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#hanako

作者: merongree

#1 hanako


(青空の写真)#aozora #beautiful #girlsphoto #sugercube #hanako

aozorabunko:すてき!


 私が本名の佐藤瓜子ではなく、それを暗号化したようなアカウント「sugercube」としてSNSに投稿した写真が千を超えて、青空の写真がどっかのサイトに転用され、「#hanako で等身大の日常を投稿し続ける、謎の女子高生フォトグラファー」として紹介されたときから、私は自分が、自分ではないものとして消費されることを覚悟した。そのための用意もした。

「写真につけている#hanakoって何ですか?」

 と、某サイトのインタビューで言われたとき、私はとっさに、そして用意してきた答えを言ったものだった。

「日本発の、女のコの可愛さを表現する、という意味です」「cuteとかbeautifulという形容詞にhanakoを並べたい」

 全くのウソだ。二年間続けてきた個人的な習慣に、私は特別な名前なんか付けていなかった。私は唐突に他人から、過剰な期待を込めて「あなたは何で靴下を履いてるんですか?」と言われたようなものだ。ただ毎日やっている、それだけで「靴下に愛着があるんですか?」などと訊かれてもみんな戸惑うだろう。しかし「日常を売り物にする人」になった瞬間から、その戸惑いは権利から奪い去られる。

 女子高生フォトグラファーsugercubeとなった私の日常には、他者が消費出来るような情熱と昂奮とが求められていた。私が漫然と、駅で、登下校の道で、コンビニのレジ待ちのときに行っていた、ハッシュタグを付けて写真を投稿するという作業は、千に積み重なった時点で単なる惰性の堆積ではなく、一個の情熱の大爆発だと見なされるに至った。

ネット上の他人に、私は情熱家であることを求められた。勝手にそう求めたくせにと思うけれど――そうでなければ存在さえ赦されないみたいだった。

 私は、彼らの関心をさばくようなつもりで、また彼らから見過ごされ、私の実態を消費されないよう、彼らの期待するものに擬態したつもりだった。こんな擬態も、女子高生であるということのほか、ネット上でsugercubeというアカウントとしての振る舞いをするうちに、靴下の履き方のように私が自然に身につけてしまったことだった。

 擬態に慣れていくうち、私は「hanako」が形容詞などではなく、実在する他人の名前だったことをたまに忘れた。それで「実在する花子にわるいな」と思った。


 そう、確かに「花子」は実在した。少なくとも、私が中学三年のときには居た。転入生として、五月の連休明けに転入してきたのだった。

 私は他の生徒と同様、薄い関心を持って彼女を眺めた。彼女には「花子」という古風な名前以上の、鮮やかな印象はなかった。ベージュのベストを着ていて、うちの中学では紺色が流行ってたから、何か違うところから来たひとだなという、その違和感以上に強い印象がなかった。のちに「前の学校で留年したらしい」という噂が流れてきて、その理由は校則違反とも、病気ともつかなかったけれど、どちらでも違和感はなかった。理由は上手く言えない。

 偶然、帰り道の方角が一緒だと分かった。私たちはバスを降りた後など、たびたび一緒に帰った。それ以上に、一緒に歩くことの強い動機とかはなかった。隣にいても、雨のなかで傘を差していて顔がよく見えないような、それぐらい風貌の印象が薄い子だった。私が二年間、情熱と見間違えられるほどに夥しく投稿したのは、そのような友人の名前だった。

 もし他人に、それほど親しくもなかった彼女について、そのような習慣を持った理由を尋ねられて、正直に答えるとしたらこうなる。

「花子のウソに付き合わされていたことの名残です」

 その容姿よりも、彼女をよく表していたものはその虚言癖だった。とにかくその量はひどかった。各国が二酸化炭素の排出量を、話し合いで決めたりする会議があるけれど、花子が吐くだけの嘘に含まれるCO2だけで、軽く日本の立場を危うくしかねない。そのぐらいよくウソを吐いた。たぶん彼女には、現実の他にもう一つ地球が要った。彼女がただただ、消費するためだけの彼女に都合の良いもう一つの丸い星……。

 ハッシュタグ「#hanako」のきっかけになったのは、彼女が好んで言い出した「華子」というウソだった(劇の演目のように言うけれど本当それ)。

「見てごらん瓜子ォ、あそこに華子が居るよ」と、猫がおしっこをするような言い方で、花子が道路の反対側を指す。目を凝らして見ても、いつも何もない。赤信号の赤ぐらいに、火を見るより明らかな不在が、いつも彼女の指す先に在った。

 私はケータイを掲げ、漠然と彼女が指す先へ画面を向け、「そこに居るらしい華子」を写真に収める。ぱちり、という音がする。彼女にしか見えない存在を、精密機械が駆けまわって何とか本物として保存しようともがく。私のケータイはあの頃、いつも微熱を帯びていた。

 花子の「貧乏過ぎてケータイ買って貰えない」という話を真に受け、私は自分のケータイを彼女のために使った。そして自分のSNSにいつも、そうして撮影した、彼女にしか見えない華子の写真をアップロードして公開した。

「写真いろんなのありすぎて、どれが華子だか分からないよ」

(あんたの言うお化けが本当に見えてるんなら見分けられないはずないでしょ)

 そう思いつつも私は「華子の写真」を特に区別して「#hanako」というタグを付けるようにした。


 花子とは違う高校に進学して会わなくなった。私の手元には、#hanakoという習慣だけが残った。

 しかし、ネットとは恐ろしい世界だ。そこは他者の物語を消費したい他人の食欲の縁なのだ。二年間、日常にある風景を撮りためた女子高生sugercubeのアカウントは、謎のハッシュタグ#hanakoを付けていたことで、何かしらの情熱に献身していると物語を付与され、私は物語を消費したい他人のために、ネット上でジャッジを受ける羽目になった。

 実際、その当事者でない私に「#hanako」の正体を求められても困る。私にとってはそれが、透明な習慣にしか見えていない。「この柄がいいですね」と靴下を褒められても「この華子はよく撮れていますね」と言われたぐらいに、私には何も言えない。

 高校に入ってからは、花子がいないもので、彼女にせかされているような気がしたときに、漠然とシャッターを切っていた。でも、そのような現実にある、惰性と習慣の物語など、誰が求めるだろう? 「hanakoって何ですか」には、経験上「kawaiiです」で通せる。他人の想像力に委ねて仕舞えば他人は満足させられる。でも、「誰ですか」と言われたら手詰まりになる。他人のこの質問には、擬態ですら応えられない。

 花子がもし隣に居たら? でも彼女に尋ねても無駄だ。彼女はないものを「あった」と言う。それは「なかった」と言うのと同じことだ。

 私じしん、華子が見えたことは一度もなかった。でも、#hanakoの写真には、殺人現場のように「それ」はなくとも、「それがあったかもしれない」という気配が写っているように感じるときがあった。発信者である私の他、当事者を除いて誰もそのことは指摘してこなかったけれど。


#2 花子の主張


「全然関西弁じゃないじゃん」

 花子の言うことを真に受けていた当初、私は彼女にそう言ったことがある。

「標準語で教育されたから」

「そうなんだ」素直にそう思っていた。

「お父さんの暴力から逃げるために越してきた」そうなんだ……。

「母方の姓は安田なんだ、早く離婚してヤスダになりたい」そうなんだ……。

「お母さんの仕事見つかりそう、薬剤師だから資格職で」良かったね……。

 後日、私は四人家族の彼女のマンションを訪問して、部屋を間違えたのかと思うほど混乱した。部活へ行く途中らしい坊主頭の弟くんらしい子が、私の顔をみて何か察したらしく「姉貴の友達ですか」と会釈した。その姿勢に、何か済まなそうな態度が滲んでいたのが、私が唯一信じることの出来た彼女の家庭事情だった。実情として、彼女の家庭事情というのは、家族が彼女を抱えていることらしかった。

 私は、彼女が何故それほどウソを吐くのか、ということを別に怒らなかった。そのときに見た、彼女の家族全員の諦念の印象にかぶれたような感じもした。彼女が自分を偽ること、それはライオンが他の動物の肉を食べるようなもので、鳥が他人の頭の上を飛ぶようなものだ。他人の有様を深く問うても仕方ない。私は自分がそれほど共感できないだろう動機を、強いて分かりたいとは思わなかった。聞いても、どうせ理解できない。

 彼女が「お父さんに蹴られた」と言って、シャツをめくって背中を見せてきたときも、私は自分が見た、彼女の父親の風貌を頭に浮かべつつ「そう、」とだけ言った。

 私のこの、信用にも不信にも踏み切らない冷淡さが、彼女の気に入ったらしかった。彼女が彼女なりに私を重宝し出したのが、どこかで私にもふと分かった。

 そのうちに、彼女が家庭事情の話の最後に言い出したのが「華子」だった。彼女は私に黙って聞くことを求め、その次に日常的にともに目撃すること、それから記録して閲覧させることを求めた。

 花子の話では「華子」は彼女の母親の罪だった。彼女は産まれたときに、双子だったという。エコー検査でそのことが判明したとき、もう一人の子には「華子」という名前が与えられていた。しかし女児二人を出産した母親は、彼女たちを見て錯乱し「二人も女の子が欲しいなんて思わなかった」と言い、姉が錯乱の犠牲になった。

 家族は誰も母親を責められず、届け出上は死産ということになっている。華子は密かに海に捨てられ、その遺骨とて残っていないが、家族の誰も、初めから彼女など居なかったようにその話をしない。しかし確かに存在した証拠がある。妹である自分には会いに来るのだ……。

 正直言って私は「何に影響されたんだろう?」と思った。当時ホラー映画が流行していたからそれかと思った。冗談まじりに「でもあんた、そのとき赤ちゃんでしょ」と言ったら、彼女はその後も見たことないぐらい猛烈に反発した。

「花子の言うことを信じられないの?」「え、」だってあんた本当にウソ吐くじゃん、という言葉は流石に呑んだ。しかし表情に出ていたと思う。

「私じゃないよ、お姉ちゃんの方」彼女曰く、華子が花子に一切を明かしてくれたということだった。

 私は、会ったことのない、彼女の姉の言うことを信じるふりをした。そうしたのは、そうでないと彼女にコンパスで刺されたり、道路に向かって突き飛ばされたりしそうだったから。私はただ、彼女の昂奮から来る事故を回避するために、彼女の求めるとおりに頷いた。バスの乗客がみんな、私たちの白熱ぶりを変な目で見ていたのを覚えている。


#3 誰もが居なくなる


 花子との別れは何ら劇的でなかった。私は進学した先の高校に適応することに没頭し、花子との連絡は季節が過ぎるように無くなった。彼女が生きているのかどうかも分からなくなったが、そのことの手応えもなかった。彼女がケータイを持っていなかったことは、音信不通の大きな要因だったんじゃないかと思う。その当時から「ケータイを忘れた日は手足を家に置いてきたみたい」と感じたし、友達にも分かると言われた。

 私たちにとってケータイがあるということは、離れていても永遠にすぐに会えること、声がなくてもおしゃべりが出来ること、他人の記憶から抜け落ちないこと、肉体がなくても他人と連絡を取る手段があるということだ。花子は手足や、肉声や、見返す眼差しなどを、中学卒業と同時に私のなかから失くした。私のケータイのメモリーに彼女が居なかったということは、彼女が私に残り続けないという確定した未来だった。

 しかし、連絡手段がなければ生きているとみなされないのは、私の方でも同じことだ。私にはSNS上に、「肉体を見たことがない友達」という相手が二千人ほどいた。風邪でしばらく更新しなかったとき、私のコメント欄には私が死んだと思っているひとが沢山いた。私が会ったことのない他人にとっては、私のコメントや写真こそが私の肉体の代わりだった。投稿がないこと、またコメントに返信しないことは、離席ではなく、二度と帰らない不在のように彼らには映っていた。私は殺されたように、彼らに呼びかけられていた。

 このような不在と私の疑似的な死に纏わるアイデアは、私を怯えさせ、また多少私の気に入った。一切の投稿をせずにケータイの電源を切っている間、自分じしんに仮の死の幕を下ろし、自分を他人の目から避難させることが出来るなんて、何て素晴らしいんだろう。その幕を下ろすため、私の身体にもどこかに電源を切るボタンがあればいいのに。私は下着のすぐ上を撮影し、それを馬鹿げたポエムに仕立ててコメントとともに投稿した。そういう私を消費する他人が、沢山のハートマークをくれた。

 私がsugercubeとなり、ウソの効用というものを知って以来、私は花子の生き方を多少尊敬して思い返すことさえあった。留年しているという噂があったが、彼女は私より少し先に大人びていて、架空の存在のように愛されつつ消費される人格を手に入れていたのかもしれない。

 使ってみて分かった、ウソの最大の効用は、幕のように私の上に覆い被さり、他人の視線をそこだけに集中させてくれることだ。隠している部分があれば、そこに何かが隠れていると他人は思い込む。「私に主電源のボタンがあればいい」と言って下着のすぐ上を撮影すれば、下着の中にそのボタンがあると言い張ることが出来る。しかし、私が最も見られたくないのは私の表情、特に眉の辺りだ。そこに、私の電源を切るボタンが微かに光っているような気がする。そうして私は下着を撮影して投稿する、まるで「そこに華子が居るよ、見てごらん」と言う花子のように。

 それでもなお、花子には理解しきれない部分が多かった。「華子」の動機は、それに付き合っていた私にも結局のところ分からず終いだった。

 たとえば、彼女は思春期の少女にたまにある、「霊感がある」という主張をしていたのではなかった。もしそう言いたければそう言えただろうけれど、花子はつねに「華子」の話しかしなかった。それは特殊能力を持っているという主張ではなく、ただ単に彼女の人間関係のなかに、双子の姉である「華子」という人物が居るというだけの主張だった。そして「華子」は怪談のように血だらけで出て来るわけではなく、道路の向こうに立っていたり、体育の授業を見守っていたり、昼休みに教室の隅にただ立っていたりした。私は花子の想像力の凄まじさには慣れていたから、華子をというより、花子の想像力の方を信じた。

 しかし、そうやって彼女の日常に立ち寄るように現れる「華子」が、なぜ花子にそれほど必要なのか、私にはとうとう分からず、花子も「あそこに華子が居るよ」という以上のことを、私に知らせなかった。ねえ撮って、そして、アップして、シェアして。私と、みんなに見せて……。

 私には「華子」は、ただの習慣の名前として定着した。


『sugercubeさん、こんにちは! 素敵な写真ですね』

『ありがとうございます!』

 花子抜きになってからも、私が惰性で投稿している写真を沢山のひとが褒めてくれる。そこには最初から何も写っていなかったけれど、今では不在ですら写していない。私が吸うだけ吸って捨てた、ニコチン入りの習慣の吸い殻みたいなものだ。

『kawaiiの次に、hanakoを広めたいです(目をつぶっている顔文字)』と、私がコメント欄に入力しようとしたとき、

『死体が埋まってる感じがします(目をつぶっている顔文字)』と打ち込まれた。

 アカウント情報を見たら、aozorabunkoというユーザー名だった。プロフィール写真は青空に浮かんだハートマークの雲だった。投稿された八百ほどの写真は、学校の屋上や運動場など、いろいろな所から見た青空の写真だった。人物は全く写っていない。#aozora というハッシュタグは私もたまに使うので、ここからリンクして飛んできたな、と想像した。

 プロフィールページには、アカウントの紹介として短文が掲載されていた。

「ココロが疲れてしまったとき……青空を見上げてみませんか? 本棚からお気に入りの文庫本を取り出すように、あなたのお気に入りの青空が、この中にありますように(星が輝く文字)」

 SNSにはありがちな内容だと思った。また多少古臭い文章の感じがした。いわゆる「中の人」は少し年上かもしれないな、それに女性か、あるいはフェミニンな男性という感じがする。ともあれこの短文のお蔭で「aozorabunko」とは「青空文庫」と読ませるものらしいということは分かった。

 私は、並んでいる青空の写真のいくつかに、お気に入りのしるしであるハートマークを送った。

『写真撮るコツとか教えてください(目をつぶる顔文字)』とメッセージを送った。

 返事が来て、会うことになった。


#4 青空文庫さん


 待ち合わせした喫茶店に現れた「中の人」は、女性というよりも美少年のようだった。この展開はあまり想像していなくて、私は数秒の間息を呑んだ。年齢は大学生ぐらい、ベリーショートの金髪にオレンジ色のメッシュが入っている。睫毛の長い大きな瞳、でもすっぴんのようだった。黒いTシャツ、黒い野球帽をかぶっていて、シルバーアクセサリーをじゃらじゃらと重ね、耳には貫通するタイプの銀色のピアスが付いている。夏休みにロックフェスに参加しにきた少年、という感じだった。既に九月で、冷房の入った喫茶店のなかでは多少肌寒く見えたのだが、一向にかまわない様子だった。

 思っていた感じと違ったのだけれど、その違和感と同じ程度に、私には彼女がそうだという確信があった。入口近くの席に座っていた私と目が合うと、彼女はフラッシュのような明るい表情を浮かべ、私に向かい「sugercubeさん?」と声を上げた。私は、アカウントで呼ばれることに激しい抵抗を感じ、椅子から降りて彼女の側へ行くと「佐藤です、初めまして」と口早に言った。


「あの写真、どういう基準でアップしてるんですか?」

 質問してきた彼女の態度は、最初に会ったときとは全く違った。私は「ネットで知り合った他人に会うって怖いな」と感じた。現れた当初、感激を満面に表していた彼女が、今では、喫茶店の換気扇の音が響く静けさのなかで、返事をじっと待っている。私は、彼女のその態度に、「ネット上で他人に好かれること」の縮図を見た感じがした。見つけられて、内容も見ないうちに好かれる。それから後に「友人」とするに値するかを検討され、そうでなければ簡単に削除される……。

 私が自分の戸惑いをつつくように、漠然とアイスオレのなかに溶けた氷をストローで触っていると、彼女は甲高い声を出して笑った。

「ごめんなさい、わたし、話し方怖いって言われるんですけど、悪気ないんで気にしないで」

 背は百七十センチぐらいあるだろうか。背の高い彼女が大きな声で言うと、あたかも運動場で命令している先生みたいだった。私は体育の面倒さを思い出しつつ、なぜか笑いにかぶれて苦しくこう言った。

「悪気なくても、怖いものは怖いです」青空文庫さん、ネットだとそういう感じしないのに、怖いって言われるんですか? と。

「リアルだと、言われる」と、彼女は頭を掻くような仕草をした。整った顔立ちだったが、所作の大きさなどから運動をしている少年のような印象だった。

「でもわたしの周り、変人ばっかだし、あんまり気にしてないから治らない。ビダイって変人多くて、みんなコワいじゃんて」

 彼女は私の三つ上の二十歳で、美大生だという話だった。青空の写真を投稿したのは去年から、ということ。たまたまアップした写真が「天使が雲間から降りてきているように見える」と言われて、他のサイトに引用されて沢山のコメントがついて嬉しかったこと。自分の投稿する写真で、喜んでくれるひとが大勢いるなら続けたい、と思ったこと。

 また、「自分の描く絵では他人に希望を与えるなんて無理だ」と感じていたから、写真に逃げた感じもある。あれは、わたしの現実逃避なのだ。だから続けられる……と、彼女は独り言のように言った。

 私の経験上、これは相手を生身の人間だと感じていない場合に出来る告白だった。

「絵はね……自分が救われないから、嘆き節みたいに紙に八つ当たりしてるだけ」彼女はケータイに保存している絵の写真を私に見せた。私の手元にそれが来たとき、一度画面が暗くなった。

「ここ押せばいいですか?」

「うん、でも」と彼女はふと天井を見上げた。「ライト点けても、よく見えないかも。アナログで紙に描いたのを撮ってるんだけど、元々暗い絵だから」

 実際、画面上に浮かび上がったのは、電源が切れているケータイの画面と同じぐらいに暗いぼんやりした絵だった。全体に黒くて土のなかのようで、ところどころ赤い稲妻みたいな線が入っている。画面が変わり、表示された絵もみな同じ調子で、まるで特定の病気に罹っている患者たちが寝ている、病棟のような光景だった。青空を商品として沢山並べている、あの青い文庫とは真逆の感じがした。

「マギャクですね」と、言うと「でしょう!」と手を打つみたいに彼女は喜んで言った。

「これが素です。でも、素の自分なんか別に価値はないって知ってるし。誰もトクしないですからね、評価されない物を並べたって、他人も自分も」そう言って、彼女はミルクを大量に入れたホットコーヒーを啜った。彼女の剝いたミルクの殻が、ソーサーの縁に吸殻のように積み重なっていた。

 彼女のような、敏捷な少年のような姿をした、才能豊からしいひとでも、八百の青空で自己を隠蔽しなければならないのか。私はそのことに、眩暈のように軽い絶望を感じた。彼女は私の表情を見て意図を悟ったらしく「でもまあ、目的に寄りますね」とフォローするように言った。

「どういう自分を見つけさせたいか? それさえ決まっていれば、動揺することも諦めることもないですよ。わたしの実態はこの絵だけれど、でも他人を喜ばせるために、ときには青空のようなものでありたいと――、自分じしんの姿のアカウントを切り替えられる」

 その気持ち多少分かります、と私は少し彼女に寄るつもりで言った。

「私も女子高生っていうのものになる、そのことで多少の息抜きをしています。現実には、別に評価もされない自分であり続けることの」自分でも、この吐露には多少の出血が伴うことを感じながら、私は何だが人間味の乏しい青空文庫さんに向かって喋った。

「#十代 #軽薄 #流行 #友達 #承認欲求 #仲間 #闇 私に求められているものは、そんなものだと見えて来る。擬態しなくても、他人は都合の良いように見間違える。習慣を手放す意志がないだけで、不断の情熱と間違えられてタグ付けされる。sugercubeに付くようなハッシュタグ、どれも佐藤瓜子、本名ですけれど、それには付かないな。でも、期待される衣装を着ていれば、他人は裸の私なんか想像しないですから」

「#hanakoは誰が期待してること?」

 彼女はまたも冷ややかな声になって言った。私は恐怖の正体を自分で掴めないまま、その手触りのなかへ分け入った。「あれ中学のときの友達で――」という声が、理由も不明ながら、既に彼女に向かって言い訳をしているような印象を伴って聴こえた。

「――花子、ケータイ持ってなかったし、もう見てるか分かんないです。でも、#hanakoは、私にとって習慣としての心地よさがあるから、続いてるんだと思います」

 最後の言葉には、私じしん発見の驚きがあった。それは何故か彼女にとっても同じらしく、彼女の大きな目の奥に、確かに赤い稲津が閃くのを私は見た。

「でもあなたは、花子さんをウソつきだと思ってたんでしょう? 彼女を馬鹿にしながら、彼女のやることに付き合うのが楽しかった?」

「多少、羨ましかった」私は自分の言葉がまるで涙のように、仕方なく引き出されていくのを見送った。

「彼女のウソは、彼女が自分の手で作った作品でした。今思うと、あれだけのウソを何の材料もなしに自分で作ってたって、情報の発信者として評価されるぐらい凄いことだと思うんです。

 私は『日常系女子高生フォトグラファー』っていう、他人の作った衣装があるから、それを馬鹿にしながら着ています。でもあの子は、自分で作り上げた自分の姿を馬鹿にしたりしなかった。他人に信じさせたいと思うような自分を、己一人で作るってよほどの力が要ることだと思うけど、私にはとても無理だったし、今でも無理だと思う」

 私はラクなものです、でも花子はきっとそうじゃなかった。他人から与えられる役割をこなせば、その役の範囲で存在を承認して貰える私と違って、あの子は自分で作った世界を、他人に承認させないといけなかった。他人にこれなら良いと言われるものじゃなく、自分でこれが良いんだと思う、彼女にしか見えない世界を本物と取り替えようとしてた……。

「それでまず、手近な他人である私を征服した。私は、彼女の情熱の手先をやるという、その役割が自分で気に入ってたんだと思う」

 私たちの間で、口を滑らせるみたいに、コップに入った氷がかしゃりと溶ける音を立てた。

 青空文庫さんの尋問するような大きな目が、私に告白を促していた。私はふと(花子の強要は、これよりもっと柔らかかった)と感じた。その違いは、花子の目は私が拒絶する可能性を全く排除していたことだと思った。彼女は自分の指を使うように、澱みなく私の手を使ったものだ。

「根拠もなくこれが良いんだと思えるような――彼女みたいな情熱を、私は持てなかった。sugercubeになった今もです。私は情熱の真似ごとをして、その手触りの良さを捨てられずにいるだけ。もし私に情熱があったら、いまごろ私にも華子が――自分の見たいものが見えているでしょう、でもそうじゃない。

 青空文庫さん、自分の撮った青空が支持されて、喜ばれるのを見て嬉しかったって仰ってたけれど、その気持ち一部だけなら分かります。でも文庫さん(私は唐突に名前を略し出した)が好きで、愛着を持っているのってあの暗い絵の方じゃないですか。たぶん、文庫さんが好きなのも青空じゃなくて、他人が自分の与えた物で感動するという有様ですよね。他人の感激を買うために、沢山の青空を集めたのじゃないですか――もしそうなら気持ちは分かります。私は何ていうことのない日常で、他人の感激を買ってきましたから。

 SNSでこういう写真なら沢山シェアされるとか、他人の情熱の呼び水に出来るものの基準が分かって来てから、私は情熱に詳しくなることと、その当事者になることとは別だと分かってきました。花子みたいに、情熱を独創出来る人間と私では、そもそも身体の構造からして違うような気もしてる。私は、彼女の指になるのが精一杯の人間じゃないかな。

 私は花子の情熱に共感できなかったけど、従事することは出来ました。ケータイってもう私の手の一部ですけど、私自体が彼女の情熱の一部だった。彼女の手になってシャッターを押すとき、自分じゃ血を作れない心臓の私が、輸血してもらってた気がする。私は慌ててボタンを押したりしてました、何も見えていないのに。そして他人が、私たちのアップした写真を見て、花子しか持っていなかった世界を共有するようになった。

 花子は、私を通して、自分の世界を承認させるのに成功していたと思います。そして私には、情熱の一部になることの快感の手触りだけが残った。彼女の肉体がなくなっても、その一部であったときの体温を懐かしがっている、摘出されて血の通わなくなった内臓みたいなものが私です。

 だから、#hanakoには何も写っていないの、ごめんなさい。あれは私の友達が見ていた風景を辿ろうとしている、私の透明な焦点の蓄積です」

 青空文庫さんはガチャリ、と音を立てる感じでカップをソーサーに置いた。私は、自分が彼女の逆鱗に触れたのだと思った。

「一つ、確認しておきたいんだけれど、」と彼女は私の冷淡さを叱るときの、大人に共通する冷ややかな声で言った。初対面のひとですらこれが可能なのか、と思うとそれが少しショックではあった。

「本当に何も見えてないんですね。あなたが嬉々としてアップしている(情熱とかないんでしたっけ、ごめんなさい、誤解してました)写真の中に一部気になるものがあって」

 彼女はリュックのなかから、画像を印刷してあるコピー用紙みたいな紙を三枚、目の前のテーブルに投げるように放った。そこには私が投稿した「交差点で見つけたタンポポ」「市民プールのフェンス」「体育館裏の夕日」の写真が、沢山のコメントとともに擦れたインクで印刷されてあった。私は自分の罪状のように投げ出されたそれを、黙って取り上げて見た。それ、と彼女はコーヒーカップを口元から下ろしつつ、私の反応を伺うように言った。

「『ヤバイもの写ってる』って言ったら、信じますか?」

 私は、彼女の警告を信じるふりで頷いた。


#5 彼女の居場所


 一枚目は、私の中学へ行く途中にある道の交差点だった。車の往来が土日でも激しく、多少離れて歩くと声が雑音を含んだ風でかき消された。

「青空文庫さん、」と私は怒鳴った。「何か見えますか」彼女は沈黙したまま、タブレットであちこち写真を撮り、指先で弾いて拡大したりしていた。それが彼女の癖らしく、考えに耽りだすと彼女は爪を噛みだした。確かに噛んでいるはずなのに、位置が悪いのか何ども噛み直すのが何だか奇妙だった。「違いますね、」と彼女は結論した。

 見て、と私に向かって画面を差し出し「ここんとこに居る子。これ交通事故で普通に死んじゃった子です。男の子で、幼稚園のスモッグ着てるから、行き帰りの途中だったのかな」と言った。もちろん何も写っていない。

 私は往来を漠然と眺め、何を撮るでもなくケータイのボタンを押し、「#hanako」とタグを付けた。私がアップするとすぐ、青空文庫さんのケータイに通知音がした。そういう設定にしているみたいだった。


「無防備にあちこちに行って写真を撮ること自体、良くないんですよ」

 と、蕎麦屋で彼女は言った。お腹が空いたので昼食にしよう、と彼女が言いだしたものの、国道添いにはおしゃれなカフェなどはなく、彼女が見つけた蕎麦屋に入ることになったのだった。客は私たち二人しかおらず、神棚の隣のテレビがお昼のニュースを流していた。

「他人に姿を見つけてほしいと思っている幽霊なんて、その場所ごとに居ますから」

 変なひとだと思われそうなことを彼女は平然と言い、音を立てて蕎麦を啜った。私は黙って彼女の口元を見ていた。彼女が目を上げた。口元に蕎麦つゆが滴になって付いている。

「蕎麦アレルギーとかって、sugerさんありますか」何かを思い出すようにそう言い、私は「あったら入るときに言うかな……」と苦笑した。彼女は俯いてまた蕎麦を啜った。

「わたし蕎麦好きなんですけど、常識は分かんないです」

 蕎麦と、常識との何のつながりがあるのか。その方が私には不明だった。

「私も分かりません、文庫さんと同じく」

 共感できることを共有して、他人と繋がろうとする人間は山ほどいる。でも、類似点の多くありそうで、かつ私よりかなり放埓に見える彼女は、私に彼女の普段行使している自由について打ち明けたり、共有したりする気はなさそうだった。音を立てて自分を開封してみせて終わる、その取りつく島のなさが私の気に入った。

 怖いって言われるんですか、と私は彼女の霊感について水を向けた。

 何が、と彼女が全くその気がなさそうに言った。

 私が説明すると、大型の家畜が伸びでもするみたいにアア、と言い、あくまでも蕎麦を啜りながら「反応は人によります。オカルト全般信じないってひとには、何を言っても無駄だし。そういうひとが案外詳しかったりもするんだけど。逆に何でも信じちゃってるひとってのもいて、花子さんはもしかしたらそのタイプかも」

 そうだった気がします、と私は彼女に遅れるまいと蕎麦を啜った。殺人事件の報道はさらに続いた。


 二枚目は市民プールだったが、夏に撮影したときと風景が異なった。秋になってなお張られている水は緑色になり、落ち葉が大量に浮かんでいた。最初の交差点からは結構離れた公園に付属しているもので、到着したころは既に夕方で、鴉の鳴き声が水面に響いた。

 彼女は当然のように、ポケットから鍵を出してプールを囲んだフェンスの鍵を開けた。

 それから、彼女は平然と、絨毯の上に寝そべるように水の上に寝転んだ。彼女の着ている黒いTシャツが水で濡れた。しかし彼女は沈まなかった。ふかふかのベッドにでも寝ているみたいに心地よさそうに目を閉じ、そのままぷかりと浮かんでいた。

「文庫さん、私疑ってることがあります」と私は彼女に向かって言った。「あなたは人間じゃないと思う」私はともすれば、凄い侮辱になりそうな言葉を言った。

「たぶん、幽霊でしょう。私、実際に見るの初めてですけど」

 彼女は心地よさそうに目を閉じたまま「何故そう思うの?」と言った。

「お蕎麦食べられないじゃないですか」と私はやや大きめの声で言った。彼女のいる水面に浮いた葉が、その声にぶつかったようにふいに動いた。

「文庫さん、お蕎麦飲みこめてないんですよ、全然。音はずるずるってするけど、器のなかにぜんぶ残ってるんです。出された水も減ってないところを見ると、ホットコーヒー頼んでたのも、コップが透明じゃない物を選んでたのか。飲んでるような振りで、演技してたんですね」

「……それだけ?」と彼女は言った。そう言いながら、水面で起き上がって座った。人間に出来る姿勢ではないと思うのだが、彼女は私に根拠が足りないとでも言いたげな余裕があった。

「ほかに思うことは?」「中村華子本人なんじゃないの、と思います」と私は言った。「最初、花子が化けて出たのかなと思ったけど、全然似ていないし。亡くなったみたいな噂もないし。死体が埋まってるように見えるとか、華子の話を予め知ってたようにしか思えない。もし花子本人じゃなかったら、亡くなったっていう華子の方じゃないですか」

「ドイフミコ」と彼女は言った。私は何のことか訊き返した。

「まだ言ってなかったね、『青空文庫』の残念な本名です、土居文子。わたし、本名の土臭さが嫌で、透明に見えるような綺麗な名前が欲しかったの」

 彼女はそう言って心地よさそうに両手を空へ向けて伸ばした。その反動をつけて彼女は水の上に立ち上がり、水面をすたすた歩いてプールサイドに渡った。私は絶滅した恐竜が歩くのを見るような気分で、ともかくもその後を追った。


 土居さん、と私は言った。

「絶望しちゃうなあ……青空文庫さんが良い」

「青空文庫さん」と私は言い直した。

「夜になると少し冷えてきたけれど、その格好だと『寒い』とかありますか」

 私たちは中学の体育館の前の繁みのなかで、練習をしているバレーボール部の子たちの練習を覗いていた。

「引っ掛け問題だなあ」と彼女は言った。「幽霊だって気温ぐらい感じられますよ、あ、引っかかった」「やっぱり」と私は言った。

「ねえ、本題に入って。私に警告しに来たことって何だったんですか」

「いまのサーブ惜しかったなあ……」彼女は、ネットにボールが引っかかったことを言ったみたいだった。私は彼女のリュックを掴んで揺さぶった。

「冗談ですよ、人間じゃないっていうのは認めます、でも多分あなたの思ってるものとは違う」幽霊は、私に背中の荷物ごと身体を揺さぶられながらそう言った。

 まあ仮に、中村華子だとしましょう、と彼女は言った。

「sugercubeみたいなものですよ。あなたが期待しているアカウントに、わたしがなります」

 ふいに体育館のなかからソーレ、というサーブの合図と、ピッという笛の音が続いた。

「それから質問に答えます。わたしがあなたに何を警告しにきたのか、でいいですか?」

 私は頷いた。

「警告なんて、ウソですよ、わたし、ただあなたが欲しかったの」

 ピッという笛が続いた。ボールがタッチした、赤いテープラインが見えた気がした。


 私たちは、一時間ぐらい沈黙して穴を掘った。その仕草の影が、体育館のなかにいる生徒たちに見つからないか、私は不安だった。彼女たちには、青空文庫が見えているのだろうか?

 なかなか進まないね、と彼女の方が詫びるような声音で私に口を開いた。私の沈黙を、怒っているものと想像している気配がした。

「塵取りで掘るんじゃやっぱり進まないか……」

「それも深く掘らないと駄目でしょう、あなたの言うことが全部本当なら」と私は塵取りを地面に置いて言った。

「最初からここに来ればよかったんじゃ? 何で交差点とか行ったの」

「あのね、あっちが良かったかもなっていうところを巡ってた。わたし、花ちゃんの周りをうろうろしてるうちに、自分なりに愛着のあるところが出てきたんです」

 交差点は、彼女の登下校の姿が見られるから。よくあそこでバスを待ってるから。

 プールは……と言い出したとき、掘っている彼女の額に汗が浮かんだのが見えた。労働したらその分だけ綻びが出るのは、幽霊になっても同じなのかと思うと多少切なかった。水は飲めないくせに、彼女らの身体はどうなっているのか……。

「羊水のなかに、浮かんでいる感じがして」と彼女は照れながら言った。

「出来ればその頃から、親との関係を作っておくんだったなと思うときもあって。あの頃は何にも考えず、ただ漂っていたから」今でも水のなかにいると、存在を赦されてるような錯覚を覚えるの、と彼女は言った。

 今や私の方が、彼女を観察する番だった。私は組んだ手の上に顎を載せて、何かに怯えているような彼女の丸めた背の線を見つめた。

「ほかには?」と尋ねると「薔薇園とか」と彼女は言った。

「駅前の広場にあるでしょう、あそこも好きでよく行ってた」

 私は撮るよーと、花子に応えてそこを撮影したことを思い出した。実際、花の写真というのは女子受けもよかった。

「花が好きだったの?」「うーんと、匂いが」と彼女は言って笑った。

「鼻がね、割と最後まで残ったの、わたし。だからああいうところに埋められてたら、いい匂いに埋もれて今頃成仏してたんじゃないかな、ってたまに思う」

 痛っという悲鳴を上げて、彼女は塵取りを手放した。大丈夫、ととっさに駆け寄った私に、彼女は目の前の穴のなかを指さした。

 私は彼女に従って、穴のなかから一掴みの土を両手で掬い上げた.

 ほろほろと指で土を払うと、なかから黄色いアヒルの嘴みたいなものが出た。「良かった、間に合った」と彼女は引っ手繰るように取り、自分の首から下げているシルバーのチェーンの先にガチャリと嵌めた。その金具を首の後ろで調整しつつ「どう? やっぱり似合う? わたしの顎」と彼女は言った。

 

 私は体育館のある光景を思い出した。そもそも、花子と親しく口をきいたのは、体育の授業でだった。

 バレーボールの授業で、見学者は私と彼女の二人だけだった。私は四十五分の間、ただボールと友達の手足の動きだけを見詰めるのに飽き、それよりも転入生の中村さんと話そうかと思っていた。

 彼女の方がふいに「佐藤さん、ねえナプキン持ってない?」と、唐突に話しかけてきた。

「生理なの?」と私が声を低めて言うと「処女失くした」と彼女は言った。

「昨日電車でね、床に血だまりが出来るぐらいに出ちゃって……。最初そんなに出血しなかったのに、あんなに血い止まらないなくなるなんて、保健体育でそういうこと教えろよ、と思った。替えのナプキンそんなに持ってなくてさ、ねえ佐藤さんあとで貸してくれない」

 一見大人しそうに見える彼女が平気で言う内容とのギャップを、私は多少好意的に眺めた。友達は面白い方が一緒にいて楽しいから。

 後日、バス停で偶然に会ったとき、傘を差して隣り合っている私たちの間に「こないだのこと」が漂っているのが感じられた。私が何か言うより先に「エンコーだよ」と彼女は言い、それから私の表情を傘の下から覗き込んだ。

「あのさ、真に受けてくれてもいいけど佐藤さん、私の言うことって大抵ウソだから。私と友達やるなら覚えておいて。信じたいなら信じてもいいけど」

 そう言って彼女は、ケータイを指定バッグに仕舞おうとした。紫色のミニーマウスのストラップが、ポケットに入り切らずに大仰に揺れた。

 

 見てたかどうか知らないけど、と私は言った。

「あの子体育やる気なかったよ」「知ってる」と彼女は言った。

「ここに居た理由の半分は不可抗力だったけど、半分はわたしがここ好きだったから」

 佐藤さん、ここでみんなが何してるか知ってる、と彼女は言った。私は、幽霊の目に体育館てどう映るんだろう、と思って返事も出来なかった。

「みんな敗者復活ありきの勝負をしてるんだよ」

 部活とか、試合とか。でもねえ、悲壮な顔してるからてっきり彼らも終わるのかと思ってみてたけど、試合が終わっても誰も消えないし殺されたりしない。

「鍛えられた身体は、選ばれて残るためなのかと思ったけどそうでもない。背が高い子や低い子もいるけど、それぞれの特徴を持ったまま勝負をしてる。敗者になった子も、敗者だと名付けられない。一時間後には勝者として生まれ変わる。

 こういう循環が起こるのって世界広しと言えどもここだけじゃないかな。絶えず優秀な方を決めようとするのに、決して他の人間を淘汰する場所じゃないんだよ、女のあそこと違って」

 私は体育館のベランダに掲げられた「one for all all for one」という横断幕を見た。私は、片方のために淘汰させられた彼女が、自分の居たその空間と真逆の場所として、ここを見るまでに感じた酷い苦痛を想像して黙った。

「一撃必殺、」と彼女がその横断幕を見て冗談のように言った。「ウソ、そうじゃないって知ってる。でも『一喜一憂』と最初間違えて、一喜一憂でもしたいなと思った。ここの子たちも、点数が入るごとにすぐ一喜一憂するでしょ、わたし一撃必殺でやられたから、一喜一憂にも憧れあった」

 だから花ちゃんがここに埋めてくれたことには、一応感謝してる、と彼女は言った。

 どういうこと、と私は言った。

「あなた、双子の姉でしょう。赤ん坊だった花子に流石にそんなこと」

 彼女は微笑したまま、首を左右に振った。

「姉じゃなくて娘だよ、花子の」 

 私は、幽霊よりもその現実に驚いた。


 いつの間にか体育館の灯は消えていた。私は華子のぼんやりした顔に目を凝らした。

「まさか妊娠するとは思ってなかったみたいで」

「でも、家族とか流石に気付くでしょう」

「そこは、オオカミ少年だったことが祟った」

 それから、バドミントン教室で来ていた、他校の体育館の裏の繁みに埋めた。わざわざ別の市にまで来たのに、登校拒否になったことで彼女は転校し、不運にもその町の中学に通う羽目になった。

「『あそこには華子を埋めてるから行きたくない』なんて言っても、オオカミ少年にもなれないよ、誰も信じないもん、本当のことでも信じたくないようなことは」

 気付くと頭上には燦々と星が増えていた。私は自分のケータイが何かの通知音を立てるのを忌々しく感じた。

「あなたわたしの母親のことウソつき呼ばわりしてたけど、あなたには割と本当のこと言ってたよ。ナプキン貸してくれたとき、信じてもらえたと思ったのかもね。わたしのことまで言ったし、少なくともあなたとは現実を共有したかったんじゃないかな。あんまり他人に言えるわけじゃない現実の方を」

 なんで、そんな平気で居られるの? と、私はたまりかねて言った。

「恨んでるでしょ? だから化けてきたんじゃないの」

「あのさ、よく知らないからって悪いものだと想像するの止めてくれない、こんなんでもそもそもは人間だよ」最初は腑に落ちないこともあったけれど、人間だから人間に生まれるときの事情ぐらい自分で咀嚼できるし、何が起こったかも理解は出来る。

「それに『また次の機会が巡ってくるからいいやー』って、ここの子たちの敗者復活を見ていて思えたし」と、彼女が指した先には体育館のなかの、それ自体コートのような闇があった。ここには彼女の言うとおり、そこでしか見られない身体の跳躍があり、夜の体育館は生き生きした運動の墓場のようでもあった。

 何で大人なの、と私は今更、彼女の正体を疑ったときに感じた違和感について言った。

「え、sugercubeさんがそれ言う、自分だって大人のフリしたことあるでしょ」

 肉体さえなかったら、相手の期待するような姿になれるんだよ、ネット上にいる人間をやってることと幽霊やってることってあまり変わらない、どちらも自分がイメージした姿に自分を置き換えられるから、と彼女は言った。

「あなたの投稿した写真見て、『顎が残ってる』って気づいてさ。このアカウント(?)で動けるのか心もとなくて、それで人間のあなたが欲しかったんだ。土を掘るのを手伝ってもらいたくて」

 あと花子に伝えてほしいこともあって、と彼女は俯いて言った。私はつい身構えた。

「わたしが恨んでると思って、呪うのを止めてくれないかって」

 呪う、と私は鸚鵡返しに言った。彼女は悲しそうに頷いた。

「今じゃ、わたしにはわたしの夢とかあって、八つ当たりみたいな動機で始めた絵でも、表現したいこととかが見えてきたとこなんだ」彼女はそう言って、言葉の続きを探るみたいに、自分の黄色い顎の骨を手の上でつついた。

「わたしが見えてから、ずっと怖がってる。まだ夢に見て怯えてるようだけど、それもうわたしじゃなく、彼女が期待してる化け物みたいなわたしの姿になってて、それが見ていてつらい」

 あのとき、と彼女が言ったとき、私の目の前には不思議と彼女の言う光景が広がった。花子が彼女を埋めたときだ。

「『空に帰すね』て言ってくれたけど、いま、花子の恐れのせいで空に帰れない」

 わたしにはわたしの人生の続きがあって、あなたをもう受け入れた。だから、あなたを手放したのと同じように、あなたもわたしの手を放してって、あの子に伝えて。

「『あなたを苦しめる存在として呪わないで』って言ったら、傷つくと思う?」

 私は、この親子の思春期の大喧嘩をみたような気分になった。たぶん、と言った後、身体の奥から温かい水が湧くみたいに笑いが込み上げてきたのには、私じしん驚いた。

 あのね、と言って彼女は手のなかの、自分の顎をつよく掴んだ。うん、と私が促すように頷いた。

「本っ当に許せないと思ったときもあったよ――」私はうん、と言った。

「本当に本当に、なんで、なんでってすごい何万回も言ってやりたいと思った――」

 私は何も言えずに、頷いた。何だか懐かしいような感覚が全身を包んだ。

「でもね、でも、わたしが描き殴ってた絵とか、あっちで好きって言ってくれるひとも出て来て」私はその感覚も知っていたから、うん、と同意をした。

「そしたら、親でなくても自分でなくとも、存在していることを肯定してくれる他人が居るんだなと思えて来て――」私は、うん、とまた言った。

「そしたら『自分て居ていいんだな』って実感できたの」オヤにそう伝えて、と言った。

 私は彼女に向かってケータイを掲げた。シャッターボタンが一瞬早く光った。プレビューで見ると、彼女が大きな目を見開き、その頬についている涙が反射して光っていた。

「うわマジそれ止めて、ぶさいくだから」

「ごめん、プライバシーだよね、泣いたの……」と私は動揺しながら、キャンセルのボタンを押した。

「もう一回、撮るよー」と言うと、彼女は嬉し気に自分が手に入れた、自分の顎の骨を顔の横に掲げて見せた。笑ってーというまでもなく彼女は笑っていた。

 撮れた、と私は闇に向かって言った。


(真夜中の体育館裏)#hanako


『心霊写真かも』と私がコメントをつけて上げた写真には、多くのコメントが付いた。

 マジで、見えない。分かる、中年の男が写ってる。右端、子供の手じゃない? なとの反応に、私の方が「そんなものあったっけ」と探す羽目になった。

『金髪で短髪のボーイッシュな女子大生が写ってる』

 という、複雑な正解を言い当てたコメントはなかった。

「他人の目で見てもそうか」と私は落胆したし「人間は見たいものを見るってこういうことなの」と、そのバラバラのコメントを見て思った。

 青空文庫は、存在しないユーザーとしてリンクがなくなっていた。突然アクセスできなくなったサイトの「中の人」のなかには、こんな風に「実際には身体がないひとだった」というケースもあるのかな、と思った。

 この「真夜中の体育館裏」をアップしてからしばらく、コメントの通知が鳴りやまず、私はケータイの電源を切ってテレビを点けた。

 市内の中学の体育館を、古い樹が倒れて直撃したというニュースが流れていた。幸い、明け方だったので怪我人はなかったということだったけれど、電線に引っかかった上に体育館を修復しなくてはならないので、工事のひとたちが右往左往していた。

(私が帰ってすぐ、だったのか)と、私は華子の計らいを感じながらその映像を見た。ショベルカーが土を動かし出しており、昨日私たちが塵取りで土を運んだのが馬鹿みたいなことに思えた。

(掘ったらまた出て来るのかな……顎は拾ったけれど、華子の欠片みたいなものが)

 切ったはずの電源が入って、またケータイが高い通知音を発しつつ震えた。誤作動はたまにあったけれど、ショベルカーが映った瞬間だったので私はどきりとした。

 ニュースを見たらしい他人のコメントが、画面上に溢れていた。

『中学の体育館て、いまこのニュースでやってるやつ?』

『やばい、鳥肌立った』

『本当に写ってる気がしてきたwwww』

 その後に続く、ローマ字のコメントだけが明らかに浮いていた。

 

nakamurahanako:hajimemashite


 初めまして、と私は思った。やることが花子過ぎる。何年も会っていないけれど、明らかに画面の向こうにいるのは花子だ。

 メッセージ通知欄が光っていたので、私は次にそこを押した。

『nakamurahanakoを友達として承認しますか?』

 というメッセージが、ポップアップで画面上に現れた。私は「はい」のボタンを押した。



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