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ランドフォール・パレード!  作者: 白樺セツ
カシュカシュ
5/19

大人の事情により、説明は省かせて頂きます。

右手には食材の詰まった袋。

左手には惣菜が詰まった袋で両手は塞がりもうあとは持つ手がない。

ないというのに。


「花積、なあ、ちょっと」


鳴識ナルシキが顧問をしているメディア部の一員、花積智美ハナツミトモミはまさに今幸福の絶頂といった様子で試食の漬物をほおばっていた。

背後でげっそりしている鳴識のことを気にする様子もない。

彼女はぽりぽりと良い音をさせて漬物を食べ終えると、美味だったことを見せつけるがごとく「くっはー」と何も刺さっていない爪楊枝をびしっとゴミ箱に捨てた。


「おばちゃん、これすっごい美味しいね! お店出せるんじゃね?」


「ふふ、お客様。ここはお店ですよ」


「この口内に広がる酸っぱさとしょっぱさ。軽く風味付けしたごま油がきゅうりのぱりぽりした感触をさらに際立てていると見た。ねえおばちゃん」


「ありがとうございます。今ですとこちら割引になっておりますので、他のお漬物と一緒ですとまたお得ですよ。いかがですか」


「よーし買った! 先生が!」


漬物売り場でくるっと体を回転させ、花積は満面の笑みで言った。

こちらの両手にあるぱんぱんになったビニール袋など目に入らないのか、ずいっと何かを求めるように手を差し出してくる。


「…………」


その手をじっと鳴識が見ていると相手は怪訝な顔で首を傾げてきた。


「どうしたの先生。早くしないとあたしが飢えてしまうよ?」


ぎり、と手の平にビニール袋の持ち手が食い込む。

一体いつからこの状態だったろうか。

ああそうださっきからだ。


勤めだしてからこれだ。

非常勤とはいえようやく夢の教職につけた。

事情あっていまだにちょっとした雑務やら部活の顧問しかしていないが、それでも教職だ。

未来ある若者に教える立場だ。

なのに釈然としないのは、教え子にこうしていいように使われるのがもはや当たり前になっているという事実だ。


いつも通り、自分にできる範囲の雑用をこなしてからメディア部まで様子を見に行った。

すると部室には誰もおらず、そういえば休みだったと気付いた。


まあでも、やれることはあるか。

そう思って予備の鍵をポケットから取り出そうとした時。

にやりと笑った花積智美が数メートル先の廊下で鳴識を見ていたのだ。

結果、部活動の一環だと言い張られこのショッピングセンターに連れて来られた。

一体どれだけの時間を食品売り場で過ごしたのか。


「あんな、花積。先生には仕事があんねん。部活の取材じゃないなら先生帰るで」


「え、本当ですか? 買えるんですか? やったー! おばちゃん、ここのとあそこの漬物二袋ずつお願いします」


「ちょ、ちょちょちょ待てい! 誰が買う言うた!」


「やだ先生、嘘だったんですか。それ教師としてどうなんですか。失望するよ!」


「なんでや、なんでそうなんねん! もういやや、お願い先生を帰らせて! お前のために使う手はもうあらへん! 先生を財布扱いするのやめて!」


「やだなー、何のために口があると思ってるんです? 動物にとって口は手も同然なんですよ?」


あかん。完全になめくさっとる。

ここは言っておかなければと言いかけたそのとき、館内にチャイムが響いた。

続いて緊張をはらんだ声がスピーカーから流れる。


『敷地内に不審者が侵入しました。警戒態勢をお願いします』


ざわりと場の空気が一変した。

従業員はさっと顔を青くし、研修中と名札のついている者は動きを止めてぽかんとした。

客に至っては十人十色であったが、それでも何事かとスピーカーを探すように視線を天井へと向けた者が多数いた。


しん、と静まり返ったのはほんの数秒だった。

はしゃぐような声がどこからか聞こえてきた。


「おいまじかよすげー。誰か怪我とかしたのかな。行ってみよーぜ」


「ちょ、やめろよ」


数メートル先で、ショルダーバックをかけ帽子を深く被った青年がニヤニヤしながら黒い板をいじっていた。

スマートホンと呼ばれる携帯式コンピュータだ。

友人らしきもう一人の青年が眉をひそめ、不謹慎だと注意するがスマートホンをいじる手を止めようとせず、あげくには現場に行ってみようと言いだした。


悪気はないその行動に感化されたのか、他の客も面白がるようなざわめきが次第に広がりだす。

表面では怖がっているが突然の非日常に好奇心が生まれたのが見て取れた。

はっとした従業員の一人が口を開いた。


「ご、ご案内申し上げます! 緊急事態のため、従業員の指示に従い行動してください!」


その声に続き、従業員全員がマニュアルであらかじめ決めてあったのだろう統率のとれた動きをし始める。

チャイムがまた鳴り、先程と同じ内容の放送を繰り返す。

緊張で強張った顔の従業員とは逆に、客は戸惑うかもしくは面白がるような様子に分かれた。


ふざけている声や、心配そうにしている声。

はたまた商品を包む従業員の手が止まったことに怒る客。

突然のことに泣き出した子ども。

警戒態勢を、という緊張した声がまたスピーカーから流れた。


「ほんま……この国は平和ボケしすぎやな」


「ねー先生、あたしたちもはーやーくー」


複雑な思いで群衆を見ていると花積が鳴識の腕を引っ張った。


「ああ、そ、そやな。はよ避難せんと」


「早くしないと不審者どっか行っちゃうよー! すっごいスクープじゃん、ここで出遅れたらやばいよ!」


言葉を失う。今この少女はなんと言った。


「花積……お前状況分かっとるか? 不審者やで? この建物の中におるんや。凶器を持っとるかもしらん。危険なんやで?」


「そんなの分かってるって」


「やったらなんで」


「気になるからじゃんか。その不審者見たいし。何があったのか知りたいし。ああそうそう好奇心だよ! 健全だよ!」


満面の笑みで彼女は言い切った。

何をふざけたことを。信じられない。


「ちょお待て。ほんとに行くんか」


「あたぼうよ。野次馬? あたぼうよ。ここで好奇心が一切ないなんて人間じゃないね。基本生き物は怖いものを見たがるようにできてるんだよ先生」


一緒に行くのが当然とでも思っているのか、花積は自分の腕を掴んでいる鳴識の手を引っ張った。

その先は従業員が誘導する方向とは違っている。


「確かに危険なものからは逃げるのが一番だよ。だけどそれをきちんと自分で確かめないってのは、逃げることよりも危険なことなんだってあたしは思うんだよねー。というわけであたしはあたしの野次馬根性をあますことなく発揮します!」


「うわ、ちょお待ち……!」


「もー、先生遅いと置いてくからねー!」


引っ張られていた手を急に離され、思わずたたらを踏む。

持ちこたえる合間にも好奇心旺盛な少女の背中は遠くなっていく。


「あかん、言うてるやろ!」


半ばやけくそで、鳴識は花積のあとを追いかけた。





食品売り場から吹き抜けのフロアへ出ていくと、ほどなくして大きなざわめきが聞こえてきた。

見上げれば野次馬らしき群衆が三階の廊下に集まっていた。

 

やっほーい! と迷わず花積がエスカレーターを駆け上がっていくと途中で滑って転んだ。

「エスカレーターは歩かないように……」という丁寧なアナウンスが流れたが、遅かった。

しかも上りではなく下りであったエスカレーターは階段の部分にべったりと倒れた花積をそのままずるずると移動させた。

危ない、と鳴識は慌てて花積をエスカレーターから引き剥がす。


「大丈夫か? どこが痛いんや? もろに前から行ったやろ」


花積は何も言わず、ただすねを抱えた。

ちら、と痛々しい擦り傷が見えて鳴識はうっと、わずかに引いた。


「花積……?」


そっと、花積の手がすねから離れてゆっくりと立ち上がる。

よかった。すね以外には怪我をしていない。


花積がすっとうつむいていた顔を上げた。

何かをこらえるように眉間にしわを寄せ、目尻には光るものがあった。


「エスカレーターの上を歩いたらダメでしょおおぉぉぉ!」


「なんで俺!?」


くっ、と服の袖で涙を拭った花積は体の向きを変えて今度こそちゃんと上りのエスカレーターに乗った。

今度は走らなかった。走れないのかもしれなかった。


「先生、エスカレーターはね。歩いたらだめなんだよ。大人がやるとね、子どもは、それでいいんだって、思うんだよ。あとね。別に左右どちらに立ってもいいんだよ!」


「もう、一体何を怒っとんのや。痛かったんやな。めっちゃ痛かったんやな。これからはちゃんとルールを守って、小さい子のいいお手本になるように行動するんやで。花積かて他の小さい子にとっては大人みたいなもんなんやから」


続いて鳴識もエスカレーターに乗り、ぶすっとしている花積に語りかける。

あかん。めっちゃめんどくさい。


「関西は、どっちかというと右で、それで、何故か京都に行ったときだけ、左だった……すっごい困惑された……」


「はいはい」


ぶつぶつ言ううなだれた花積の頭をなでると、なんだか視線を感じて周囲を見渡した。


どきりとした。

上にいた野次馬がこちらを見ていた。

面白がる気配はなく、どちらかといえば不安そうにこちらをうかがっているようだった。


「何……」


ガタン、と隣に設置された下りのエスカレーターへ誰かが飛び込むようにしてやってきた。

メディア部部員の国木瑞架クニキミズカ田中秀樹タナカヒデキだった。


これでもかというくらいに必死の形相で、二人はエスカレーターを音を立てて駆け下りて行った。

すごく焦っていたように見える。こちらに気付いた様子もなかった。


あの二人は何かから逃げていたのではないだろうか。

生まれてしまった嫌な予感とともにエスカレーターの上に目をやって、そこにいたものを見て時が止まった。


九十度曲がった首、もげたと分かる片腕、血の代わりにこぼしている何かの屑。

そんな人間がいた。いや人間ではないかもしれない。

首のそった部分には亀裂が入り、そこからも何かの屑がこぼれ出ている。

固い紙を無造作にくしゃりと潰したようなシワは、シワと呼ぶにはあまりにもはっきりし過ぎだった。

あれは折り目と言った方がいい。

柔らかい皮膚の質感などどこにもない。


「オウ、ジョ……?」


ノイズが入った機械音に加え重くこごったような声を聞いた途端、背筋に何かが走った。


「うぎゃあああああああ!」


「きゃああああああぁぁ!」


思わず甲高く叫んでしまったのは、隣にいる手のかかる生徒が悲鳴を上げたせいだ。

しかし幸か不幸か、遠くなりかけた意識はきちんとこちらへ戻ってきた。


それはエスカレーターの段に足をかけると、バランスを崩したのかそのまま転げ落ち始めた。

鳴識は咄嗟に花積を横へと引きよせて庇った。

エスカレーターから何かが転げ落ちる音。

化け物が床に叩きつけられ、バラバラになって屑を撒き散らしていた。


「オ……ジョ……」


化け物の目はさらに濁ったように見えた。

黒さが充満し、ガラス玉のような眼球が透明度をなくしていく。


つばを呑んだ。

うるさい心臓を押さえつけて震える手をのばした。

化け物の体の一部をつつき、それから持ち上げてみた。軽い。屑は木や紙でできていた。

肌だと思い込んでいた表面は紙のように乾いており、薄い樹脂のようだった。

これは人形だ。もっと言えばただの張りぼてだ。

唯一その目だけが異様な存在感を感じさせる。


「……うえー何これ人形? カカシ? さっきのただのカカシ? 最近のカカシは動くの? 声出せるの?」


だとしてもこれはモザイクがいるくらい悲惨だよー。アニメだったらきっと不自然な光やら黒い帯があるかもろにモザイクかかってる気がするよー。と言いつつ、さっきのびびりっぷりはどこへ行ったのか、花積は動かなくなった人形をじっくりと見ていく。


田中も国木も口を開かず、ただ息をひそめて緊張した面持ちで人形を見つめた。

花積が人形を調べ出し、人形の目も調べようとしたところで我に返った鳴識は花積ののばした手を強く払いのけた。


「先生……まじ痛いんだけど」


「え、ああ、すまん。けど、これは触らん方がええ」


近くで固まっていた田中と国木に向かって、なるべく毅然として見えるよう意識した。


「国木、田中。お前ら後で話聞かせてもらうで。だからここはとりあえず花積と一緒にここを出るんや。なるべく人目につかんように」


「先生」


田中が深刻そうに口を開く。


「もう目立ってると思います」


「……花積、この二人と一緒にさっさと帰り。あとのことは先生がやるから」


田中の言ったことは聞かなかったことにして、鳴識は腰のホルダーから携帯電話を取り、ある連絡先へと発信ボタンを押して耳に当てた。


「はよ行き」


手で払うようにすると、ようやく三人が動き出した。

その後ろ姿を見つつ電話が繋がると鳴識はいつも通り挨拶をして、誰もいない空間に会釈をした。


「霧霞澄学園配属の鳴識遥です。『人形』が現れました。早急に応援を頼みます」





あのショッピングセンターでの一件は、たちまち好奇心を持った人々の間で広まった。

群衆の口を止めるのは難しい。

仕方がないと言えばそうだが、それでも苦々しさを感じずにはいられない。


鳴識がすぐに連絡した甲斐あって、警察の事情聴取、マスコミからの取材など、事後処理は穏便かつ小規模に抑えられた。

一般人が口コミで伝える情報だけは完全に抑えることはできなかったが、まあほどなくして終息するだろう。

幸いと言えるのは、刺された女子学生が無事意識を取り戻し、容体も安定しているということだ。


朝礼のあと、鳴識は教室に帰って行く全校生徒を眺めた。

昨日あの場にいた花積はいつもと変わらない様子ではあったが、田中と国木の顔はあまり明るくはなかった。

上の指示の通り、鳴識は三人に今回の事件について周囲には話さないよう口止めをしておいた。


が、不安だ。

田中や国木はそう進んで喋るような性格ではないだろうが、花積については不安しかない。

人の口に戸は立てられない。この国のことわざだ。

確かにそうだ。人であるかぎり、情報というのはどこかで漏れるものなのだ。


「鳴識先生」


どきりとして振り向くと、そこには静かに微笑むメディア部部長、山下里沙ヤマシタリサがいた。


「そんなに花積さんを気にしてどうしたんですか? それに先生はまだ授業を受け持っていないのでしょう。どうして午前というこの時間にすでにいらっしゃるんですか?」


講談でもするかのごとく教室で何かを話している花積を気にしつつ、鳴識は里沙に向き直った。


「先生はな、結構見えんところで仕事してるもんやねんで。それに俺はまだまだ教師としての経験が浅いし、教室の雰囲気とかも一応見ておこうと」


「なんだか用意していたような回答ですわね、先生?」


うっと言葉に詰まった鳴識を、里沙はただ微笑んで見ていた。


「大丈夫ですよ先生。何を気になさっているかは知りませんが、花積さんはああ見えて世渡りが上手です。誰の身の為にもならないことはしませんよ。そこはわたしが保障します」


それと、と付け足す。


「ねえ先生。先生はもう一つ何か副業をなさっていらっしゃいますよね。もし何かお手伝いできることがあれば遠慮なくおっしゃってくださいね」


なんで、と鳴識が言う前に、里沙は会釈し背中を見せて立ち去った。


「……ほんま、何者やねん……」


増した頭の重みを感じつつ、鳴識はメディア部部室へと足を向けた。

 




部室では最近使われたであろう資料を片っ端から手に取った。

現在、部でメインの活動といえば学園祭で展示するものの制作だ。

今回はここ最近話題になっているニュースが取り上げられる。


別にこの活動内容自体は怪しくない。

話題に乗っかった行動というのは、どの人間でもすることだ。

問題は部を取りまとめる者なのである。


山下里沙。財閥、山下家の一人娘。

山下家は隠れ蓑を使って表立って活動しないため、あまり知られてはいないが、裏ではよく名の通った財閥である。

様々な事業のスポンサーにもなっている。


彼女は三年生で今年は受験のはずだ。

基本的に受験生は部活にはあまり顔を出さなくなるものだが、彼女は部活にいつも出席している。


そもそも、メディア部というのは廃部寸前の部だった。

それがぎりぎりのところでずっと持ちこたえていた。

そして里沙が最後の部員となり、部長となった。

そうなった部活は大抵猶予を与えられる。

どんな方法を使ったかは知らないが、里沙は新入生向けの部活紹介にも出ず、自分含めて短期間のうちに見事部員を五人集めている。


一年生の花積智美。国木瑞架。

あとは二年生の幽霊部員、西平要と藍澤蒼介。

幽霊部員の二名は部活に顔こそあまり出してはいないが、部活以外でネタになりそうな情報収集などを行っているらしかった。

部費もきちんと納めている。


……どうして俺は生徒の身辺を探っているのだろうか。

いや、生徒をよく知るという点では大事なことでもあるのかもしれない。

でもなんだか違う。なんだか違うぞ。仕事ではあるのだけども。


ガラ、と部室のドアが開かれた。

入ってきた人物が驚いてうわっ、と小さく声を上げた。


「おお、田中やないか。どうした」


鳴識がいるとはつゆほども思っていなかったようで、田中は戸惑ったように目を泳がした。

ちら、と腕時計を見る。

そういえば昼休みだ。


「その……ここで、昼食べられないかなって思ったんです」


「んー、一応ここは食べる場所ではないんやけどなあ」


「やっぱりそうですよね。それじゃ他探してみます」


「ああちょっと待ちぃ。昨日はどたばたしとってあんまりじっくりと話できひんかったからな。昨日のこともっと詳しく話してもろてもええか? 人いるときは難しいから」


すかさず鳴識が引きとめると、目の前の少年は明らかに嫌そうな顔をして足を止めた。


「昨日は……国木さんにあそこまで案内してもらったんです」


「そか。それじゃなんであんなことになったんや?」


「分かりません。いきなりあの、変なのが追いかけてきたんです。俺と国木さんはただ逃げただけです。こっちが聞きたいくらいです」


「そか。ただ巻き込まれただけか」


「そうです」


「もう一つええか」


「なんですか?」


少々苛立っている。落ち着きもない。

この部屋が使えないと分かって、さっさと退散したいのだろう。

それが本当に昼食のためだけなのかは、知らないが。


「ちょいと不快になるかもしれんけど……田中はなんでこの学園に来たんや?」


田中秀樹は転入したその日に入部した。山下里沙に言われて。

彼の家は経済的に困窮している。

そこを何故わざわざこの私立の学園に転入してきたのか。


「それは……家にお金とか支援を申し出てくれた人がいて、それがすごく気前がいい人で……この学園を推したから、断れなく……」


ぶつぶつと理由を述べていくこの少年を眺める。

この部活の顧問になったときから、自分はある程度の権限を持っている。

田中家に支援を申し出たのが山下家であることなど、すでに知っている。

彼の話を信じるならば、転入したのは彼の意思ではない。

何かあるとしか思えない。

山下里沙は以前から怪しい動きをしている。


このまま引き止めても何もいいことはないか。


「時間取らせたな。もうええで」


「あ、はい。それじゃ……」


いそいそと退散しようとする姿に苦笑した。隠すことは不得手のようだ。


あ、と思い出したように田中が声をあげた。


「なんや?」


「昨日、結局どうなったんですか? 新聞には何も載ってなかったし」


「ああ、そのことか。心配せんでも面倒なことは俺がやっといたから。あとはお前たちが周りにぺらぺら話さんかったら大丈夫や」


「いやそうじゃなくて、どんな風に収集がついたかとか」


「あ、そういえば先生雑用頼まれとったわ。えーと、すまん。今日ここ使うの許したるから代わりに戸締まり頼む。先生もう行くわ!」


戸惑う彼に部室の鍵を握らせ、ドアに手をかける。

ガタガタと音を鳴らしてからドアを開けた。


「たてつけあかんなあ」


振り返り、田中に笑いかけてから部室を出た。

廊下を歩き、角で曲がって階段を下りた。

踊り場につくとすかさず靴を脱いでまた階段を上った。

部室から死角になっている角で息をひそめた。


しばらく待つと、どこからかガソゴソと音がした。

鳴識は懐から携帯電話を取り出し、滑らかになっている表面を鏡代わりにして角の向こうを盗み見た。


廊下には大小様々な物が放置されている。

その中の、壁際に立てかけられ薄汚れた布を被った段ボールが身動きした。

段ボール同士の隙間から黒い頭が出てきて、長い髪がぱさりと垂れる。

きょろきょろと慎重にあたりを見回しながら、その人物は這い出してくる。

女子制服。国木瑞架だった。

 

ふう、と息を吐いたあと、国木は田中がいる部室へと向かっていった。

彼女が部室に入ったのを見計らい、鳴識は音を立てずに部室前へと移動し耳を立てる。

なるべく周辺のガラクタに身を沈め、自分の姿がどこからも見えないようにした。


目を閉じて聞こえてくる音に集中する。

昔ならば目を閉じなくともよかったが、やはり平和な環境に長く身を置いていると感覚が鈍ってしまう。


「大丈夫だったか」


「う、うん。ドアが開く前に隠れたから」


「隠れる必要、あったか?」


「それは……なんとなく」


二人の声が聞こえてくる。

田中も国木もぎこちない。

どう接すればいいのか、と言ったような感じだ。


「わたし最近記憶飛ぶこと多くて、昨日何があったのかとか覚えてなくて」


「記憶ないんだな」


「ごめん……ごめんなさい」


 国木の声がさっきよりもか細くなる。


「わたし、知らないうちに別人みたいになってるみたい。最近ずっとそう。夕方からの記憶がない。昨日は朝から記憶がない。だけど日記は書ける。書いているの。覚えてない。覚えてないの。昨日何があったの。どうしてわたし、田中君と一緒に? あの変なのは何。わたし、なんなの……?」


矢継ぎ早に出される言葉からは焦りが感じられた。

鳴識には田中がおろおろとたじろぐ様子が目に見えた。


「だ、大丈夫だって。落ち着いて」


「どうして落ち着いてられるの。普通に生活しなくちゃいけないのに。わたしは普通なのに。解決できない。イレギュラーだ。普通ではない。一般の治療施設はだめ。こんなこと。わたし。どうしたら。自分でなんとかしなくちゃ。無理。無理だよ……無理。逃げられない。克服は不可能……逃げることを選択しなければ」


すっと背筋が冷えた。


これを言っているのは本当に国木瑞架か? 

本当にこれがどこにでもいる普通の女の子の言うことか?


「落ち着けってば」


「いや!」


パシン、と痛い音が響いた。

痛、と小さく漏れた彼の声が聞こえた。


「近づかないで。昨日は仕方がなかった。しかしわたしは嫌なものから逃げなければ。克服できないものは処理できない。徹底的に、逃げないと……」


「そんなに俺が嫌いか」


苦しそうに田中が言った。

握った手の平に冷や汗がにじんだ。状況が変わってきた。鳴識ナルシキが思う以上に事態は深刻らしい。

何が彼女を翻弄しているのか知らないが、分かるのは国木瑞架が今錯乱しているということだ。

彼女の言う『嫌なもの』は精神的に強く作用するものなのか。


国木の声が荒げられる。

悲鳴をあげるような声で言う。


「普通の行動が最も推奨される。個性などいらない。突飛な行動なんかもっといらない。昨日のことを話して。記憶に穴があるのは不自由。ふるまい方が分からなくなる。情報がなければ対処できないこともある」


もう割り込んだ方がいいかもしれない。


そして立ち上がったとき、鳴識の肩に手が置かれた。



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