トイレの外は異世界でした
サッパリとした気分で浴室を出るとそこには3人の女性が居てギョッと目を剥く。慌てて体を隠すものを探すが、私のジャージは無くなっているし、タオルは何故か彼女達の手にあるしで、なす術がなくヴィーナスの誕生ばりに手で体を隠して困惑する。
見渡した使用人と思われる女性達にタオルを差し出す気配はない。しかしどうやら渡しはしないが、拭く気らしい。一言の断りも無く一気にパーソナルスペースに踏み込んで来た彼女達に、寄ってたかってプライベートゾーンだとかお構い無しにこねくり回され、恥じらいにあたふたとしている内に手際良く私の身なりは整えられた。
恥ずかしさを感じさせぬ当然のような表情とグイグイとくる押しの強さに完全にのまれていた私は、気付いたら唖然と大きな鏡を見ながら鏡台の椅子に腰掛けていた。仕事を終えたとばかりに真っ直ぐと背筋を伸ばした見事な礼をとり退出して行った彼女達に、まさに嵐が去ったような心境だ。
パウダールームに取り残された私は暫し鏡の中の自分を見つめたあと我にかえり、おもむろに立ち上がるとそわそわとした。他人に裸を見られるどころか拭かれて服を着せられる初めての体験に何だか落ち着いてはいられない。富豪の客人へのおもてなしがこんなに破廉恥だとは思いもしなかった。
そわそわついでに見渡したパウダールームには私の物がひとつ残らず消えていて、仕方なしにまた身に付ける予定だった下着も勿論無い。つまり私は今ノーブラノーパンである。
生地が多いくせにやたらと軽い予想通り開放感抜群のネグリジェは、薄っぺらな胸をやんわり支えてくれている。下半身に至っては真っ白だから透けるのではと心配したが、裾が長くオーガンジーのような素材が幾重にも折り重なっていてノーパンの影響を受けないであろう事から考えないことにした。上に羽織ったガウンが床に届くほど無駄に長い。床を掃除して歩く事になりそうだ。
ドライヤーを使った訳でもないのに乾いている髪を不思議に思いながら雑に撫でると、何処からともなく良い香りがする。とても信じられないが、自分が放っているようだ。使用人の手で肌や髪に塗り込まれた得体の知れない液体によって、私は人生で初めて良い匂いを漂わせている。
自分では何もしていないが用が済んだのでパウダールームを出ると、美人騎士がソファーに座って優雅にお茶を飲んでいた。一つに結われていた銀髪は解かれ、なだらかに肩や胸に流されている。ラフな装いである事から、シャワーは済ませてあるようだ。
この国のしきたりが分からない私は天蓋の付いた敷居の高いベットに直行する度胸もなく、仕方なく美人騎士の右に倣い隣へ座ると、手持ち無沙汰に目の前に用意されているカップを凝視する。これは誰のだろうかと考えているとふと近くに気配を感じて、顔を向けると美人騎士がこちらへ身を寄せて私の前に置かれたカップへお茶を注いでいた。
余りの近さにギョッと身を引きそうになるが、なんとかとどめる。あからさまに避けては意識しているみたいではないか。完全にドキドキと胸を高鳴らせているけども。
白磁のような頬から満たされていくカップに視線を移すと、緊張して浅くなっていた呼吸をゆっくりと吐き出す。馬上で平気だったのはあれが2人乗り時の正しい騎馬姿勢だからで、今この状況でのこの距離感は正直息が詰まる。馬鹿みたいに心臓が鼓動を打って、音が漏れ聞こえてしまいそうだ。
満たされたカップに身を引いた美人騎士は口元に笑みを作り何かを言ったが、私はその顔を直視することが出来ず、湯気をあげる熱そうなカップを慎重に両手で持ち上げるフリをして誤魔化した。
横からの視線をバシバシと感じながら紅茶を啜る拷問のような時間に終止符を打ってくれたのは茶髪騎士で、ノックして入ってきた彼のスッキリとした面持ちに来るのが遅いと泣き付きたくなった。
彼等が短く会話を交わすのを後目に漸く視線から解放されて息を吐く。ホッとしたせいか異様に眠気を感じて目を擦っていると、部屋を出て行く気配に顔を上げた。茶髪騎士の後ろ姿がドアの外に消えていくのを働かなくなっていく頭でボケっと眺めていると、隣の美人騎士が立ち上がったので緩慢な動作でそちらを見上げる。瞼が酷く重い。
私に目線を合わせるように膝を付いた美人騎士は、短く言葉を発した後に許しを乞うように頭を垂れると睫毛を伏せた。サラサラと流れる髪の隙間から覗いた首筋がやけに白く見え、伏せた睫毛に出来た陰影に学生時代にデッサンした裸体像を思い出した。私は眠くて眠くて仕方がなくて、何故か異様に扇情的に映る美人騎士をうつらうつらと見ていた。
顔を上げた美人騎士は胸に当てていた指先で壊れ物を扱うかのように私の両手に触れ、今にも目を閉じてしまいそうな私の様子に僅かに笑みをこぼすと、引き寄せるように立ち上がる。
美人騎士の動きに引かれて腰を上げれば、頼りない私を支えるように腰に回された腕に抵抗も無く胸へと寄りかかる。ベットへと連れて行かれる最中ガクガクと落ちそうになる意識に美人騎士の腕に力がこもるが、なんとかベットまで意識を保つことが出来た。
余りの眠さに恥も外聞も捨てベットに這い上がれば、ヒンヤリするシーツの上へ身を滑り込ます。美人騎士が居るのにもかかわらず睡魔に負けて目を閉じれば、髪を撫で頬に降りてきた暖かい手に無意識に擦り寄る。慣れない環境に余程疲れていたのかも知れない、そこで私の意識は途絶えた。
翌朝目を覚ました私は寝起き早々に使用人達にパウダールームへ連れ込まれると、昨夜に続いてまたもや見事な礼をする使用人達を椅子に座りながら見送る。頭は未だにぼうっとしたままだか、身なりだけは立派に整っている。
私のジャージはどこだとシンプルなオフホワイトの胸下から切りかえされているドレスを見下ろす。胸の部分は生地の上にレースが重ねられ、裾が足首まで長くたっぷり使われた生地がドレープを作ってる。凄く素敵だ。ただし似合っているかは別問題で、友達の結婚式で着たチープなドレスの方がまだ私の身の丈には合っていた気がする。
あの使用人達は私の見て呉れをドレス選びには活かしてくれなかったらしい。なんとも不釣り合いで、服に着られた感が拭えない出来だ。この姿で家に帰った日には大笑いされるに違いない、恥ずかしい。唯一靴だけはローヒールで好感が持てる。会社で履いていたパンプスに近い動きやすさ重視の高さだ。
違和感はあっても最早自力で脱ぐ事すら出来ない非常に使い勝手の悪い非実用的なドレスに重い溜息を吐きながら、仕方なくパウダールームを出る。
ジャージの所在を確かめたいと思い部屋を見渡せば、美人騎士の姿は無くドアの近くに立っている茶髪騎士と目が合った。
伝わらないとは思いつつ「おはようございます」と真っ直ぐ茶髪騎士に歩み寄れば、私を見下ろした瞳が余りに曇りなく純粋で、何故か一瞬疚しい気持ちが芽生えた。思わず視線を逃したが、決して後ろ暗い事がある訳ではない。彼の瞳が真っ直ぐ過ぎるのだ。気を取り直して、彼の私を見る目に妄信的な何かが見え隠れするのが非常に気になるところだが、ジャージの所在を聞くことにする。
自分を指差しドレスを摘んで、「私の服はどこですか?」と言ってみる。しかし茶髪騎士は不思議そうに首を傾げただけで、伝わった様子はない。
しかしこれ以上のジェスチャーが思い付かない。何度か同じ行動を繰り返していると、困惑気味だった茶髪騎士の表情が徐々に照れたものへと変わってきた。胸に手を当てて恥ずかし気に何かを言ってくる様子に、これは間違って伝わったなと思う。”私にこの服は似合っていますか”辺りに受け取られたのではないだろうか。一生懸命に私を褒めて居るだろう茶髪騎士に、申し訳ない気持ちになった。
もう二度とこのジェスチャーはしまいと心に誓い、誤解を解く手立てもなく苦笑いで茶髪騎士を見上げていると、ドアがノックされた。私を庇うように前に立ち塞がりドアを開けた茶髪騎士は、外を確認してから体をずらして道をあける。ドアの外には使用人が居て、廊下の先を手の平で指し示し案内するような動作にどうやら私達を呼びに来たようだった。仕方ない、富豪に仕える彼女達の目に私の衣服がゴミに映らないことを祈るしかない。
大人しく後に従い連れてこられたのは昨夜食事をしたダイニングルームで、朝食の良い匂いがしてる。談笑する声と時折カチャカチャと鳴る食器の音に既に食事は始まっているようだ。
入って来た私達に気付くなり声を掛けてきたのは中年男性で、彼は私と茶髪騎士に短い腕を精一杯伸ばし席を勧めたあと、バターがたっぷり塗られた胸焼けしそうなパンを咀嚼し中性脂肪を蓄えている。その側の真っ赤なルージュが引かれた唇にティーカップを運ぶ婦人はまるで朝が似合わない人で、別の意味で胸焼けしそうだ。
ある意味でお腹が一杯になりながら、使用人に椅子を引かれるままに席に座ると、清らかな朝の光の中で此方に微笑みかけて来た隣の美人騎士が余りに神々しくて、女神が降臨したのかと思った。
暫しぼーっと見つめてしまったが、食事を運んできた給仕に居住まいを正す。この後また長旅になるかも知れない為、食べる訳にはいかないのだ。そして失礼にならないように断わるにはどうすればいいかと思案している内に出て来たのは、具の少ないスープだった。
私は給仕には何も語らずスプーンを手にすると、具を避けながら暖かな薄味のスープを黙って残さず飲んだのだった。
朝食の後部屋へは戻らず昨夜の応接間へ行くと、夫妻と軽い談笑の後直ぐに出立となった。スープを啜るだけにしておいて正解だった。
美人騎士によって肩に掛けられたケープっぽい肉厚な生地の外套は内側まで刺繍が施されていて、見えない所まで巨匠が凝らされている様子から何だかとてもお値段が張りそうだ。色は白地という旅にはそぐわない色味で非常に神経を使う。出来れば黒か迷彩柄のウィンドブレーカーが良かった。
玄関ホールで夫妻と別れて外に出れば、小鳥がチュンチュン鳴く清々しい朝日の中になんと馬車があった。昨夜何度か馬車と擦れ違ったが、明るい所で見ると一段と現実離れしている。それを引く馬もまた私が見た事のない大きさで、競走馬が華奢に思える程の逞しい体つきだ。某テレビアニメに登場する胸に7つの傷を持つ主人公の長兄が乗っている黒い馬みたいに大きい。
財力を見せつけるように装飾された豪奢な馬車はずっしり重そうで、見るからに馬への負担が半端なさそうだが、馬の方は意外と平気そうにしている。実際には瀕死でもない限り馬の状態など私には分からない。
美人騎士に手を取られ階段を下りると、そのまま馬車までエスコートされる。私のお姫様役は健在で、慣れない扱いに思わず頬が熱くなる。勿論照れではない、恥の方でだ。夫人のような踏まれれば穴があきそうな凶器になり兼ねない細いハイヒールでもないし、補助が無くてもしっかりとした足取りで1人で歩けます。
この屋敷の護衛だろうか、厳めしい男性達に注目されながら馬車に乗らざる得ない空気に黙って乗り込んではみたものの、天鵞絨張りの座席に怯む。一般市民には身に余る待遇だ。目的地は処刑台だったりしないだろうか。
上等なものをお尻で踏んづけているという状況と内心で葛藤しているうちに、他に誰も乗り込んでこないままドアは執事チックなガリガリなジェントルマンによって閉じられた。両手を膝に置いて背筋をシャキッとお行儀よくガチガチになって座っていた私もさすがに驚き、「えっ!?」と蚊の鳴くような声を漏らす。うそでしょ、1人で乗るとか凄く嫌だ、せめて隣には金持ちの余裕が欲しい。
あの個性豊かな夫妻のせいで、常時胸焼けでガリガリなのであろう執事の顔を身を起こして硝子越しに仰ぎ見るが、その表情は死んでいて私は彼では問題が解決しないことを瞬時に悟る。
それならばと美人騎士と茶髪騎士の姿を探してみれば、既に彼等は馬に跨りこちらを注視していた。しかし注視していたのは彼等だけではない、馬車を取り巻く全てが私待ちの雰囲気を醸し出していた。
玄関から此方を見る見送り待ちの使用人達や警護の厳しい男性達や美人騎士や茶髪騎士の、私の準備さえ済めば行動を開始するといわんばかりの視線が辛い。
そんな空気に気が付いてしまった後に、誰が1人で馬車に乗るのは嫌なんて子供じみたことを言えようか。少なくとも日本で23年間育ち協調性を磨いてきた私には、彼らの和を乱す事なんて出来なかった。
浮かしていた腰を再び下ろすと、何事も無かったような澄ました顔をして前を向いた。ただし心細さは最高潮で、手を落ち着き無く握り直したりして、口には出せない不安をなんとか押し込める。
馬車の中は1人で乗るにはとても広くて、精巧な造りの内装には冷たい印象しか持てない。
人の温もりや息づかいが微塵も感じられず心細くなるのは、外気を遮断する性能の良い窓ガラスのせいで、少し孤独を感じるのは、端に寄せられた窓ガラスを飾る重厚なカーテンが僅かに光りを遮って、車内を幾分か薄暗くしてるから。
心細さを誤魔化す為に瞬いた瞼に、昨夜の遠ざかって行く老人の曲がった背中が浮かんだ。瞬くごとにランタンが右へ左へ頼りなさげに揺れて、寂しい気持ちが助長されていく。自分はどこに向かっているのだろう、気持ちが追いつかないままどんどん先へと進んでいく状況に、心だけが置いてけぼりをくらってる気がした。