トイレの外は異世界でした
家屋の灯りが途絶えた道の先で、また仄かに光が浮かび上がる。近付くにつれだんだんと大きくなるその灯りにまた町かと思ったが、進むにつれ存在感を増すその外観にお屋敷だという事が分かった。
門から屋敷までの距離がやけに遠い、西洋風の建物だった。そのお屋敷はいかにも富豪が住んでいるに違いない豪奢な佇まいで、一瞬にして弱者から搾取した血税で豪遊する政治家が脳裏に浮かんだ。テレビで政治家の不祥事が取り沙汰されているのをよく目にした影響だろう。
茶髪騎士が門番らしき男達と話をする後ろで、私は一生縁がなさそうな大きなお屋敷をジロジロと眺める。暗くても分かる手入れの行き届いた景観は、庶民の私には想像も付かないような莫大な維持費がかかっていそうだ。
慌てて馬で駆け出した門番の男の後姿が遠ざかる間も無く、門が開かれる。ランタンを手に持った別の門番に先導されて、ゆっくりと敷地内へ踏み込んだ。
先導する男が老人でしかも徒歩なので凄く進むペースは遅いが、お屋敷の灯りの数が明らかに増したのを見て、もっと若い人も居たのにこの老人が先導なのはお屋敷側の都合があるのだと思った。
お屋敷の前に到着する頃にはすっかり準備も整ったようで、玄関ドアは開かれ使用人と思われる者達がずらりと並び到着を待ちわびていた。
馬から降りた美人騎士に抱き降ろされ、着地先には茶髪騎士によりトイレのスリッパがすかさず差し出される。豪奢なお屋敷の人達に見守られながらチープなトイレのスリッパを履く事に羞恥心で身悶えしそうだ。
ジャージにトイレのスリッパを履く私よりよっぽど上質な身なりの使用人達に恥ずかしくて目をやれない。美人騎士にやんわりと背を押されて階段を上がり玄関へ近付けば、左右に並ぶ使用人達の間を通りふくよかな中年男性と色気むんむんの若い女性が歩み出て来た。彼らがここの主のようだ。見るからに年の差婚で、婦人に至っては金品目的感が半端ない。
中年男性は言葉を発しながら私達に近づいて来ると、美人騎士の落ち着いた返事に肥えた顎の肉をふるふると揺らしながら頷く。幾らか言葉を交わしたあと中年男性は私に顔を向けると、上機嫌な様子で何かを話し掛けて来た。
何を言っているかはさっぱり分からなかったが、どうやら歓迎されているらしいという事だけはなんとなく感じて、会社で培った愛想笑いを返しておく。主に下ネタやダジャレなど返答に困った時に発揮される。
さあどうぞお入り下さいと言わんばかりの様子で私達を中へ促す裕福な中年男性と、目のやり場に困るセクシーなドレスを着て微笑みを浮かべる婦人、それと背中に僅かに触れる美人騎士の指先に押されて、玄関ホールへと足を踏みだす。
だけど大理石の床を踏むたびに違和感が増していく。自分が元いた場所とは環境がまるで異なるからかも知れない。そのせいか、唐突に込み上げた心許ない感覚に後ろ髪を引かれ、慌てて振り返った外の夜空は見たことも無いような数の星が瞬いていて、自分の生まれ育った場所との繋がりを断ち切られるように閉ざされていく玄関ドアに酷く心細さを感じた。
閉まる間際に見えた此方に背を向けて遠ざかる老人のランタンの灯がいつまでも瞼にチラつく。私は帰りたい場所からどんどん遠退いていっているような、取り返しの付かないところへと進んでいるような錯覚に陥り不安から足を止めたけれど、優しく背を撫でた美人騎士の手の温もりに励まされ戸惑いを抱えたまま流されるように前へと進んだ。
絵画やシャンデリアなど豪奢な調度品が飾られたお金の匂いがプンプンする玄関ホールを抜けて案内されたのは応接間のようなところで、美しく彫刻が施された暖炉で部屋は暖かく、これまた座ったことがないような上等なソファーが向かい合わせに置かれている。他にも1人掛けの椅子が部屋の周りには幾つかあり、その全てがホームセンターには売っていなさそうな高そうなものだった。
恐る恐る腰を下ろした私に対して、当然のように隣に座った美人騎士は至って普通の様子だ。高そうなものに対しての躊躇が一切無い。そういえば質の良い火の温もりをも遮る高性能のマントや、私に対しての身に余る程のレディーファーストぶりや、さらには富豪の知り合いなど、裕福さを窺える要素が沢山ある。先入観を持って美人騎士を見ると、金持ちの余裕が見えた。
茶髪騎士はどうやら座らないようで、私達の座るソファーの後ろに控えている。その理由は分からない。椅子なら沢山あるのにとは思うが、何かあるのだろうと言葉も分からない事だし黙っておく。
向かいに個性のある夫妻が座るタイミングで運ばれてきたティーセットに、使用人によって湯気を立てたお茶が注がれる。良い香りが鼻腔をくすぐり、知っているような匂いにここへ来てから初めて気が抜けた。
口に含んでみれば間違いなく紅茶で、飲んだ事のない風味だが甘くて美味しい。紅茶の中ではわりかし好きなアールグレイやアップルティーにも引けを取らない味だ。1番好きなのはカルピスだけども。
私が舌鼓を打つ間にも美人騎士と中年男性は話を進めているが、3対7の割合で中年男性が饒舌に喋っている。美人騎士は感情の読めない笑みを携えて相手が不快にならない程度に絶妙なタイミングで時折相槌を打つ。つまり殆ど聞き流している。
ソファーに座って一層強調されたメタボリックなお腹に手を置く人の良さそうな中年男性に、ちょっと愛らしさを感じる。床に足も届いていないところとかもなんだか可愛い。メタボリックなだらしない体型なのに何故だろう、清潔感があるからだろうか?動きがコミカルだから?ぬいぐるみみたいで可愛い。
その横でドレスのスリットから腿をチラつかせる色気むんむんの婦人は、9対1の割合で美人騎士に色目を使っている。たまに振り向くご主人に軽く頷くだけで、またすぐ美人騎士に流し目を送る。こんなあからさまに誘惑するなんて、年上のご主人に満足していない感がヒシヒシ伝わってくる。ご主人に少し愛着を感じたせいだろうか、私は何も知らない会ったばかりの中年男性を想い少し切ない気持ちになった。
ノックされたドアに近くに控えていた使用人が扉を開けると、膝を叩いて立ち上がった中年男性がさあ行きましょうといった様子で部屋を出て行く。婦人は部屋を出る直前まで美人騎士に色目を送り、ドア付近まで進み出ていた茶髪騎士の胸をいやらしい手つきで撫でて出て行った。視線は美人騎士を捕らえていたのに茶髪騎士にちょっかいを出すなんて、なんて高等テクニック!私がやれば失笑に間違いない仕草を使いこなす婦人を少し尊敬した。
先を歩く茶髪騎士の後に引っ付いて行き着いたのはダイニングルームだった。長いテーブルには銀食器が並び、お腹がペコペコな私の食欲をそそる良い匂い漂っている。しかし高級なレストランとはまるで縁が無かった私はテーブルマナーなんて知らず、近付いただけで椅子を引き私を座らせた使用人の巧みな技に翻弄された。
次々に運ばれる豪勢な食事に目移りしながら、ナイフとフォークの使い方は分かると意気込む。しかしお腹一杯に食べるんだという思いは、見事に空振りに終わった。何故か私の食事だけ森で食べたような具の少ないスープに見える。
シェフが腕によりをかけて作った豪勢な食事をいただく皆に視線を巡らせてから、もう一度自分のお皿を見る。やっぱり具の少ないスープだ。意味が分からないがお腹が空いている事には変わりないので、フォークからスプーンに持ち替えてスープを口に運ぶ。いや、美味しいけども。
優雅に食事を口に運ぶ美人騎士や茶髪騎士は私を見て何故か満足そうだ。中年男性はうんうんと満面の笑みで頷いている。婦人は相変わらずだ。
スープを飲み終えた私に次に運ばれて来たのは、煮た豆とジャガイモのようなものだった。なんて質素なんだろう。仕方ないので豆をフォークで刺して口に運びながらますます困惑して視線を皆に巡らすが、やはり反応は変わらない。やけに満足そうだ。婦人はワインをエロティックに飲んでいる。
終始困惑に彩られた食事だったが、皆の様子からしてそう感じたのは私だけだったようだ。なんだろう、もしかしてお腹が弱いのがバレているのだろうか?私も皆と同じものが食べたかった。
ダイニングルームから出た私は婦人に呼び止められ振り返った美人騎士をあっさり置いて、茶髪騎士と一緒に使用人の後に続く。到着した部屋を我先にと入る茶髪騎士に付いて行くと、ベットやらソファーがあるのを見て客室に案内してくれたのだと気付いた。
茶髪騎士に何かを言い残し退出した使用人に一瞬シンと部屋が静まり返るが、異性と密室に2人きりで緊張するどころか、次々とあらゆるドアを開け中を確認していく茶髪騎士の後に付いて私も中を確認していった。確実に私達の目的は異なる。私は好奇心からだが、茶髪騎士は開ける前に腰の剣に手をかけて臨戦態勢で臨んでいるので警戒からの行動だろう。
あの夫妻はそんなに物騒な人達なのだろうか?また泣いて縋る弱者を権力で捻じ伏せる代議士が脳腹を過ぎった。サスペンスドラマの見過ぎである。
一通り確認し終えた茶髪騎士は漸く肩の力を抜くと私に向き直り、見慣れてきた礼をしながら何かを話し掛けてきて、ある一つのドアを指し示す。
確かそこは浴室で、多分シャワーを浴びろと言いたいんだと思う。長旅で雨に打たれたり草むらで用を足したりと、是非にでもお風呂に入りたかった私は「はい」と素直に頷くと、先程確認しておいたクローゼットから1番まともな簡素なネグリジェを取り出すと真っ直ぐ浴室のドアへと向かい中へと入った。
因みに下着はどこにも見当たらなかった。もしかしたら婦人は下着は着けない派なのかも知れない。
浴室は浴槽の無いシンプルかつシックなシャワー室だった。蛇口は何処かと探したが見当たらず、上部に固定された使い勝手の悪そうなシャワーヘッドを見上げると勢い良くお湯が噴き出した。なんと、人感センサーが付いているらしい。変なところで近代的だ。しかし私はシャワーは手に持って使用したい派なので少し不便を感じた。幾ら値打ちのありそうな金色のシャワーヘッドでも、この不便さは海水浴場の海の家に併設されているシャワー室並みだ。
シャンプーが見当たらないので何だか良い香りのする固形の石鹸のようなもので頭から体まで一気に洗うが、石鹸に関しては特に不満を感じなかった。石鹸で髪を洗えばきしみは必至だが、何故かそうはならなかったのである。