第四幕 -見えない闇-
――――さっきは本気で死ぬかと思った。まさか郵便物の中に爆弾が隠されてるだなんて、誰が想像できるというんだ。
せっかく父さんが"超高額"なお金を出してまで買ってくれたマンションの最上階の一室は、たった一夜にして台無しになってしまったわけだ。
火災保険……が効くのかどうかは分からないが、それでも莫大な修繕費がかかることは目に見えているよな……父さん、すまない。
一応家主は母さんになってるから、費用については上手いことごまかせると思うけど…………なんてことだ。
――――私は寝間着姿のままタクシーに乗って、父さんから教えてもらった隠れ家へと向かう。
最初乗り込んだ瞬間、タクシーの運転手から何か珍しい生き物でも観るかのような目で見られたが、それも一時的なものだった。
今はとにかく休みたい。明日――――というか今日――――の大学はサボってしまおう。なあに、一日や二日くらい休んでもどうってことないだろう。それにこんなことになってしまったんだ、いつも通りとはいかないだろう。
例の隠れ家はマンションから数キロ程離れた、建物や人通りが少なく、あまり目立たない所に位置している。
念のため秘匿性を案じた私は、教えてもらった住所より少し離れた場所を運転手に指定して、そこで下ろしてもらった。
そこから徒歩で数分ほど歩き、例の隠れ家の前に立つ。
外観は建物一面が真っ白で覆われていて、まるで倉庫と言っていいほどに洒落たものではなかった。おそらくこの中もあまり広いスペースじゃないだろう。
「まぁ、さすがにこんなところに人が住んでるだなんて誰も思わないだろうから、そういう意味では立派な隠れ家とも言えるか……」
とりあえず、中に入ってみよう。そう思って――――
「――――そういえば、入口ってどこにあるんだ??」
玄関のドア……のようなものが見当たらない。一面が白いせいで見えてないだけか?
おかしいなと思って側面側に回り込んで注意深く観察してみると、側面の中央あたりの外壁に銀色の丸いドアノブがついてるのを見つけた。
「分かりにくい場所にあるものだな」
ドアノブを捻ってみると鍵――――はかかっていなかった。しかし本当に不用心だな。これだと外出の時、開けっ放しで出て行かないといけないんじゃないのか?
そのままドアを開けて真っ暗な隠れ家の中に足を踏み入れ、すぐ脇にあった照明のスイッチらしきものを押す。
「おぉ――――!?」
――――前言撤回。内観はとても綺麗だった!
まず驚いたのが、床にタイルが敷き詰められていたこと。一瞬家の中と勘違いしてしまったぞ。
入口から入って、足元にある上りがまちを上ってすぐがリビングのようなレイアウトになっていて、六時の方向に白いシーツが敷かれたベッドがあり、二時の方向に台所、その左隣に冷蔵庫。十時の方向と八時の方向にそれぞれ別室への扉があった。全体的な広さとしては、二十四畳ほどあるスペースで、まさに倉庫を改装した一軒家のようなものだった。
まずは奥の扉を開けて電気を点けた。するとそこは脱衣所になっていて、正面に洗濯機があり、そのすぐ下に洗濯籠が。そこにはご丁寧にもバスタオルとボディーソープ、シャンプーが入れられてあった。
そして左手がシャワールームになっていて、中に入って蛇口をひねってみると、温水が出てきた。水はちゃんと通っているようだ。
――――続いて先ほどのもう一つの扉を開けてみると、そこは洋式のトイレになっていて、すぐ上に備え付けられた棚には、真新しいトイレットペーパーが袋に入ったままの状態で置かれてあった。
確かに生活をする分には困らないが、唯一の欠点は窓がないことで、時間間隔が分からなくなることくらいだろうか。
一通り確認してリビングに戻ってきたところで、床が汚れているのが目に入った。
「あぁ、そっか…………」
あれだけマンションの外でひと悶着して、ここまで裸足でやってきたんだ。そりゃ汚れて当然か。
台所から何か適当に布巾でも持ってきて掃除するとしよう。
――――それから十数分後、とりあえず足を拭いて床掃除を終えた私は、シャワーを浴びようと脱衣所へ向かおうとして立ち止まる。
「しまったな……」
そういえば着替えがなかったことを思い出す。
「まったく……憂鬱だ…………」
――――とりあえずシャワーを浴びてさっぱりした。同じ下着、同じ寝間着で寝るのには抵抗があったが、それらのことはまた明日考えればいいことだ。
床に放ったままのスマホを拾い上げて時刻を確認してみると、もう朝方の四時に差し掛かろうとしていた。
この私にせめてお昼くらいまで安息の時間をもらえると嬉しい……そう思って、ベッドに向かおうとした時だった。
「――――っ!!?」
ベッドの下――――そこから影が転がり出て来るや否や、そいつは片手で懐から何か黒い物を取り出すと、それをこちらに向けてきた――――
「――――よう。ずいぶんと暢気なものだなぁ、アンタ」
「あっ…………ぁ……っ………………!?」
不意を突かれたせいで上手く言葉が出ない。そいつはあまりにも物騒な物をこちらに向けたまま、気さくに話しかけてくる。
「自分が狙われていると分かっていながら単独行動か。なぜ護衛をつけなかった? アンタの父親にでも頼めばいくらでも『身辺警護』をつけてもらえただろうに…………なぁ? 『倉木摩耶』?」
――――どくん、と。
自分の名前を呼ばれて心拍数が急上昇する。まさかこいつは、先ほど私を焼き殺そうとしたヤツの仲間なのか……? だとしたら……『闇社会』…………!?
「ぐっ…………」
息を呑む。また私は命の危機に晒されていたのだ。
敵との距離は僅か二メートル少し。目の前に立つのは全身ライダースーツを身に纏い、ヘルメットで顔を隠した謎の男。声からして二、三十代くらいの若い男だろうか。
「――――さて、今の短い時間でアンタが考えたことは何だ? どうせ俺の身体的特徴を分析して、どんな敵なのか『プロファイリング』することくらいだろう?」
…………何を考えているのかもお見通しの様子。正直に言って、勝てる相手とはとても思えない。
「――――だ、だ……」
「『だ』……? 『だ』とは何だ?」
「だ……だ、だったら……っ! こ、答えてくれるのかっ?! お、お前が何者なのか!」
情けないことに恐怖で上手く舌が回らない。しかし男は気にした様子もなくこう答える。
「…………さぁ? 言い当ててみろ、俺が何者なのか」
「や、『闇社会』の手先か!?」
「…………もし、『そうだ』と言ったらどうする?」
「どうもしないっ!! お、お、お前が『闇社会』なんだとしたら、こ、これで詰みだ!! 私にはどうすることもできない!」
「なんだ、生きることを諦めるのか? "さっきは大変な目に遭いながらも、何とか生き延びることができたというのに"?」
「――――っ!! …………見ていたのか……!」
「あぁ、ずっと『監視』してたからな、アンタのこと」
「…………この……っ!」
握り拳に力が入る。こいつは……私があんな目に遭っていたことを知りながら、見て見ぬ振りをしていたのか……!
直接的な殺しはせず、間接的に死の淵に追いやり、そこでもがき苦しむ様を……!!
「人間の…………くず……っ!!」
涙ぐみながら、謎の男を罵倒する。
「何とでも言え。『闇社会』なんかに手を出すからこんなことになるんだ。これは全てアンタの落ち度だ」
「――――いいだろう……だったら殺せよ。あんなまどろっこしい真似なんかせずに、その拳銃で私を殺すがいいさっ!」
半分はもうやけくそだった。これで死ぬことになるなら、最後の最後まで警戒を怠った私の自業自得ということになる。
「意地になってるのか? ただのガキか、アンタは」
「…………私を殺すのはいい。でも他の人間には手を出さないでくれ」
「なに?」
「お前たちのことを知ってるのはこの私だけだ。オカ研の連中や家族は何も知らない」
「そんな戯言を信用しろとでも?」
「だったら探らせればいいだろ。お前たちに仲間なんて腐るほどいるだろうしな。そいつらに監視でも何でもさせて真偽を確かめてみればいい。もし私の言っていることが嘘だったら…………その時は仕方がない…………」
「ずいぶんと潔くないか? 俺をハメるためのトラップか? それとも単なる時間稼ぎか…………」
「別に、潔くなんかない。…………ただ、梅宮さんと最後まで連絡が付かなかったのが心残りだな…………」
――――男の持つ拳銃の銃口は私の心臓を捉えたままだ。時間稼ぎのつもりはなかったものの、少しでも隙を作れればと思ったが、それは甘かったようだ。せっかく焼死から免れたと思ったのに……万事休すか。
ところが、私の漏らした言葉に対し、やつは驚くべきことを口にしたのだった。
「――――『梅宮』? 『梅宮理沙』警部補のことを言っているのか? だったら安心しろ、その女は生きてる。今は『要人』と共に行方をくらませてるみたいだぞ」
思わず目が点になった。
…………なんでこの男は梅宮さんの現状を知ってるんだ…………?!
少し、落ち着いて考えてみよう。
十秒だけでいい、十秒だけ私に考える時間が欲しい。
そうすれば、この男が何者なのか分かるはず…………落ち着いて、落ち着いて…………
あの男の言葉には重要なキーワードが含まれている。特殊な言い回しから、何か手掛かりが掴めるはず……
『身辺警護』、『闇社会』、『監視』、『プロファイリング』、『警部補』…………
『分析』という言葉ではなく『プロファイリング』という言葉を使い、
『警護』という言葉ではなく『身辺警護』という言葉を使い、
『梅宮』さんの階級が『警部補』だと知っていて、
謎に包まれた『闇社会』のことも知っていて、
私を『監視』している人物…………
『間接的な』殺しの手段から打って変わって『直接的な』殺しにシフトしている……
つまりこの男は、さっき私を焼死させようとした人物とは別の人物ではないだろうか?
もし私を殺すつもりだったのなら、もっと早い段階で殺害すれば良かった話だ。拳銃なんか持っていて、こうやって不法侵入なんかできちゃうわけで……挙句の果てには私が"闇社会に手を出したことを知っている"わけで…………
そう考えると、この男は…………
「…………はぁ、やれやれ」
私は大きくため息をつきながら床に胡坐をかいて座り込んだ。
「…………おい、何のつもりだ? 撃たれたいのか?」
男は先ほどと変わらぬ姿勢で銃を構えている。
「いや、多分私の推測が外れてなければ、あんたは文字通り私を『監視』していただけだろう? そうすれば『闇社会』の手掛かりを得られると思って……違うのか?」
「…………」
あれ、無言になったぞ。
「いい加減その物騒な拳銃を下ろしてくれないか。そんなんじゃいつまで経っても落ち着いて話ができないだろう」
「…………」
なんだ、ウンともスンとも言わないな。
「あー……もしかして、『自分が誰なのか当ててみてー』ってやつ? 見苦しいからやめておけ。あんた、『警察』の人間なんだろう? といっても、ただの警察じゃなくて……おそらく"専門的な部門に特化した組織の人間"」
――――これでどうだ?
しばし男と見つめあい、やがて――――
「…………らしくないことをした。まったく……本当に警戒心がなさすぎるぞ、アンタ」
と、男は拳銃を懐にしまうと、私と同じようにして胡坐をかいて、静かに語り始めたのだった…………
『警察庁警備局特別任務遂行部隊隊長 コードネーム ナナシ』
それが彼の所属する組織名であり、コードネームだった。公安警察と呼ばれる部類だが、その中でも特殊とされている。
文字通り特別な任務を遂行するために結成された組織で、表向きの活動記録はほとんど残らないという、まさに謎の組織なのだと。
そう、その特別な任務というのは言うまでもなく――――『闇社会』の調査並びに殲滅だ。
俗世に聞く『闇組織』なんかとは比べ物にならないほど謎に包まれた存在『闇社会』。どこからかふっと沸いて出たくせに猛威を振るい、あちこちで跋扈してるらしい。
そいつらは並みの暴力団やテロリストならあっさりと殲滅して見せるほどの圧倒的な力を持っており、常に水面下で暗躍を続けているという。
地上に出てありったけの脅威を見せつけ、やがて再び闇に帰る頃、それらはもう"ただの噂"でケリがつけられてしまうため、『いつ』『誰が』『どこで』『どのように』死のうと、まるで日常のワンシーンのように過ぎ去ってしまう…………
それは新手の『都市伝説』として語られ、これまで恐れられてきた……
――――が。しかし、ここ最近になって『闇社会』の動きが活発になってきたらしい。
男は『おそらくその原因は"誰か"がやつらに噛みついたのがきっかけじゃないか』と語る。
そう、『私』と同じように抗った者がいる。その人物を始めとして色々な人物が影響を受け、『闇社会』という存在に綻びが生じた。
しかし、その綻びはほんの一時のもので、気が付かぬうちにまた元に戻ってしまうような微々たるもの。すぐに日常に溶けて分からなくなってしまう。
男の見立てでは"おそらく今、その綻びが元に戻ろうとする時期であり、『闇社会』と戦うには絶好のチャンス"なのだとか。
「――――それで? そこまであんたたちは知っておきながら、闇社会に消されそうになった一般人を見捨てたことについて、どのような弁明をするつもりなんだ?」
「むっ……」
痛いところを突っ込まれたと思ったのか、少し項垂れたご様子のナナシくん。
「こっちは死にかけたっていうのに……!」
「仕方ないだろう……マンション付近の防犯カメラに映るわけにもいかないし、それにあのセキュリティーをどうやって突破しろと言うんだ?」
……そうだった。あのマンションは防犯設備だけは優秀だったのだ。いくら公安警察でもセキュリティーをごまかすわけにはいかないし、あまり表に立つのはよろしくない……
「う、うるさいっ! そこは何が何でも私を助けろぉっ! 怖かったんだぞ!」
私は両手をパタパタさせながら、少し可愛く泣いてみせる。
「…………だから、"これから"は見張っててやるよ」
「へっ……??」
確かにこの男は『見張っててやる』と言った。つまり、それって――――
「えっと…………身辺警護、してくれるのか……?」
「あぁ、クライアントからそうするように言われたからな」
「…………は??」
ちょっと待て、雇い主がいる? そいつから私を身辺警護するように依頼されたのか、この男は。
いったい誰なんだそいつは。と言ってもどうせ答えてくれないだろうから、話を変えてみることにする。
「…………私を殺そうとしたやつは、やっぱり『闇社会』なのか?」
「そう考えるのが妥当だな。アンタが――――いや、アンタ"ら"がどんなネタを掴んできたのかは分からないが、それがヤツらを大きく刺激したことには間違いない」
「…………」
やっぱりそうなのか。
「アンタのダチに『ハッカー』がいたよな? "そいつは何を見た"? そして"アンタは何を知った"?」
「……………………それは」
「答えられないなら答えなくてもいい。仮に答えた所で何も咎めやしないさ。所詮"ズルして手に入れた情報"なんざ、たかが知れてるだろうしな」
この男はエスパーなのか、それとも察しが良いのか、話が早い人で非常に助かる。
こちらが皆まで言わなくても、自己完結させてしまいそうな勢いだ。
「『オカルト研究会』だったか? そこにハッカーを混ぜてるってことは、相当ヤバイネタが舞い込んできた時、そいつに頼って情報入手に勤しもうって腹だったんだろ……? そして今回、『闇社会』のネタを持ってきたのは誰だ? アンタか? 『他の誰も知らない』っていうのが本当なら、アンタが『古畑』って青年に情報を探らせたってところか。で、そいつは消されたと」
「ぐっ…………」
「『闇社会』の連中は不審に思ったことだろう。『"たまたま"闇社会のネタを探り当てたというにはあまりにも出来すぎた話だから、おそらくこの青年に情報を与えた者がいるのではないか』と」
「…………」
この男もそう考えているならやっぱり…………古畑くんを殺害した犯人の狙いは『炙り出し』だったのだろう。
それで慌てふためく人間が現れればそいつが"情報源"。
後輩への徹底した情報規制、いつもとは変わった行動。しかし、それは周りからしてみれば『どうしたんだろう?』って疑問を持たせるくらいに、逆に私は目立ってしまったのだ…………
「…………おそらく、『古畑』の事件がニュースになった日から、アンタは監視されてたんだろう。そしてアンタを始末する絶好の機会が訪れたってわけだ。…………確か現場の警察の情報によれば、『郵便物に爆発物が入ってた』そうだな?」
「…………情報が早いんだな」
思わず苦笑いを浮かべてしまう。プライバシーもへったくれもあったもんじゃないな、これは。
「しかし、分かりやすいトリックを考えたものだ。それも穴だらけのな」
「は? ちょ、ちょっと待て! その口ぶり……あんたにはトリックが分かってるのか?!」
「あぁ、もし俺が考えている通りの方法だったとしたら…………アンタは筋金入りのバカってことになるが」
「は、はぁっ!!?」
バカと言われて思わず赤面してしまう。
「とすると…………あとはそいつの動機か……おそらく『闇社会』に弱みでも握られたか……?」
考え事をしながら立ち上がり始めたので、慌てて呼び止める。
「ちょっ、待て待て待てっ!? 何一人で勝手に納得してるんだ!? あと、どこに行くんだ!?」
「裏取りなら知り合いの刑事にそれとなくさせるさ。俺は今から周囲を見回ってくる。あぁ、安心しろ。何かあってもいいように近くで待機しておく」
そう言って男が踵を返したので、私は慌ててその脚を掴みにかかった。
「だーかーら! 勝手に一人で納得するなって! この私にも教えろぉ~っ!」
「まったくぎゃーぎゃーうるさい女だ。これならあの『不良娘』の方がまだ大人しかったぞ……」
「…………何か今、物凄く失礼なことを言われた気がするんだがっ?!」
「やれやれ…………」
男はめんどくさがりながらも、私の手を取り外しにかかる。
どんなツボを刺激してきたのかはわからないが、すっと手が離されてしまった。
「あ、そういえば手土産を渡すのを忘れてたな…………」
そう言ってナナシくんは後ろのベッドまで歩いてくと、ベッドの下から大きな白いビニール袋を取り出す。中に何か入ってるのか、かなり膨らんでいた。
「なんだ、それ?」
「同僚の女に選ばせたものだからな……あまり文句言うなよ? ほら、受け取れ」
男はひょいっと、そのビニール袋を投げつけてきたので、それを受け止めた。
「あとこれはここの合鍵だからな。失くすなよ?」
続けて鍵のようなものも投げつけてきたので、それも両手でキャッチする。
「じゃあな、何かあったら大声で叫ぶんだぞ」
そう言って男は玄関へすたすたと歩いて行き、靴を履いて外へ出ようとする。
「あっ、ちょっとまだ話は終わってな――――?!」
――――ガチャン、と私の言葉を無視してそのまま玄関のドアを閉めてしまった。
私は四つん這いになった状態のまま、玄関へみっともなく手を差し出していた…………
この部屋に静寂が訪れる。
私は先ほどのビニール袋の中身を確かめてみることにした。
「…………着替え? そうか…………気を利かせてくれたのか…………」
同僚の女と言ったか。同じ女として女心を察してくれたんだろうな。
服の種類だって、これまで私が着てたのと似たようなものを選んでくれている。その心遣いは非常にありがたい。…………それで。
「――――なぜあの男がここの合鍵を持っている?」
『気をつけてな、摩耶。あと隠れ家の鍵は心配するな、そのまま向かってくれ。じゃあな』というのが父さんの言葉だったか。
『…………だから、"これから"は見張っててやる』
『あぁ、クライアントからそうするように言われたからな』
これが公安の男の言葉…………
「……………………ま、まさかね? 父さん? あの公安の男と知り合い、なんてオチはないよね……? ひょっとして…………父さんが抱えてる危険な案件って……『闇社会』に関わる物だったりしない、よね…………? ははっ、はは…………?」
どこでどんな厄介事を背負っているか分からない父さんのことだから、ありえなくもない……けど。
「……………………あまり深く考えるのはよそう」
一瞬背筋が凍り付いたが、しっかりと戸締りをした後、さっさとベッドに飛び込んで休むことにした。
用意してあった毛布を被り、目を瞑る。
ようやく安息の時が訪れる。もう身体はへとへとだ…………ものの数秒で私の意識はまどろみの中へと落ちていった…………
――――目を覚ました時にはもうお昼の一時をとうに過ぎていた。
しかし、外を出歩きたくなかった私は、近くで見張り番をしてくれていた公安の男――――ナナシくんじゃない別の人――――にパシリをして適当な食品を買ってくるように命じた。
その日は一日中隠れ家に閉じ籠っていた。夜にかけた梅宮さんのスマホには誰も出ることはなく、無事を祈りながら次の日を迎えた――――
――――午前十一時時頃。
その時、私は三階にある坂東教授の研究室へと向かっていた。確か今日、坂東教授は一時間だけの講義でその後はフリーだったはずだから、研究室にいるかもしれない。
ドアをノックして、中に入る。
「――――失礼します、坂東教授」
整理整頓された教授の研究室。その作業机の上にあるパソコンとにらめっこをしている坂東教授の後ろ姿がそこにあった。
彼は椅子に座ったまま、くるりと半回転をしてこちらに振り返る。
「おぉ、摩耶ちゃんじゃないか! どうした? 講義について何か質問かな?」
「今日のテーマ、『犯罪心理学』でしたもんね…………それに繋がることでちょっと質問が」
「うん、聞くよ。外ならぬ摩耶ちゃんの頼みだからね」
こちらにおわす老紳士は、にこにこと笑みをたたえつつ先を促してきた。
私はそれとなく、こんなことを口にしていた。
「『現代社会における闇』について、教授はどうお考えですか?」
すると、坂東教授は少し首をかしげる。
「ん……? えらく抽象的な表現だね……?」
「えぇ、そう言わざるを得ないというか…………」
全部を説明するのは憚られたため、私は簡潔に説明していく。
「たとえば…………日常生活において、誰の目にも留まることなく、水面下で活動を広げ…………いつの日か牙を剝いて襲い掛かってくるような…………」
「ふむふむ…………つまり、見えない犯罪者だと?」
「そのようなものです。まるで雲をつかんでいるかのようで、正体がはっきりしない。しかし、それは確実に私たちを蝕むもの……」
「なるほど……それが『現代社会の闇』……か」
教授は犯罪心理学についても詳しいと聞く。それなら、『闇社会』が次にどのような手段に出て来るのか、助言をもらえるかもしれない。
だがここではあえて『闇社会』という直接的な表現は避け、その特徴を示す『見えない闇』として置き換えておく。
「…………今回の講義を聴いていて、思ったんです。もしそのような『見えない闇』に襲われたら、どうやって生き延びたらいいのかなって」
我ながら、聞き方としては上手くできた方だと思っている。これなら、先ほどの『講義の延長線上』として答えてくれるはずだ。
「…………『見えない闇』と言ったね、摩耶ちゃん」
「はい」
「なぜ『見えない闇』に襲われると思う?」
「えっ…………」
なんて受け応えをすればいいのか分からず、戸惑う。
「い、いえ…………分かりません。ただ、もしものことを考えただけで…………」
「そうだね、あくまでもしもの話だ。しかし……人はその『もしも』を意識することで、『今まで見えなかったものを見ようとする』んだ。こういった経験はないかな? 『よくよく考えればこうだった』とか、『意識したせいでそれが表に出てしまった』とか……」
「はい…………確かにあります」
「周囲から視線を外し、目を凝らして物事を俯瞰することによって、そうしたことに気付くのが人間という生き物だね。だがそれは『闇』にだって同じことが言えるんだ」
「どういうことですか?」
教授は少し真剣な表情になり、机の上に置いてあったガラスコップ一杯分のお茶を飲み干し、再びコップを机の上に戻してから続けた。
「『闇』だって同じようにして目を凝らしている、ということだよ。たとえば摩耶ちゃんがそうした『見えない闇』に意識を向ければ…………お互いに目と目が合うことだって有りうると思わないかい?」
「それは…………っ!」
…………教授の言うことはごもっともだ。先日、ナナシくんが言ってた通り、『闇社会』は周りに目を凝らして観察していた。
「さて…………目と目が合った瞬間、摩耶ちゃんはその『闇』にどんな感情を抱くのかな? いや……どんな感情を抱いた所で、それはもうどうすることもできない。なぜなら……もうすでに『目と目が合ってしまっている』のだから……」
「きょっ……教授……っ!」
「その時に取ることができる選択肢は限られているだろう。その『闇』と"向き合う"か"逃げる"か」
「その…………"第三の選択肢"みたいなものはないんですか……?」
「いや、ないと思うよ? だからそうならないためには、最初から"目を合わせないこと"、これに尽きるね」
「そ、そうなのですか…………」
…………あぁ、そうだろうさ。もうすでに始まってしまったのだから、どちらかしか選択肢はないのだろう。
「ただ……そうだね、それでは摩耶ちゃんの質問に答えたことにはならないか…………ふむ」
教授は少し考え込む様子を見せた後、言った。
「どちらの選択肢を選ぶにせよ、それは熾烈な戦いになることには間違いないだろうね。…………向き合うという選択肢を選んだ際に、気を付けなければならないことがある」
「それは……何でしょうか?」
「ドイツの哲学者ニーチェの言葉にこんなものがある。
『怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。己が長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しく己を見返すのだ』と……」
「それって要するに、怪物に対して憤怒や憎悪を向けて、自分の行動を道理化してしまい、自らも闇に呑まれないように気をつけろって解釈でしたっけ?」
「まあ、基本的にはそういう捉え方だね。『見えない闇』とはあくまで『闇』に過ぎず、善でもなければ悪でもない。ましてや虚無でさえもないのだから、それと向き合うということは、その『闇』に対して何かしら意味を見出すということになる」
「…………」
「その『闇』は何と語り掛けてきたか? 何を訴えてきたか? まずはその声に耳を傾けてみることだ。そうすることで上手い向き合い方が見つかるかもしれない。間違ってもそれを『善悪』で測り通し、理性を失ってはいけない。と、私は考えているよ」
「……なるほどですね」
「では、逃げる道を選んだ時に気を付けることは何なのか。それについての答えは明白だ」
「と言いますと?」
「"決して後ろを振り返ってはならない"ということ」
「あぁ…………それは、少し想像できる気がします」
「その『闇』を脅威として感じとったならば、その『闇』もまた脅威となって追いかけてくるだろう。だからこそ振り返らず、一心不乱に逃げることだ」
「…………分かりました」
「質問は以上かな?」
「はい、教授の話はとてもためになるものでした」
「そうか、それは良かった」
教授は満足そうに笑顔で頷く。でもすぐに怪訝そうな表情を浮かべ、
「ところで……その話を聞いて、きみはどうするつもりなのかな?」
「えっ?! あ、いや…………それは…………」
「古畑くんが殺された事件、ニュースになっていたね…………ひょっとして、"何か巻き込まれたり"してるのかな……? 摩耶ちゃん?」
ダメだ、焦りが顔に出てしまう。坂東教授は心理学の専門家。もうとっくに私の心情は察していることだろう。しかし、坂東教授は続ける。
「古畑くんがあんなことになってからか、この近くで何台ものパトカーや警察官を見かけてね……今朝だって、刑事たちが警察手帳を広げながらこの大学内で聞き込みに回ってたし」
「…………」
私は無意識の内に目を伏せった。だが教授まで巻き込むわけにもいかず、そのまま押し黙る。
「……………………ふむ」
坂東教授は私の表情を伺うようにして視線を交差させた後、口を開いた。
「では、教授としてではなく、親戚としてアドバイスをしようか」
「えっ……?」
私は落としていた視線を上げて、坂東教授の目をまっすぐに見据える。
「もしもの時は逃げなさい。きみはまだ若い。『闇』と向き合うにはあまりにも見聞が足りなさすぎる。『善悪』とは何なのか、『闇』とは何なのか、それをしっかり考えられるようになってから、答えを出しなさい。自分がこれからどうしていくべきなのか、何が『最善』と言えるのかをね」
「教授……」
「まぁ、逃げている間、その『見えない闇』はきみをひっきりなしに追いかけるだろうが、なぁに、『ただ逃げろ』と言ってるわけじゃない。逃げる過程で見聞を広げ、最終的にその『闇』と向き合えばいいって言ってるんだからね」
「…………はいっ!」
私は力強く頷いた。
「うん、では質問タイムはここまで! これから資料作成をしないといけないからね」
「あっ、そうなんですか? お邪魔しました!」
私は深くお辞儀をした後、研究室から出ようとして――――
「…………どうか、摩耶ちゃんは挫けないようにね…………」
弱弱しく小さな声だったが、そんな言葉が聴こえた気がして思わず振り返る。
「教授……?」
教授はもうこちらに背を向けていて、キーボードを忙しく操作していた。
作業の邪魔をしちゃまずいと思った私は、そのまま研究室を後にした。
――――さっき背中に向けられたあの言葉。
まるで『教授』はもう挫けてしまったかのような言い方だった。
教授のあんな弱弱しい声は初めて聴いた気がする。何か、とても辛いことを経験してきたのかもしれないな…………
――――『闇』の視線を感じる。それは直接的な表現ではなく、気配のようなもの。
もうすでに獲物を見つけて今か今かと飛び掛からんとするカラスのように……
数多の罠を張り巡らせ、それに嵌って身動きが取れなくなった無様な草食動物を食らう猛獣のように…………
"それは爪を研ぎながらじっとこちらを見つめていた"…………
(最終幕に続く)