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ランドフォール・パレード!  作者: 白樺セツ
カシュカシュ
4/19

遺物の水曜日

ひやりとした冷たい空気に驚いて、リクは布団を顔まで引っ張った。

体を丸めて布団の端をなるべく内側へ引っぱる。

どんな隙間からも冷気を入れるものか。


どうせもうすぐ叩き起こされるんだからギリギリまで寝ていよう。

それから朝の支度を渋って予定を狂わせて見合い相手なんか蹴ってやって――


「あっ……」


唐突にここ最近の出来事を思い出して目が覚めた。

何を寝ぼけているんだオレは。

オレは今『国木瑞架クニキミズカ』じゃないか。


体を探った。

パジャマだ。寝入ったときの格好である。

時計を見る。窓を見る。

カレンダーを見て、さっと血の気が下がった。


なんで。なんでオレが目覚めている? 

睡眠をとればいつも瑞架が先に起きるのに。


「瑞架」


目を閉じ、リクは祈るように呟いた。瑞架の声で。


心臓が早鐘を打つ。

ぎゅっと薄い胸の前で手を握る。

頭の隅をつつくように『国木瑞架』の存在を探した。

その意識の片鱗を。


彼女の存在は夢のようだ。

とても希薄な雰囲気をまとい、風が吹けば消えてしまいそうで。


目蓋でできた暗闇にぼんやりと白いものが見えた。

いや、感じられたと言った方がいい。

それはかすかにゆれ、ただそこに立っている。

ああ、彼女はただ眠っているだけだ。

夢を見ているだけ。

 

ほっとして息を吐いた。


瑞架はちゃんとここにいる。

消えていない。

昨日は少し疲れたから、眠りが長いだけだ。

ただ、それは彼女の魂が確実に消耗していっているという証拠でもある。


布団を押しのけベッドの端に腰かけた。


肺が収縮し、のど周辺の筋肉が連動してあくびが出る。

細い両手を組んで上に押し上げると、背骨のあたりからボキボキと音がした。

こごった何かが崩れて下降するような感覚。


寝起きだからというだけではないだろう。

ここ最近の瑞架は学園祭準備でずうっと机に向かってばかりいる。

少しは汗をかくということもしなければ。

ただでさえ華奢な体なんだから。

彼女に伝える手段さえあれば、真っ先に言うのにな。


ぶるりと震えたあと、ブラウスと赤茶色のスカートを身に付けて紺色のカーディガンを羽織った。

洗面所へ行こうと部屋のドアに手をかけた。


「おはよう瑞架」 


開けかけたドアの隙間から見えた少年と目が合い、リクの思考は凍結した。


「……おはよう雅樹!」 


無理矢理口を開いて明るい声を出した。口角を引き上げて笑顔を作る。

よくやったと自分を褒めた。

 

電気が点いていない廊下で闇に溶け込むようにたたずむ、詰襟の黒い制服を着る少年は、その底の見えない目をじっとこちらに向けていた。観察するように。


中学一年生、瑞架の従弟の[[rb:岸田雅樹 > キシダマサキ]]だ。

瑞架と一緒に暮らしている。


国木瑞架だ。

今、オレは国木瑞架だ。

まごうことなきこれは国木瑞架の体だ。おどおどすることはない。

国木瑞架なのだから。


「もしかしてびっくりさせようとしたの? わたしが雅樹に驚くわけ」


「驚いてたよな」


シン、と数秒静かになる。


「……びっくりしちゃった!」


「わざとらしいよな」


ふう、と雅樹はため息を吐く。


「朝食、先に作っといた。味噌汁と蜂蜜梅がある」


「あ、ありがとう。嬉しい」


「瑞架、蜂蜜梅嫌いだったな。ごめん」


「…………」


「それじゃ」


何事もなかったかのように、雅樹は廊下の奥へと消えて行く。

 

リクは唇を噛んで、それから落ち着けるように深呼吸をした。


顔を洗おう。

まずはそうするべきだ。


リクは洗面所へ向かい、今日すべきことを考え始めた。

 




朝は瑞架、夕方になればリクが肉体の所有権を得ることができた。


瑞架が疲れてうとうとと気を緩めたときにリクの意識は『表』へ浮上した。

だけど今日は違った。

これからまた不規則になっていくかもしれない。

 

瑞架はまだリクの存在には気付いていない。

が、周囲の反応で何かおかしいというのは感じ始めているはずだ。

智美にあたっては、奇行が多くなったよ大丈夫? と聞かれた。

あとで『表』になったリクは、部活中偶然を装って智美の頬を思い切りつついてやった。


一応『国木瑞架』を上手く演じられていると思っているのだが、やはり違和感はぬぐえないらしい。

メディア部の連中はあまり気にしていないから気を抜いていたが、これからはもっと徹底的に演じなければ。


特に雅樹はもう気付いているのではないかと思える言動をよくする。

それもリクが『表』のときだけ。

瑞架が『表』のときは、ぶっきらぼうなようでいて体調を気遣ったり控えめな微笑みを返したりといった変わりぶりだ。

何より冷たい雰囲気が柔らかいものに変わる。

それほどはっきりした区別のされ方をされると、自信がなくなってしまう。


冷たい水で顔を引き締め、最後に洗面台の鏡を見た。

当然見返してくるのは東洋人の少女だ。


黒い髪、黒い目。

漆黒と言えばいいのか。

茶色が混じった東洋人も多くいるというのに、彼女には中間色というものがあまり見当たらない。

真ん中で癖がついた前髪はそのまま自然に分けられている。

まつ毛はあまり長くなく、目元は少し垂れていて幼さが目立つ。

肌は滑らかでふんわりした肌はいまだ大人になりきれていない青さがうかがえる。


可愛らしい少女の顔だ。

だけどどこか人形のような雰囲気を持っている。

今この体を動かしているのはリクなのに、それでも表情が凍っているように見えるのだ。

彼女が『表』になった時に鏡を覗けば、今よりまた違ったものを映すだろう。

 

居間へ行くと一人分の食事が用意されていた。

雅樹はもう出かけたようだった。


席につき、かぶさったラップを外す。

味噌汁。蜂蜜梅。

昨日の残り物が少しと、焼いただけのベーコン。

白い米も茶碗につがれている。そろそろパンも食べたいが、この家では朝はこれが定番なのだ。


リモコンでテレビをつける。

蜂蜜梅を箸でつまんで口に放り込むと、予想に反して鼻の奥がきゅっと締まってつばがたっぷりと出た。

なんだ。普通の梅干しじゃないか。


テレビが朝のニュースを伝える。

天気の情報、もみじが赤いということ、それから最近の事件と不思議な現象について報道していた。


一つ目。

瑞架の通う霧霞澄学園キリガスミガクエンからそう遠くない場所にあるダム湖の水が、一夜にして大幅に減少した。

原因究明と水不足について関係者は走り回っているらしい。

 

二つ目。

不審者目撃情報の増加。

鞄や服をいきなり掴まれただの、地面を這っていただの、包丁を持って追いかけられただの。

週刊誌に載った情報では、最近のそれら不審者は、いずれも誰かを探しているふうだったと。

しかし何を言われたのかは覚えていないのだとか。


今のところ怪我人や死傷者といった情報は流れてこない。

いい加減な記事だとして部室で智美が笑っていた。

 

箸を噛む。

そりゃそうだ。

一般の報道であればそこで限界だ。

 

ダム湖は今立ち入り禁止になっている。

自分が乗り捨てた船はもう発見されてしまっているだろうから、諦めよう。


危険なのは不審者だ。

一般人に危害が及ぶ前になんとかしたいが、今、リクは自由に動けない。

瑞架の状態もある。

できることと言ったら、できる限りの情報を集めて逃げる算段をつけることだけ。

それがかろうじてできることだ。

 

いっそ、魔法を使ってしまえたらいいのに。

 

テレビを消し、食器を片づけて学校に行く準備をした。制服を着込んで鞄を持った。

玄関扉を開けた。


最初に足下から、そして服の隙間から一気に入り込む冷気に身をちぢこませた。

ブレザーはまだいい。スカートの下が一番スースーして寒い。

ひざ丈な上に黒のハイソックスだけだ。

ズボンを履きたい。

 

薄い靴底からも冷気は伝わる。

それを一歩一歩踏みしめていると、不意に、宙にひらりと舞う何かが目に入った。


「ん?」 


それは地面に落下し、近付いてみるとなんてことはない。

ただのハンカチだった。

男物だろうか。

灰色チェックのちょっとお高い臭いがするハンカチだ。

 

ひょいと拾いあげてみるとそんなに汚れていなかった。

風に乗ってきたということは今しがた誰かの手から離れたのだろう。


「それは私のです。マドモアゼル」 


時が止まったとはこのことか。

 

ハンカチを握ったオレの手をすくいあげ、包みこんだそれは、白い手袋をした大きな手だった。

それからその誰かはオレの前にひざまずいた。

足が見える。灰色のスーツに、磨かれた革靴があった。


「拾ってくださって有難うございます。お手を汚してしまい、申し訳ありません」


ゆっくりと顔を動かして、その手の持ち主を仰いだ。

陶磁器でできているのではないかと思うほど、触れるのをためらってしまいそうな白い肌。

それに映える、深く澄んだ青い瞳。揺れるのは薄い金色の髪で、横にまっすぐ切り揃えられている。

 

その手はそのままオレ……瑞架の手をスッとさすった。スッと背筋が粟立った。


「とても冷えていらっしゃるようです。暖めませんと、お体に触りますよ」


心配そうに、その眉がハの字に下がる。男はじっと上目遣いに見つめてくる。


若い女が思い描く紳士像とは、こういうものを言うのだろうか。

男でありながらも女のような線の細さ。

やぼったく感じさせない真っすぐ肩まで伸びる金髪。

きっちり着込んだ灰色のスーツ。

首元に映える赤いリボンタイ。


この国ではめったにこんな格好の奴をあまり見かけないが、西洋人としての特徴を宿した風貌のせいで、服装に違和感がない。

これでジャージだったら逆に違和感の塊だ。

青い瞳がじっと見つめてくる。

ああもう耐えられない。


「……オレだ。止めてくれ。耐えられない。もう無理」


「おや」


端整な顔立ちが驚いたようにぽかんとする。

リクが顔を精一杯相手から背ける。

その手は逃がさんとばかりに掴まれたままだ。


「あなたでしたか。それならそうと早く言ってください。余計な時間をかけてしまった。迷惑です」


「オレの方が迷惑だ。身内の人間に口説かれる立場を一度考えてみろ」


「なんとも気持ち悪いものですね」


「そうだろう」


「あなたを口説いていたとは」


「……オレの方が鳥肌もんだったよばっきゃろう! 二度とすんじゃねぇ!」


「私にとっては術式を組んでいるのと同じことなのですよ。それよりも」


手が離れたかと思うと、相手が大きな体を折り曲げ、自然な動作で地面に片膝をつく。

手を胸に当て、顔は下に向け、きっと目は閉じている。


「――お久しゅうございます。長らくお側を離れていたことをお詫び致します。今までは機会がなかなか掴めませんでしたが、今日からまた私クロード・アシル・ウィリアムズが身命にかけてその御身をお守り致します」


「……わざわざ瑞架が『表』であることを見越してやってきたんだろう。オレに接触を図るならば夕暮れ時に来るはずだ。何を考えている」


「リク様の器となった少女の状態を確かめに来たのです」


「で、どうだ。何か分かったのか」


「ええ。国木瑞架はやはりあの者によく似ている、ということが」


あからさまな嫌味だ。リクは心の中で舌打ちした。


「昨晩の襲撃、遠くから見ておりました。お見事です。加勢できず申し訳ありません」


「いらん。身を守るくらいならオレ一人でできる。お前は引き続き情報を集めることに徹しろ」


「分かりました。では、まずリク様から大事なことをお教え願います。昨晩、何故あの少年を気絶させただけで終えたのでしょう。命をとらずとも夢、幻であったと思わせる術は仕込めたはずです。それをせず先に気絶させてしまった。僭越ながら私はそれに馬鹿といった評価をしなければなりません」


「言ったなこの野郎」


「ええ。もちろん言わせて頂きます。事は死活問題です。一体どこから状況が変化するのか見当がつかないのです。

ならばどんなに細かいことでも注意を払うべきでしょう。まさかなんとかなるだろうなどと楽観的観測はしていらっしゃらないでしょうね。このままだといずれ敵に捕まり実験動物にされます。国木瑞架もただではすまない」


「それは……そうだけど」


「だけど、とは。何か理由があるのでしょうか」


完全に説教の体勢に入っている。くそ。


田中秀樹タナカヒデキ

あいつを見た途端、瑞架は感情を大きく揺らした。そして即座に逃げるといった行動をした。

それが不可解で、同時にむっとして、だからあのとき、つい、手加減せずに殴ってしまった。


瑞架が何か行動をすれば、その行動理由はリクにそのまま伝わる。

だけど今回に限ってそれがなかった。

つまり瑞架は、何の理由もなく何の意味もなくあいつを避けた、ということになる。

思考の海には何も漂っていなかったのだ。


そんな訳があるか。

きっと何かあるはずだ。


「オレが……なんとかする。ほっとけ。もう学校行くから」


「なるべくよく考えて行動なさいませ。では、私は任務を続行致します」


「あーもう、好きにしろ! じゃあな!」


「はい。行ってらっしゃいませ」


足を踏み出す。が、そこで大事なことを思い出した。


「アシル」


そういえば久々に名前を呼んだなと思いつつ、振り返るともういなかった。


嫌がらせの意味を含め、なくした弁当箱を探させようと思ったのに。

遠くを見回しても姿はない。

ペンケースは部室にあるだろうから問題はないが。





仕方なく再び歩き出すと、不意にぶるりと体を震えた。

冷たい水を通り抜けたような感覚。

目に映る景色になんら歪みはない。


アシルが手持ちの道具で張った結界というやつだ。

瑞架の家に余計な輩が入れないようにするための。

術者が許可するか特別な能力でもない限り、これをすり抜けられないし外から中を覗くこともできない。

何よりも、生きている者ならば無意識に避けて通るものだ。


瑞架はこれに気付いていない。

いや、もしかしたら気付いていてもそれを普通のこととして認識しているのかもしれない。

最近はやっと身の回りの異常性に気付いてきたらしいが、それでもまだまだだ。


瑞架の中に魂を移し、同居して分かったことがある。

彼女は明らかに一般の人間ではない。

一般とは何を指すか。

普通でない、他とは一線引いて特殊であるということだ。

 

彼女は毎夜日記を書く。

日付はもちろん、時刻毎の行動を記すそれは日記というよりも記録である。


その体に染みついた日常的な行動は、リクにも不自由なく行うことができるほどだ。

瑞架が認識するところの日記も、いざ書く体勢に入れば体が自動的に行ってくれる。

リクが苦労するところと言えば、リクが『表』になったせいで起きたあれこれをうまく辻褄を合わせて何もなかったかのように記述するということくらいだ。


何故かは分からないが、瑞架は瑞架自身を管理するために記録している。

そんな行動を瑞架は普通のこととして受け入れている。

疑問も何も思わない。

否、疑問に思っても、それをすぐに『普通』だとすりこまれて異常に対処することができない。

瑞架はずっと洗脳され続けているのだ。


瑞架が溺愛する従弟、岸田雅樹。

事実として、彼は瑞架を管理する側の人間である。

瑞架が何かの異変、矛盾点に気付いたとき、それを『普通』だとして混乱を収め、瑞架が書いた日記を毎夜抜きとってどこかへ持っていく。

それが彼の役目だ。

本当に従弟かどうかなんてものはこの際どうでもいい。


ただ、雅樹はそれをするとき苦しそうな顔をする。

瑞架のことを大切に思っているからする表情だと、リクは思っている。

もしかしたら彼もまた管理されている側の人間なのかもしれない。


雅樹はアシルの張った見えない壁を通り抜けることができる。

瑞架も雅樹も特殊な事情があって管理されている、そういうこと、だろうか。


二人を管理している何かは今どこまで知っているのだろう。

二人の言葉から時折出てくる『世話役』という大人たちをリクは一度も見たことがない。


定期的に出入りしていたのだとしたら、家に入れなくなったことで異変に気付く。

そうじゃなくても異変をすでに感じている風の雅樹ならそれを報告しなければならないだろう。


意図的に雅樹が黙っている、という可能性も否定できないが、隠し通せるものなのだろうか。

だけどリクは、昨晩の襲撃者以外にはそれと分かるような怪し奴をまだ見ていない。


もし現状に気付いていて放置しているのだとしたら気味が悪い。

リクが何者であるかを知った上でのことなのか、それとも二人を管理しているその目的に支障がないからか。


「何だかなあ……」

 

ため息を吐いた。

活路が見出せない。

逃げようとしたって、ここはリクにとって日の浅い見知らぬ土地である。

すぐには行動に移せない。

 

学校に着くまでぐるぐると考え続けた。

答えの出ないままに正門の近くまで来た。

そしてごちゃごちゃに絡まった思考は一気にどこかへ行ってしまった。

 

瑞架の弁当箱を見つけた。

よかったと手を叩いて喜ぶことはできなかった。


残念ながら、弁当箱は潰れていた。

側面が明らかにへしゃげていた。

薄桃色の包みには誰かの足跡が付き、黄色い容器は修復不可能であることは明らかだった。


一体誰だこんな酷いことをしたのは。

偶然だとしても、踏んで潰すよりもまず蹴飛ばしてしまうのが普通ではないか。

なんて迷惑な運の強さだ。弁償しろ。


昨日弁当箱を出さないリク、もとい瑞架にいぶかしんだ雅樹には「学校に忘れちゃったみたい☆」と言い訳したのだ。


今度はどう言い訳すればいい。

『間違えて自分で踏み潰してしまった』? 

不自然すぎる運の強さだな、ちくしょう。

加えて、瑞架のペンケースを部室まで取りに行ったのに結局見つからなかったのだ。


昼は智美の弁当からちょっとつまむぐらいでなんとかギリギリ我慢できるが、弁当箱がないのはまずい。

雅樹だけじゃない。

瑞架が『表』になったとき、彼女が異変に気付いてしまうのは危険だ。

とするならば、例えまた以前とそっくりな弁当箱を買っても、瑞架の財布から予定にない出費が出るのもまずい。

気付かれる。

問題が積み重なった上にまた問題が出るとは。


教室に着くと、「カッケー瑞架? カッケー瑞架?」とニヤニヤしながら智美が近づいてきた。

そのためそのポニーテールを固定しているヘアゴムを奪ってやった。

奪った拍子にヘアゴムがちぎれてしまったが、まあいい。

自業自得だ。


リクは席に着くと鞄を置いて突っ伏した。

智美はヘアゴムがちぎれたことよりも、再び大量の髪を一つにまとめることがいかに面倒くさいものかを、予備のヘアゴムとクシを取り出しながらリクもとい瑞架の側でネチネチ嘆き始めた。

とてもうるさいし気が散る。


リクはふと教室正面に設置された時計を見た。


授業に頭を使うよりも、今は解決すべきことがあるのだ。

別にいいだろう。うん。


ほどなくしてやってきたクラスの担任に体調が悪いと伝え、リクは保健室へと向かった。




 

都合のいいことに養護教諭はちょうど席を外していた。

台に置かれた記入簿に必要事項を記入し、ブレザーをベッドの端に引っ掛けてリクは空いているベッドへと飛び込んだ。


枕に顔を埋めてぎゅうっと抱きしめる。

寝転びながら上履きをベッドの下へ落とし、ふかふかした掛け布団を足で巻き込んだ。

さらりと冷たい清潔なシーツとふかふかした感触。ベッドごとカーテンで隔離されたこの空間はなんとも言えない。

隠れ家みたいだ。

リクはそのままの格好で紐タイを緩め、きっちり上まで止めていたブラウスのボタンを二つ外した。


ふいに誰かのうめき声が聞こえてきた。


隣のベッドだ。やけに苦しそうな声である。

何度も寝返りを打っているようで、ガサガサと布がすれる音とベッドがきしむ音が聞こえた。

これはもしや。いやいや、まさか。


下賤なことを想像したが、一応それを否定する。

が、一応。そう一応だ。確かめねばなるまいよと、妙な使命感を持ってリクはドキドキしながらカーテンを開き、カーテンに囲まれた隣のベッドへそっと近づいた。

それからそっとカーテンを人差し指で開いて中を覗いてみた。


そこにいたのは、冷や汗をダラダラ流して苦悶の表情を浮かべている田中秀樹という少年だった。

田中は体を丸めて腹を抱え、うめき声を漏らしていた。

……その抱えている部分は、昨日リクが拳を入れた場所だった。


一気に気分が冷め、罪悪感が生まれる。

力加減を間違えてしまったようだ。


こめかみをカリカリと掻く。仕方ない。


「なあ、おい」


ゆさゆさと肩を揺らす。

びっしょりと手の平に汗を感じたが、とても冷えているということが分かった。

さらに罪悪感が増す。

 

閉じられていた目蓋が薄く開く。

田中はぼーっとした顔で「……国木?」と声をこぼした。


「腹見せろ腹」


相手が反応する前に布団を引きはがしてシャツも上に引き上げる。田中が抵抗する間もなく肌が露出する。

青く変色していた。それを再び覆うとした田中の手を払いのけ、リクはそこに手を当てた。


「ただの『手当て』だ。しばらく待て」


ぴったりと手の平を押しつけて集中する。

数秒すると、困惑していた田中の顔が段々と驚愕に変わっていった。

痛みはもう大分引いたはずだ。


「え、お前」


「うん、もちょっと待て。起き上がるな。そのまま聞け。聞けつってんだろ」

 

慌てて起きようとした田中の肩を押さえる。

それでも動くのでちょっと殴っておいた。

 

周囲に人の気配がないことを確認して、頬を押さえて放心状態になった田中の耳になるべく口を近づけた。

何故か慌てだした田中が視線をキョロキョロさせて身を引きかけるが、リクの言葉でピシリと固まった。


「今思いついた。お前、オレの下僕になれ」


「……は、はあ?」


瑞架がオレのことを理解し、協力の意を示してくれれば、と思った。

 

瑞架が味方になり、瑞架の説得で雅樹も味方になる、そんな連鎖を作ることができたならば、もう少し身動きがとれるのではないのだろうか。

話し合うことができたなら、他の活路を見つけ出すことができるのではないだろうか。

 

それをするにはまず瑞架だ。瑞架の精神を自由にしなければならない。

たとえ手紙といった手段で直接瑞架にリクの意思を伝えたとして、度重なる洗脳で縛られた思考に希望は持てない。

蓄積された『普通』に反するものにぶつかればすぐにまた洗脳し直される。

度重なるそれは、確実に瑞架を蝕んでいる。


田中秀樹という存在がそこにあっただけで瑞架は大きく揺れた。

間髪入れずに田中から逃げたあの行動がすりこまれたものだとすれば、そこに現状を打ち破る鍵がある。

あいつを遠ざけないといけない理由が何かあるのだ。


「ちゃんと全部信じろよ? オレは訳あって今、瑞架の体に居座っている。なんだけど、瑞架自体にも問題があったみたいでな。このままじゃオレも瑞架もヤバイ。だからだ。お前に協力してもらう」

 

もういいかな、と思ってリクは田中の腹から手を離した。田中が自分の腹をなで、それから『瑞架の顔』を見てリクに言った。


「お前、何なんだよ」

 

困惑したままの田中の顔に、少し笑いがこみ上げる。どんな反応をするだろう。

この星はまだ宇宙進出を満足に果たしていないからな。


「オレはリク。宇宙人もしくは異星人ってやつだよ」

 

瞬間色の変わった顔に、リクはこらえきれずに噴いた。





今日が水曜日で良かったと思う。

メディア部は水曜日だけ休みなのだ。


というのも、水曜日は部長、山下の好きなテレビ番組があるから早く帰りたい、という至極勝手な理由からだった。

しかし今回はその勝手な理由に救われた。

何はともあれ、潰れた弁当箱とそっくりな弁当箱を早急に買う必要があった。


学校が終わればリクは電車でいくらか移動し、駅の待合室で待った。

しばらくしてまたやってきた電車から田中が降りてくるのが見えると、リクは手をあげて合図する。

別に一緒に校門を出ても良かったのだが、年頃の男女が二人だけで歩いている図というのは、まあそういう想像をかきたててしまうものだ。

それはなんとなくムカつく。


その後、リクは田中から瑞架のペンケースを受け取った。

昨日田中があの現場に来てしまったのも、部室に忘れていたペンケースを届けるために追いかけて来たかららしい。


あのとき何があったのか。

お前は一体何なのか。


やっぱりそう聞かれた。

だから人がいない場所に引きずりこんで話してやった。

昨日は不審者に襲われたので撃退しただけ。

リクはリクであって瑞架ではない。

といったようにざっくりと。


田中にはリクの事情をかいつまんで話してみようと考えていた。

やはり瑞架のあの心の変化は見逃せない。


何の力もない一般人であっても、不本意ではあるが味方は多ければ多いほどいい。

リクを信じずとも、田中はどこか瑞架を気にしている風でもある。

悪い感じのする奴ではない。

ムカツク感じがするだけである。

あと髪の毛とかを引っ張ったり頬をつねったりしたい感じのする奴である。

それに田中が他の一般人にリクの話を話したとして、大抵は変な顔をされるだけだろう。


田中はオレの後ろにつきながら、きょろきょろと周りを見回していた。

さらに詳しい話を知りたいならと待ち合わせただけであって、彼はまだこうして出かけた理由を知らない。


今日の日記には『頼まれ、転校生に道案内をした』という項目で少し埋めることができるだろう。

真実を織り交ぜたつじつまの合う内容を考えなければ。


人がまばらになったのを確認して、歩きながらリクは改めて説明した。


「いいか? オレは他の星からやってきた異星人で、魔力ってエネルギーを持っている。オレたちの魔力はつまり生命力であり、寿命に直結するものだ。

量も質も個人差があって、術式を理解していれば本人次第で色んな魔術を使うことができる。

それに電力よりも環境に優しい。普通に生活していれば魔力はいくらかは回復するからな。他の星みたく発電機を大量に用意しなくてもいい。

オレはそこんとこちょっと優秀過ぎてな。術式を使わない奇跡の業、魔法だって使えるんだわ。……まあ発動は難しいけど。

だから今、悪い奴らに追われて地球まで逃げてきた。瑞架の体を借りてるのは、オレの本来の見た目が東洋人とは全く違うものだからだ。オレの野性的な美貌は絶対目立つからな!」


「それは……もしかしてタコのような軟体」

 

ごくりとつばを呑んだ田中の腹を肘で打った。

ぐほ、と声がする。

大丈夫。手加減したから明日には響かないはずだ。


「瑞架の中に入ってみて分かったんだけどな、見た目はぴんぴんしてるように見えて、中は心身共にめちゃくちゃ弱ってた。

すんごいオレの魔力のおかげで体はちょっち持ち直せたけど、魂は別だ。それを回復させる手立てを今探している。

そしてお前がこの話を信じるかどうかで、瑞架の運命は分岐する。信じないなら――お前をどうにかするだけだ」

 

手を銃の形にして田中の額に突きつける。

指先から生じた熱さに驚いて彼は慌てて頭を振った。

リクはその様子を見てくすくす笑う。


額を押さえ、田中がリクを睨んだ。


「からかってるか」


「ちょっとくらい息抜きをしたっていいだろ? オレって『表』になったときはほとんど瑞架のフリしてんだぜ? たまにはオレはオレとして話したいんだよ」


「色々と聞きたいしつっこみたいことはあるけど、とりあえず、いいか?」


「言ってみろ」


「なんで国木を選んだんだよ。中に入ってから衰弱してるって分かったんなら、国木のために入ったってわけでもない。昨日、あんな人気のない場所で不審者を撃退したのは、そいつがお前の関係者だったからなんじゃないか? なら、さっさと国木の体から出てって他の奴の体をとっかえひっかえ利用すりゃ、逃げられるんじゃないのか。本当にお前が逃げるためだけに国木の中に入ったのなら」


「それは……」


――覚えてなかったから。

 

小さく口からこぼれた。

田中は聞き取れなかったようで、え? と怪訝な顔をする。

それを見て、リクは顔が歪んでしまう前に田中の顔にふっと勢いよく息を吹きかけた。

彼がびくっとして目をつむる。

それを見てまたリクが笑う。


「そこにいたからだよ。

最近のニュース見たか? ダム湖干上がり事件。あれってオレの船が落ちたから水が蒸発したんだ。オレ様は頭がいいからな! すぐ隠れなきゃって判断して、オレ好みの女の子を最初に見つけたからその子にしただけだ。そしたらな。出られなくなった!」


「はあ? てかやっぱりお前男か!」


「……性別なんてどうでもいいだろ。ほらついたぞ」

 

立ち止まると、田中がおおっと感嘆の声をあげた。


着いたのはショッピングセンターと言う、瑞架がよく利用する場所だ。

学園ほどではないが、広い敷地内に大きな建物が二つに分かれて建っている。

淡い色彩を基調とした建物で、桃色や緑色の壁がどこか南国の雰囲気を思わせる。

ずっと奥に行けば小さな噴水をしつらえた広場もある。

駅からここまで小さな家が建っていて、ほとんど同じような風景が続いていただけにこの巨大な建物の存在はあまりにも目立っていた。

ここだけ異国のようでなんだか懐かしみを覚える。


「まさか、こんな場所があるとは……」


「結構いろんなのあって便利だぞ。覚えとけよ転校生」

 

まじまじ建物を見ている田中に声をかけ、アーチ状の看板をくぐる。

田中も数歩遅れてついてきた。





中に入り、エスカレーターを使って雑貨用品店に向かう。

瑞架はそこで今回踏み潰された弁当箱を買ったのだ。

同じやつを買えば文句はあるまい。

金は横にいるこいつから引き出せば証拠も残らない。


「寛大なるオレ様はな、体を間借りしている礼はきちんとするつもりだ。出来る限り瑞架を助けようと思う。瑞架自身のことについてはプライバシーの侵害という言葉がこの国にあるからこれ以上もう言わない。言ったとしてお前にどうこうできるとも思えない。だからお前にはまず弁当箱を買ってもらう」


「なんでそうなる」


「瑞架は弱ってる。あまり刺激を与えたくない。なんだけど、昨日の襲撃で弁当箱を落とした上に壊しちまった。覚えのない出来事が形としてそこにあれば、誰だって戸惑うだろ。瑞架の財布から金出してもやっぱりそれが証拠になっちまう。ならお前にたかるだろ」


「いやだからなんで俺?」


「縁だな。はち合わせた縁。そしてこれから瑞架を助けるために動いてもらう」


「意味分かんねーよ。俺だってそんなに金ねえんだけど……」


「具体的な行動についてはまたおいおい指示するさ。そしてオレはお前の財布事情よりも急を要する瑞架の命の方が大事だ」

 

ま、その具体的なことはまだオレも考え中なんだけどな。

それを言わず、リクは田中の文句を聞き流した。

 

具体的なことを考えるには、まず瑞架と田中の過去を探らないといけない。

気分の良いことではない。

だけどそうしないと瑞架の洗脳を解く鍵は見つからない。


エスカレーターから降りると、右手に黄色の看板が見えた。

中に入ると様々な商品が出迎えてくれる。

床はもちろんピカピカに磨かれ、天井からはシャンデリアを模した照明が柔らかい光で店内を包んでいる。


食器が置いてあるスペースへ行き、弁当箱を探した。

店内に流れる軽やかな音楽が耳に届く。

 

田中が落ち着きなく、そわそわとあたりを見回す。


「あの、俺店の外にいていい?」


「いやだわ田中君、店の外につっ立ってたら目立っちまうわよ? 制服のまんまだってこと、忘れない方がいいわよ?」


「ああ……」

 

がっくしと田中が肩を落とす。

 

一体何が不満なんだと見回せば、そういえば女性客しかいないことに気付く。

確かにここは少女趣味だ。

秀樹は明らかに目立っている。

しかしオレは目立っていない。それならいい。

 

棚に並べられた弁当箱の中から、黄色のものを見つけて手に取った。


止め具や中の仕切りなど、微妙に細部が違う気もするが、これならたぶん大丈夫だろう。

瑞架の日記には弁当箱の形について詳しく記述している部分はなかった。

つまり弁当箱についてはそこまで見ていないということだ。

瑞架と雅樹は自分の弁当箱は自分で洗っているようだし。


「たーなーかーくーん、お財布お財布」

 

弁当箱を持ってぶんぶん振ると、すぐにつかつかと田中がやってきて弁当箱を取りあげられた。

振りまわすな、と小さく指を立てて注意すると、いそいそと弁当箱をレジへ持って行く。

 

会計を待つ間、目的もなく店内をまわった。

 

きゃっきゃと声が聞こえた。

見れば制服を着た女の子が二人、フリフリのエプロンを見てはしゃいでいた。

霧霞澄の制服ではないがおそらく瑞架とたいして歳は変わらないだろう。

片方がエプロンを相手の体に当て、似合うよ、と無邪気に笑っていた。


瑞架が初めてこの店を見つけたときも同じような様子だった。

持っている弁当箱の取っ手が破損したから買いに来たのだ。

気持ちは高揚し、色んな商品を見て漏らす言葉は「きれい」とか「欲しい」だった。

でも結局所持金が足りなくて、買ったのはあの弁当箱だけだった。

それを雅樹が申し訳なさそうな顔で見ていたな。


「買ってきたぞ、早くここ出よう」

 

ちょこんとした小さな紙袋に弁当箱を入れてもらい、田中が声をかけたときだった。


「キャアァァァァ!」


驚愕と恐怖が極限までに入り混じった声で、全身が貫かれた。


ガタン、ガシャ、ガン、と続けて音がした。

誰かが暴れているのだ。

そう思って音がする場所へまわってみれば、エプロンを見ていた女の子の一人が床に座り込んで震えていた。


釘付けになっているその視線を追えば、もう一人の子はそこに立っていた。

床に小さな血だまりを作り、細身の男に首を掴まれ足が浮き、ゆらゆらと揺れていた。

周りには暴れたさいにぶつかったのであろう店の商品が棚から落ちて散らばっていた。


男は自身の首を九十度横に倒してじいっと女の子を見ていた。

その子の手は体の横で力なく垂れ下がっていた。


「オ、オウジョ……?」


男の発したノイズが混じった声にぞっとした。

同時に、何故あの子が襲われたのか理解して頭に血が上った。


「お、おいっ」


田中の声を無視し、リクは床を蹴って走り出した。

 

男に突進し首を掴むその肘に上から手刀を落とす。

男の肘が曲がったかと思えばボキ、とやけにあっさりした音がして、またぞっとした。

木の枝を折ったように、肘の部分から腕はぱっかりと折れて断面が見えた。

血は出ていなかった。

骨のある位置に細い角材があり、後は何かの屑が詰められ、ぽろぽろとこぼれ落ちていた。

これはただの人形だ。

 

首の手の力が緩んでいるのを確認し、リクは掴まれている女の子を抱きかかえるようにして引き寄せた。

人形の手が外れる。

リクは近くの棚を掴んで人形に向けて倒す。

磁器のカップや皿がけたたましい音を立てて割れる。

 

ぐったりと目を閉じている女の子を床に横たえ、口と鼻に手をかざし、それからのどを触った。

首に痕はついているものの、息はあるし脈もある。

脇腹には折畳み式のナイフが刃の中ほどまで刺さっていた。

紺色の制服がその部分だけ赤黒く滲んでいる。

まだ温かい。


わたわたとやってきた店員に救急車を呼ぶよう指示し、気絶した女の子の名前を泣きながら呼び続けている子には、ナイフを絶対に抜かないよう言いつけた。


倒れた棚が音を立てながら動く。

下敷きになっていた人形が這い出してきて、さっきよりも曲がった首でリクを見た。

田中が「ひっ」と小さく悲鳴を上げる。

ガラス玉のように透き通った目玉には、インクを落としたような黒いにじみが見えた。


あの子はオレと間違えられた。


改めて理解した途端、胸の内に煮えたった何かがあふれ出した。


「オレはこっちだばかやろおおぉぉぉ!」

 

人形が棚の下から這い出した。

リクが店を出ると、人形もついてくる。

店の周辺に騒ぎを聞きつけた野次馬も集まりかけていた。


「田中、お前もういい帰れ! 弁当箱、オレの席に届けとけ!」 


リクが走り出し、人形もゆらゆら歩いていたかと思うと、次第にその速度をあげて追いかけてきた。

 

人混みをかき分けて前に進む。

あの人形を見たのであろう野次馬の悲鳴が後ろから聞こえた。

一抹の不安がよぎるが、大丈夫だと自分に言い聞かせた。

アレは今、ちゃんとオレを追っている。

大丈夫。


「国木!」


背後からの大声にぎょっとしてリクは少し足をもつれさせた。

追いついた田中がリクの、瑞架の腕を掴んだ。

 

ふっと、目蓋が重くなった。


意識が遠のき、足がもつれる。

瑞架が起きようとしている。

このタイミングで。

体が傾いた。

支えることができなくて、そのまま倒れていく。


無理矢理体の所有権を奪おうとした。

できなかった。

どうして。

オレは今気を緩めていないのに。

驚いたからか?


誰かに体を支えられた。

半分閉じかけた目で見やれば、田中が焦った様子でそこにいた。

このやろう、追っかけてきやがった。


そのとき、ドキン、と胸が大きく高鳴った。


「……ああ、そういうことか」


唐突に理解した。涙が出そうになった。


でも泣いてしまいそうになっているのは、目の前にいる彼だった。


「なんだ、どうしたんだ? おい、大丈夫か?」


田中が困惑したように眉尻を下げ、『瑞架』に声をかけていた。


ちくしょう。


「ごめ、あと、任す」


「は?」

 

全身の血が引くように、指先から甲へ、それから肢体を通って胴体へ。

全ての感覚が引いていく。

その感覚に少しだけ恐怖を感じる。

しまいには視界も失われ、思考だけになる。


そして目が開かれた。


『表』に出た瑞架は、目の前にいる田中に気付いて固まった。




――昨夜カラの記憶ガない。コンピュータ室で意識が途切れて、それからの記憶がない。彼がわたしの体を支えている。それは、どうして。




瑞架の五感を間借りしている状態、と言えばいいだろうか。


テレビの映像を見たときと感覚は似ているかもしれない。

それは実際に眼球を通して見えた世界なのに、どうしてもその視界は自分のものではないと感じてしまう。


最初、戸惑いはしたもののもう慣れた。

だって今、オレは瑞架になっている。

リクというオレの思考は確かにあるのに、瑞架の思考の中で息をひそめて全てを感じとっている。

このまま起きていれば、またオレは彼女と意識を同化させる。

オレは瑞架になる。


瑞架は目をこすった。

目の前には田中がいる。

瑞架はもう一度目をこする。

やっぱり田中がいる。

夢じゃないとはっきり分かって、思わず瑞架は田中を突き飛ばした。

突然押されて田中は尻餅をついた。

 

がやがやと人が集まり、瑞架を見ていた。

人混みの向こうから悲鳴が上がり、驚いてそちらへ顔を向けた。


首が有り得ない方向に曲がり、片腕がない男がもうダッシュで走ってくる。

その目はしかと瑞架をとらえていた。


「何、あれ……わたし、わたし?」

 

とにかく逃げなければならない。

瑞架は慌てて人混みをかき分け走った。

すぐに田中が追いかけてきてぎょっとする。


「なんだ、何驚いてんだ。つーかあれなんなんだ!」


「え、え? 何、どうして?」


「さっきまでの威勢はどこだよ、行くぞ!」

 

混乱したまま二人は駆け抜けた。

田中が先頭に立って人混みをかき分け、その後を瑞架が続く。

 

ああ、これならなんとかなりそうだ。

 

水に溶けていく砂糖のように、思考は『国木瑞架』と同化していった。



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