25・そして後悔の扉は開く
「……カノン?」
訝し気なデューの声に、私はハッと我に返った。デューは心配そうな、それでいて何かを待っている様な複雑な顔をしている。先程の自分の訴えに対する、私の返事を待っているのだ。
「あ、あのねデュー。ごめん。もう少しだけ待ってくれないかな」
当然ながら、デューは顔を顰めた。そして、不満そうに私の顎を掴む。
「少しってどれ位?僕達に残された時間自体が後少しだよ?カノンは、僕が嫌いなの?」
それは違う。嫌いなんかじゃない。むしろ多分好きだと思う。だけど、まだ駄目だ。だって私はまだ立ち直れていない。このまま結婚したらきっと、私はケイヴさんの奥様と同じ様な事をしてしまうかもしれない。さすがに娼館に売りとばしたり、なんて事は無いけれど。
「お願い、デュー。契約期限の一ヶ月よりも前にはきちんと答えを出すから少しだけ待って」
「僕を待たせる理由は何?何かが気に入らないからカノンは直ぐに返事を出せないんだよね?何が気に入らないの?言ってよ。言ってくれたら僕、絶対に直すから!」
だから、そういうんじゃないの。そうじゃないんだけど、これは私が自分で解決しなきゃいけない問題なの。この気持ちをどう伝えたら良いのだろう。そう悩んでいる私を見て苛立ったのか、デューはいきなり私を抱き締め、往来のど真ん中で無理矢理キスをして来た。
「や、やだっ!」
「……嫌?やっぱりカノンは僕の事好きじゃないんだね」
「そうじゃないってば!でもこういうのは嫌!それに、これ規約違反よ!?」
私はデューの胸を必死に押し返した。
――そう。規約違反。実は私は当初、これを逆手に取ろうとしていた。お相手は私の事を好きな訳だからちょっと誘惑すれば恐らく私を襲って来るだろう。そのタイミングで訴えれば簡単に契約破棄出来る。と、そんなある意味下衆な作戦を切り札として考えていた。
彼の人柄に触れるにつれ、絆されてしまった私にはその作戦を使う気はさらさら無くなっていた。
ただ誠実に、ひたすら考え悩んで彼との生活を選ぶのか選ばないのか、きちんと考えようと思っていた。
「カノン、ちゃんと僕を見て。カノンの考えている事が知りたいんだ。だから、僕に話して」
デューは「規約違反」と言う言葉に怯む事無く、私を抱き締める腕を離さない。それどころか、拘束する腕の力を益々強め、耳元に唇を押し付けて来た。背筋にゾクリと、甘い感覚が走る。
私はただ、ひたすらに焦る。だって、自分だって良く分からなくなって来てるんだもの。
……いや、良く分からないなら考えよう。先ず、あの変な性癖と言うか趣味嗜好の部分は、認めたと言うよりはもう麻痺したのか気にならなくなって来てる。性格も良いし優しいし、お給料も良いみたいだし見た目は抜群に美しい。何よりもこんな私を純粋に愛してくれてる。
そこまで考えて、私は大きく深呼吸をした。……大丈夫、落ち着いて話そう。
上手く言えないけど、きっとデューなら分かってくれる筈だから。
「デュー、あのね私……」
「カノンは僕と一緒に居たくないの!?最初はともかく最近のカノンは僕を受け入れてくれてるって感じてた!心が通った気がしてた!それは気のせいだった!?カノンは僕から逃げたいの!?」
「ち、違うわデュー、そうじゃなくて」
「言ってよ!僕の何が嫌なの!?あるならはっきり言って!もうこれ以上焦らさないで!僕は早くカノンの全部が欲しいんだよ!」
話を聞かせろと言った割には、私の話を全く聞こうとしないデュー。彼のその態度に、自分でも驚くほど傷ついたのが分かった。
……何よ。そっちこそ本当に私の事が好きなの?
「異世界人の女」じゃなくて「蘭 香音」の事をちゃんと好き?
――私はその瞬間、自分でも制御仕切れない程の怒りが湧いて来たのが分かった。
「何が嫌か!?そんなの、自分自身が嫌に決まってるじゃない!貴方の何だかちょっとズレた所やおかしな所は慣れたからそれはもうどうでも良い!貴方は完ぺき過ぎるの!思いやりもあるし優しいし、苦労した人生を送って来てるのに根っこの部分も全然歪んで無いし!私とはまるで違う!好きだった人に陰で蔑まれていた私なんかと違って驚くほど綺麗だし!さっきの子も言ってたでしょ、”お姉さんと綺麗なお兄さん”って!私は何の取り柄も無い平凡な私が嫌いなの!憎んでるの!だから!」
青褪め、呆然としたデューの顔。頭の片隅で、もう一人の私がデューに負けず劣らず、真っ青な顔をしながら必死に私の口を塞ごうとするけれど、もう自分でもどうにも出来なかった。
「……そんな貴方の隣に立つ自信も無いし、貴方と一緒に居たら私、いつか劣等感に食い殺されてしまうんじゃないかって思った。職場の人達も皆綺麗で格好良いし、彼らに”可愛い”とか”素敵な奥さん”とか言われる度に、正直凄く辛かった。嘘つき、嘘つきってずっと思ってた。それでも私、貴方と過ごす内に、貴方の事を知る度に、何とかこの馬鹿みたいな劣等感と戦おうって思える様になった。貴方が待ってくれるなら。……だけど、やっぱり無理だったね」
デューは蒼白な顔に涙を浮かべながら、必死に首を左右に振っていた。何かを言いたいみたいだけど、もうそんなのはどうでも良い。
「デュー。落ち着いて良く考えて。貴方は”私”を失っても”家族”を手にする事は出来る。異世界人の恩恵とやらは得られないかもしれないけど、貴方ならきっと、素敵な人との運命を得る事が出来ると思う。私が異世界人だって事に執着し過ぎちゃ駄目だよ」
「違う!違う違う!僕はカノンだから好きになったんだ!一目惚れなんて初めてだったんだ!だから……!」
涙をボロボロと溢しながら、デューは私の手を掴んで歩き出した。掴まれたその手が、ブルブルと震えているのが伝わってくる。
「ごめんカノン……。僕が焦り過ぎてた。もうこの話は止めよう。今日は家に帰ろう?僕がご飯作るから。カノン何が食べたい?」
「……デュー」
「野菜スープはまだ残ってるから、ミルクとチーズを足して別のスープにしてあげるね。後はパンを焼いて……サンドイッチでも良いかな、カノンはどっちが良い?」
「…………」
私は立ち止まり、掴まれている彼の手を振りほどいた。そして素早く後ろに下がり、追い縋り伸ばされる彼の腕から距離を取る。
「カノン……?」
「ごめんなさい、ルルスさん」
「止めてカノン!ごめんってば!謝るから、ちゃんとデューって呼んでよ!」
泣きながら、懸命に訴えて来る彼。私のこの態度は契約結婚において立派な規約違反だ。彼が神殿に訴えさえすれば、私は即座に彼と結婚する羽目になる。でもそれならそれで良いと思った。
「規約違反で訴えられた」と言う落としどころがあるなら、それを言い訳にして汚れた心と劣等感を誤魔化す事が出来るだろうから。
「……そうやってみっともなく泣いてても、貴方はやっぱり綺麗ね。中身が綺麗だからかな?私とは全然違う。こうなってみると、それが本当に良く分かる」
私はゆっくりと、後退る。
最初は逃げる事しか考えてなかったのに、共に生きる事を考え始めるなんて思わなかったな。
私も心が通い合ったと思ってたよ。でもそれは、お互い勘違いだったんだね、きっと。
「カノン……ねぇ、早く帰ろう?僕達の家は、そっちじゃないよ……?」
震える、デューの声。私はそんな彼に向かって言った。
「私、ずーっと貴方に嫉妬してた。多分、初めてあった時からずっと。だって美人過ぎるんだもの。逆にちょっとおかしな部分があったからまだ救われてたのに、それが気にならなくなっちゃったら中身も外見も極上の貴方なんて只の完璧超人じゃない。そんなの、絶対に無理」
「僕……僕は完璧なんかじゃない……カノン、お願いだからそんな事言わないで……」
おいで、と言わんばかりに伸ばされた両腕。
「仕方ないなぁ」そう言ってその腕に飛び込みさえすれば、こんな辛い時間は今直ぐにでも終わるのに。
そうしなさい、と耳元で怒鳴り散らすもう一人の私。
だけど私は、彼にクルリと背を向けた。息を飲む気配がしたと同時に、猛ダッシュで前方に走りだす。
「嫌だ!嫌だ待って!行かないでカノン!お願い!」
追って来る気配はしたけど、私は行き交う人の流れを上手く使い、すり抜ける様にして走った。
長身のデューには私程小回りの利く動きは出来ない筈だ。思った通り、私を呼ぶ悲痛な声はどんどん遠ざかって行った。
◇
どれだけ走ったのかは分からない。何処をどう走っていたのかさえも。
気付くと私は、鬱蒼とした森のすぐ手前に来ていた。大きな木に寄りかかり、はぁはぁと荒い息を吐きながら乱れた呼吸を整える。
「私、何やってんだろ……」
デューの泣き声が耳から離れない。大体、彼から逃げたとしてこれからどうするつもりなの?
彼の規約違反申請待ち?で、神殿の人に連行されれば、堂々とデューの元に戻れるって?
「いやいや痛すぎでしょ私……何よこの構ってちゃん全開モードは」
私ってこんな面倒くさい女だったんだ。自分で自分にちょっと引く。だけど、頭を冷やしたかったのも確かなのだ。
「今日、何処に泊まろう……」
お金は持っていないし、成美さんの家は何となく泊まり辛い。彼はデューに何くれとなく肩入れしてたし、私、絶対怒られそうな気がする。
どうしよう、と目を泳がせていると、ふと、森の入り口付近に立っている大きな看板が目に入った。何となく看板の文字を読んでみる。
『ここより先、ファーブラ家の私有地につき許可無き者の立ち入りを禁ず』
ファーブラ家って、どっかで聞いたなぁ。
「ファーブラ、ファーブラ………あっ!愛さんちだ!」
確か古代勇者のご子孫なんだっけ?私は少し考え、森の中に入ってみる事にした。
許可は全く無いけど、勇者様の家系の敷地内ならそう危険な事も無いだろうし、今夜はここで野宿させて貰おうかな。明日以降の事はまた明日考えよう。
そう決めた私は、森の中へズカズカと呑気に踏み込んでいった。
――デューの、あの美しい顔を目にするのは、あれが最後だったのだと知りもしないで。




