20・揺れて回る、心と身体
朝。いつもの様に腰に巻きついたデューの腕を外し、ベッドから静かに降りる。
ベッドから降りる時と着替えは静かに。だけど、キッチンで朝食とお弁当を作る時には、敢えて音を立てて動く様にしている。
別に頼まれた訳じゃ無い。
だけど”私が居る”事を実感させてあげないと、デューが不安になる気がしたから。
分かっている。これはただの偽善で自己満足だって。
もし、私が結婚生活の継続を望まなかった場合は逆に彼を傷つける事になるのも重々理解している。
彼を悲しませたくはないのに、悲しませてしまうかもしれない。
私はここに来て初めて、ひどく自分の心が揺らいでいるのを感じていた。
◇
「行ってらっしゃい」
「うん、行って来ます」
お見送りのキスをしてお弁当を渡す。デューは笑顔で手を振り、私に背を向け歩き出した。
けれど、数歩歩いた所でデューがいきなり振り返ってきた。
「ん?どうしたの?」
「あのね、僕、明日明後日でお休み取ったんだよ。だから二人でお出かけしたいなぁって思って。僕ね、カノンと行きたい所あるんだ。帰ったら詳しく説明するから」
「あ、うん……」
じゃあ行って来るね。そう言い、デューは今度こそお仕事に行ってしまった。
二日もお休み取ったって事は、泊りがけで何処か行くのかしら。
この近辺しかうろついていないから、違う場所に行けるのは正直嬉しいし楽しみでもある。
それにしても、この間の買い物の時もそうだったけど結構お休みが取れるものなのね。
拷問官って、案外福利厚生が充実してるんだなー。
「さて、また日記でも書いておこうかな」
私は日記帳を取り出し、キッチンに座った。そして現在の自分の心境を素直に書き綴り始めた。
『カエルムに来て19日目。
昨日、デューに家族の事を聞いたら一気に空気が凍り付いた様な気がした。話したくないなら仕方ないけど、ちょっと気にはなっちゃう。デューのご両親もきっと美男美女なんだろうな。羨ましいけど、デューがもうちょっとこう、難のある顔立ちだったら良かったのに。難があるって言うか、せめてバージルさん位親しみのある格好良さだったら、ここまで悩まなかったかも。あんな傷一つ無い完璧美人のデューの側に居続けるのは地味に辛いし、何よりも子供が可哀想。絶対”あら、ママに似ちゃったのね、パパに似れば良かったのに残念ね”って思われるもん』
――読めば読む程卑屈な内容。
だけど、これが今の私の紛う事無き本心なんだから仕方が無い。
日記帳に吐き出す事で、何かが変われば良いんだけど。
「やっぱり、お仕事したいなぁ……」
でも、このままここでデューと暮らすのかお別れするかで色々変わるかもしれない。
お別れした場合、決めた職場が新しい家から近いとも限らないし今動くのは時期尚早かな。
それにしても、ここの所デューは驚く程まともだ。
由羅さんにはあぁ言っちゃったけど、最近は私の触ったものとか舐めたりしてないしスカートを捲ろうともしない。お風呂も覗こうとしないし、トイレのドアに耳をくっつけて排泄音を聞こうともしない。
いや当然しなくて良い、というかむしろして欲しくないんだけどそれがどうにも気になってしまう。
「デュー、私の事もうそんなに好きじゃなくなっちゃったのかな……」
そりゃそうだよね。好き好き言ってるのにいつまでも相手が素っ気ないと、やっぱり冷めて来るのは当たり前だもん。私だったら速攻諦めちゃう。で、次を探す。
冷たくされてるのに「それでも愛されてるから!」なんてお花畑な事、私だったら絶対に考えない。
「でも、私そんなに冷たくはしてないし……」
……いやいや待って。だから何?もし、逆の立場だったら?
一ヶ月後、正確には後12、3日で自分の元を去ろうと考えているかもしれない相手にそういつまでも優しく出来る?ううん、こっちからは出来るかもしれない。でも、相手の中途半端な優しさに触れていたら、きっと傷つくとは思う。
――私は、ひょっとして間違っているのではないだろうか。
このままお別れするかもしれない。だからせめてそれまでは楽しく過ごして貰おうと思っていたけど、それって逆に残酷なのでは?
『この生活が無くなるなんて考えられない』
今になって、デューのあの言葉が胸に重くのしかかって来る。
彼の気持ちを受け止める覚悟も無いのに「もう好きじゃなくなったのかな」じゃないでしょ。
「まだ好き」だったら何なの?安心して終わり?同じ気持ちを返すかどうかも分からないのに?
私って、ホント最低。
自分の事ばっかり考えている身勝手さに、軽く眩暈さえ覚える。
そういえば、お母さんにも良く言われてたな。
『香音は優しい子だけど、もう少し人の気持ちに寄り添えると良いわね』って。
「……うっ!」
いきなり、周りの風景がグルグル回る。今までにない、強烈な眩暈と吐き気。
何これ。どうして急に。お母さん?お母さんの事を思ったから?違う、思えたから?だから、干渉が効かなくなってるの?
――私は、召喚条件をまだ満たしていないの?
喉元に何かが込み上げて来るのを自覚すると同時に、私は激しく床に嘔吐した。
頭がグラグラと揺れ、まともに立っていられない。膝をつき、そのまま床に倒れ込む。
(デュー……)
薄れゆく意識の中で、私はずっと、彼の名前を呼んでいた。
********
――――香音!香音しっかりして!聞こえる?
大丈夫だからね、大丈夫!だから、香音――
「う……」
「カノン!?」
あれ、私何してるんだろう。何でベッドに寝てるの?それに何故かデューの声が聞こえる。
デュー、もう帰って来たの?もしかして私、ずっと居眠りしちゃってた?
大変、まだ夕ご飯の準備もなにもやってないのに……!
「お帰りなさいデュー……ごめんなさい……私ったら居眠りしちゃって……」
「カノン無理しないで!キミは倒れてたんだよ、台所の床に……!ごめんねカノン、僕が具合悪いの気づいてあげられなかったから……。見つけた時、身体が凄く冷たくて動かなくて、僕、もうどうしたら良いか分からなくなって……!」
デューの綺麗な紅い瞳から、透明な涙がポロポロと零れ落ちていく。
私はその様子を、ぼんやりと眺めていた。
「嫁、具合はどうだい?」
「え?」
この声、どっかで聞いた声だなぁ。私はそんな事を思いながら、ゆっくりと上体を起こした。
ベッドの横には、泣きながら私に取り縋るデュー。そしてその後ろには、紫髪の美女が立っていた。
えーと、この迫力美人はあの人だ。
「シグルズ局長さん……?」
美女は嬉しそうに笑い、大きく頷いている。
「おー、良く覚えてたねルルスの嫁。えらいえらい。今日は仕事が1件流れたからね、少し時間が空いたんだよ。だから皆思い思いに過ごしてた。ルルスは一回家に帰るって言ったんだ。だからアタシも息子の誕生日プレゼントを買いに行こうと思ってね。たまたまこの家の前を通りかかったらルルスがギャーギャー泣き喚きながら飛び出して来るもんだから、びっくりしたよ」
ギャーギャー泣き喚きながらって。
「一応医者は呼んでおいたよ。そしたら熱も無さそうだし、調べた所体内に有毒物質も見当たらないし、過労か何かだろうって言ってた。まぁゆっくりと休む事だね」
局長さん、お子さんいらっしゃるんだ。良いなぁ、こんな美人なお母さん。
「すいません、ありがとうございました。もう大丈夫です」
「うん。ルルス、お前は今日はもう良いから、嫁についててやんなよ。丁度良かったね、二日間休み取ってるだろ?ちゃんと面倒みるんだよ」
「はい……」
漸く泣き止んだデューは、局長さんに向かって小さく頭を下げていた。その様子が、まるで弟が姉に謝っている様で何だか微笑ましくなった。以前感じた謎の嫉妬心、今日は全く沸いて来ない。
(局長さんが、デューとそういう関係じゃない事が分かったからだよね)
じゃあな、お大事に。と言い残し、颯爽と局長さんが帰った後私はずっと考えていた。
私、何で倒れたんだろう。別に具合悪かった訳じゃないんだけど。
「デュー、今何時?」
「14時だよ。ねぇカノン、いいからまだ寝ててよ」
「え、でも……」
――結局デューに押し切られ、私はまだ明るい内からベッドに閉じ込められてしまった。
キッチンからは、何かを切ったり炒めたりする音が聞こえて来る。
ひょっとしてデューがご飯作ってるのかしら。って言うか作れるの?
心配だけど、今起きた所できっと何もさせて貰えない。
仕方なく再びベッドに潜り込み、頑張って両目を閉じてみた。
眠れる訳ない、と思っていたけれど、シーツにくるまっている内にスーッと眠気に襲われて来る。
(……今寝たら夜寝られなくなっちゃうかもだけど、いいや。寝ちゃお)
私は大人しく睡魔に身を任せる事にした。
何で倒れて気を失ったのか、その日は結局思い出す事は出来なかった。