってて。……それで今日、ミニコンの時の絵ちゃんを見て思ったの『あぁ、これなんだな』って。だってすごいキラキラしてるんだもん、絵ちゃん。だから人がいっぱいいたけど、私もミニコン一緒に聴こうって思ったの。でもやっぱり倒れちゃって……」
「ごめんっ! 無理に連れ回して、ほんとにごめんっ!」
感情よりも先に言葉が出ていた。
「あの時は本当にどうかしてたの私。自分が自分じゃないっていうか。とにかくごめん。今日に限らずいっつも振り回してたよね。迷惑かけてごめん……」
そのまま今までのこともとんでもなく悪いことをしてきた気がして謝った。朝乃ちゃんは黙っていたけど、顔を直視出来ないから、どんな表情なのか分からない。そして自分の感情すらも分からない。
「別に迷惑だなんて思ってないよ」
「……え?」
「私が絵ちゃんのこと一度でも迷惑だなんて思ったことあると思う? 喧嘩すら一回もしたことないのにー」
「朝乃ちゃん……」
「そりゃ、割と猪突猛進なところもあると思うけど、私意外とそれに救われてるんだー」
そんなふうに気さくな感じで、いつもの朝乃ちゃんの喋り方になる。
「知ってると思うけど、私引っ込み思案でさー。いろんなものが怖くて身動き取れなくなっちゃう事があるの。頭の中で変なこと考えちゃって。でも、絵ちゃんはさー、我が道を行くじゃないけど、すごく背中を見て安心できるの。そしてこんな私でも絵ちゃんと一緒にいるんだーって思えるの。それがすごく私にとっては救いなの」
正直とても恥ずかしい。六年間ずっと一緒にいたけど、朝乃ちゃんがそんなこと考えてたなんて全く知らなかったし気がつかなかった。というか私って、そんなに我が道を行ってる?
「私ってそんなに頑固な女?」
「正直そうかも」
「えぇ……」
何だか、さっき悩んでたのが嘘みたいにスッキリした。そして朝乃ちゃんが私の脳内を整理してくれた。
「私、吹奏楽好きかも」
「もう知ってるよ。あんなにキラキラしてたんだもん」
「もう正直それしか見えない」
「小学校の時に一緒に約束したでしょー。一緒に吹奏楽やるって」
未来がパーッと明るくなっていく。
日はもう沈んで辺りは街灯で照らされているけど、私の心の中にはもう時間帯なんて存在しない。毎朝が明るくて、毎晩が暗い。そんな当たり前のことすらどうでも良くなる。
私は今、たった今、目標を見つけた。
「吹奏楽、やってやるーーー!!」
気持ちのままに夜の空へ叫ぶと、流石に朝乃ちゃんも驚いたみたいで。
「ちょっとどうしたの! 近所迷惑だよっ」
「いいのいいの。私はもう今までの私じゃないんだからっ」
そのあとの家までの道のりは、空を飛んでいるみたいだった。