前編
「兄ちゃん!こっち!」
呼ぶ声に、咄嗟に足を回転させる。折れた先は、激しい流れの水路ーーの上を跨ぐ、ボロの一枚板。向こう岸で、弟たちが全身の力を込めて大きく手を振っているのが見えた。
「待ちやがれ!」
しぶとい親父に目もくれず、一目散に駆ける。片足で板を踏み、全身のバネで、跳ぶ。反動で板は真っ二つ。激流に飲み込まれ、瞬く間に姿を消した。俺は、転がるように向こう岸に着地し、息つく間もなくすぐさま前のめりに駆け出した。着地のときに腕から溢れた干し肉を目ざとく拾ってから、弟たちも群がるように着いてくる。
背後では、逆の岸に取り残された肉屋の親父が、怒鳴り散らしながら立ち往生していた。それを尻目に、俺たちは軽やかに走り去って路地裏の闇に溶け込んだ。
「あー、だめだ!この肉、カビ生えてるや!」
いつも寝ぐらにしている路地裏に戻り、皆で獲物を広げて品定めしていると、リィトが不意にそんな声をあげた。
「どれ、見せてみ。……あー、ホントだ。貸してみ、兄ちゃんのと交換しよう」
「え……いいの……?」
「兄ちゃんは大人だからな。食って大丈夫な所と、ヤバい所の区別くらいつくぜ?なーに、こうやってカビを取り除いてやれば……」
「へぇ……!兄ちゃんすっげー!ありがと!」
「おうよ!」
……と、偉そうな口を叩いたが、もちろんそんな芸当は本当のような嘘の話。カビ菌が根深く残っているかもしれないこいつを、果たして摂取しても大丈夫なものか。いや、しかし、これを逃せば肉を食べられる機会なんて、今度はいつになるか……。
「兄ちゃん」
そんなことを考えていると、今度はマリーが遠慮がちに上衣の裾を引いてきた。
「水筒に穴が空いちゃった……さっき、水路でお水汲んできたのに……」
「あらら……結構古くなってたからな……とりあえず、兄ちゃんの水分けてやるから、飲め。干からびたら大変だ」
「うん……ありがとね、兄ちゃん」
マリーが遠慮がちに水を口に運ぶのを眺めていると、今度は背後から大きな鳴き声があがった。
「わああああああん!!」
「わっ、よしよし、ルゥ……!」
見ると、泣き喚いていたのは一番年下のルゥだった。顔を真っ赤にして涙を流すルゥを、ひとつ上のリサが必死に宥めようとして、持て余している。
「今度はなんだ……!?」
慌てて近寄ると、リサが今にも泣き出しそうな困った顔で見上げてきた。
「兄ちゃんどうしよう……ルゥが、持ってた干し肉ぜんぶ落としてきちゃったって……」
「うう、兄ちゃん、ごめんなさい……」
ルゥは俯き加減に、泣きはらした目をちらちらとこちらに向けた。ひとつの干し肉がどれだけ貴重なものかなんてことは、このスラムに住む者なら三歳児でも知っている。だからこそルゥは、幼いながらに、責任を感じているようだった。
「謝ることないぜ」
そう言って、ルゥの頭を撫でる。
ルゥはまだ小さい。その小さな腕の中に、たくさんの獲物を抱えて全力疾走するのは、さぞ骨が折れただろう。
しかし、そうは言っても、これは俺たち大兄弟には結構な損失だった。貧困街の片隅に身を寄せ合って暮らしているとて、成長期の兄弟たちの体にあまり酷な我慢は強いたくない。とはいえ、もう一度調達に出かけるには、幼い兄弟たちは既に消耗しすぎている。
「……よし!」
また、あの頑固親父みたいな奴に追いかけられると思うと、少しおっかないが……そうこう言ってもいられない。俺は、奮いたてるように立ち上がった。そもそも、寄る辺ない幼子など風吹けば消えてしまうようなこの街で、こうして束になって暮らしているのは、互いに支え合い生きていくためじゃないか。それならここは、最年長の俺が一肌脱ごう。
そんな俺の決意を察してか、弟たちの中からアベルがひょっこりと立ち上がった。
「兄ちゃん、行くの?」
アベルは兄弟内で俺の次に年長でーーそして、血の繋がらない大兄弟の中で唯一、俺と本当に血を分けた弟だ。
「ああ、ちょっと行ってくる。留守の間、みんなのこと頼んだぞ」
同じ血を分けた証明みたいに真っ黒くふさふさした頭を片手で掻き乱すと、アベルはくすぐったそうににかっと笑った。
「うん、任せて」
そう言って、首から吊るした星型のペンダントを持ち上げてみせる。それは、アベルがこの街で、初めて自力で“狩り”に成功したときの獲物だった。金にはならず、腹も満たせない、それでも、俺とアベルにとってはかけがえのない記念の品。アベルはいつも、そのペンダントをお守りみたいに大事に持って、兄弟たちの無事を祈るのだ。
「兄ちゃんの無事も、祈ってるからね」
そうして、傾きかけた太陽のもと、俺は再び外へと繰り出した。この一帯は、夜になるとさらに冷たく、凶暴になる。魔窟だ、と今はもう死んでしまった、年老いた盗人が言っていた。奪った者が勝つ世界。笑うでもなく、優越するでもなく、ただ淡々と生き残る世界。
そんなどうしようもないこの街で、幼い彼らの、小さなヒーローになろうと振舞っていた。臆病で、情けなくて、不安な自分は、必死に殺した。未来もなにも感じられないこの街で、それでも前を向いて生きていくことの正しさを……なにより、自分が信じていたかった。