明日は土乃目の金曜日
断言できる不幸とは、突然やってくるものだ。
いつもより帰りが早かった父が夕食時に話したのは、今が流行りのリストラ話だった。
すまない。本当に、すまない。
頭を垂れて肩を落として。
その事実と意味するものを秀樹に教えてくれる。
少しの間をもって、母が大丈夫と優しく父に言った。
声は震えていた。父の肩に置かれた手は小さく震えている。
自分の家は共働きで父は会社勤め、母はパート。
家は賃貸のおんぼろアパート。
金融機関に借りた金もある。母だけの稼ぎでは絶望的だった。
生活保護。自己破産。新たな借り入れ先。親戚めぐり。
最近家庭科の授業でそんな内容があったからか、色んなキーワードが頭に浮かんでは消える。
学校辞める。
そう咄嗟に声に出すと、父と母がぽかんとした顔になった。
まるで最初からその考えなどなかったかのように。
何を言っているの。せっかく受験して受かったのよ。入学金と授業料はもう払ったし、奨学金でなんとかすればいいじゃないの!
母が慌ててそうまくしたてる。勢いで両手を机に置いて身を乗り出す。
父はおろおろとして、何を言えばいいのか分からないようだった。
若いんだから、とか。色んな言い訳を秀樹に与えてくれる。でも。
たまりにたまった借金。
無職の父と少ない稼ぎの母。
年々貸与が難しくなる奨学金。
無駄にしてしまう学校へ払った金と、どちらが高いだろうか。
だったらせめて、奨学金を希望してからでも――そう、やっと父が言いだした時だった。
玄関からドドドドン、と叩く音がした。
インターフォンは今壊れていて使えないのだ。
取り立てか? そう思ったとき。
非常に低い声で、丁寧な文句が飛び込んできた。
「すみません、誰かいらっしゃいませんか。わたくしは山下里沙様の使いの者です。経済的な支援のお話をお持ちしました」
その言葉がすぐには理解しがたく、秀樹は数秒固まった。父も母も同じく固まっていた。
「すみません、いらっしゃらないのですか? 別に私は怪しい者ではございません。いえ、十分怪しいと言われても仕方がないかと思いますが、一応怪しくはありません。きちんとした社会人でございます。きちんとハローワークで就職活動をしたのちになんやかんやで私、山下家で使用人として働くことになった、六年目の者です。お願いです。開けてください。でなくば私が怒られます。そうでなければこのガタがきているドアの蝶番がそのうち壊れてしまい、そして私が中へ入ってしまいます」
いち早く秀樹が立ち上がって玄関へと向かった。
なんだかよく分からないが、ドアのガタがきているというのは本当だ。
賃貸なんだから壊したらえらいことだ。
支援だなんだのと新手の詐欺だろうか。
最近そんな詐欺が流行っていると聞いたことがある。
そう思いつつも「今開ける!」と秀樹はドアを開いた。
「あ……よかった」
玄関前にいた人物はほっとしたように笑顔を見せた。しかし秀樹はまた固まった。
妖怪ぬりかべ――最初にそれが頭に浮かんだ。
そこには逆三角形の巨大な体躯を丸め、こちらを伺うスーツの男がいた。
きっちり七三に撫でつけられた髪といかめしい黒ぶちの眼鏡。
パリッとした真黒なスーツはおろしたてに見えた。
そのスジの人にしか見えない。
しかもよく見れば後ろにまだ二人ほどそっくりなのがいた。
なんという圧迫感。顔も背丈も同じ。
三つ子だろうか。
真ん中の男がニコッと笑い、名刺を取り出して口を開いた。
「突然お伺いして申し訳ありません。私、山下里沙様の使いで参りました大山と申します。以後お見知りおきを」
丁寧に差し出された名刺を受け取り、まじまじと名刺を見る。
名前よりもまず肩書きに目が行った。
『山下コーポレーション』
山下。山下コーポレーション。
失礼かもしれないが、よくありそうな会社名だ。
「社名は気になさらないでください。今回は里沙様個人の使いですので」
「はぁ……」
横から覗きこんできた両親は秀樹の手にある名刺を見て首をひねった。
心当たりはないらしい。
「今回お尋ねしたのは、田中秀樹さんにお嬢様からお話があるからです。しばしお時間よろしいですか?」
「俺? なんで?」
「すみません、そちらは里沙様から詳しくお話がありますので、そちらで。車もご用意しています。さあさあ」
「え」
「さあさあさあ」
「ちょ」
「さあさあさあさあさあ」
「いや、待て、何を」
三人のうち二人に両腕を掴まれ、アパートの前へと連れていかれた。
確かに、車がある。白いワゴン車だ。
ベンツじゃないのか……とか頭の隅で考えてしまった。
「では、失礼いたします」
男二人に挟まれたまま後部座席に詰め込まれ、やっと慌てだした両親がアパート前までやってきたところで無残にも車のドアはバタンと閉まった。
これが、つい先日起こったことである。
部室の前で秀樹は立ち止まり、冷や汗をさらに流し始めた。
昨日隙を見て国木に手紙を渡したものの、秀樹は今になって不安になってきた。
正直、リクの言ったことを全て信じることはできない。内容が突飛すぎる。
確かにこの身をもって不思議な現象を体験したが、その場の雰囲気に圧倒されて、不思議なことが起きたのだと勘違いしただけかもしれない。
本当は何か、トリックのようなものがあったかもしれない。
腹部の痛みが引いたのも、そんな気がしただけなのかも。
人間というのは思いこみだけで結構何でもできる生き物だ。
自分の浅い知識だけで判断するならば、リクはようするに二重人格というやつだろう。
でも国木が何か妙なことに巻き込まれていることは確実だ。
それについて、リクという人格は何か知っている。
たぶん、リクはまだ秀樹に言っていないことがある。そんな気がする。
その二重人格のリクが原因なのかは知らないが、とりあえず現状打破するために彼女を病院に連れて行くべきだろう。
秀樹は専門的なことはとんと分からない。
精神的な病気であるのならばそれを専門にした人間に相談するのが一番だ。
そう考えて、秀樹はまた頭を抱えた。
だめだ。あいつは俺を避ける。
第一、家族でもない奴が強引に関わっていいものなのか?
リクの言っていた言葉が気になる。
『魂』『回復させる手立て』『瑞架の運命』。
国木の精神的な何かがリクを生み出したのだとして、そのリクが秀樹に接触してきたということは自分が彼女の何かに関係しているということではないのか。
昨日のあのとり乱し方は尋常ではない。
リクはあれを恐れていたのだ。
となれば、秀樹が昨日のことをまとめたノートの切れ端もとい手紙を渡したのはもしかしたら逆効果だったかもしれない。
余計な負荷をかけてしまったかもしれない。
しかも、何かの鍵になるかと思って無神経にも『告白ゲーム』のことを手紙に書いた。
もしもそれが原因だったとしたら、あまりにも直接的すぎる。
でも、俺は本当に心当たりがない。
覚えていないのだ。
もう十分くらいは経ったか。
この向こうに国木がいる。目が合えば、またそこで彼女からの拒絶の意思を感じ取ってしまうだろう。
秀樹は意を決して、睨みつけていたドアの取っ手に手をかけ、開いた。
そして秀樹は混乱した。
「あ、田中君来ましたよ。部長」
にこ、と控えめに微笑み会釈する。
その瞳はしっかりと秀樹を映していた。
不自然にひきつった笑みではなく、自然な形の笑みだった。
秀樹は目を見張った。
なんということだ。国木が自分に普通に接した。
なんということだ。
「あの、国木……さん?」
「ん?」
国木は首を軽く傾げて優しげに微笑む。
ほんわりと柔らかなその雰囲気は今まで秀樹にとって無縁だったものだ。
つん、と鼻の奥が怪しげな気配を漂わせて、秀樹は慌てて手で顔を覆った。
どうしたの? という国木の心配そうな声に、大丈夫、大丈夫だから大丈夫! と片手で手を振りつつ顔は後ろに向けた。
不覚だ。まさか泣きそうになるとは。秀樹が想像するよりもずっと、彼女に避けられてこたえていたのだ。
はっと、作業机の一番奥に座る山下がこちらを見ていることに気付いた。
にやりと笑うと扇子でさっと口元を隠した。
しかし細まった目はそのままこちらを見ている。
何故この時期にそんな扇子を持っているのか聞きたい。
「おらおらー、さっさと座るのだよ新入部員! この先輩部員であるあたしを待たせるんじゃないよ新入部員!」
「智美、扇子は机を叩くものじゃないよ。あと先輩って言っても同学年だよね」
ピシピシと別の扇子で机を叩いていた花積だが、国木がその扇子をさっと取り上げそのままその扇子で花積の手の甲をビシッと叩いた。
絶妙な角度で叩かれたのか、花積は叩かれた手を抱え込んで黙った。
国木はひったくった扇子を静かに自分の机に置いた。
国木が弁護してくれた! と心の中で拳を握りつつ、秀樹は平静を装って席についた。
「はいはい茶番はこれでおしまいね。聞かれる前に言うけど、これはメディア部の備品を整理していたら出てきたのよ。何かのイベントで使ったのでしょうね。穴やら染みやらが付いてて使えそうにないわ」
まあこれは綺麗だったけど、と山下がひらひらさせている扇子の表面はよく見ればテカテカと艶があった。
ビニールかナイロンの布に違いない。かの有名な風神雷神の渋い絵が印刷されている。
「さて、学園祭まであと二週間ちょっとを切ったわ。いい加減当日のスケジュールやら展示の仕方やら、詳細を決めましょう。というわけで男子は力仕事ね」
もはや俺には抗議する余地などないというのか。
秀樹がげんなりしたのに気付いたのか、山下が扇子で口もとを隠しながらふふっと笑った。
「やあねえ、新入部員のあなたに大部分の仕事を全て任せるなんて、そんな大博打は打たないわよ」
「それ結構酷いこと言ってませんか」
「大丈夫。それは山下女史の可愛らしい照れ隠しだよ」
自分以外の男の声が聞こえて秀樹が周囲を見回そうと隣を見たととき、どかっと肩に重みが乗った。
顔を向けたそこには黒、茶、金の順番で頭頂部から毛先まではっきり三色に分かれた男子生徒がいた。
右耳には黒いカフスを二つ付け、制服の前ははだけてシルバーのジャラジャラしたネックレスが覗いている。
親指を上げ、ふっときざったらしく笑ったのを見た途端になんとなく殴りたくなったが、なんとか抑えた。
「君が田中秀樹君だね! 初めまして、二年の藍澤蒼介、幽霊部員でっす☆」
「リアルで語尾に星がつくような喋り方の人は初めて見ました」
え、そう? と相手がにへらと笑ったその隙に、秀樹はさっとしゃがんで後頭部に乗せられた腕をおろした。
がくん、と三色の幽霊部員がバランスを崩す。が、すぐに持ち直す。
「ひどいなあ」
非難がましくじとりと視線を投げかけてくるが、無視する。
「これでも俺、君より年上だよー人生の先輩だよー」
パン、と山下が手を鳴らした。
「自己紹介はいいけれど長話は止めなさい。そこでニヤニヤ眺めてるあなたもよ」
えっ、と秀樹が山下の視線を追うと、部室のドア横に立っている人影がふふっと笑ったのが見えた。
「ありがとうございます、部長。ずっとどこで入ろうかって悩んでたんですよ」
涼やかに笑ったのは、三色の幽霊部員よりもはるかにまともそうだと思える男子生徒だった。
別に外見で全てを判断するつもりはないが、茶髪は茶髪でもこちらは地毛のようだ。眉と髪の色が同じである。
三色幽霊の方がどちらかと言えば髪は長めだ。
一重の涼やかな目元はきっと女子に受けることうけあいだろう。
肌も滑らかに見えるし、目鼻立ちのはっきりした……ようするにイケメンというやつだこれは。
「初めまして。二年の西平要です。田中君が入ってくるときに驚かそうと思ったんだけど、国木さんに微笑まれて嬉しそうだったから。タイミングなくしたな」
イケメンがため息を吐きながら両手で「やれやれ」を表現する。一体何を言うんだこいつは。
一体何を言うんだこいつは。
はっとして国木を見やれば、彼女は口に手をやって秀樹を残念そうに見ていた。
「田中君……」
「いや、あの」
「もしかして……転校してきて、まだ周りと話せていない、とか……」
違う、と言おうとして秀樹は口をつぐんだ。
ならば何故嬉しそうだたのかと聞かれたらどう返せばいい。
やっと笑ってくれたから、とでも言うのだろうか。
というか、別に話せていないわけではない。
分からないことを聞いたときにはちゃんと答えてくれるし。
「田中君?」
国木が不安そうな顔で秀樹の顔を見てくる。
そうだ。浮かれていたけど、おかしいじゃないか。突然。だって昨日まであんなに俺のことを嫌って……嫌……
「あれー、どうしたの田中君。俺に相談してみる?」
黙れ三色。
「はい、では本題に入りましょう。花積さん、出した枕を捨ててきなさい」
手元にあったカップの中身を花積がハンドタオルを丸めて作った枕に、軽く振りかけた。
「あー! よりにもよってミルクティ」
「では、まず当日の展示の仕方から考えましょう。図をいくつか書いてきたからあなたたちに選ばせてあげるわ。意見があるなら言ってみなさい」
牛乳臭くなる! と言ってハンドタオルを持って部室を飛び出して行った花積に代わり、国木が山下の机から図の書いた紙を回した。
紙は三枚あり、時計回りに回って最後にまた国木が受け取った。
見た感じ、どれも無難であるし良いとも悪いとも言えない。
「はーい意見意見」
「幽霊一号、どうぞ」
「里沙ちゃんさー、なんか機嫌悪くない?」
藍澤が言った途端、何かが横切って三色頭が後ろへ弾かれた。
「目上に対する礼儀を知りなさい」
「目上ってさ~たった一歳差でしょ? 大学行っちゃえばあんま関係なくなるよ」
藍澤は額をさすりながら、投げられた扇子を片手でパッと開く。
「大学がどうだろうが、この場所が実年齢一つ違うだけで学年が一つ違い、一つ違うだけで待遇がまるまる変わるというのが日本では公然の秘密なのよ。それを抜きにしても下の名前を呼び捨てにちゃん付けは人を選ぶわ。気をつけなさい」
へーい、と藍澤が扇子をひらひらさせた。風神雷神の絵にはどこも傷はなく、相変わらずテカテカしていた。
「この迷路みたいなやつがいいんじゃないですか。あと何かおまけつけたりして」
イケメンの西平が手を挙げる。
山下は一瞥しただけで何も言わない。
さっき手渡された図面の一つを思い出す。
展示に使う教室の前半分を段ボールで曲がりくねった細い道にし、もう半分の面積を開けた場所にしていた。
開けた場所の一角に『PC設置』と書いてあった。
おそらく今回、メディア部の公式サイトのお披露目があるからだろう。
実際にどのような内容なのか秀樹はまだ知らない。
「おまけって、例えば何か売ったりするんですか? 食べ物とか」
国木が小さく挙手をして言う。
食品を扱うのならば、もっと前から準備しなければならないのでは。
「食べ物ねぇ……食べ物は、面倒ねぇ……」
「え、食べ物売るんですか? それって残ったら食べ放題とか」
ちょうど返ってきた花積がドアを閉めながら言う。
「やる前から売れ残ると断定するのね。あなたは」
冷たい目を送られた智美は、咄嗟に絞られて棒状になったタオルを顔の前に掲げて防御の体勢に入った。
が、何も飛ぶ気配はなかった。国木が少し驚いた顔をした。
藍澤がポン、と何か思いついたように手の平に拳を打った。
「そうか、レディースデ」
三色頭がガン、と音を立ててのけぞった。
よほどの衝撃だったのか三色はのけぞったまま動かなかった。
見れば両目をぎゅっと閉じ眉を寄せて何かを耐えているようだった。
ちら、と周辺の床を見れば新書サイズのコンパクトな辞書があった。
携帯辞書というやつだろう。
投げたのは誰か、などと今更確認することもない。
「……各自考えておきなさい。次、当日の当番をざっくり決めるわよ」
疲れたようにため息を吐き、山下は横に重ねてあった紙の一枚を取り出した。
一通りの当日の動きをざっくり決めると、あとは国木と花積に仕切るのを任せて山下は早々に帰ってしまった。
「本当に具合が悪かったのか……」
終始気怠そうな様子だった。
秀樹の知っている山下とは差があって、戸惑わずにはいられない。
「田中君気が合うね! やっぱりあれは」
「そうですね映画館にはどうしてメンズデーがないんですかね三色先輩」
「三色先輩かー。その呼ばれ方は初めてだなー。しかしね、田中君。俺は結構身代わりが早いんだよ。だからその呼び方はすぐに使えなくなる」
「先輩、俺先輩の言っていることがよく分からないです」
「日本語が間違ってるって言いたいのかなそれは。ま、そういう捉え方でもいいか。好きなように解釈してくれてかまわないぜ!」
藍澤はウインクして親指を上げた。
わざとらしいが、不思議とこのわざとらしさが合っている。
わざとらしさとは人を選ぶものなのか。
「さて。それよりも我々に任された仕事をさっさとやってしまわないとね」
立ち上がり、藍澤が秀樹に軍手を放った。
薄汚れていて使い込まれていると分かる軍手だ。
「他の部活から借りてきたんだ。平和的に」
「なんか含みがありますね。というかいつ借りてきたんですか」
「ばっか。里沙ちゃんが収集かけるって、そりゃ準備するっしょ」
そういうものなのか。
部室を見回せば、部屋の後ろに追いやられた椅子と机がある。
その近くに歴代のメディア部が活動のたびに残してきたものが一固まりにして置いてあった。
布や木材、絵具に色鉛筆にクレヨン、部が発行してきた雑誌、その他様々な物。
残してきたと説明を受けたが、どれもぼろぼろだ。
まずは使えるものを探さなければならない。
部室の窓は全て全開になっており、柔らかな風で舞い上がった大量の埃がちらちらと光を反射する。マスクが欲しい。
「俺とあいつが来るまで智美ちゃんが頑張ってたみたいだね。まだ倉庫にいっぱいあるらしいけど」
あいつと呼ばれた当人はちょうど雑巾を絞ってきたところだった。
「何? 僕のこと何か話してたの?」
邪気のない笑みで西平が首を軽く傾げた。
さらりと動く髪の毛はきっと触れば細くて柔らかいに違いない。
三色とは違って校則に全く触れていないが、何故か十分オシャレというものをしているように見えるのはどうしてだろう。
「べっつにー」
藍澤がさっさとガラクタの山へと向かう。
女子二名は机仕事だ。埃臭いこことはまた違う場所で避難して作業を行っている。
秀樹も藍澤と同じように作業しようとすると「あ、待って」と西平が止めた。
「君には他に行って欲しいところがあるんだ。部の倉庫から工具一式持ってきて。他にも使えそうなのがあったらそれも」
「え、俺……」
転校初日のことを思い出す。
日常的に使う道は覚えたが、まだ他の場所は不慣れだ。きっと時間がかかる。
「ああ、うん。言わんとしてることは分かるよ。だからこそ行って欲しいんだ。転校したてでまだ校内のこと分からないだろうけど、なるべく早く慣れた方がいい。ほら、学園祭で外からのお客さんに道聞かれたらどうしようもないでしょ。その前に自分が迷っちゃね。一度たっぷり迷うのも一つの手だし。あ、でもお札とか貼ってある場所は入らない方がいい。どんなフラグが立つか分からないよ?」
「フ、フラグっすか」
「うん、フラグ。踏んだら選択肢が増えるよ。そして誘導されてしまうんだ」
「……先輩、好きなゲームは?」
「RPG的なものと、シミュレーションゲームとかかな。他もやるけど」
目の前の人物はとてもいい笑顔で親指を上げた。ゲーマーなのだろうか。
「ね、迷うんなら瑞架ちゃんと一緒に行ったら?」
雑巾でガラクタの埃を拭き取りつつ、藍澤が言う。
「瑞架ちゃんて趣味が散歩なんだって。校内も隅々まで歩きつくしたみたいだよ。案内してもらえば?」
「案内……」
藍澤から西平へと視線を移動させると、何か感心したような表情で「いいかも」と呟いた。
「フラグ、立つかもしれないね」
ぐっと親指を上げたイケメンの手に、秀樹は手を被せてゆっくり下げた。
そろそろり、とコンピューター室のドアに手をかけた。
幽霊部員二名の理屈は分かるのだが、なんとなくここまで乗せられたような気がしてならない。
仕組まれたような……と言っては言い過ぎか。
そっとドアを開いて秀樹がコンピューター室の中をおそるおそる覗いてみると、ドアから一番手前の席でパソコンと分厚い本を交互に見る彼女がいた。
「あ、あの」
はっとしたように国木が振り返った。
「ごめん、なんかびっくりさせた」
「……ううん、大丈夫。こっちこそごめんね」
どこか落ち着かなげに、国木は目を逸らして髪を触った。やっぱり驚かせたみたいだ。
「どうしたの? 何か用があって来たんでしょ」
にこりと微笑むその笑顔は、どこか無理をしているようにも見えた。
色々とおかしいと思うことはある。
あるが、下手に刺激してはいけないだろう。
以前のようになってしまってはどうしようもない。
秀樹が事情を話せば、国木は倉庫への案内を快く引き受けてくれた。
拒絶の意思を表していた頃よりも秀樹への接し方はずっと優しかった。
近道だと言われた道を共に歩きつつ、彼女が逐一してくれる説明を秀樹は必死に聞いていた。
メモを用意しておけばよかった。
一度で覚えることはできなさそうだが、国木の説明してくれる内容というのは生徒手帳や霧霞澄学園の資料などで知ることのできない情報が満載だった。
例えば、あそこは床がベコベコと音を立てるから気を付けろ。
取り壊されるのを待っている使用付加のトイレがあるから、トイレに入る前にはきちんとよく見て入ること。
お札が貼ってあるような場所は大抵古い造りである場所が多いからあまり近寄らない方がいいということ。
図書館は校内の奥にある煉の一番上にあるということ。
あそこには今カラスが巣を作っているから近くを通らないようにすること。
などなど、藍澤が言うように確かに趣味が散歩なだけある。
学園祭では客のガイド役にもなれそうだ。
階段裏にある鉄製の小さな扉の前で足を止める。
「ここが倉庫。鍵は?」
「ああ、これ」
西平に持たされた鍵を出して鍵穴に通す。薄暗くてやりづらい。
古くあまり利用されていない場所だからか、ここに来るまでに雰囲気がどんどんと変わっていった。不気味な方に。
人が寄りつかなさそうなこの雰囲気と、薄暗さ。
トイレが近くにあったがすでに使用付加の札が下がっていた。
もう怪談の舞台はそろっている。ここ階段だし。
倉庫の中は底の知れない闇が広がっていた。
こりゃ来たがらないわけだ。帰りたい。
「ちょっと待ってね」
国木がなんのためらいもなく中に手を入れ、内側を触る。
ほどなくして点滅しながらも白い蛍光灯が付いた。
倉庫内が照らされる。
中は秀樹が想像していたより、ずいぶんと殺風景だった。
花積が先にここへ荷物を取りに来たからかもしれない。
それほど物は多くなかった。
紙袋に入った古い雑誌、部誌らしきものが三冊ほど床に落ち、擦り切れた小さな段ボールには、絵具に筆、のり、カッター、ネジ、色鉛筆、何故か可愛らしいファンシーなデザインのキーホルダー型時計などがあった。
その段ボールの影に隠れた鉄製の工具箱を秀樹は見つけた。
固い止め具を爪でひっかくようにして開けると、中にドライバーやペンチなんかが入っていた。
使えそうだと思うものを物色し、二人とも荷物を手にして倉庫を後にした。
一応重いものを重点的に秀樹が持っているとは言え、埃臭い品々を女子に両手いっぱい抱えさせているということに気が引けた。
持ってくれたのは完全に国木の善意ではあるが。
いや、別にさらに嫌われたくないとかそういう意味ではないのだ。
休憩を入れつつ運んでいると、不意に秀樹の頭に西平の言葉がよみがえった。
フラグが立つかもね。
ふいにそんな言葉を思い出してしまった。
そういえばさっきから国木は静かだし、自分も何も言っていない。
何か話した方がいいのだろうか。
それか、急に話しては不自然だからこのまま何も話さないでいるべきなのだろうか。
視線のやり場に困り、結局前方の床に固定した。
床はさっきまで板張りだったのに、今は何か白くて固い素材になっている。
隅に行けば行くほどそれらは薄汚れて最終地点では埃がたまっている。
この学園では掃除は業者がやると聞いたが、全てではないのかもしれない。
秀樹がもといた高校でも、このような埃はいくつも見られた。
高校では当番制で、毎日違う班が順番に放課後に掃除をしていた。
たまに掃除をさぼって勝手に帰る奴がいたら、班にいる女子がキーキー怒っていた。
秀樹はさぼったりはしなかったが、不満を言う女子にどうしていいか分からず、曖昧な表情を浮かべていた。
部活を決めていなかったのは、家に帰ったら内職を手伝おうと思ったから。
HRが終わって次々と笑顔で部活に行くクラスメイトたちが、正直言えば羨ましかった。
だけども入ったら入ったで、きっと家のことが気になるし部活の人たちとうまくなじめるかとか勉強はついていけるかと、そういうことが気になったに違いないのだ。
だからあの頃、自分に部活は必要なかった。
受験をして、高校に入って、不安な気持ちは胸の中に満ちていた。
前の学校の面接時には色々と建前を言ったものだが、本音はただ「家から近いから」だった。
ついでに言えば、上でもなく下でもない偏差値やまあまあ治安は保っていそうな校風。
それだけだ。
受験をする前……中学ではどうだったか。
文武両道を目指す校風だった。
中学受験はしなかった。
そのまま学区内に収まった。
始め、制服を着ても中学生になったという実感に乏しかったのをまだ覚えている。
着なれない制服は邪魔なだけで中身はまだまだ小学生だった。
いまだに秀樹が前の高校の制服を着ているこの状況と、なんとなく感覚が似ていた。
年も場所も変わっても、心だけはいつも遅れてやってくる。
十代前半。
疾風怒濤の時期は男子と女子の間だけでなく、個々にも細い糸を巻き付けた。
着なれない制服がそれをしっかりとほどけないよう、役割を果たしていた。
人見知りの者、すぐに打ち解ける者、ただ間に入って笑っている者。
それら全ての身動きを取り辛くした。
小学校高額ねのときのように男子と女子が話すことについては禁忌でも何でもなくなった。
その代わり、その先に踏み込んだ会話や思わせぶりな行動が代わりのように最大の禁忌になっていた。
誰かが誰かを呼び出すことは和を乱す。
針のむしろになるのは誰だって嫌だった。
人を好きになることが難しい時期だったとも言える。
脳裏に浮かぶのは、秀樹が名前を呼んで、逃げた女子だった。
――だから、ついに今まで話す機会がなくなったんだっけ。
「国木」
秀樹が声をかけると、国木が顔をこちらへ向ける。
他の同年齢の女子よりも幼さが際立って見えるのは、垂れ目ぎみだからだろうか。
その黒い瞳に秀樹の姿は確かに映っている。
映ってはいるが、『秀樹自身』は映っていないような気がした。
それだけで背筋がすっと寒くなった気がした。
「その……今はまだきちんと話すってのはできないと思う。けどやっぱこのままの状態は嫌だ。なんでか分からないけど、なんか嫌だ」
国木はきょとんとしたまま、秀樹を見ていた。
それから不思議そうに首を傾げた。
さらりと髪が彼女のふっくらした肌にかかる。
その様子に、何故だか胸が痛くなった。
「また話そう、ちゃんと。そしたら……」
「お話って、なあに?」
秀樹が振り絞るように声を出そうとして、そこで国木が口を挟んだ。
「大丈夫、大丈夫だよ」
ニコニコと国木が笑った。
安心させるようなその声に違和感を感じた。
半分開いたままの口を、秀樹は閉じるのを忘れた。
「大丈夫だよ、わたしが守るから、雅樹――」
そこで言葉はぷつりと切れた。
国木の顔から笑顔が消え、目が見開かれる。
「あれ?」
国木の目からこぼれたものが頬を伝った。
そのまま下へと落ちていった。
それからもっと下に落ちていって、真下にあった彼女の華奢な手を叩き、飛沫を散らした。
国木は手に付いた透明な液体を見つめた。
顔が段々とうつむいていった。
最後には、垂れ下がった横髪で顔が完全に見えなくなった。
「……田中君、先に行ってて」
でも、と言い募ろうとした秀樹を国木は手で制した。
一人にさせて。
その言葉がなければ自分はここにいられたのにと、秀樹は思った。
◆◆◆
彼を行かせたあと、瑞架はへなへなとその場にへたり込んだ。
――どうしてわたしは逃げないの。逃げないといけない。彼と話してはだめ。言ったことの内容は覚えている。だけどそれは、昔わたしが不安がる雅樹に言った言葉。あのとき雅樹に何か言われて、それで言った言葉なの。雅樹の名を呼んでしまったとき、彼の目の中に困惑が見えた。自分はどうしてしまッたのカ。こんなのは普通じゃ、な、普通じゃ、な、イ。今まデ、と同ジよuni、対応shiなkeれre、ば、怪シマレ
「はい、そーこーまーで」
瑞架の視界は突然、後ろから伸びてきた手で塞がれる。
手の冷たさに驚いてしまったのか、瑞架の肩がびくりと跳ねてしまった。
よしよし、と空いている方の手で彼女の頭をなでてやった。
――現在の記憶カラこノ声ノ持チ主ヲ
「うん、全部聞こえているからね。たまにブツブツ言っているときもあるしね。
そっか。俺のことそんなに気になるんだ。でもそれはまだだーめ。
それを知るにはまだ君は成長しきっていない。まだまだだ。せめてかつての『彼女』ぐらいまで精神的に成長しなきゃね。
君はあの日から時間が止まっているんだから」
瑞架は顔の前にある僕の手を掴んで退けようとする。
失敗。身動きして振りほどこうとする。失敗。爪を立てて手を引っ掻く。失敗。継続。失敗。今度はもっと力を込める。失敗。
「それにしても残念だねー。僕は『彼女』の違う人生が見たかったのに、これじゃあ台無しだ。
途中で手を加えるべきか結構悩んだんだよ?
君を連中の手から逃がしてきちんと君が君の人生を送れるように設定するのか、それとも失敗として今回の君は処分するか。
まあでも、今回は今回でとりあえず最後まで見ることにしたよ。これも一つの人生ではあるし。
君には平穏な暮らしをしてほしいと思っていたんだよ。本当だよ。心の底から思っていたんだ。
私が知っている『彼女』は客観的に見て悲劇的な人でね。
もしも人魚姫が王子を殺して平穏な世界に戻っていたら物語はどうなったんだろうね。
それを知りたいと思うのは自然だよねえ。
『彼女』が誰か? それは知らなくていいことだよ。そのうち分かるさ。
それにもしここで全てを話して、それから君の記憶をいじくったとして。
その無意識の底にいついてしまったものはなかなか消えないんだよ。
だから君にとっての真相を私は言わない。それは今回の君が見つけなさい。
泡になっちゃうならなっちゃうで、それも結果だけど……どちらかと言えば、違う分岐を見たいなあ。
もちろん君自身の考えで選んだ分岐だよ」
――メヲ塞がレたまま、頭を抱え込まれるようにして引き寄せらレた。男の胸に後頭部が当たる。ひんやりとした何かを感じた。
「ああ、僕は君という存在の生みの親だと言うのに、生まれた君を抱くことはできなかった。
子を作らなかった私だから、血はつながっていないとはいえ一度は自分で生み出した命の重みというものをこの手で感じたかったのだけど……まあ、仕方ないか。
今ある君の温もりで我慢することにしよう。
本当ならばもっとしっかりこの腕で抱きしめてやって、もっともっと頭をくしゃくしゃになでてみたいと思うのだけどね。
ま、これも俺の普段の行いが悪いからなのかなって思うことで抑えるよ。
これから先、君を抱きしめるのはきっと僕じゃないし。
ああ、そういえば中にいるリクくん? リクちゃん? どっちで呼べばいいのかな。
君はまだ性別の狭間で揺れているのかな。それともまた別のこと?
私の瑞架の中に勝手に入ったんだから、それなりの誠意は見せてね。まあどうせ覚えていないのだろうけど。
瑞架だって覚えていないのだろうから、これはただの俺の独白のページになるのかな。
シーンって言った方がいいかな。
いつか世界のどこかでこの物語が『偶然』形になることがない限り、それは分からないんだろうな。
だけど形になったとしたら、俺は一体どんな人物でどんな立ち位置になっているんだろうね」
瑞架の視界から手をどけ、そっとその小さな背中から離れた。
彼女は振り返らなかった。
――もう見ることができる。だけどきっと振り返らない方がいい。今は。お互いのためにも。
「そうだね、瑞架。その方がいい。
もうこっちの世界に踏み込んでしまった君だけど、なるべくなら見ない方がいい。
これはさびしさと言うのかな。なんだか名残惜しく感じてしまうよ。
僕が立ち去ったら僕に会ったこと話したことは曖昧な記憶になって勝手に君の脳が補正してくれる。
本来、人間の脳がそうであるように。
連中がいじくりまわした君の脳は前よりもましにはなったはずだ。
だから安心して選択してね。
あとは瑞架次第だよ。ばいばい、私の娘」
待って。
言葉がもれた。
待たないよ、と笑った気配がして
はっと顔を上げ、瑞架は慌てて周りを見回した。
瑞架は何故かその場にへたりこんでいた。
周りには誰もいない。
目をこすれば涙があったし、妙に頭がすっきりしているようにも思える。
そうして初めて、ここ数日疲れていたのだと分かる。
まさかとは思うが、ここで寝入ってしまったのか。
腕時計を見る。
それほど時間は経っていないと思う。
確かさっきまで田中が隣にいて、瑞架も何か話していたような気がするが、よく思い出せない。
夢を見た気がする。
誰かに優しく何か言われていたような。
立ち上がり、瑞架は再び荷物を運び始めた。
早く部室へ行かなければならない。変に思われてしまう。
それに、コンピュータ室にはまだ資料が置きっぱなしになっているのだ。
途中エレベーターを使ってやっと部室まで戻ると、部屋の真ん中で円を描くように歩きながら、うんうんと唸って金属バットを雑巾で磨いている田中と目が合った。
「あ……国木」
途端に彼の顔が焦ったように変化する。
どうしたの、と聞こうとした途端、藍澤が瑞架の前に飛び出した。
ついでに瑞架が持っていた荷物も持ってくれた。
「ね、ね、どうしたの? 田中君、瑞架ちゃんに何やらかしたの?」
「え、何って……」
瑞架はそこで言葉を詰まらせ、顎に手をやった。
先輩は何か期待しているように目を輝かせているが、瑞架は気にせずに頭をじっくりと働かせた。
目元が濡れていた。
ああそうだ。ゴミが入って、泣いてしまったんだった。
「ああ、ごめんね田中君。あのね、目にゴミが入って、それで、その」
彼をひどくうろたえさせてしまったことを思い出す。
瑞架は慌てて手を振り、自分の失態を詫びた。
ゴミが目に入ったことで涙があんなに出るとは予想していなくて、恥ずかしくなったのだった。忘れていた。
「ゴミ……」
彼がぴくりと眉を動かした。
一転して怪訝な表情だ。
まるで瑞架が変なことを言ったかのように見てくる。
「どうしたの?」
やや不満気に言ってみると、「いや……」と神妙な顔をしたまま目を逸らされた。
田中はなおも何か言いたそうにしていたが、瑞架は早々に部室を後にした。
開けっぱなしで放置しているコンピュータ室はやはり気になった。
幸いコンピュータ室には誰もおらず、瑞架が出ていったときのままの状態だった。
資料はもちろん、第三者に勝手に使われないようロックしておいたパソコンもいじられた形跡はない。
再び席に座り、どれくらいかパソコンに向かった。
メディア部公式サイトはもう完成と言える段階ではあるが、いかんせん素人の作ったものだからどんな不具合があるか分からない。
形だけはなんとか取り繕ったとしても、使い勝手が悪いのは良くない。
このサイトはあくまで来訪者に見てもらうために作るのであって、管理者の自己満足になってはいけない。
来訪者のことを第一に考えなければ、このサイトはすぐに見限られてしまうだろう。
それを防ぐためには、なるべく瑞架以外の人間にこのサイトの出来具合を確かめてもらうのが一番なのだが。
急に目眩がした。意識が遠くなっていくようで、近くなってくる奇妙な感覚。
「やめて、リク」
呟いた途端、ひどくなりつつあった感覚が急速にやんでいった。
試しに言ってみただけであるのに。
そうなってくると自然と身が強張った。
瑞架が田中から受けとった手紙に書いてあったリクという人格。
口は悪いが瑞架のことを大事に思っている風だったと書いてあった。
普通の二重人格とは、名を呼んで懇願すれば聞いてくれるものなのか?
何はともあれ、これでなんとか自分を制御することができそうだ。
ほっと胸をなでおろしてからふと疑問が浮かぶ。
なんか、前のわたしと違う気がする。