トイレの外は異世界でした
小屋で一晩過ごした私達が支度を終えて出て来ると、外は見事な秋晴れだった。暖かい日差しが冷たい空気を縫って、肌に降ってくる。
束の間の心温まるような一時にホッと息が漏れる。干してあったタンクトップを下着のように扱われ、不覚にもだんだん恥ずかしくなってしまったことなど忘れられそうだ。私はあっけなく騎士達の醸す空気にのまれていた。今やタンクトップとスリップはそう変わらないような気がしているから不思議だ。昔から流されやすい性格なんです。
因みにタンクトップはその後自ら回収したが、乾いているものの人目に晒された下着感を払拭出来ずに、身に付ける勇気も起きず美人騎士の荷に入れてもらっている。実に恥ずかしい。
茶髪騎士に引かれてやって来た馬の背に、美人騎士に持ち上げられて跨る。暖かい日差しに鼻を鳴らして、気持ち良さそうに目を細めた馬のツヤツヤの背からタテガミにそっと指を這わす。酷い嵐の中私を背に乗せて走ってくれた事への感謝が、撫でるこの手から彼に伝わればいいなと思った。
車は余り通らないのか舗装されていない田舎道に出来た水溜まりが、日の光を反射してキラキラと輝いてる。見える限り先まで光に照らされた暖かな森の道を、ご機嫌な足取りで進んでく。
一晩お世話になった小屋が見えなくなって気付いたのは、昨日あれだけ駆けたというのに、まだ人の気配がない深い森の中に居るということ。一体どれだけ大きいんだこの森は。こんな広大な自然がまだ日本にあったなんて驚きだし、益々自分がどうやってこんな所へ来たのか不思議に思う。
トイレに入る前も入ってからも意識はしっかりしていたし、そもそもトイレから出た覚えもない。家から出て飛行機に乗った記憶もなければ、空港から草原までタクシーを使った記憶もない。ましてやこの柔な脚では草原を歩いて掘っ立て小屋まで行くのには距離的に無理があるし、草原の上空で飛行機からスカイダイビングするような度胸もない。まるで瞬間移動したとしか思えないーーーそう考えて、何だか瞬間移動が説明するには一番近い言葉のように思われた。
考え事をしながら何の躊躇も無く無防備に美人騎士に凭れ掛かると、不意に落ちてきた銀髪に上を見上げる。そんな私を見下ろした灰色の瞳が、少し笑んでいるような気がした。
そこから度々休みを取りながら進み、道中うっかりお昼寝をしてしまう程長く馬に揺られて、ようやく日が暮れる頃に人里が現れた。
ここまでの道中で1番困ったのはトイレで、いつもの外出時の原則に従って朝ご飯は断って食べなかったし、なんなら昼ごはんも長旅を見越してお腹は空いていたけど具の少ない温かいスープを胃に負担が掛からないように良く噛んで飲んだし、体が冷えないように借りたマントに包まったりしてなんとかお腹の調子を保つことは出来たけど、尿意だけはどうにもならない。
寒さのせいか大して喉が渇かず、水気といえば昨日あの掘っ立て小屋に来る前に家でカルピスを飲んだのと、昼に茶髪騎士が作ったスープを一杯飲んだきりだったけど、何度目かの休息を終えて出発しようとする最中私は尿意を催した。
何が困ったかというと大自然にはトイレが無い訳で、トイレがあればそこを指差せば大体トイレに行きたいって伝わると思うけど、トイレの無い場所で乙女が尿意を伝えるのに一体どんなジェスチャーをすれば良かったのか。
漏らす訳にはいかず羞恥に悶えながら股間を押さえて草むらを指差す私の一連のジェスチャーを視線で追った美人騎士は、なんとも華麗に胸に手を当て一礼すると、私の手を引いて草むらへ導いてくれたのだった。茶髪騎士と美人騎士が交わした言葉の意味は考えたく無い。
トイレットペーパーも無い、手も洗えない、さらには冬眠前の熊でも出るのか、そんなに離れていない場所で美人騎士が警戒して待機しているという、微塵も落ち着かない猛獣に襲われる危険をはらんだ物騒な用足しとなった。
だから森を抜けて小高い丘の眼下に続く道の先に家屋が見えた時は、やっと家に帰れるって気持ちより、漸くトイレが使えるって感情の方が大きかった。
これだけ田舎だから水洗じゃないかも知れないが、汲み取り便所でもなんでもいい。トイレがあればペコペコのお腹だって安心して一杯に満たせるし、いつ下すかとヒヤヒヤしなくて済む。
何も焦らなくたっていい、あとは事情を話して民家で電話を借りればいいのだ。
体に巻き付けたマントを手繰り寄せて、もうあと一息と美人騎士の胸から体を起こすと居住まいを正した。
だだっ広い丘を下ってようやく人里に着いた頃には辺りはすっかり暗くなり、ポツポツと点在する家屋には明かりが灯っていた。
舗装はされていないが手入れの行き届いた幅の広い農道を真っ直ぐ進んで行くと徐々に家屋の数が増していき、奥に行くにつれ村というよりは町と呼べる程の数の建物が立ち並び圧倒される。通りを歩く人の姿こそ少ないが、どうやらここは中心街らしい。商店の店先に吊るされたランタンの灯りで通りは僅かに明るい。
良い匂いがあちらこちらからして、見渡すと大衆食堂やレストランらしき店があるのが分かる。目にした人の数に反して中は凄く賑わっている様子だ。
いつしか石畳に変わっていた道の上を馬車が走り過ぎ、ギョッとする。だけど驚いているのは私だけで、まばらに通りを歩く人達に反応はない。それどころか公共の場を馬に跨ったまま闊歩する私達にさえ目もくれない。
時折ランタンを手にした人が居て、その人達だけが私達に目を留め礼を取った。皆似た服装でしかも物騒にも帯剣をしている。騎士達もそうだがその腰に下げるものは銃刀法違反に引っかかるものではないと信じたい。巡回している様子から彼らは警備関係の人かも知れない。
ここではまだ馬から降りる気はないらしく、市街地を抜けて暫くまた民家が点在する農道に出た。
真っ暗な農道を時折馬車とすれ違いながら進む。日が落ちて一層冷えてきた空気に首を縮めると、背後から回された腕に引き寄せられる。最早何の戸惑いもなく美人騎士とピッタリ密着して胸に凭れると、まばらに散らばる家屋の明かりをただ茫然と眺めた。
私は人里に着いたらまず事情を説明して、電話を借りるつもりだった。それは交番でも良かったし、民家でも良かった。だけどそのアテは外れてしまった。
もしかしたらあの町には交番みたいなものはあったかも知れない。何かしらの連絡手段も存在したかも知れない。だけどそれは私が想像してるのと違う気がする。知っているものと異なる気がする。
ここはーーーーーどうも様子がおかしい。
馴染みのあるものがどこにも見当たらない。電柱や街灯やアスファルトや車や自転車や日本人が見当たらない。馬を降りて電話貸して下さいなんて、思っていたようには気軽に声を掛けに行くなんて出来なかった。
まるで海外のファンタジー映画に迷い込んだような、好んで見ていたシリーズものの作品に世界観が似ていて、魔法使いとか出てきても不思議ではない景観に少し薄ら寒さを感じた。