30・世界の真実
――あぁ、そう。そうか。そういう事だったんだ。
これで漸く分かった。お茶会の時の、由羅さんの言葉の本当の意味が。
『世界は無限に存在する。だから、それに付随するものも無限に存在する』
この世界は、無数にある世界の内の一つでたまたま「自転車に乗って条件を満たす事になってしまった」人々が召喚される世界。ううん、「場所」と言うべきなのだろうか。
だとしたら、私が召喚条件を未だ満たしていない、私だけ帰れるかもしれない、というのはきっと”そういう事”なんだろう。
「神殿に……神殿に行かなきゃ……」
私はさっき、病室で母の事を思った。思えた。恐らくきっと、今なら帰れるのだと思う。
両親と兄弟。「私の家族」の居る元の世界へ。
吐き気を堪え、立ち上がった私は「停竜所」に向かった。そこにはお客待ちのタクシーの様に飛竜が何頭かウロウロしている。付近では、操縦士さん達がのんびりとお喋りをしていた。
そこに近寄り、神殿に行けるかどうかを聞いてみる事にした。
「すいません、神殿行きの飛竜っていますか?」
この国立病院の正確な場所が分からない以上、下手に歩くのは得策とは言えない。飛竜に乗って一気に向かうのが一番だと思う。それに、早くこの場から立ち去らないと、成美さんや拷問局の人達が追って来るかもしれないし。
「ん?神殿行きも何も、言ってくれれば何処にだって行くけど?」
操縦士さんに訝し気な顔をされ、私は「あ、そうか」と思った。すっかりバスと同じ感覚になっていた。
「あの、じゃあお願いします。実は今お金持ってなくて、一回家に寄って貰っても良いですか?」
「良いよ。毎度あり」
位置関係が分からなくても、空に上がれば直ぐに分かる。私は急いで青い飛竜の背に乗り込んだ。
◇
思った通り、空に上がって地上を見下ろすと病院から自宅までの位置関係は直ぐに分かった。御者さんに大体の位置を告げ、飛竜を発進させて貰うと約10分ほどで自宅に着いた。操縦士さんに表で待って貰い、財布を取る為に部屋に入る。
「あ、この香り……」
家に入った瞬間、とっても良い香りがした。香りに誘われるまま、ふらふらとキッチンの方へ向かう。
「これ……」
野菜スープの鍋。蓋を開けてみると、この前食べた時にはコンソメ色だったスープがミルク色になっていた。ほんのりとチーズの香りがする。テーブルの方を振り返ると、所狭しと沢山の料理が並べられていた。この調子だと、きっと冷蔵庫の中身は空っぽだと思う。
「あはは……もうやだなぁデューったら……。こんなに、食べられる訳、ない、のに……っ!」
止まっていた筈の涙が、次々と溢れ出して来る。馬鹿。馬鹿なデュー。そしてもっと馬鹿で愚かなのはこの私。彼の愛情を手玉に取って、その優しさを踏みにじった。こんな私は、彼の側に居てはいけない。
帰らなければ。彼の為に。帰れば私は「召喚されていない」事になるのだから、新しい女性が来てくれる筈だ。
私は鞄の中から銀貨を2枚取り出した。自宅に戻るまでの間、病院から神殿までの運賃を聞いておいたのだ。銀貨1枚と銅貨6枚。日本円にすると8000円。銀貨2枚でお釣りを受け取らなければ丁度良い。
残りのお金は置いて行く事にした。デューは高給取りだけど、お金はあるに越したことはないしそもそも私にはもう必要ない物だから。
「お待たせしました!」
私は飛竜の元に戻り、再びその背に乗った。風を抱いて飛ぶ飛竜。眼下に見える、やっと見慣れて来た街並み。それらを目にするのも後僅かだと思うと、何だか無性に寂しくなった。
「お父さんは蘭 真司。お母さんは友里恵。お兄ちゃんは光流。弟は詩音」
うん、大丈夫。家族の名前を覚えてる。これなら帰れる。帰って、デューを自由にしてあげられる。
今度こそ、彼を幸せにしてあげる事が出来る。私さえ居なくなれば。
(嘘つき)
「いっ……たぁい…‥」
ズキズキと痛む頭。家族の名前を口にした直後から、ぶり返して来る激しい吐き気。だけど私は、それらよりももっと苦しくて恐ろしいものを抑え込むのに必死になっていた。
(嘘つき。デューの為なんかじゃない。全部自分の為。ただこの罪悪感から逃げ出したいだけ)
――うるさい。うるさいうるさい!そんなの分かってる!
(何て卑怯で愚かな香音。自分の心を守る為だけに傷ついた、いいえ、傷つけた彼を見捨てて逃げるなんて。今のアナタは銃を乱射した挙句に頭を撃ち抜き、一目散に逃げだすただの臆病者)
「うるさいってば!」
「うわっ!どうしたんだ!?」
頭痛と吐き気、そして幻聴に耐え切れず叫んでしまった私を、操縦士さんは驚いた様な顔をして見ている。
「いえ……ちょっとウトウトしちゃって、すいません……」
何だ寝惚けてたのか、と操縦士さんは苦笑し、直ぐに前に向き直った。私は痛みに霞む目で、ぼんやりとその背中を見つめる。
……先輩。先輩、貴方は正しかった。
貴方は仕事も出来たけど、何よりも人を見る目を持っていた。貴方には見えていたんですね、私のこの醜悪な内面が。なのに勝手に傷ついて馬鹿みたい。私は真実、「その程度の顔」だったのに。
◇
元々、自宅から神殿までは徒歩圏内なのだ。5分もしない内に神殿に到着した。
飛竜から降りた後、操縦士さんに無理矢理銀貨2枚を押し付けた。最初かなり渋った操縦士さんも、最終的には諦めて銀貨を2枚、受け取ってくれた。
「ありがとうございました」
「……毎度どーも」
操縦士さんは困惑した顔のまま、飛竜に乗って病院の方角に飛び去って行った。
それを見届けた後、私は神殿の正面受付に向かい急ぎ弥生さんに会わせてくれる様に頼んだ。見た目で直ぐに異世界人だと分かった為か、あっさりと中に通される。
そして通された部屋で暫く待っていると、コンコン、とノックの音が響いた。
「香音さん……?」
「弥生さん、お久しぶりです」
ドアを開け、入って来た弥生さんは何処か不審そうな眼差しをしている。そして私の座っていたソファーの向かい側に腰を下ろした。
「香音さん、急にどうかしたの?何かあった?もしかして規約違反申請?」
「いいえ。違います」
私は弥生さんの目を真っすぐに見て言った。
「私を元の世界に帰して下さい。出来ますよね?今なら。だって私、まだ完全には死んでいないんでしょう?」
「なっ……!」
”何を言って”ではなく”何故それを知って”と言った表情の弥生さんを見て、私は確信をした。
やっぱりそうだったのね。私が満たしていない召喚条件はこれだったんだ。
「由羅さんから聞きましたか?私が時々家族を思い出すって。その度に体調不良になるんです。それって、魂が向こうに引っ張られるからですよね?だけど普段は全く思い出しもしないんです。だからきっと、今の私は生死の境を彷徨っている状態なんですよね?」
恐らく、容体が安定したり急変したりを繰り返しているんだろう。だから、まるで電球が点いたり消えたりするみたいに、記憶が戻ったり忘れたりしているのだ。
「由羅さんも来た瞬間はそうだったんですよね。けど、ここでお相手を待っている間に向こうで命が尽きてしまった。由羅さんは王太子妃だから、その真実を知る事となった。由羅さんとお茶した時に彼女こう言ったんです。”大学受験直前でドジ踏んじゃった”って。その時はインフルエンザか何かかなって思ったんですけど、本当は自転車事故に遭った事を指してたんですね」
弥生さんの顔色は、紙の様に真っ白になっている。確かにこれは、他の召喚者達には言えない事だろう。
恐らく皆は、「普通に異世界召喚された」としか思っていない筈だから。
「……そう。そこまで理解しているのね。分かったわ。貴女は最初から結婚を嫌がってた。やっぱりルルスさんとの仮結婚生活は辛かったのね。だけど、今ここで勝手に帰す訳にはいかないの。これから王宮に使いを出さないと。少し時間かかるけど待って貰える?」
「はい」
そうなるだろうとは思っていたから、私は大人しく頷いた。正直気は急くけど、こればっかりはどうしようもない。弥生さんは立ち上がり、一度部屋を出て行った。でも近くに人が居たのか、割と直ぐに戻って来た。
「今使いを頼んだわ。それと」
「それと……?」
そこで弥生さんは少し苦しそうな顔をした。何だろう。何か言いにくい事でもあるんだろうか。
でも今更だわ。今更もう、何を聞いてもそんなに驚く気がしない。
「弥生さん。私大丈夫ですから」
私がそう言うと、弥生さんは目を閉じフゥ……と小さく息を吐いた。そして、目を開けると再び扉の方へと向かう。
「ついて来て」
「え?」
「貴女を召喚した魔法陣がある部屋。そこに連れて行ってあげる。どうせ帰るのもそこからになるから」
「あ、はい」
行っても良いんだろうか。王宮に使いとやらを出したのはついさっきなのに。
そんな私の心境を理解したかの様に、弥生さんは「まだ帰れる訳じゃないわよ?」と釘を刺して来た。
◇
神殿の奥の奥。石造りの扉の奥に、私が最初に出て来た魔法陣がある。何となく懐かしい様な気がする中、ギイィ……と蝶番が軋む音を響かせながら、重い扉が開いた。
「見て」
弥生さんに言われるがまま、部屋に入って中を見た。石造りの床の中央には、薄桃色の淡い光を発している魔法陣があった。淡く光ったり一瞬消えかけたり、まるで切れかけの蛍光灯の様に断続的な点滅が続いている。
「この光が、貴女の命の光。貴女が召喚された時から、ずっとこんな感じだった。光ってさえいれば元の世界に帰れる。許可が出次第、この魔法陣に乗って。今は乗っても無駄よ?起動文言が必要だから」
「これが、私の命……」
「えぇ。ただ一つ問題がある」
「問題?」
何だろう、問題って。
「貴女が来た時から比べると、光は随分弱まっている。正直、いつ消えてもおかしくないって思ってるわ。完全に消えさえしなければ帰れるけど、最悪帰った瞬間にあちらで死亡する可能性もあるの。ずっと観測している私からしたら、むしろその可能性はかなり高いと思っている。それでも良い?それでも帰りたい?」
「わ、私は……」
このまま罪に向き合わずに家族の元に逃げ帰っても良いのか。それで家族の顔を真っすぐに見る事が出来るのか。弥生さんの話だと、例え帰れてもそう長くは生きられないのだろう。
だけど、ここに残っても罪悪感に苛まれて生きる事になる、それは本当に「生きている」と言えるのだろうか。魂だけでも、家族の元に帰るべきではないのか。
『カノン、僕の家族になって!』
「デュー……」
私は、その答えをなかなか出す事が出来ないでいた。




