話すように書け?
よく「文章を書くときは話すように書け」と言うが、自分はこの言葉がイマイチ信用しきれない。
『話して聞かせる』という動作は『書き記す』という動作とは違い、声量、声色、表情、間のとり方など様々な部分で言葉を表現することができる。スピーチでは、内容よりもそれらの表現を評価しているのだ。
分かりやすい例が野々村竜太郎の号泣謝罪会見だろう。鳴き声を無視して本来のカンペを書き起こしてみると、案外当たり障りのないことを言っている(謝罪はしていないが)。それがあれだけの騒動になったのは、ひとえに話し方の問題なのだ。
声色だとかそういう細かい情報を積み重ねていくのが『話術』である。
そういった情報を一切持たない『小説』において考えるべきは、「最低限どこを補足すれば面目が立つのか」じゃないだろうか。「どうやったらそういう情報を再現できるのか」ではない。完全な再現は不可能なのだ。努力するだけ無駄。
話すように書くと「小説にはこれらの情報が無いから補足が必要だ」ということが忘れ去られがちになってしまう。だから「何を書いているのかよく分からない」なんて評価を貰いやすくなる。
小説という媒体はもとより「書いていない部分は前後の文から想像しろ」という情報不足に寛容な代物ではあるが、だからこそ『前後の文』まですっ飛ばしてしまっては一塊の文章としての体裁まで保てなくなる。
話すように書いている人はこの辺りが分かっていない気がする。