小夜物語 第45話 『そこはケガレ地だったのだろうか?』
私の生まれたのは昭和20年代、、まだ戦争の余韻も抜けきらぬそんな時代。
生まれた土地は、そこは開墾地と呼ばれていました、
田舎の県のさらに僻地のそこは
一面の野原と雑木林で山間地域のこの地域にしては珍しいここだけが平坦な開けたところなのです。
ただこの「○原」いったいは水利が悪くて、水が出ないのです。小川すらありません。
井戸を掘っても水脈がなくてほとんどでません。
ということで稲作農業もできません
で、平坦地という良い条件ながら、未開のまま近年まで放置?されていました。それが大正時代のころから開墾地として入植が進み
私が物心ついたころには、数百件の畑作開拓農家があったというわけですね。
そのご、、バブルのころを境にして、水道や下水さえも引かれてこの地方では貴重な平坦地ということで
アパートや住宅が結構、立ってきたそうです。
今ではちょっとした住宅地?だそうですよ。
とはいえ、、私はご存知のように?この生まれ地を18歳で離れてそれ以来、戻ってないんですから、
詳しいことは知る由もないですがね、
まあそりゃあ、年一回、墓参りとかでは帰郷していましたがね。
さて
開墾地は
別名「○原」とも言います。
地名の語源辞典に依れば
何とか原とか言う地名はそもそも、ケガレ地だということですが、
確かにそこは、私が知る限りいいことがなかったですね。
当時はなんでこの地は変なことで死ぬ人が多いんだろうなあ?位しか思っていなかったですが、、。
大人になってから地方史の歴史書で知ったのですが
そこは、、その平坦地の一帯は古代6世紀ごろの、その地方の集合墓地で、古墳群があり、当時は160基くらい、大小様々の群小古墳があったということです。
地方史の書物によると、
最大のものでも
一基の大きさは高さ4メートル、周囲直径10メートルくらいの小古墳です。
これはおそらく、、当時、この地帯の首長、、地方役人の高官クラスでしょうね。
(これは20年前くらいに、村の教育委員会によって復元されていますね)
でも、もっと小さいのがほとんど大多数です。最小で、、高さ1メートル、直径3メートルほどの土饅頭です。こういうのが大多数です。まあこういう小さいのは畑にするために
江戸時代ほとんどつぶされてしまって残ってませんがね。
大きいのだけが今も残ってるってことです。
古墳全体は石積み工法で、石室は川原石を組んで石槨が作られています。
いわゆる「積み石塚」という姿の古墳です。
私の少年時にもそれらはまだいくつも原型をとどめて残存してましたね、
そして残ってるものはすべて盗掘済みでした。墳丘に穴が開いていて、、石室の中は空っぽです。
あったであろう、木棺や、副葬品は皆無です。
これらの群小古墳は別に機内の大古墳のように歴史的に貴重というほどのものではないし、
江戸時代には畑作地にするために切り崩されたりあるいは、積み石を石材として使うために持ってかれたりして、次第に
切り崩されて往時の160基もあった群小古墳は明治時代には、、、
つまり私が参照した地方史が書かれたころには、、数十基にまで激減していたようです。
でも
私の少年時代にもまだ15基くらいは原型をとどめて残ってましたね。
それは
雑木林の中に、、
村長さんの屋敷林の中に、、
小学校の裏山に、、
それらはひっそりと残ってました。、
そういえば別に何の知識もなくて
少年時代、私たちはこうした古墳の石室に入って遊んだ覚えがあります。
当時残っていたのはせいぜい15基くらいだったでしょう、
すべて暴かれて石室はまるだしになっていましたね。中は空っぽです。
地元の古老がささげた、お盆の卒塔婆の供養木塔が立っていました。
古老は供養しないと恐ろしい?と知っていたんでしょうね。
もともと160基あったはずのその他の古墳はどうしたのでしょうか・
江戸時代までに、大半が盗掘されあるいは石を取るため壊されて
あるいは麦畑にするために切り崩されたりして消滅したものと思われます。
確かに斜面だらけのこの山村地ではこうした平地は古代でも貴重だったでしょう。
だから古代人はこの平地を大事な祖先の集合墓場にしたのでしょう。
つまり、この「○原」は古代の葬送の霊地だったのです。
郷土史の本によると、
葬られているのはこの地方の開拓者、首長、帰化人(高麗人技術者)のエリート、地方役人などです。
こうした積み石塚古墳の技術は渡来人系のモノといわれています。
明治時代にここに、小学校を作るので古墳を6つくらい潰したのですがそのときワラビ手の太刀も出土しています。
まあ、、こう見てくるとですよ。
とにかくこれだけの群小古墳が群れをなしてあったこの「○原」に
一般人が住むなんてこと自体がいけないことだったんでしょうね。
ここは古代のお墓ですから、我々は墓地跡に、住んでるようなものです。
特に古代人の怨念は強くてなかなか消えないということですから、
よりヤバイですね?。
それだけ古代人は葬送とか墓地に強い思い怨念ががあったのでしょう。
それを勝手に壊して整地して知らぬとはいえそこに住宅なんか作って住んでいるんですからそりゃあ、
呪いたくもなるでしょう。
ということで?
私の知る限りですがこの狭い地域には
私の少年の当時、自殺者・変死者が異常に多いですね。
自宅の梁に首をつって自殺した家数件。
農薬を飲んで自殺した家数件。
勤め先のビルから飛び降り自殺。
一家離散。交通事故死、発狂、
病気、大怪我、難病奇病なども多いです。
これがわずか、4キロ四方のこの「○原」で頻発しているのですよ。
実は、、、我が実家もそこの一角にあったのです。
開拓農民として祖父がそこに入り畑作農業などしてました。
我が家に起こった凶事?を書くのも、いやですので書きませんが
私が物心付いてからもたてつづけの凶事?がありましたね。
ということでついつい?書いてしまいますがね。
私の母は交通事故で瀕死の重傷を負いましたし
私自身も、、危うく事故死しかかったことが何度もあります。
一度は間一髪で事故死から逃れていますし、
川で溺れ死にそうになったことも2度あります。
当時(昭和20年ころ)はプールなんてありませんでしたから少年はみんな夏は川泳ぎですよ。
姉も病気で手術、父は勤め先の事故で瀕死の大けがですよ。
これって?相当やばい?ですよね?
で、母が、御岳教の行者さんを頼んで、
お払いをしてもらうことになりました。
行者は我が家に来ると、我が家の風呂に入り身をきよめ、
白装束に着替え頭には御幣をつけて、
白い酒瓶に榊の小枝を浸して
しきりに呪文を唱えて、家の中を押し歩き、
立ち止まってはお神酒を小枝で振り掛ける動作をしました。
家の四隅に御幣を挿し、中央に戻るとしきりに呪文を唱えます。
それが小一時間も続いたでしょうか。
最後は皆で四方拝です。
やっと祈祷は終わりました。
それからは、、、
不思議と?隣近所で凶事が起こっても、
我が家にはこれと言って凶事もなくすごせたのでした。
こうして今私がここに元気に生きてこられてこんな文章を書いていられるのも
まさに?この祈祷のおかげかもしれませんね?
私自身の運?もあるでしょうが、
又、、私が守られているという事実もあるでしょうが
この御祈祷にも助けられていることは間違いないでしょう。
もっとも、、、、
私はそこを、、、、、、実家を18歳で出て、東京での大学へ入学、都内の襤褸下宿に棲み、そうして
2度とそこへ(実家)帰ることなく、いまは別のとある県で就職して、暮らしているのですから
もしそこにずーっと、住み続けていたらどうなっていたかは分かりませんがね?
じゃあ今もそこは、、、
つまりその「〇原」は変死者が多いのかって?
そんなこと私に聞かれてもわかりませんよ。
だってそこを離れて40年以上ですよ。
実家も両親が亡くなってからずっと、空き家で、、
私自身、、帰ったこともないし、、
それも今は売り払ってしまって実家も無いし、、、
もう20年くらいそこへは
行ったこともないですから、。
さあ、私にはわかりませんね。
でも?
風の便りに聞いたところによると、、
自殺者や
変死者は相変わらず?
多いらしいですよ。?
㊟この物語は完全なフィクションです。
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