佐伯は一気に追いついた
1970年代の青春像
彼は佐伯と云う。私と同じ高校の生徒だ。佐伯は自宅と学校の行き来に自転車を利用していたが、決まって朝は遅刻になるぎりぎりの時間に、息を切らせながら教室へ駆け込んできた。
私と佐伯は、教室は同じではなかったが、二人とも庭球部に入部したので、入学時以来のつきあいになる。
私たちの通う高校は、この地域で進学校と評価されており、そのため部活動を三年の間続ける生徒はほとんどいなかった。入学当初に入部したとしても、夏季休暇の前後には、大抵の生徒が課外補習などを理由にして退部して行った。
庭球部に私と同時に入部した生徒は、佐伯の外に三人いたが、その三人は中学時代に軟式庭球を経験して来た者であり、それぞれの出身中学は違っても、顔を互いに見知った仲であった。私も佐伯も庭球は全くの初心者であったが、上級生はほとんど在籍していないし、在籍していても籍を置いているだけという状態であったから、自然、軟式庭球の経験者である三人の動きを見よう見まねすることで、はじめのうちは練習していた。そんなことだから、当然二人の技術は期待するほど向上する訳もなく、庭球部全体としても特段の向上心があった訳でもないので、部活動における雰囲気は緊張感のない、気ままなものであった。
佐伯は、中学時代を通して教室の中で、身長が低い方からいつも三番目だったということに劣等感を持っていて、高校に入学してしばらくの間、昼休みになると一リットルの牛乳パックを一気に飲み干し、部室の角で、何やら聞きなれない、劇的に身長を伸ばす効果があるという体操をしていた。佐伯があやしげな体操を始めて二週間ほど経ったとき、これほどの短期間に身長が二センチも伸びたと興奮して、同期の部員達に一緒にやろうとしきりに持ちかけたことがあった。その体操の効果がどれほどのものか定かでないが、佐伯本人はその効果を疑うこともなく、その後しばらくの間は、何人かの部員も佐伯と一緒に昼休みを部室で過ごし、佐伯の掛け声に合わせて体操をしていた。
梅雨前の、急に日差しが強くなって、はや夏を想わせる日には、練習後に同期の五人が練習コートの隣にあって、既に真っ暗になったプールに忍び込んだ。水音を忍ばせ、それぞれ忍者にでもなったつもりで、忍法かくかく泳法、忍法しかじか泳法と宣言しては、思い々々のあやしげな泳ぎ方を披露した。このときプールに忍び込もうと提案したのは、私だった。忍者の奇妙な泳ぎ方とか、変なことを考え出すのはいつも佐伯だった。しばらく泳いだら、夏にはまだ遠い時期だから、みんな唇を蒼くして、寒い々々とプールから上がってきた。
その頃、この五人は、部活が終わるとすぐに家路に着くことなく、高校の裏門先にある古く汚い駄菓子屋で、たわいもない話をしながら一時を過ごしていた。その駄菓子屋は駄菓子以外にも客の注文に応じて何でもそろえてしまう店で、どんな要望にも応えることが、店のおばちゃんの誇りだと思っているようだった。初老を迎えた一人暮らしのおばちゃんは、我々が店に行く頃には、すでに大好きな熱燗を一杯ひっかけており、頬がほんのり火照っていた。つまみやお晩菜もきれいに小鉢に盛られ、あがり間に置いた盆の上に用意されていた。みんな練習後はいつも腹が減っているので、おばちゃんのお晩菜になるはずの煮芋なんかを鍋ごと平らげてしまったこともある。喉がカラカラになった夏の夜、初めてビールの味を覚えたのもこの店だった。
そんな生活を我々は送っていたから、プールから上がってきた五人は、その時も腹が減って倒れそうだった。プール管理棟の軒下に身を寄せて、寒さと空腹に震えながら息を詰めていたとき、佐伯がぽつりと言った。
「見つかったら停学だ」
「まさか」
「去年、剣道部の部員が見つかって厳しくなったらしい」
みんなは、鳥肌を立てて蒼い唇のまま、ギョロっとした眼を闇夜に光らせ、お互いの顔を見合った。
しばらくの沈黙の後、私は、何とはなく暗闇に浮かぶ校舎の端を眺めていたが、僅かにキラッと光がもれ、おやっと思っているうちに、それが校内を巡視する懐中電灯によるものであることが分かった。
「しっ、音を立てるなよ。こっちに来る」
五人は、プール管理棟の壁にへばりつくように、濡れて凍えた体を寄せた。心臓の鼓動が大きくなる。その音が隣の佐伯に聞こえるのではないかと思った。思えば、こんな状況になるなんてこれまで初めてだ。停学か・・
五人の息が闇夜に溶け込み、五人が一つの生き物にでもなったような感覚だった。上下に揺れながらこちらに向かってきた光は、ふいに別棟の校舎に消えてしまった。
「ふぅ、行ったな」
「危なかったな」
こわばっていた顔が緩んでいた。私は佐伯に聞いた。
「停学って本当か」
佐伯はそれには答えず、プール管理棟の壁からするりと離れ、みんなに向かい合わせに立ち、下着一枚の格好でこう言った。
「腹が減ったな。さぁみんな、焼売でも食べるか」
佐伯の右手は、自らの陰茎を下着の奥から取り出し、あり余った皮を強烈に捻り寄せていた。その右手の親指と人差し指の上には、月明かりに照らされて皺々の揚げ焼売がのっていた。
そのとき、壁際の一人がくしゅんとくしゃみをした。
庭球部の同期の五人は、一学年の時にはそれぞれ教室が別であったが、経験組の三人は、中学時代からの顔見知りでもあり、つるんで行動することが多くなっていった。自然、私と佐伯は二人で話すことが多くなった。
部活を終えると、我々はいつもの駄菓子屋で一息ついてから、三人は駅のある方角に歩いて行き、佐伯は自転車を押しながら私と一緒に、三人が歩いていった別の方角に続く団地脇の路地を歩いて帰った。高校の最寄駅から、東京方面に乗り換えるターミナル駅までは、線路が半円を描くようにぐるり迂回していた。私は電車通学だったが、高校の最寄駅から乗車せず、四つ先の駅までの近道を佐伯と二人で歩いた。
駅までのまっすぐな道は、やがて突き止り左右に分かれる。右に行けば私が乗車する駅までもう少しの所だ。佐伯はここを左に曲がって、住宅街を超えた所に自宅があるらしい。私と佐伯は、この突き止り場で、何かの力にでも捉えられたかのように動かず、初夏の夕闇が真っ暗になる頃まで、たわいない話を続けた。今から思い出しても、特別に話が弾んでいた訳でもなかった。授業が終わって、練習をして、駄菓子屋に寄って、突き止り場で留まる。別に家に帰りたくない訳でもないのに、私と佐伯はスゴロク盤の駒のようだった。
ある時、突き止り場で佐伯は、スポーツバッグの中からはずかしそうに一冊のキャンパスノートを取り出した。もう暗くなっていたので、街灯の明かりが届くところまで移動して、私は佐伯が手渡してくれたノートを無造作に開いた。ノートには相撲の星取表がびっしり詰まっていた。薄暗い中で〇〇山、□の花など、しこ名が左右に並んでいる。日毎の取組結果や決まり手も丁寧に書かれている。でも、ちょっと違うことに気がついた。どれもこれも聞いたことのない相撲取りだ。
「なんだ、これ」と頁を一頁目に戻すと、そこには太字の筆ペンを使って、大きな文字で『大紙相撲 初場所』と書いてある。
「紙相撲って、佐伯、なんだこれ」私は「ほらっ」とノートを返した。佐伯はノートを受け取ると、照れたようにスポーツバッグに仕舞い込んだが、スポーツバッグのチャックを開けたときに、バックの中には同じノートが何冊も重ねられて入っているのが見えた。佐伯はその日、そのことについて、もう話すことはなかった。私は佐伯とここで別れ、不思議な気持ちで、駅までの道を歩いた。ターミナル駅で乗り換え、大きな川に架かる鉄橋を電車が通過するとき、佐伯はずいぶんと幼いなと思った。
次の日、昼休みになって、私は埃っぽい部室で一人寝ていた。その頃には、佐伯や、佐伯と一緒になって怪しげな体操をしていた部員も、もう昼休みに部室に来ることがなくなっていたから、私は昼休みになると、一人部室で本を読んだりして過ごしていた。部室の窓からは練習コートが見え、昼休みになると庭球部の女子部員たちが、額に汗を滲ませながら練習コートにローラーとブラシをかけ、白線を引き直している。昼休みに一日交代で、男子部員、女子部員がコート整備をすることになっていたが、ぐうたらな男子部員たちは、その責任を早々に放棄してしまっていた。しかし、女子部員は規律正しく昼休みの役割をこなし、そればかりか数人の女子は男子が行わなければならない日にもコート整備をしてくれていた。私は、毎日昼休みになると練習コートを整備しに来る、その中の一人を気になり始めていた。その娘とは、同じ部員仲間であったものの、練習が男女別々のコートだったので、まだ話らしい話をしたことがなかった。まだ夏でもないのに、すっかり小麦色になるほど顔が日に焼けて、黒く長い髪をポニーテールに結んでいた。いつも友達と冗談を言いあっては、じゃれあい、腰を深く曲げて笑う姿が愛らしかった。同じ一学年で、私とは同じ教室ではなかったが、佐伯と同じ教室だった。名前は正美と云い、みんなからはマミと呼ばれていた。中学の頃からの呼び名だと誰かが云っていた。
私はうとうとしながら、練習コートの白線を引いている正美を窓越しに見ていた。すると、ぺたぺたと上履きを鳴らしながら踏み板を歩いてくる足音が聞こえ、続いて部室の扉を開けて佐伯が入ってきた。
佐伯は、私の視線の先に正美がいることを確認し、私の目を見て言った。
「何見てんだよ、すけべ」
私は、佐伯から目をそらした。
「どうしたんだ、部室に来るなんてめずらしいな。いつもおばちゃんの店の奥でテレビ見てるんだろ」
佐伯は、昨日のスポーツバッグを肩に提げていたが、砂埃で白くなった折り畳みテーブルの上にそれを置いた。
「昨日はちゃんと話せなかったからさ、ちょっと話を聞けよ」
すすっとバッグのチャックを開けると、昨日見たキャンパスノートを五、六冊取り出した。バッグの底には力士の写真が表紙になっている雑誌もあった。私はちょっとうんざりした気持ちになった。
「それなら昨日見たよ」
「まあ、聞けって。お前の知ってる紙相撲とは全然違うんだ」
佐伯はバッグの奥から透明なプラスチックケースを取り出し、そこから硬紙に紙やすりを貼り付けた紙相撲用の土俵と、いくつかの紙力士をテーブルの上に置いた。土俵は見るからに良く出来ており、私の紙相撲に対するイメージを払拭してしまった。なるほど、土俵の表面に紙やすりを貼ることによって紙力士の足がつるつるとすべらない作りになっている。
「この力士を見ろ、お前の知っている紙相撲力士とは全然違うだろ」
佐伯は紙力士を一つ摘まんで、私の目の先に突き出した。それは、確かに私の知っているものと全く違っていた。力士の腕は力士同士が四つに組むことができるように右腕が上手回しに伸びており、左腕が下手回しに掴む格好になっている。佐伯の説明によれば、こうした力士の寸法、ルールが細かく協会によって決められており、紙力士の繰り出す決まり手も、多種多様なのだという。佐伯は一通りの説明をしてから、土俵の上に紙力士を組み合わせ、自分は立行司にでもなった調子で「のこった、のこった」と掛け声を掛けながら、土俵の隅を巧な指さばきで叩いた。
小刻みに振動する土俵の上で、がっぷり四つに組んだ紙力士はなかなかリアルな動きを見せ、土俵際まで寄って見事な上手投げで勝負がついた。
「どうだ、おもしろいだろ」佐伯はニヤリと笑って云った。
それから佐伯は、聞きもしないのに紙相撲の世界を説明した。なんでも、この世界にはちゃんとした協会があって、引退した紙力士が親方になり、相撲部屋まで作ることができるらしい。まあ、佐伯はその協会には所属していないらしく、自分だけで大紙相撲の世界を構築したのだという。家には日曜大工で作った国技館まであって、その中央に土俵を備え付けて取り組むらしい。土俵の周りには砂かぶり席や桟敷席まであるという。
得意気になって話を続ける佐伯に、私は少し面倒臭くなって外を見ていた。練習コートにブラシをかけ終えた正美と数人の生徒がコート脇の水道で手を洗っていた。
佐伯はそんな私に気が付いたらしく、長々とした説明をやめてバックから昨日のノートを取り出して云った。
「ちょっと、よく見てくれよ」私の目の前にノートを開いて話を続けた。紙力士が五十人余りいるから、強いやつも弱いやつもいるとか、やっぱり練習は大事で、四股を踏ませると強くなるとか、私には良く理解できない話をしていたが、佐伯の一番話したかったことは、ノートにびっしり書かれた記録のことだった。
「取り組みの結果は全部記録してある。今横綱は三人いるが、その内の吉の花がそろそろ引退しそうだ。この記録を見てくれ」そういうと、吉の花の戦績が書かれたところを指して、
「ほら、優勝回数十二回、だけど最近は場所ごとに負けが込んできているだろう。紙相撲だって、力士にはちゃんと人生があって、上り坂、下り坂がはっきりと数字に現れる」
私は、やっぱり佐伯は幼いなと思った。
「そんなに面白いものか、これが」
「記録することが面白いんだよ。この力士は勝率何割何分、この力士は優勝回数何回なんて、もうノートが八冊ぐらいになったよ。でも、こんな話、おまえにしかしてないんだぜ。誰にも云うなよ」
「ぐうたらなおまえが、随分と几帳面じゃないか」
「俺は興味のあるものとないものの差が激しいだけさ。興味のあるものには俄然凝り性になる。うん、記録は・・、数字は面白い。俺には記録を取る能力がある。将来そんな仕事はないかね」
「そんなものあるか。役に立たない能力だな」
練習コート脇のポールに付けられたスピーカは、放送部が流していた昼の校内放送が終わることを告げた。昼休みが終わる。佐伯は広げていた紙力士をかき集め、土俵と一緒にバッグにしまいこんだ。
「やば、早く行かなきゃ、黒板拭きやってないぜ。まずい」バッグのチャックも締め切らずに、部室を飛び出していった。そのとき部室を出たところで、ちょうど練習コートから引き上げる正美と佐伯がぶつかった。
「きゃ」驚いた正美は後ろの生徒に支えられる格好になった。
「マミ、大丈夫。なにやってんのよ佐伯くん」正美は笑っていたが、後ろの生徒が睨んでいた。佐伯と正美は中学の同級生で、見知った仲だったから、佐伯は周りから怖い顔で睨まれても意に介さず、
「わりぃ、あぶねぇよ」
「危ないのはおまえだろ」女生徒が追い討ちをかける。
佐伯は首をすぼめてその場を立ち去ろうとすると、正美が云った。
「佐伯くん、なんか落ちたよ」正美の指す先には、バッグからこぼれた吉の花があった。しかし、その吉の花は正美の後ろの生徒に踏まれ、無残にもぺちゃんこになっていた。佐伯は、おぉっと驚いて拾い上げたが、吉の花の現役復帰は絶望的に思えた。私はさっきまで、名横綱たる吉の花の戦績を聞かされてきたばかりだったから、佐伯の落胆ぶりが伺えた。佐伯はがっくりと肩を落とし、今にも泣き出しそうであった。
正美はそんな佐伯を見て、心配そうに「それ、何なの」と云うと、見ていた周りから「きゃあ、それ紙相撲なの、佐伯くんそんなのやってるの。こどもねぇ」と囃したてる。佐伯がジロッと睨みつけると、女生徒たちはひゃあと目をそらした。そして、大事そうにバッグを抱え、音を立てて踏み板の上を走り去ってしまった。佐伯が行ってしまうと女生徒たちは「うそ、何あれ」と語尾の上がった言葉で、肩を叩き合って笑っていたが、正美は部室にいる私を見て、笑いながらペコリとお辞儀をした。私は心の中で「俺はやってないよ」とつぶやいていた。
一学期の期末試験が近づいてくると、授業の合間の休憩時間は俄かに静かになっていった。女子も男子も自席から離れず、後ろの机に向き直って向かい合わせに雑談をしていた生徒たちも、今は真剣に参考書を開きノートにメモを取っている。多くの生徒には、将来に向けての目標があり、既に進学先の志望校、その学部まで明確になっているようだった。私も休憩時間に参考書を開くことはあったが、好きな海関係の本を読んでいることのほうが多かった。そのころ好きだったのは、ヘイエルダールの「コンチキ号漂流記」で、南米ペルーからポリネシアへ向けた航海記だったが、マストと船室を持つ大型いかだで海流に乗って大海原を漂流することに憧れを抱いて読んでいた。本は擦り切れてぼろぼろの装丁であったが、この本が神田神保町にある古本屋の書棚にひっそり置かれているのを見つけたときは、こども時代に書いた自分の作文が載った文集を見つけたような気分だった。小学校の時に私の担任教諭がホームルームで、大学時代に送った下宿生活の様子をおもしろおかしく話して聞かせてくれたことがあったが、三畳一間に半畳の台所、共同便所で、もちろん風呂はなく、六十ワットの裸電球で薄暗い部屋だったそうだ。それを聞くと教室の女子たちは、「いゃあ、きたない」と騒いだが、先生は意に介さず、ひげの濃い顎さすりながらニヤリと笑った。先生はひょろっとした長身で、大学を卒業してまだ二、三年といったところ、又どういう訳か前歯が一本欠けていたが、その後になってもずっと欠けたままだった。先生は話を続けた。
「下宿は狭かったけど、考えようによっては便利だったぞ。部屋は砂壁だったけど、壁のまん中にある柱とは隙間が出来てしまって、隣の部屋にいる住人が動くとなんとなくわかるぐらいだった。」
女子たちは、口に手を当てて丸い目をしていた。女子の方がませていたから、若い先生の男臭い学生生活に興味津々だったのだろう。
「砂壁の上の方には桟があって、ぐるりと廻った桟の上にショートホープの箱をいっぱい並べておくんだ。部屋の中央には万年コタツがあって、俺はそこから起き上がることなく、いつでも用が足せた。煙草がなくなったら、マッチ箱を桟の上のショートホープの箱に目がけて投げる。えいやぁ、コントロールは抜群だから、煙草はポトリとコタツの上に落ちる。ほしい物があれば、この調子だ。おもちゃのマジックハンドだってあるから、カセットデッキの上においてあるティッシュペーパからティッシュを必要なだけ取り出すことだってできる」そんな先生の得意気な話に、みんなは驚いていた。三畳間という限られた空間で、生活する上で必要なものは手を伸ばせばそろってしまう。究極のぐうたら生活な訳だが、私はむしろ宇宙船の中で生活しているような、なんだかとんでもなく自由な感覚を覚えた。私はそれから、生活感のある乗り物に興味を覚えていった。
そんなことだから、「コンチキ号漂流記」を古本屋で見つけたことは、懐かしいものへの再会だった。いかだの上で、何週間も暮らす。生活に必要なものは、このいかだの上に全てある。ただ、私だったら一人で航海したいと思った。それは、その方が航海に対して自己完結度が高いと云えるからだ。
期末試験の間は、当然部活動は休止になる。部員仲間は、必ず帰りに寄っていたおばちゃんの駄菓子屋にも寄らず、試験が終わるとすぐに家に帰った。私と佐伯は、おばちゃんの店には寄らなかったが、四つ先の駅まで続くいつもの近道を二人で歩いた。
「この間の横綱、どうした」あの日、踏まれてぐにゃぐにゃになった吉の花を、憔悴した顔で拾い上げた佐伯が心配になって聞いてみた。
「あぁ、あれから急いで手当てをしたけど、足腰が立たないぐらい弱ってしまっていて、しょうがないから裏当ての補強もしたけど、重量オーバーが大きすぎて、ルール違反になっちゃうから引退したよ」佐伯は思ったよりあっさりとした口調で答えた。
「そうか・・、そういえば佐伯も夏合宿には参加するんだろ。明日までに出欠の返事をするらしいぜ」
「あぁ、参加する予定だよ。またプールに忍び込もうぜ。正美も参加するって聞いたぞ」と云うと佐伯はニカッと笑った。私は何か佐伯に見透かされたようで、ちょっと気恥ずかしかった。
「あいつら、ちゃんと合宿の飯を作れるのか。もし不味かったら、俺はおばちゃんの店で食べるぜ」
佐伯はそれには答えず、
「なぁ、俺はついに将来やってやろうとする仕事を決めたぞ」
「何、なんだ紙相撲のスコアラーになるか」
「ばか、そんなんじゃねぇ。獣医さ、動物の医者だな」
これまで佐伯が自分の将来について、まじめに話すことなんてなかったから、その話を聞いて、正直私は驚いた。
「ふぅん、そりゃまたどうしてだい。ちょっと変わってないか」
「俺はシンプルに生きたいんだ。もう働く場所も決めてある。そこは北海道だ、だけど動物病院に勤務する訳じゃない。北海道をあてもなく放浪し、そこで出合った動物たちを治療するんだ。シンプルライフだな」
私は、ずいぶん行き当たりばったりの将来ビジョンだなと思った。現実的な将来目標を持ち、それに近づこうと時間惜し気に参考書を開いている生徒に比べて、佐伯はずいぶん幼いなと思った。佐伯の将来計画に対して、真面目に反論するのは面倒臭かったので、私は適当に話しを合わせることにした。
「ヒグマやキタキツネ相手で、金が稼げるのかね」
「牛も豚もいるだろう。犬や猫はどこにだっている。なんとかなるさ」
佐伯はどこまで本気で考えているのか、
「まぁ、動物の治療というより、それ専用に改造した軽自動車で、気ままに北海道を旅することが目的だ。改造した車ってところが味噌で、これは動物を治療するための設備を乗せるんじゃない。人が住んでいないような広大な北海道で何日も旅を続けていくことができるように改造した車なんだ」
確かに佐伯は車の絵を描くのが好きだった。部室に置いてあるテニス雑誌などによく悪戯描きしていた。佐伯の描く車は特徴的で、いつも決まった形だった。フォルムはワーゲンのように丸みを帯び、側面がスケルトンになっているので、車の内部構造が細かく描かれていた。後部座席にベッドがあって、助手席にコンパクトな調理流し台があるところまではいつも一緒で、後は思いつくまま、潜水できる機能があったり、ボンネットからロケットが発射出来たりした。私が佐伯の悪戯描きをこんなに憶えているのは、どこかで佐伯の車に魅力を感じていたからかもしれない。
「そうか、じゃあ大学は獣医学部だな。でも卒業まで六年間もあるぞ、それに獣医師免許は国家試験にパスしなきゃならん」
すると佐伯はちょっと驚いて、
「何、獣医は六年もか。ずいぶんお金もかかるな」
私はあきれて、
「おい、なんにも分かってないな」
佐伯はちょっと照れて、
「なにせ、シンプルライフだからな」と云って笑った。
私は佐伯と別れ、高校の最寄駅から四つ先にあるいつもの乗車駅に向かった。いつもは部活後に寄り道しながら帰るので、周りは暗くなっているが、今日はまだ明るかった。駅に近づき踏み切りを超えようとすると、遮断機が下りた。私が乗っていく方面の電車だったが、もう間に合わなかった。踏み切りを過ぎていく電車の中を眺めると、もう下校のピークを過ぎていたので、生徒はあまり乗っていなかった。
電車が去り、人気のなくなったホームで、私は次の電車を待っていた。さっきの佐伯の云ったことを考えた。シンプルライフって、冗談なのか、正気なのか。嘘かほんとか、全く現実的でない話をして、佐伯は不思議なやつだ。いや、単に幼稚なだけか。ふっと、さっき佐伯が云った夏合宿のことを思い出した。正美も参加するのか。胸の奥が熱くなってくるのが分かった。佐伯はなんで、正美が参加するなんて云ったんだ。あいつ、何か含みがあるようなそぶりしやがって。そういえば正美とはまだ一言も話してないなと思った。
暫くすると、すべるように電車がホームに入ってきた。扉が開いて乗り込もうとしたとき、扉の内側にいた正美が驚いた顔で私を見ていた。正美の周りにはうちの高校の生徒はいなかった。正美は手をひらひらさせながら、私に近づいて来て云った。
「あれ、どうしたのこんなところで」
「あぁ、そうだね。俺はいつもここから乗っているんだよ」
「あっそうか、佐伯くんと歩いてるの見たことあるよ」
「早瀬も今日は遅いね。どうしたの」正美はウフッと笑って、
「そう、一旦普通に帰ったんだけど、明日の試験のための大事なノートを教室に忘れちゃって、ドジ。もう一回教室に戻ったからね。あっ、それと早瀬って云われるの、あんまり慣れてないんだ。マミでいいよ」
後で話してくれて分かったことだが、ちょっと前に正美の両親が離婚して、その後母親と二人で暮らしていたが、高校入学を機に母の籍に入籍したという。中学からの友達も同じ高校にいて、苗字が変って暫くは慣れなかったのか、初対面の人にはよくマミって呼んでくれと云っていた。
「明日の試験は物理だったな。物理のノートかい」
「そう、私、頭が文化系だから、物理は苦手なの。ノートがなかったら赤点必至よ」
「ふぅん、体は体育会系だがな」
正美は「もぅ」というふくれっ面をしてみせた。
正美の顔は、健康そうに日に焼けていたし、上腕には程よく筋肉がついていた。練習中はいつもジャージを穿いていたから見る機会もないが、太腿も太く、ふくらはぎも引き締まったスプリンタータイプに違いないと思った。練習でラリーをするときは、女子の場合、「はぁい、はぁい」と大きな掛け声をかけながらボールを打つが、正美の声は一層大きく聞こえた。また、すばやい動きでボールに近づき、ライジングで捉える打点は高く、女子の誰よりもボールに勢いがあった。
「正美さんは、佐伯と同じ中学だろ。なんで電車通学しているの」
私は、正美からマミと呼んでと云われても、なにか気恥ずかしく、それでいて苗字で呼ぶのもためらわれたので、このとき正美さんと呼んだ。みんなからマミと呼ばれることが定着したその後も、結局私は正美と呼び続けることになった。
「中学を卒業するちょっと前に、お母さんが仕事の関係で都内に引越したの。結局、片道一時間もかかることになっちゃたわ」
「佐伯のことは中学のときから知っていたのかい」
「佐伯くんとは三年のとき同じ教室よ。教室では隣同士のときもあったけど、あんまり憶えてないなぁ。そういえば、昼休みのお弁当の時間になると、女の子は仲のいい子同士食べるじゃない。そうすると、いつの間にか佐伯くんが女の子たちのグループに偵察にやってきて、気に入ったおかずがあると弁当箱からひょいと取り上げて、すかさず食べちゃうのよ。もうみんな佐伯くんがやって来ると、きゃあって、お弁当の蓋を閉めて大変だったわ」
「なんだ、それ」
「後から聞いた話では、佐伯くん本人はそれをゼロ戦攻撃とか云っていたらしくて、そのうち誰かの保護者から苦情があったって」
「貧乏人でもあるまいし、いやしいやつだな」
「うふ、書道の授業のときのこと思い出したけど、書道の時間が終わって教室に戻ってきたら、佐伯くんのワイシャツの袖口に墨でQ太郎の絵が描いてあったわ。ちょっと変わっていたかな」
私は、もう正美には佐伯の話をしないほうが良いかなと思い、話題を変えた。
「女子はみんな夏合宿に参加するの」
「うん、来月四日からだったよね。女子はみんな出るよ。男子はどうなの」
「俺も参加するけど、他のやつらには聞いてないなぁ」
「先輩が合宿の練習、結構きついって云ってたよ。一日長いもんね。男子はみんなヒョロっとしているから、バテないように気を付けないと大変だよ。そうそう、男子は体育館の板間に寝るんだって。合宿中、バレー部と一緒らしいよ」
もともと正美は人懐こい性格なのか、はじめて話をしたのに会話が途切れることはなかった。テンポというか、間というか、それが合わないと男でも女でも疲れてしまうから、ありがたかった。
私と正美は、ホームに着いても扉が開かない側で、扉に寄りかかって向かい合わせに話をしていた。こんなに近くで正美の顔をみるのは初めてだったから、正美の唇が艶々とリップクリームで光っているのを見て、何か、むずむずするような、なまめかしい気分になった。笑うと八重歯がこぼれる、その愛らしいそぶりを、私にだけ見せてくれたらいいのにと思った。
ターミナル駅で乗り換え、県境の大きな川を超えた先にある駅で私は下車した。扉が開いたとき、正美ともっと話しをしていたいと思った。「じゃあ」と云って、ホームに下りてそのまま階段に向かって歩いたが、電車が走り出したとき、振り向いて正美を探した。正美は、扉に顔をくっつけるほど近づけて、こっちを見ていたが、私が振り向いたのに気が付くと、「きゃあ」と一生懸命手を振った。
電車はそのまま正美を乗せて行ってしまった。ホームは静かになった。私は駅の階段を下りて改札を抜けた。
期末試験がようやく終わった。そしてもうすぐ夏季休暇だ。小、中学校、高校と月日が経つのに従い、段々夏季休暇に対する期待感は薄れてきたものの、やっぱり何か、何かは分からないけど、新しいことがあるんじゃないかという期待はある。
部活動の休部期間は今日までだったので、試験が終わってから、私と佐伯は校舎の裏にあるおばちゃんの店に直行した。いつもの部員は、新作映画を観に行くらしく一緒ではなかった。なんでも日本での公開が一年以上も遅れた超大作SF映画なんだという。既に世界中で興行成績を塗り替える大ヒットを記録したとのことで、その映画のキャラクターグッズが至る所で売っていた。
僕らが行くとおばちゃんは、時間が早かったのでまだ酒を飲んでないらしく、顔が火照った様子はなかった。おばちゃんは、僕らの要望に気さくに何でも応えてくれるけれど、口数は割と少ないほうだった。駄菓子屋だから小学生もやってくるが、当たりのないくじをこどもに引かせたり、万引きなんか見つけた折には、こどもの耳たぶを思いっきり引っ張って泣かせたりするから、本当にこどもが好きで店を開いているのかどうか疑わしかった。そんなだから、こどもから好かれているふうもなく、おばちゃんが見てない隙に駄菓子やおもちゃをかっぱらって、ダッと走っていくガキたちを良く見かけた。そのことを告げると、「クソガキめ、今度見かけたらぶっ殺してやる」と目を吊り上げて、よくハタキを振り上げた。
おばちゃんは店のあがり間に腰掛けて、暑さに肌着をはだけさせ、汗ばんだ上半身を団扇で扇いでいた。
佐伯は、人懐こくおばちゃんの横に腰掛けて、
「あぁ、やっと終わったよ。期末試験。ばあちゃんラムネおくれよ」
おばちゃんは、持っていたハタキでピシャリと佐伯の膝頭を叩くと、
「わたしゃ、お前さんのカカアより若いよ。ったく。ラムネ二つ持っておいで」
佐伯は「やったぁ」と小躍りして冷蔵庫からラムネを取り出し、私に一本渡した。私は冷蔵庫の脇に下げてある栓抜きを使って、注意深くラムネのビー玉を落とした。ビンを揺らすと、ビー玉が落ちた途端にラムネが噴き出して、手がベトベトになってしまうからだ。佐伯は巧に親指で落とし込むと、すかさず口でラムネが噴き出すのを防ぎ、おばちゃんの横に座りなおした。
おばちゃんは、いかにもだるそうな仕草で、
「あんたら、試験はどうだったぁ。試験のあいだ中、ぷらぷらしてたようだから、どうせ大した事ないだろね」
「随分だね、おばちゃん」佐伯は「ぷふぁっ」と一気にラムネを飲み干し、カラカラとビンの中のビー玉を鳴らしながら云った。私は店の中は暑いので、店の外でラムネを飲んでいた。飲み終わったビンをもてあましていると、
「あんた、飲み終ったらちゃんと、そこの空ビン用の箱に入れておいておくれよ。そこらに置くとガキがビンを叩き割りやがるからね」
佐伯はゲップをしながら、
「わりぃやつがいるなぁ。そんなことするんだ」
おばちゃんは、佐伯の持っているビンを指し、
「そのビー玉が欲しいんだろ。やられたあと、ビー玉がどこにもないからねぇ」
「何時やられるんだい」
「夜の間だね。だからビンの箱は外に出しておかないんだ。この頃は物騒だねぇ。本当にこどもがやっているのかねぇ」
「おばちゃんがいつも酔っ払って高いびきで寝ちまうから、何されてもわからないんだろう。そうだ、今度夜にパトロールしてやるよ。合宿のとき、泊り込みだからな」
「あぁ、今度合宿かい。いいよ、遊びにおいで。内緒で一杯やっか」
佐伯はニヤッと笑った。
「おばちゃんは変わってるな。将来俺が映画監督になったら、おばちゃんの映画を撮ろうかな」
「なんだって」
「俺は将来、映画監督になる。まぁ、最初は自主映画かもしれんがね。そのためにお金を貯めて、八ミリカメラを買うんだ。秋の文化祭には何か発表しなくちゃな」
おばちゃんは、「さあて」と腰を上げ、晩酌用のつまみを用意するのに、奥に引っ込んでしまった。
私は店の中に戻って、先日の話のこともあったから、ことさら佐伯を咎める気もなかったが、
「おい、シンプルライフはどうしたんだ」と訊くと、
「うん、俺には監督の才能があると思うんだよな。」
ちょっと、うんざりした気持ちになったので、持っていたラムネのビンをおばちゃんが指図した箱に入れ、おばちゃんが置いていった団扇を拾って、パタパタと扇ぎながら店の外に出た。出て行く私を目で追いながら佐伯は、続けた。
「今の八ミリカメラの性能はすごいんだぜ。オートズームや自動焦点は当たり前、同時録音、フェードイン、更にスーパーインポーズだって出来る。なんとかお金を貯めてフジカシングル8サウンドZXMを手に入れたいんだよな」
「おまえ、ほんとはブルーフィルム撮りたいだけだろ」
佐伯はそれには答えず、「あぁ、ゼット・エックス・エム、いいよな、ゼット・エックス・エム」とぶつぶつ云っていた。
翌日から部活動が再開された。私はあれから正美と会っていなかったから、練習コートに集まる部員たちの中から正美をなにげなく、みんなに気付かれないように探した。正美を見つけると、何かほっとした気分になった。久しく練習コートを使用していなかったので、部員全員でコート整備をすることになった。その年は空梅雨のようで、試験期間中もあまり雨が降らなかったが、それでも何度か雷雨があって、かなり練習コートは荒れてしまっていた。コートは二面あって、プール脇にある奥のコートを女子が使い、手前は男子用になっていた。クレーコートを踏み固める重たいローラーは一つしかなかった。そのローラーを使って、それぞれのコートを男子は一人で、女子は二人から三人で引いていたが、今日は、二面のコートを男子だけでローラー掛けすることにした。いつも昼休みに、男子が整備する日と決められた日にも、代わりに整備してくれた女子部員たちへ、我々男子部員からのちょっとした恩返しのつもりだった。
女子部員たちが、取り外しておいたネットを倉庫へ取りに行っている間に、私と佐伯はローラーを女子のコートに転がしてもって行き、縦方向に行き来した。佐伯はどういう訳か妙に張りきっており、ぐいぐい引っ張るものだから、あっという間に終わった。そのまま、ぐいぐいと男子のコートにローラーを戻していると、正美がネットを抱えて私たちの脇を通り過ぎた。そのとき正美は私たちを見て、くすっと笑った。正美がわたしを見ていたのか、佐伯をみていたのかは分からなかった。
久しぶりの練習ではあったが、私は頭でイメージしたよりもボールをうまく打つことができなかった。ラリー練習では、ボールが飛んでくると、その方向やスピードに応じて、出来るだけ速く予測される打点ポジションに移動しなければならない。その際、ボールがバウンドしてから、どの程度跳ねるのかを体が憶えていなければうまく打つことができない。
私は初心者ではあったが、これまで数か月も練習してきたから、試験前までの練習ではある程度ラリーを続けることができた。だから、久しぶりの練習であっても、すぐにラリーを続けることができるとばかり思っていた。しかし、ボールの勢いやボールの跳ねてくる場所に体がきちんとついていかず、打点が定まらずに手打ち状態になってしまった。打ち返すボールは情けないほど山なりで、まるで正月の羽子板のようなありさまだ。佐伯も私と似たり寄ったりで、山なりのボールを返している。これが私と佐伯で打ち合っていたら練習にならなかっただろうが、二人は経験組とそれぞれ打ち合っていたので、私が山なりのボールを打っても経験組はきちんと打ち返してくれるので、まかりなりにもラリーは続いていた。私はなんとも情けない気分になったが、それ以上にそんな姿を正美に見られてしまうのではないかと心配であった。
練習が終わってから、夏合宿の実施について庭球部の部活担任から説明があった。合宿とはいっても、環境の整った避暑地で一週間びっちり、といったような全国大会レベルの強豪高校が行う合宿とは違うから、我々のそれは、いつもの練習環境だし、二泊三日と短期間だった。まぁ、その昔は長い期間合宿したこともあったようだが、夏季補習などのスケジュールが立て込むようになり、それにつれ、どこの部活の合宿も短期間になったらしい。合宿中の一日は、六時半起床、ラジオ体操、八時半まで自主練、朝食、練習、十二時昼食、十三時半練習、十八時半夕食、二十時ミィーティング、二十一時就寝といったところ。もちろん風呂はないので、水道水のシャワーのみだ。三度の飯は女子部員が作ってくれる。男子は夜、体育館にマットを敷いて、ざこ寝する。女子は教室か校舎のどこかだ。合宿期間中、校外への外出は一切禁止だが、これを守らないやつが結構多いので、昼間はいやというほど走らされて、くたくたにされてしまうらしい。私は走らされるのは苦痛ではないが、練習中に水を飲ませてもらえないのがイヤだった。練習中に水を飲むと体が重くなって動かなくなるとか、胃痙攣を起こすとかで体に悪いなんて云われたが、全然納得いかなかった。
女子部員は、自分たちで三日分の献立を考えて、あらかじめその食材を調達しておくように指示された。そのための費用は後で渡すので、その金額の範囲内で工夫するようにとのことだった。合宿に参加する人数は、部活担任と保健師を入れても十三人程度だったが、三日間の内に昼夕、朝昼夕、朝の六回分の食材となると結構な量になる。そのため、男子が一名運搬係として手伝うことになったが、その役には私が任命された。部活担任からの説明が終わって解散した後も、女子部員たちはどうしようかと話合っていたが、食材の調達や調理は主に一学年の役割になると暗黙のルールで決まっていたから、いつも自分でお弁当を作ってくるマミが適役だろうということで、その中心的な役割を任されることになった。正美は調理の腕に自信でもあるのか、すんなり了承して、「ラケットさばきより、包丁さばきのほうがマミは得意よ」と気勢を上げていた。もう私の他の男子部員は着替えてしまっていて、佐伯以外は駅に向かって帰りはじめていた。佐伯は私を待っているようだったが、私のところに正美がやってきた。
「運搬係、よろしくね。野菜なんか一杯になると思うから何回かに分けて運ばないと大変だよ。」
「へぇ、随分やる気満々だな。正美がそんなに料理が上手いなんてビックリだ」私はさりげなく「正美」と「さん」を付けずに呼んでみた。
「家に帰れば私が料理、洗濯なんでもするのよ。キャベツの千切りなんて目隠ししたってパッパッパーよ」
「正美は良くても、他のみんなは指を切らないように気を付けてくれよ。指の入ったハンバーグなんか出されたら食べられたもんじゃないからな」正美は、なによ大丈夫って私の肩を叩いた。
「ねぇ、よかったら少し相談してかない」と横目で私を見た。
「いいよ、帰りながら話そう」と私は云うと、はっと思って部室の前にいる佐伯を見た。佐伯は自転車に跨ってこっちを見ていた。正美も私の肩越しに佐伯がいるのに気が付いたはずだ。でも正美はにっこり笑って、そのまま私を見ていた。奇妙な雰囲気だった。
佐伯は自転車をこぎながら、
「急いでいるから、もう帰るぜ」と私を見ずに行ってしまった。
「私、すぐ着替えてくるから、ここで待っていてね」
正美は校舎内に戻っていく女子部員たちに追いつこうと走っていった。私は着替えのため暗い部室に入り、パチンとスイッチを押して電灯を付けた。パイプ椅子に座って、深呼吸をした。なんだか順調だなと思った。
「合宿まであと二週間ちょっとか」
部室の壁に掛けてあるカレンダーで日数を数えた。七月の写真は特徴的なサーブを打つジョン・マッケンローだった。写真の中で、彼はなにやら審判に向かって赤い顔で怒っていた。その余白には佐伯の描いた車の絵があった。車は真っ暗な洞窟を走っていた。
私が着替えて暫くすると、正美は一人で部室に戻ってきた。練習の砂埃で汚れたストッキングも、新しい真白な靴下に履き替えられていた。
「ごめんね。さぁ帰ろう」
「友達はどうしたの」
「うん、もう先に帰っちゃたよ、ほら」と云うと、校庭の向こう側にある道を駅に向かって歩いている人影が見えた。じゃあ帰ろうかと、私も駅に向かって歩こうとすると、
「いつも歩いて帰る方の道でいいじゃん」と正美は云った。
「でも、二人とも帰りの電車は一緒じゃない。歩いて行く必要があるかい」
「だって今行ったら、みんなと同じ電車に追いついちゃうでしょ」
私はドキッとした。
「みんなに見られたら、二人のこと噂になっちゃうよ」
あれ、部員のみんなは、私と正美が合宿の相談することを知ってるんじゃなかったっけ、そう頭をかすめたが、二人きりになれるのは私にとって都合が良かったから、正美の云う通り、この間正美と偶然合った駅まで続く道を、歩いて帰ることにした。
団地脇の路地を二人は肩を寄せながら歩いた。思ったより正美が私の歩く右横に寄ってくるので、私は右手に持っていた鞄を左手に持ち替えた。街灯の下に来ると、この前気付いたときと同じように正美の唇がピンク色に光って見えた。制服のスカート丈が他の女生徒に比べて幾分短いようで、膝頭がチラチラしていた。暗くてよくわからないが、顔や腕が小麦色になるまで日に焼けているのに比べ、見えている脚は随分と白い。そうであれば、その奥はもっと白いのだろうか。あんまり私に寄ってくるから、右手でぐっと正美の肩を抱き寄せたらどうなるのだろうなんて想像した。そんな想像をしたら、胸の鼓動が高鳴り、その音が周りにも聞こえるような気がした。
「佐伯くん、先に帰っちゃったね」
「あぁ、いいんだよあいつは」
「でも、もうちょっと二人で話したかったから、佐伯くんには帰ってもらっちゃった」
「帰ってもらったって」
「そう、佐伯くんとは中学のときから一緒だったからね。私がじっと彼の目をみると、怯えたように彼はもうなんにも云えなくなるのよ」
正美は茶目っ気たっぷりに笑った。私には正美の云うことが冗談なのか本気なのか分からなかった。
「正美はいつも元気一杯だね。未経験者なのに一年の部員の中でも、もうエース級だから、秋の新人戦じゃあシングルスになるだろうね」
「そんなことないよ」
「それに、料理まで上手いなんて驚きだよ」
「お母さんの帰ってくるのが遅いから、小さなときからずっと家の料理をやらされているからね」
そのとき私は、正美の両親がちょっと前に離婚したこと、それに離婚のずっと前から父親と別居していたことなどを知らなかったが、何か家庭に事情がありそうだなと思って、それ以上は正美の家庭のことを詮索しなかった。
「ねぇ、もうあの映画観たぁ。同じ教室の子がこの間観に行ったらすごい人数が映画館の周りに並んでいて、とてもじゃないけど指定席じゃなきゃあの映画観れないってよ」
「あぁ、この間観に行ってきたやつがいるよ。指定席じゃなかったから、七十ミリの大画面を観客席の右隅から、人の頭越しに観たらしい。観客席のほとんどが指定席になっていて、ふざけるなって云っていたよ」
「ふぅん、私も観たいなぁ」
「明日、用務員室に行って、リヤカーを貸してもらえるようにお願いしてくるよ」
その日以降、事実上食材の調達の相談は、私と正美の二人だけで行うようになった。正美は自宅で献立を考え、食材が一覧表にまとめられたメモを持ってきた。合宿の前日、二人で駅前の商店街までリヤカーを引っ張って行き、八百屋から購入したキャベツやジャガイモのダンボールを積んだり、米屋や肉屋からもメモに書かれた食材を調達した。正美はジャージ姿に愛らしいエプロンを掛けていたが、その組み合わせには違和感があった。商店街の細い路地でリヤカーを引っ張る様子は周りの人目を引き、まだ人通りも少ない商店街通りではあったが、すれ違う人達から奇異な目で見られていた。なんとかリヤカーに満載となった食材を、家庭科の調理室に備え付けられた大型冷蔵庫、冷凍庫にダンボール箱ごと放り込み、チラシ裏にマジックで「庭球部」と書いて、それをダンボール箱に貼り付けた。一通り作業が終わったので、私は調理室の椅子に腰掛けて、首に巻いていたタオルをほどいて汗をぬぐった。調理室には空調設備がなく、むっとするほど蒸し暑かった。正美は手早く調理室の窓を開け放し、風を通して空気を入れ替えていた。その姿を後ろから眺めていると、Tシャツが汗で透き通り、下着の線が浮き上がっていた。窓を開け終わると、炊飯釜や大なべ、包丁やまな板の数を確認していた。暫くメモと調理室の様々なものとを突き合わせていたが、私の横の椅子に座り、
「ようやく終わったわ。ありがとう、助かったわ」
「結構疲れたね」
「今日も暑かったからね」
いよいよ明日から夏合宿だなと私はあらためて思った。
「そういえば、俺らの宿泊場所は体育館て、ひどいと思わない。女子部員はどこに泊まるの」
「それは内緒。のぞきに来るんでしょ」
「ばか云うな。佐伯じゃあるまいし」
「私たちは保健の先生と一緒に泊まることになっているから、忍び込んだりしたらこっぴどく怒られるわよ」
「だから、そんなことしないって云ったろ」私は正美の頭をペコリと叩いた。正美はペロッと舌を出した。
合宿の初日、私は寝袋や着替えでぱんぱんになったスポーツバッグを提げて、部室に向かって歩いていた。集合時間は九時であったが、既に日は高く、気温も三十度を超えて鰻上りの勢いだ。裏門のある方向から佐伯が自転車で部室に向かっているのが見えた。いつもは自転車を裏門奥にある自転車置き場に駐輪することになっていたが、夏休みの間はみんな部室の前まで乗り付けていた。もう部室にはほとんどの男子部員が集合していたが、みんな大きな荷物を持ってきているので部室の中は窮屈で、荷物を部室に放り込むと、たちまち部室を飛び出してきて、額に滲み出す汗を拭っていた。佐伯はジャージ姿で自転車から降りたが、前輪のカゴや後輪の荷台にも荷物はなかった。
「おい、荷物なしか」と佐伯に声を掛けながら部室に入って、提げていたスポーツバッグを奥に放り投げた。
「あぁ、おばちゃんの店に置かしてもらってある」
「昨日のうちに持ってきたんだよ。ちょっと多かったからな」
「何もってきたんだ、まさか紙相撲の国技館持ってきたんじゃないだろうな」
「あほか、そんなわけあるまい」
女子部員たちも、ぞろぞろ歩いて校舎から出てきた。それぞれの荷物は、校舎内にもう置いてきたらしい。
合宿の初日だったので、部室の前に全員集合した。通常の練習には部活担任が顔を出すことはなかったが、今日はみんなの前に保健師と一緒に立って、合宿期間中の注意事項を説明した。部活担任は定年退職を間近に控えているということであったが、私は合宿が近づいた頃にはじめてこの先生が部活担任であったかと分かったぐらい、練習を指導しに来ることなんてなかった。保健師は中年で、でっぷりしたおばちゃんだ。自分の生活習慣を改善したほうがよさそうだ。
説明が終わって、練習前の柔軟体操を始めるため、それぞれ間隔をとって部室の前に広がると、私もみんなから間隔をとるように手を広げて横に歩いていき、水道口まで寄って蛇口から直に水をのんだ。もういいかと思ったが、続けてもう少し飲んだ。というのも、これから昼まで飲水が禁止されているからだ。なにせ、走らされることが多いと聞いていたから、できるだけ水分を補給しておかなければならないと思った。
部活担任は庭球の経験がないので、技術的な指導は全くといって無かった。その分、細かいことを云われないから気が楽ではあったが、基礎体力向上が必要だとかいう理由で、一にも二にも走らされた。初日の午前中の練習も、学校の回りを大回りに三周走ることから始まった。朝からムッとする蒸し暑さの中で、たまったものじゃない。たらたら走ることができないように、列を組んで走らせる際、最後尾の生徒が最前列に順次繰り上がるやり方だった。走り終えて練習コートに戻ってきたときには、滝のような汗が噴き出していた。みるみる太腿にも玉の汗が浮き上がってきた。最初に無理々々水を飲んでおいたのが逆効果だったようだ。
これからラリーを始めようという時になって、部活担任は一旦集合をかけ、合宿中に秋に開催される新人戦のチーム編成を決定すると告げた。新人戦は、ダブルス二組とシングルスの三戦を行う。原則としてエースはシングルスに出ることになる。新人戦だから一年生が対象となるが、一年は五人だったので全員当確だ。後は組み合わせの問題だった。私と佐伯は逆立ちしたってシングルスに選ばれる訳がないので、ペアが誰になるのかという話だった。勝ちを取りに行くのなら、私と佐伯をペアにして、始めから捨て試合を見込んでいたほうが戦略的な気がした。
ラリーが始まると、ラリーが三回途切れたら選手交代を行うというローテだったが、上級生や同級の経験組は結構長いことラリーが続き、コート脇の日陰で休む私と佐伯はようやく一息つくことができた。
ラリーの次はボレー、スマッシュの練習と続き、昼前になったころ隣のコートから正美たち数人が出て行くところが見えた。きっと昼食の準備だろう。私がいるコートの反対側にいる佐伯は、もう暑さでへばったらしく、ラケットを杖がわりに寄りかかって全身をだらけた様子だった。
そのとき、部活担任から佐伯に声が掛かった。
「佐伯、何やってんだ。しゃきっとしろ。おら、校庭一周してこい」
佐伯は嫌な顔をしてみせたが、コートの周りに張り巡らしてあるボール受け用のネットに持っていたラケットをもたせかけて、校庭に向かった。大丈夫だろうかと、私は佐伯が校庭を走るのを眺めていたが、佐伯は暫くたらたらと走っていたものの、校庭の脇にある散水用の蛇口まですすっと近づいていき、ホースから直接水を飲んでいるようだった。見つかったらペナルティで、周回数が増えかねないところだ。運よく誰にも気づかれなかったようで、佐伯は何食わぬ顔でコートに戻ってきた。バテたというよりも、息を吹き返したような顔をしている。私と目があうと、ニヤリと笑った。私はもう汗を出し切ってしまってふらふらの状態だった。おばちゃんの店で一リットルサイズのコーラを一気に飲み干したいと思っていた。
ようやく午前中の練習が終わり、みんな埃っぽいジャージをはたいて昼食の場所になっている調理室に集まった。一足先に正美たちが用意をしてくれており、テーブルの上の皿には既に料理が盛り付けられていた。初日の昼食だったので、簡単な調理で済むものばかりであったが、その皿に盛られた料理を見て、これはあの店で買った玉子だなと、二人で食材を調達に行ったことを思い出していた。
食事の前に、部活担任が今日、これからのことを話した。食事の後の片付けは各自で行うこと、午後の練習は主将にまかせて、自分は職員室にいること、午後一番で男子は体育館、女子は視聴覚室の今夜泊まる場所の荷物整理をしておくこと、とのことだった。
みんな食欲は旺盛で、佐伯もポテトサラダをおかわりしていたが、私は調理室に来るまでの間に水をたらふく飲んで、歩くたびに腹の中がちゃぽちゃぽ鳴るような状態であったから、食べたいという気持ちがあまり起きなかった。
正美は隣のテーブルで友達と一緒に食べていたが、私の食事が進まないのに気が付いて、心配した顔で私の横に近づいてきた。
「大丈夫、具合でも悪いの。食べないとバテちゃうよ」
「ちょっと水の飲みすぎで、入らないだけさ」
「私の作った料理、おいしくないって云うんじゃないでしょうね」と正美は私を睨んで笑った。
「ばか。ちゃんと食べるさ」といって私は皿に盛られた料理をスプーンで口に押し込んだ。そんな二人を佐伯はじっと見ていた。
我々庭球部が食べていると、同じく合宿しているバレー部の部員たちが調理室に入ってきた。バレー部は庭球部と違い、ちゃんと女子マネージャーがいて、専任で世話をしてくれるので随分と手の込んだ料理が奥のテーブルの上に並べられていた。さすがに男子部員たちの身長は高く、佐伯の肩とやつらの腰の位置があんまり変わらないぐらいに見えた。ちょっと威圧感があるなぁと思っていたら、そんな中にも佐伯の身長、体型とさほど変わりがない部員がいた。私と教室は違うが、同じ一学年のはずだ。まぁ、全日本バレーだってセッターの身長はさほど高くないこともあるから、身長の低いその部員もきっとセッターなんだろうと思った。私はバレー部の部員に知り合いはいなかったので、彼らがどんなやつかは分からなかったが、彼らはあまり話もせずに黙々と食べており、皿に盛られた各々の料理を食べてしまうと黙って空になった皿をマネージャーの顔の前に突き出し、おかわりを要求していた。
昼食を食べ終えてしまうと、庭球部のみんなは重たくなった腹をさすりながら、もう動けないょなんていいながら、ちょっとでも風通しのよい場所を探して休むためにめいめい調理室を出て行った。私と佐伯は二人で体育館へ歩いていった。体育館はさっきまでバレー部が練習していたらしく、二面にバレーネットが張られていた。また、業務用の大型送風機が三台あり、それが開放されたスライドドアの前に設置されていたが、昼休み中なので動作スイッチは切られていた。体育館裏の日陰はコンクリを流してあるので、ひんやりとして過ごしやすいだろうと思い、汗を拭きながら私たちは向かった。蝉の音がうるさかったが、べったりとコンクリ床に寝転がると、時々涼しい風も運ばれてきては髪を揺らし、結構気持ちが良かった。午前中の練習疲れが抜けていくようだった。
「うまいことやったな。さっき校庭で佐伯がホースから水を飲んでいたの見つけちゃったぜ」
「当たり前だよ。飲水禁止なんて自殺行為だぜ」
「俺は練習前に飲みすぎて失敗したよ。飲み過ぎれば動けなくなることは分かっちゃいるが、飲まなきゃやってられないからなぁ」
「午後はもう担任がいないから大丈夫さ。そういえば俺らが泊まる場所は、あの舞台の上だよ」と云って佐伯は体育館の前方にある一段高くなった舞台を指した。舞台の上を半分にして、庭球部とバレー部の男子部員が寝泊りする。午後から舞台に体操用マットを敷き詰めることになっていた。舞台は風通しが良くなさそうで、蒸し暑さに寝苦しくなってちっとも眠れないんじゃなかろうかと思った。
「八ミリカメラはどうするんだ。買う目途はついたのか」私は佐伯が映画監督になりたいなんて云っていたのを思い出して訊いた。
「結構高いからなぁ。なにせ一眼レフとは全然違うからね。でも絶対手に入れるよ」
「なんだ、バイトでもするのか。担任にばれるとまずいだろ」
「バイトかぁ。部活とは両立できないよなぁ。まぁ当面映写機は我慢するとしても、作品を完成させるには機材だけでもカメラにエディター、そしてスプライサーが必要だし、当然フィルムも作品の時間に合わせて何本も必要になる」
「学生のやることじゃないな」
「そんなことないよ。懐具合に応じて、まずは十分ぐらいの短編でいいんだ。うまくいけば学生フィルムのコンペに出そうかなと思う」
「まあ、それは良しとして、佐伯は何を撮るつもりなんだ」
「そうだな、身近な悪をあばく。つまりドキュメンタリーかな」と佐伯は真面目な顔で云った。
「何をあばくんだよ」いつになく佐伯が真面目そうだったので、私は茶化すように訊いた。
「まずはお前の私生活かな」と云って佐伯は笑った。
「ばかいうな」と私も笑った。
調理室のあるほうの渡り廊下を、数人の生徒が体育館に向かって歩いてくる音が聞こえてきた。庭球部の連中かと思ったら、バレー部のやつらだった。私はさっきの調理室でのやつらを見て、女子マネージャーに対する態度や、横にいた我々に対する無関心さに対し、不愉快な気持ちがあった。今晩やつらと同じ場所で宿泊するのかと思うとうんざりとした気持ちになった。
渡り廊下を歩いてくるバレー部員は、調理室での寡黙さと打って変わり、ワイワイと賑やかな様子だった。身長が高い男たちがふざけあって突き合っている様は、見ていて威圧感を感じさせた。やつらは体育館にどかどかとやって来て、体育館の舞台に一列に腰掛けていた。やつらは身長があるから、座っても飛び抜けて座高が高かった。そつらの中で一番背の小さいやつ(さっきセッターかなと思ったやつだ)が、バレーコート脇に置かれたクーラーボックスから、せかせかとした昆虫的な動作で何やらドリンクを取り出して、座っているやつらに渡していた。そのセッターは、その物腰からきっとパシリに違いないと直感的に思った。佐伯もじっとその様子を見ていた。庭球部の部員は、午後一番に体育館に集合ということになっていたが、まだ集合時間まで時間があって、私たち以外はどこかの木陰で涼んでいるのか、体育館に姿は見えなかった。
バレー部の側にいたって面白くないので、私たちも場所を変えようと腰を上げると、俄かにやつらが騒ぎ出した。何だろうと振り返ると、一人が舞台の奥から覆面マスクを取り出して被った。佐伯が「あれはマスカラスだ」と云った。舞台の前には分厚いマットが敷かれていて、やつらはプロレスごっこを始めた。二人一組になってマットの端から投げ合っている。マットは分厚く、脚が膝ぐらいまで沈み込むものだったから、大きく投げられてもダメージは無いように見えた。バックドロップみたいな比較的単純な技だと、大柄な体格同士でもなんとかできるようだったが、何やら複雑な投げ技だときれいに決まらないようだった。佐伯に云わせると、ダブルアーム・スープレックスやジャーマン・スープレックス・ホールドなどの投げ技、決め技は、身長の高い者同士だと難しいのだそうだ。私は結構面白そうだなぁと思い、引き込まれるようにやつらが笑いながら投げ合うのを見ていたが、次第に難しそうな投げ技がビタッっと決まりだした。
「おぉ、あれはきいたなぁ」なんて私が云うと、横で見ていた佐伯が、
「さっきから同じやつばかり投げられている」と云う。
それを聞いて、そういえばあのセッターが投げられているのに私は気が付いた。やつらは「やぁやぁ」と笑いながらやっているが、投げられているのは一人だけだ。でも投げられるセッターもへらへら笑っている。結構な大技だから、頭からマットに打ち付けられたりして大丈夫なのかと心配したが、マットが分厚いからどうってこともないのだろうと思った。そして、ちょっと面白そうだから私も投げてみたいなぁと思った。
セッターの体がひと際高く舞い上がったかと思うと、一気に後頭部からマットに叩きつけられた。投げたやつはブリッジしてそのままホールドしている。マットからセッターの脚が二本突き出ているようだ。セッターはピクリともしない。何秒たっただろうか。ホールドしていた長い腕が解かれ、グラリとセッターの体が横に崩れた。
おぉと、私は身を乗り出して息を詰めたが、しばらくしてセッターは起き上がった。周りから大丈夫かと乱暴に肩を突かれていたが、セッターはふらふらしながらもマットから降りてきて、大丈夫だよと手を上げて見せた。するともう一人がセッターを抱え込み、ウォと掛け声を上げて乱暴に投げ飛ばしてしまった。
ここまで来ると、私にはちょっと違和感があった。じゃれあっているとしてもちょっと変な雰囲気だ。いじめという言葉も頭に浮かんだ。
隣の佐伯は、暫くセッターを見つめていたが、ふぅと深く息を付くと、渡り廊下を歩いて行ってしまった。佐伯の目は怒っている目だった。
私は佐伯の後を付いていった。佐伯は裏門を超え、おばちゃんの店に向かった。
「おばちゃん、来たよ」
奥からおばちゃんが出てきた。
「あぁ、やっときたね。はやく持って行っておくれ」とあがり間に置かれた佐伯の荷物を指してだるそうに云った。
「まぁ、そう云うなって。ここに預かってもらう理由があったんだから」と云うと、佐伯はバッグの中から日本酒の一升瓶を取り出した。
「剣菱の二級でよかったよね」
「あれ、ほんとに持って来たんかぃ。ほんじゃ今日やるか」と、おばちゃんはにっこり笑って私を見た。なんだ、そういうことか。
「つまみは用意しとくから、あんたら抜け出すのにへますんなよ」
「あぁ、わかっているよ」
佐伯とおばちゃんは、今日の段取りを私の知らないうちに話し合っていたようだ。
「何時になるかい」
「そうだなぁ、就寝時間を過ぎてからちょっとしてからになるから、九時ぐらいってとこかな」
「そんなに早くみんなは寝られるのかい」
「眠れるように、ひたすら疲れさせられるようだよ」
おばちゃんはクスッと笑って、
「お前らは、当然さぼるって訳だねぇ」
「それより、おばちゃん約束のもの、絶対見せてくれよ」
おばちゃんは、あぁそれねという顔をして、分かっているよとでも云うように、手でOKサインをして見せた。
庭球部の部員が体育館に集合する時間が近づき、私たちはおばちゃんの店から体育館に向かった。
「おい、おばちゃんに何を見せてもらうんだよ」
佐伯は照れたように笑い、
「まぁ、面白いものさ。楽しみにしとけよ」
「なんだよ」
含みのあるその物云いに、私は少しムッとして云った。
体育館に戻ると、バレー部のやつらがバレーコートにモップを掛けているところだった。私は無意識のうちにセッターを探したが、彼はさっき何かあったというそぶりも見せず、みんなと一緒にコート整備をしていた。庭球部の部員はもう舞台の上に揃っていて、主将のてきぱきした指示により、庭球部のエリアに体操用マットを敷き詰めた。隣のバレー部の領域は既に敷き詰められていたが、そのマットには真っ白なシーツまで敷かれていた。きっと女子マネージャーが世話をしてくれたのだろう。敷かれた一枚分のマットが今日から自分の寝る領域となる。いわば小さいながらプライバシーを尊重しあう範囲ということになる。自分たちが持ってきたバッグを自分が確保したマットの上に置き、あれこれバッグの中の荷物整理を始めた。私のマットの隣は佐伯のマットで、二人のマットは舞台に上がる階段のすぐ前になった。夜中におばちゃんの店に抜け出す際、都合が良いという事もあったが、むしろ一学年の中でも初心者だということで身分が低かったからだ。荷物整理の時間が与えられ、午後の練習は二時からになったので、みんなはマットの上に寝転がり、一国一城の主になったつもりで昼寝をするなり、持ってきた雑誌を読むなり、FMラジオをイアホンで聞くなりと自由に過ごしていた。私と佐伯はマットの上にうつ伏せになり、バレー部の練習を見ていた。
バレー部は、コートの周りを二列に組んで何周か走った。体育館の床をやつらのシューズがキュキュと擦って小気味いい音を立てていた。軽いジョギングが終わると、上級生と下級生らしい二人組になって、上級生がボールを投げたのをワンバウンド以内にキャッチするという練習を始めた。午後一番なのに結構きつい練習をするなぁと私は思った。というのも、この練習は庭球部でもテニスボールを使ってやるが、前後左右どの方角に投げられるか分からないボールに機敏に反応してキャッチしなければならないし、取ったらすぐに投げ返さなければならない。フェイントでもされようものならガクッと膝が折れる思いだ。我々一学年が最も嫌う練習メニューだった。庭球部の場合は何分間という時間で区切ってやっていたが、バレー部は見ていると玉数を数えている。何球キャッチという区切りでやっているらしい。同じ時間で交代しないから、すぐに終わるやつもいれば、へとへとになってやっと終わるやつもいる。これは大変だと思った。なにせ時間が救ってくれることはない。近くに投げられれば簡単に終了だ。いじわるされれば、永遠に終わらないことだってある。庭球部でやるときも時間の間際には、わざと遠くに投げることはあるが、とれなくても時間がくればタイムアップだ。バレー部はそうはいかない。案の定、何人かの部員がずいぶん長く引っ張られている。その一人があのセッターだった。私はそれを見て佐伯に云った。
「あのチビ、ぶっ倒れるんじゃないか」
「さっきジャーマンくらっていたやつだよな。大丈夫、あいつはそんなやわじゃない」私は佐伯の物云いにおやっと思い、
「佐伯とあのチビ、同じ教室だったか」
「いや、同じじゃない。同じ中学さ」
「なんだ、じゃあ良く知っているんだな」
佐伯はあわてて、首を横に振った。
「同じ中学でも、教室は違ったから顔を知っているだけさ。たしか安田って云う名前だよ」
佐伯がその安田のことをもっと知っているのではないかと思ったが、私は安田に少しの興味も持っていなかったので、それ以上は訊かなかった。バレー部の中でもひと際身長の低い安田は、私と佐伯が舞台の上から眺めている前で、いつまでもボールを追いかけていた。確かに安田の体力は他の部員と比べて遥かに劣って見えたが、それ以上にボールを繰り出す上級生にどんな意図があるのか知らないが、安田が取れそうで取れないところへ巧みに投げ分けていた。周りの上級生からは、「おら、どうした。しっかり取れ」と罵声が浴びせられていた。他のやつらはもう何回も交代している。安田は崩れ落ちないまでも、肩を大きく揺らし大きく息をしていた。私はもう限界なんじゃないかと思った。その時、ボールを投げていた上級生が、へばって膝に手を付いている安田に向かって、持っているボール頭上に投げると思い切りスパイクをした。至近距離から打たれたボールは、そのままの勢いで安田の屈んでいたわき腹に突き刺さった。ボールが大きく跳ねた。安田は腹を抱えてうずくまってしまった。私はそこまでするかと思ったが、周りの上級生は「寝てんじゃねぇぞ」と追い討ちをかけている。安田は遠目に見ても蒼い顔をしていたが、安田の顔の上あごが反り返ったとように見えたと同時に、さっき食べた昼食を全て嘔吐してしまった。私はそれを見て、うちの学校がこんな練習をするなんて信じられなかった。バレー部だって我々庭球部と同じように、目立った大会成績のない弱小チームなんだ。それなのに、なんでこんなスパルタ練習なんかするんだ。私と佐伯は同時にマットから立ち上がり、呆然として安田を見ていたが、そんな私たちにバレー部のやつらは気が付いて、
「そこの二人、なに見てんだ。見世物じゃねぇぞ」と怒鳴った。
私たちは舞台を駆け下り、体育館を出て、力一杯に渡り廊下を走った。私はバレー部のやつらが怖かった。
無我夢中で走っていて、気が付いたら調理室の手前まで来ていた。調理室の室内灯は消えていたが、出入口の引き戸は開け放たれていた。私と佐伯はそのまま廊下を歩いて行き、調理室の窓から中の様子を窺った。庭球部は各自が食べた食器を自分たちで洗い流したが、男子部員は丁寧に食器を扱わないので、後で女子部員がフォローしてくれていたようだ。調理室はそうした二度手間の後片付けも既に終わり、整然としていた。静まり返った調理室で、正美だけ大型冷蔵庫の中に入れてあるダンボール箱の食材を確かめていた。出入口の外でその様子を見ていると、正美が私の視線に気が付いてお互いの目が合った。どちらも直ぐには言葉が出てこなかった。暫く黙って顔を見合わせていたが、その様子を佐伯は後ろから見ていて、黙ってすっと先を歩いて行ってしまった。
「最後まで残って大変だね」
「どうしたの、おなか一杯になったぁ」私はそれには答えず、
「正美は今夜の寝床の用意は済んだのかい。午後一番で視聴覚室のはずだろ」
「私は朝の内に大体済ませちゃってあるからね。男子は終わったの」
「俺らは終わったけど・・。それより、体育館で凄いのを見たよ」と云うと、正美は目を光らせて「なになに」と訊いてきた。
「いゃあ、バレー部のやつらの練習は凄いね。今、一人のやつがゲロ吐くのを見てきたばかりだ」
「うそー、そんなに厳しいの。」と正美は驚いている。調理室で黙々と食べていたやつらの印象からは想像できなかったようだ。
「厳しいと云うよりも、むしろいじめに近いな」
「まぁ、どうして。ひょっとして、その吐いた人って背の一番低い人かしら」と思い当たるような顔をしている。
「うん、そうだよ。知っているのかい」
「えぇ、だって同じ中学だもん。私、二年の時同じ教室だったわ。佐伯くんから聞かなかったかしら」
「そうだったんだ。佐伯からは同じ中学だったとは聞いている」
「昼食のときはびっくりしちゃった。安田くんが同じ高校に入ったのは知っていたけど、合宿が一緒になるなんてね。それより、彼がバレー部に入ったっていうのが驚きよ」
「安田は中学のときバレーをやっていたんじゃなかったのか」
「あの身長じゃあ、ある訳ないじゃない」と云って、手を口に当て笑った。
「俺はてっきりセッターでも経験してきたんだろうと思ったよ」
正美は、中学時代の安田を問わず語りに話して聞かしてくれた。安田にはお姉さんが何人かいて、やつは一番下だったから、洋服は姉貴のお下がりを着せられることが多かったそうだ。そんなことだから、物腰もなんとなくおんなっぽくて、髭の生えないつるんとした顔はかわいらしい感じだったと云う。二年のとき教室が変わり、正美と安田は同じ教室で隣の席になったが、給食のとき安田にはどうしても食べられないものがあって、給食係がいつまでたっても配膳を片すことが出来なくなったという。というのも、教室の目標が「給食は残さず食べる」ということになったので、教室の全員が食べ終わるのをみんなで待っていたからだと云う。そのうち安田の食べるのが遅いことが教室のみんなに目立つようになり、やつが給食を食べるときは、数人の男子がやつの食べている机を取り囲み、早くこれを食べろ、今度はこっちだと強要するようになった。正美はそれを横で見ていたが、安田はへらへらとした笑みを浮かべて、それでも持っていたスプーンはなかなか動かなかったと云う。仕舞いには業を煮やしたやつらは消しゴムのカスをスープの中に入れたりして、それを無理やり飲ませたりするから、安田はそのまま机の上で吐いたりしたらしい。私はいやな気持ちになった。さっき体育館で見た安田の嘔吐がよみがえり、正美の話がよりリアルな感覚となった。そして、やはり私の見た体育館の光景はいじめだったのだと、げんなりとした憂鬱な気持ちになった。
「中学のとき安田はいじめられていたんだな」
「そうねぇ、大人しかったから・・。でも暴力を振るうような生徒はいなかったと思うけどなぁ」
「無言の強要だって暴力そのものだろ」
「むしろ無視っていうのかなぁ。段々影が薄くなっちゃって、なんとなく誰も声を掛けないからいつも一人でいるみたいだったわ」
私は、さっき安田のことをプロレス技だかなんだか知らないが、強烈に投げ飛ばしていたやつらをぶん殴ってやりたいと思った。そして、なんで安田はそんな辛い思いをしてまで部活動をしているのか分からなかった。私が暗い顔をしてうつむいていると、正美は私の肩を叩き、ニコッと笑って云った。
「ねぇ、今晩夕食が済んだら抜け出さない」
今夜佐伯とおばちゃんの店に行く約束があったが、正美とはそんなに遅くまでいることはないだろうと思い、すぐに承諾した。
「いいよ。じゃあどこで待ち合わそうか」正美はうふっと笑って、
「食べ終わってすぐがいいわ。それならまだみんな調理室にいるから。校舎の屋上で待ってて」
私は照れくさくなったので、手で分かったそぶりをして、そのまま午後の練習が始まるコートに向かって廊下を歩いた。
夏の一日は長い。合宿となれば尚更だ。永遠に続くと思われる一日の中に、早く時間が過ぎて欲しいときと、もっとこの時間が続いて欲しいときがモザイクのように組み合わされているように感じた。
午後の練習時間は午後六時までだ。まだ日は高いが、合宿に参加した生徒が熱射病や過労で倒れると学校が面倒くさいことになるから、きっと決められたルールなんだろう。だから、庭球部もバレー部も同じ時間に一日の練習が終わり、昼と同様に調理室でバレー部のやつらと同室となった。合宿中は暑い中をみっちり走らされて、夕食は喉を通らないほどへばってしまうと聞いていた。だが、なんてことはない。担任が午後の練習に顔を出さなかったので、主将はいつもの練習メニューを繰り返すだけで、みんな暑さに耐えることを除けば、午後の練習は気ままなものだった。そんなことだから、庭球部の部員はみんな元気一杯に冗談を云いながら、正美たちが作ってくれた夕食をガシガシと食べていた。
調理室には大きな調理用のテーブルが九個並んでいるが、そのテーブルに六人ずつ腰掛けて食事をした。庭球部でテーブルを三つ使い、真ん中に並べてあるテーブルは使わずに、奥のテーブル三つをバレー部が使っていた。バレー部は我々と少し離れていたが、やつらは口数が少なく、昼のときと同じように黙々と食べていた。私の前で食べていた佐伯は、早々に皿に盛られたナポリタンスバゲッティを平らげてしまって、大きな鍋からお代わりを盛っていた。私は昼間の正美の話を思い出し、安田を探した。安田は同期の部員と同じテーブルに座り、他のやつらと同じように黙々と食べていた。正美が云うように、嫌いなものを皿の隅に除けているとか、極端に食べるのが遅いといった様子は見られなかった。なんだ、別に変わらないじゃないかと思い、本当に安田は中学のときにいじめられていたのだろうかと考えたが、昼間の件を思い出してまた嫌な気分になった。庭球部の部活担任と保健師は一番早く食べ始めているので、夕食を食べ終わってしまうと持ってきた新聞を読んだり、週刊誌をめくったりしていたが、部員たちの食事も粗方終わりそうになったのを確認し、「おぅい。みんな、ちょっと話を聞け」と部活担任が立ち上がった。
「夕食が済んだら、自由時間とする。ただし、校外へ出ることは禁止だ。また、校舎内でも決められた場所以外への立入は禁止されているから、ちゃんと守るように。それから、予定されていた夜のミーティングは合宿期間中やらないこととした。先生たちはこれで帰るけれど、何かあったら直ぐに電話で連絡するように」と云うと、横にいた保健師が正美たちになにやら注意事項を話して聞かせ、調理室を出て行ってしまった。私はあれっと思って佐伯に訊いた。
「なんだ、一緒に泊まるんじゃなかったのか。まぁいないほうがいいけど」
「最初からやる気なんてないんだから、そんなもんだろう」
私たちの話を聞いて、横にいた正美が「今年から、一緒に泊まらなくて良くなったんだって。バレー部なんか昼間も担任が来ないみたいよ。そっちは問題っぽいけどね」と云った。そして、正美は佐伯を見て「ねぇ、安田くんがバレー部なんて信じられないね。佐伯くん知ってたの」と訊いた。佐伯は正美に顔も向けずに、無愛想に「いや」と答えた。正美は佐伯のそんな様子を気にもせず、「それに、中学のときあんなに好き嫌いが多くて給食が食べられなかったのに、随分食べられるようになったのね」と驚いている。「ねぇ佐伯くん知ってた。給食のとき安田くんいつもいじめられていたんだよ」と正美は佐伯の顔に自分の顔を近づけて云った。
「しらねぇよ」と云うと、佐伯はすっと立ち上がり、食べ終わった皿を流しに持っていって洗い流した。正美は安田の食べている側に近づいていって、安田に声を掛けた。
「ねぇ、安田くん。バレー部に入ったなんて驚いちゃった。どうしてバレー部に入ったの。それに昔と違って、ちゃんと食べれるようになったじゃない」正美はきっと冗談のつもりだったのだろう。でも安田の顔は遠目からでも分かるぐらい、みるみる蒼ざめていった。そして、スプーンを持ったまま、俯いてしまった。そのとき、安田の隣にいたやつが云った。
「うっせえよ。あっち戻れ」
正美はそいつに向かって、ペロを出し「なによっ」という顔をして、直ぐにこっちに戻ってきた。私はその様子を見ていて、やはり、なんで安田はバレー部になんか入ったのだろうと思った。私も席を立ち、皿を洗い流した。私と佐伯が並んで流していると、正美も佐伯の隣に来て洗い流し始めた。私たちが流し終わった皿を布巾できゅっきゅっと拭く。手馴れたものだ。
「ねぇ、佐伯くん。安田くんって中学のときいじめられていたの知ってるよね」と正美は他の部員に聞かれないように小声で訊いた。佐伯はそれには答えずそのまま黙っていた。正美はそんな佐伯の顔を見ていて、ハッと気が付いたようだ。
「そういえば、佐伯くんと安田くんって、クラスは違ったけど仲良かったよね。自転車を二人乗りして先生から怒られるの見たぞ」と佐伯の脇腹を突っついた。
佐伯はキッとした顔で正美を睨み、
「お前、馴れ馴れしく触んな。もうあっちへ行けよ」と云って、顎で女子部員のテーブルを指した。私はおやっと思った。昼間、佐伯は安田のことを知らないなんて云っていたのに。それに、よく知った仲にしては、なんで調理室に一緒にいるとき二人は話もしないんだ。
「なんだ、安田のこと、よく知ってるんじゃないか」
「知らないよ」佐伯はそっけなく答えた。私は知ってたっていいじゃないかと思ったが、それを佐伯には云わなかった。
「それより、担任たちが帰ったから、抜け出し易くなったな。こっちとしては、好都合だぜ」
「みんなは俺たちが抜け出すことを知ってるのか」
「うちの連中が他人のことなんか気に留めるかよ。みんな、他人に迷惑を掛けない最低限のルールはわきまえているんだ。後はそれぞれ自由にやるさ」と佐伯は「最低限のルール」の部分に力を込めて云った。そして、「俺たち、埃だらけになっちまったな。おばちゃんの店に行く前に、体を洗い流さないか。さすがにこの格好じぁ気が引けるぜ」と笑った。私は、女子のテーブルに戻った正美を横目でちらっと見て、正美との約束を思い出した。正美は私の視線には気付かず、みんなの云う冗談に膝を叩いて笑っていた。
「そうだな、体が粉っぽいよ。でもそんなに時間がないんだ」
「何云ってんだ、おばちゃんの店にはそんなに早く行かないぜ」
「いや、その前にちょっとな・・」と口ごもった。佐伯は私のそんな様子を見て、ピンと来たらしい。
「わかった、俺は一人でプールに忍び込むことにするぜ。後で落ち合おう」
「うん」
「それから、お前には悪いが、俺は早瀬のことが嫌いだ。早瀬が俺の話をしても、みんな作り話だから気を付けろ」と正美のことを云った。私は佐伯がなぜ正美のことを嫌うのかよく分からなかった。
私と佐伯は調理室を出て、暗くなりかかった夜空を見上げた。そのまま、じゃあと云って二人は分かれた。
正美との待ち合わせは、食べ終わってからすぐにという約束だった。私は歩きながら、調理室での正美の姿を思い出し、本当に食べ終わってからすぐに抜け出せるのだろうか、女子部員が後片付けを手伝っていたから、少し遅れるんじゃないかとも思った。待ち合わせの屋上は、調理室と別棟になっている校舎の、外階段を上がったところだった。その校舎は一回り小さく、英語のヒアリング教室や視聴覚室、それにグランドピアノがある音楽室が入っていた。私は外階段を上がって行ったが、二階の視聴覚室の窓はプラインドが降りていて中の様子が分からないようになっていた。ここは、庭球部の女子部員が今夜泊まる場所だ。正美もここで寝るんだなと思った。三階の音楽室の窓はブラインドが開いていて、床の上にグランドピアノやティンパニーセットが見えた。また、奥にある棚には木管楽器の収納ケースが山積みされていた。壁の周りには、ぐるりと音楽の父バッハや音聖ベトベンなどの肖像画が掛けられていた。こうして、らせん状になった外階段を上りながら、月明かりに照らされた教室の中を覗き込むのは興味深かった。これが理科室だったら薄気味悪かったかもしれない。階段を一番上まで上り詰めると、屋上に出る柵の扉があったが、扉はナスカンで留められていただけだったので、簡単に屋上に出ることができた。
屋上の周りは膝頭程度に一段高くなっているだけだったので、視界を遮るものはなかった。私は景色を眺めながら、狭い屋上の周りを一周した。たかが三階建の屋上とはいえ、高いところから見下ろす普段の風景は新鮮な思いがした。遮るものが何もないから、髪を揺らす風が気持ちよかった。体育館に続く渡り廊下の中ほどに細い電柱が立っていたが、その電球の周りを、無数の虫が群れていたので、そのあたりだけが霞のようにぼんやりして見えた。まだ庭球部とバレー部の大半は調理室にいるようで、校舎の外に人影は見当たらなかった。私はもっと高いところから周りを眺めて見たいと思った。屋上の真ん中には、小さな給水タンクが設置されており、横に掛けられているハシゴを上ればそこに足場が組まれているので、上がってみようかとハシゴを見ながら思案していた。
そのとき、カタンとナスカンを外す音がして、正美がこっちに歩いてきた。もうエプロンは外していて、何か紙袋のようなものを手に持っていた。
「意外と早く出てこれたね。もうちょっと遅れると思ったよ。後片付けは大丈夫なのかい」
「えへ、みんなが気を使ってくれるのよ。後片付けぐらい私たちでやるからって。ねぇ、何見てたの」正美は私が給水タンクを眺めていたのを不思議に思ったらしい。私はちょっと照れて云った。
「あそこに足場が掛けてあるだろう。このハシゴで上れば眺めが良いかなと思ってね」
正美は目を輝かせて、「そうね、いいわよ上ろう」と云うと、私の背中を押した。正美に促されて、私は錆ついたハシゴに手を掛けて一段々々上っていき、足場に腰を掛けた。少しゆすって見ても足場はしっかりしていて、びくともしなかった。それを確かめてから私は正美の手を取って、ハシゴから足場までぐいっと引き上げた。
二人は並んで座った。私たちの目の下には、正面に二百メートルトラックのある校庭、その左手に練習コート、更にその奥にプールがあった。随分と高い位置まで上がってきたので、プールの水面が全体によく見えた。そこは一点の波紋もなく、静寂そのものだった。そして、眼下も良く見渡せて、調理室から次第にみんなが出てくるのが見えた。暫く二人はそうした風景を眺めていたが、私は正美が大事そうに紙袋を抱えているのが気になった。
「それ、何を持ってきたの」
正美はその紙袋を開けて、大事そうに中から砂糖漬けにされたドレンチェリーを取り出して見せた。私は最初それがなんだか分からず、「え、何なの」ともう一度訊いた。
「あれ、知らないの。よくフルーツケーキに入っているやつよ。私、これ大好きだから、クリスマスケーキなんかの上にあると、すぐに摘まんで食べちゃうのよ」と云って、ドレンチェリーを一つ口に放り込んで笑った。正美が紙袋を私の前に突き出して勧めたので、私は一つ摘まんで食べてみたが、懐かしいような微妙な味がした。
「練習に、食事の用意にと随分忙しいね。疲れただろう。食材は予定通りに足りているかい」
「作る量が難しくて、これで足りるかなぁなんて思ったけど、大丈夫。余ったものは明日使えるしね。ねぇ、部活はいつまで続けるつもりなの」
「まだやめようとは思ってないよ。新人戦もあるしね」
「そう、良かった」と云って、正美は胸をなでた。
「合宿はいいわぁ、もっと長く続ければいいのに」と云いながら、次々にドレンチェリーを頬張っていた。私は正美の家庭に何か事情でもあるのかと思ったが、そのことについて深く問いただすことはしなかった。暫くすると、眼下に見える電灯の下にバレー部のやつらが集まってきた。真ん中にランタンを置いて、その周りを車座になって座ったが、安田もその輪の中にいた。私はその安田を指して云った。
「あいつ、何でバレー部に入ったんだろうな」
「なんでだろうね。中学のときからは考えられないけど」
車座になって座っているやつらの顔は、ランタンに明るく照らされていた。何か冗談でも云っているようで、みんなの顔が笑っている。安田がいじめられているなんて、思い過ごしだったのだろうかと私は思った。バラバラに自由行動している庭球部に比べたら、バレー部のやつらのほうがまとまっているのかもしれない。
「きっと、安田にとっては良いことだろうな」
「そうね」と正美は静かに頷いた。正美はそれから遠くのほうを眺めていたが、不意に何かを見つけたらしく、「あれ、何かいるわ」と云った。正美の見ている先にはプールがあり、確かにその水面に波紋が残っていた。暫くすると水面から片足が伸びてきて、しまいに体が浮かんできた。
「あれはたぶん佐伯だよ。プールに忍び込むと云ってたから」
「彼、何やってるの」
「忍者泳法さ。やつが発明した」
佐伯は、水しぶきを上げることなく、浮かんだり沈んだり、奇妙な泳ぎを続けていた。誰もいないプールで佐伯は自由だった。佐伯は暫くするとプールサイドに上がったが、なんと彼は真っ裸だった。
私は腕時計で時間を確かめた。おばちゃんの店に行くにはまだ時間があるようだ。私のそんな様子を見て正美が「ねぇ」と云った。私は振り向いて正美を見たとき、正美の顔が驚くほど私の目の前にあった。正美の唇にはリップクリームが塗られており、月明かりに艶々と光って見えた。そこで私たちは初めてのキスをした。
屋上から外階段を下り、正美は二回の視聴覚室に戻った。視聴覚室のブラインドは開いていたので、中の様子がよく分かった。女子部員たちは奥のテレビを囲むように座り、みんなでテレビを見ていた。私は、賑やかなものだと思った。体育館まで行く途中、バレー部が車座になっている横を通り過ぎた。ランタンの灯に照らされて、闇夜の中に顔だけが浮かんで見えた。みんな笑っているようだった。安田の顔もあった。やつも笑っていた。
私が体育館の舞台に上がると、庭球部のほとんどの部員が敷きつめたマットの上で寝転がっていた。そこに佐伯の姿は無かった。私はまだ時間があるから、流し場で汗を流しておこうと考え、タオルを肩に掛けて体育館を出た。部室の前の流し場で汗を流そうと思った。そこなら少し離れているので、裸になっても目に付かない。しかし、実際にその流し場に行ってみて、失敗したなと思った。ここはサッカー部のやつらが使っているので、流し場に敷かれたグレージングは泥でどろどろに汚れていた。裸足になってその上に立つと、ヌルッと滑った。それでも時間を掛けて体を流したら、さっぱりとして爽快な気持ちになった。私は真っ裸で部室の壁を背にして立っていた。立ったまま夜空を見上げていた。空には無数の星が瞬いていたから、ひょっとしたら宇宙船と交信できるような不思議な気持ちになった。そこで私は、宇宙人と交信できるという五音階の口笛を吹いた。星空だけ見ていたから、口笛の音は段々大きくなっていった。その時、物音がして私は振り返った。真っ暗な部室の前に佐伯が真っ裸でこっちを見ていた。
「お前、裸で何やってんだ」
「おぉ、佐伯か。お前こそ真っ裸じゃないか」
暫くお互いを見合っていたが、お互いの情けなさに気が付いて、腹を抱えて二人とも笑った。その笑い声は遠くまで響いていった。佐伯は笑いながら私の着ていたジャージやパンツを見つけ、それを摘まんで流し場に放り投げ、水道水を勢いよく掛けた。
「おい、何するんだ」私はビックリした。
「なあに、俺の着ていたのもみんな洗っちまったよ。お前のも洗っちまえ」
「着替えを持ってきてないんだ。濡れたのを着て戻らなきゃならないじゃないか」私は少しムッとした。
「俺だって着替えなんか無いよ。誰にも見つからないでおばちゃんの店までこのまま行こうぜ」と佐伯は笑った。別に素っ裸でおばちゃんの店に行く理由は無かったが、その時の私たちの気分はすっかり高揚していて、馬鹿げた行動だからこそ、その気持ちを抑えられなくなっていた。
「よし、やってやろう」私は真面目な顔で佐伯に云った。
「俺たちはチャレンジャーだ。やるなら、着替えはここに置いて行く。勇者ならそれができる」佐伯は胸を張り、両手を腰に掛けて立っている。もう理屈は無しだ。
「よしやろう」
「誰かに見つかったら、もはや死んだも同然だぞ」
「見つかるもんか」
合宿の最中で、夕食後のこの時間だ。とこかの暗闇に誰かがいるかもしれない。現にさっきまで、私は屋上から佐伯の忍者泳法を眺めていたんだ。佐伯は辺りを伺いながら、中腰の姿勢で私について来いと合図をした。手足と顔だけが真っ黒に日焼けしているので、闇夜に真っ白な背中と尻だけが移動しているように見えた。たしかに誰かに見つかったら、言い訳のしようが無かった。しかし、気持ちはワクワクと高まるばかりだった。佐伯もきっと同じ気持ちだったのだろう。佐伯は、プールの裏手を回りこむルートでおばちゃんの店に向かった。それほどの距離も無かったので、あっという間におばちゃんの店に出る裏門まで来た。
おばちゃんはちょうど店を閉めるところで、トタンの扉を掛けていた。ちょうど最後の扉を閉めようとするとき、私と佐伯は店の中に飛び込んだ。おばちゃんは扉を持ったまま、あんぐりと口を開けて突っ立っていた。
「あんたら、どうしたの」とあきれている。「どうしたの」と聞かれて私と佐伯はやっと正気に戻った。実際問題、私も佐伯もなんでこんなことをしているのか、全く説明することが出来なかった。私はポリポリと頭を掻いて後ろを向いていたが、佐伯は下腹部を手で隠しながら、「そうだ、ステテコを貸しておくれよ」とおばちゃんにたのんだ。おばちゃんは扉を閉めると、私たちをあがり間に上げて、「しょうがないね。そのブラブラしてるの早く隠しな」と云いながら積んであったバスタオルを渡してくれた。それから、ガスコンロに鍋をのせて佐伯の持ってきた剣菱の熱燗を準備しながら、奥の部屋から鮮やかなヤッケを二着持ってきた。
「肌着は残してないから、これでがまんしな。形見だから汚すんじゃないよ」と渡してくれた。佐伯のヤッケは赤、私のはオレンジだった。おばちゃんの夫は、本格的に山登りをしていたそうで、ヒマラヤにも遠征に行ったという。しかし、十年近く前に山の事故で亡くなったそうだ。それはウィンドヤッケの薄手のものだったので、冷水を浴びてきた体には蒸れるようなことがなかった。同じ色のズボンもセットになっており、私と佐伯がそれを着て座っていると、なんだか山小屋に来ているような錯覚を感じた。おばちゃんは清酒用のコップが乗った盆の上に、鍋から銚子をつまんで乗せ、私たちが座っている前のちゃぶ台に持って来るところだった。しかし、私たちがヤッケを着てあぐらをかいている姿を見ると、そこで立ったまま固まってしまった。
佐伯は突っ立っているおばちゃんを見て、「さあ、一気にやろうよ」と云うと、おばちゃんをちゃぶ台の前に座らせた。おばちゃんもその昔、山登りをしていた。亡くなった夫と山岳会の同じ倶楽部に在籍していて、知り合ったんだという。私たちを目の前にして、おばちゃんには何か見えたのだろうか。
おばちゃんと飲むのは初めてだ。というより、これまで私は酒自体を飲んだことが無い。おばちゃんは手際よく、清酒用のコップを私たちの前に置いて、豪快に酒を注いだ。独特な酒のにおいがムッと鼻について、気分が悪くなった。私にはこのコップ酒を飲み干すことは到底無理に思えた。佐伯はもう待ちきれないといった様子で、肩を小刻みに揺らし、
「さあ、乾杯だ」と云った。おばちゃんは、「随分とせっかちだねぇ」とあきれたが、私にコップを持てと目で合図をした。
「じゃあ、おばちゃんが長生きするように。かんぱーい」と云うと、牛乳パックの牛乳でも飲むように一気にコップを開けようとして、飲みきれず鼻の穴から酒を噴きだした。
おばちゃんはあきれた顔をして、「あんた、無理するなよ」と笑った。私は一応コップには口を付けたが、とてもじゃないが喉を通らなかった。苦虫を噛み潰したような顔をして、コップをちゃぶ台の上に置くと、おばちゃんは、「まだ酒の飲み方もしらないんだねえ」と云い、持っていたコップをくいっと空けた。空のコップをちゃぶ台に置く姿を、私と佐伯は唖然として見ていた。おばちゃんは暫く目を閉じてじっとしていたが、暫くすると目を大きく開いて、私の目の前にコップを突き出した。
「あんたら、空になったら直ぐに注ぐもんだよ」
「あっ、はい」私はお銚子を持って注ごうとしたが、もう酒が入っていなかった。おばちゃんは私のコップから酒を移し変えて、「あんたは日本酒よりビールのがいいだろ」と云った。私はまだビールのほうが飲めそうな気がしたので、おばちゃんの言葉に従って冷蔵庫からビール瓶を一本持ってきた。座ったところで栓抜きを持ってくるのを忘れてた。
おばちゃんが佐伯はどうすると訊いたが、
「俺はこのままでいい」と云うと、つっと立って冷蔵庫の上にあった栓抜きをひょいとつかみ、冷蔵庫からきゅうりの漬物が入った小鉢持ってきた。おばちゃんは手際よくビールの栓を抜いて、私のコップに注いでくれた。私はコップを洗ってもらいたかったが、そんなスキもなく注がれてしまったので観念した。私は改めてコップを持ち、グイッと飲み込んだが、思いのほか冷えたビールは喉に気持ちが良かった。思わず私は、「うまい」とひとりごちた。
おばちゃんは佐伯のコップに冷酒を注ぎ足してやった。
「ちょっと熱燗にしすぎたね。冷酒のほうがいいだろ」
「そうするよ」
「なあ、なんであんたら真っ裸で走ってきたんだい」
佐伯は、うーんと考え込むような仕草をしていたが、私にも理由なんて分からなかった。その時の勢いというか、佐伯が真っ裸で泳いでいたのを見たことや、正美とのことが関係してるのかも知れないと思った。
「あたしは大抵のことは驚かないけど、夜中に真っ裸の変質者が店に飛び込んできたのは驚いたよ」
佐伯はコップに口を近づけて、上澄みを啜るように飲みながら、
「変質者はないだろう」と笑った。
「変質者そのもの。でも着るものがあって良かったな。あたしのスカートを穿くわけにはいかないだろう」
確かに、時間が経って落ち着いて考えれば、着るものも持たずにやってくるなんて言い訳無用だった。
「だけど、こうやってヤッケを着てるあんたらを見ていると思い出すねえ」とおばちゃんはしみじみした顔で云った。
「昔、山に登っていた頃、こうして山小屋で過ごしたもんさ。男も女も関係なく、濡れた衣類を囲炉裏の火にかざして乾かした」
「女も裸になったのかい」おばちゃんは佐伯の言葉には耳を貸さずに続けた。
「山や海では遭難することがあるね。でも山と海はどっちが怖いと思う。それは山だよ。私はそう思う」おばちゃんの目は、遠くを見ているようだった。
「海だって嵐や台風がくれば、小さな船はひとたまりもないだろう。だけど、経験や技術があればそれを避けることができる。嵐の日に港を出て行くばかな船長はいない。だけど、山は違う。山は一歩先に地獄が待っていることがある」
おばちゃんは一升瓶から直接、自分のコップに酒を注いだ。
「山ではリーダーの判断が一番大事なんだよ。そしてリーダーは絶対的な存在さ。最近、世の中じゃあ民主主義だのへったくれだの騒がしいようだが、山では民主主義なんて通用しないよ。みんなの意見を公平に聞きますなんて云ってたら、命がいくつあっても足りない」
佐伯はきゅうりの浅漬けをボリボリかじっていた。目がぎょろっとして見えた。
「でも、それだけに仲間はすごく仲がいい。次第に家族以上の間柄になるんだ」おばちゃんは佐伯を見て、「あんた、今日はあたしたちの山で撮ったフィルムを見せてくれと云ってたよね。あたしの死んだ旦那は、ちょうどあんたぐらいのときに山登りをはじめたんだよ。随分と内気な性格だったのか、それまで友達がいなくてね。山岳部に入ればきっとみんなから声を掛けてもらえるだろうって、たったそれだけの理由で山登りを始めたらしい」
おばちゃんはまた、ぐいっとコップの酒を空けた。今度は私がそのコップに酒を注いだ。
「その後、高校を卒業した後、地域のクラブで私たちは一緒になった。私たちは週末になると近くの山に出かけたよ。前日の夜にリュックサックに荷物を入れると、不思議と気持ちが高ぶって眠れなくなったもんさ。そんな生活を送っていたから、みんな直ぐに仲良くなってねえ・・」
黙って聞いていた佐伯が、突然云った。
「わかるよ、その気持ち」
おばちゃんは「うん」と頷いて話を続けた。
「私は早起きをして、みんなの分のおにぎりを作ったさ。それから家にあった八ミリカメラも持っていった。私の旦那は、はじめて私がカメラを持って行ったときから、私たちの山行を撮影して記録することに熱心になって、それからは専ら旦那がフィルムに記録する担当になったんだよ」
私もコップに入ったビールを空けた。
「旦那は、本格的な山登りをするようになって、あちこちに遠征もするようになったんだけど、そういう時も私のカメラを持っていって撮影していたんだ。遠征から帰ってきて、フィルムが現像からあがってくると真っ先に見せてくれたよ。そこには、真っ白な山の世界が広がっていた。私には分かるよ。カメラは低温になると動かなくなるから、旦那は山頂に行くまで懐の中にカメラをしまっていたってことをね」
おばちゃんは、私と佐伯に酒を注いでくれた。私は酔いのせいか、注がれた冷酒を抵抗なく飲むことができた。
「山の仲間に自分の名前を呼んでもらいたい。声をかけてもらいたいという理由ではじめた山登りも、次第に一人で山にでかけることが多くなってね。リーダーの責任に耐えられなくなっていったのかも知れないね」
私はおばちゃんの旦那の気持ちが分かるような気がした。
「いや、そうかな。山登りの全てを一人で完結させること、そのことに魅力を感じてたんじゃないかな。俺も一人で山登りを完結させる気持ち、分かるような気がするよ」
おばちゃんは「ふぅ」とため息をつくと、
「そう、最後も一人で逝っちゃたんだけどね。さあ、そろそろフィルムを見るかい。映写機をセットしておくれよ。それから、あんたはそこの襖にポスターを貼っておくれ」と云って、おばちゃんは私に顎でポスターのある場所を指した。私はおばちゃんの店に映写機があるなんて知らなかったから、「へぇ」と思ったが、佐伯は映写機のある場所も知っている様子だった。佐伯は映写機をセットすると、おばちゃんが押入れから出した緑色の紙箱をいくつか取り出し、ちゃぶ台の上に並べた。私は映写機が投じる光の四角に合わせ、スクリーンの代わりとして貼るポスターの位置を調節した。佐伯は紙箱からリールに巻かれたフィルムを取り出し、映写機の巻取り側リールに巻きつけ、続いて映写機本体のフィルムが通る溝に注意深く差し込んでいった。映写機のリールがジッジッジと鳴りながら回る。佐伯はフィルムを数秒回してピントを確かめると、立ち上がって部屋の明かりを消した。暗い部屋の中で、おばちゃんの顔が浮かび上がっていた。そのせいか、おばちゃんの表情はいつになく真剣に見えた。スクリーン代わりにしたポスターに映されたのは、どこかの高原のようだった。遠くに清々しい純白の山並みが見える。佐伯が映像の中の一人を指して云った。
「あれは若い頃のおばちゃんじゃないか。随分ときれいじゃないか」
「あぁ、そうだよ。私の旦那は、山の記録にかこつけてよく私を撮っていたのよ」
「愛されていたんだね」
おばちゃんは、「お前たちには分からないこと」というような顔で笑った。フィルムは全て山行の記録だった。見終わったとき、おばちゃんの酔いに、佐伯は一気に追いついていた。おばちゃんは目を閉じていた。
おばちゃんの店を出て、私と佐伯は星が瞬いている夜空を見上げた。私は気分が良かった。それは酒のせいだけではなかっただろう。
佐伯には佐伯の、そして正美には正美の未来がきっとあるんだろうと思った。そして、安田にも、私にも。
佐伯は酔ったのか、私の前をよろめきながら歩いていた。
体育館に戻る佐伯の後姿を見て、久しぶりに佐伯から紙相撲の話を聞きたいと思った。
了
植村直巳さんの影響があります。