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ランドフォール・パレード!  作者: 白樺セツ
カシュカシュ
2/19

異変の火曜日

一ヶ月前か二ヶ月前か。


大体それくらいから前から、『国木瑞架クニキミズカ』という少女を見る周囲の目は変化してきた。


最近、瑞架の記憶はよく飛んでしまう。

気が付いたときには移動した覚えもないのに違う場所にいたりする。

だから瑞架は今、大変だった。

 

今日もまた、黒髪の少女は廊下を歩いている。瑞架だ。

走らず、だけどもゆっくりではない。

急いでいる。

早歩きで目的の場所へと向かっている。


――遅れテしまう。部活動ニ遅れてシまう。


瑞架は足を早めた。

早めて早めて、増改築で迷路のようになったつぎはぎの校舎内を縫うように進んでいく。


古い校舎と新しい校舎。

壁、床、窓、漂う空気の違い。

空いた所に増築するから全てがごっちゃになっている。

それを思いながら進めば、途端に瑞架の頭もごっちゃになってくる。


――新しいもノ。古、いもの。両ほうga交互に続ク。ぐるグると巡る。巡ッてごちャごちゃにnaって、擦リ切れて、消耗しte、、削らレて。

 

ギギィ、と床が不穏な音を立てたから、瑞架はぎくりと足を止めた。ゆっくり後退してから彼女が足元を見れば、床に張ってある木の板の端がわずかに浮いていた。


息を整える。整えるついでに視線を隣にずらした。

蜘蛛の巣が張りついた窓ガラスがあった。

表面が曇っている。

窓の木枠が腐りかけている。


――耐えラレnaクなru。かtaち、ヲたもtenaくnaル。そrosoro、ダ。


廊下の隅にひと固まりになった埃が落ちていた。

用途がわからない木箱やら工具箱、木製の椅子が壁際に積み重ねられている。右手にある教室はすでに倉庫として扱われている。


背後で床がきしむ音がし、少女はどきりとして身を強張らせた。


「あの」


こわごわ振り返ると二、三メートルほど離れたところに、困ったように頭を掻く男子生徒がいた。白シャツにカーディガンと黒いズボン。この学校の制服じゃない。あれは瑞架の家の近くにある高校の制服だ。


「すみません、その、道に迷っ、て……?」



――me,メ、め、目、が、あうと、文字どおり、固まってしまった。わたしも彼も。あいかわらずあちこち飛びはねた髪に、あかぬけない顔。それぐらいで終わっちゃう特徴。身にまとう、どこか油断してしまう雰囲気も、あのときのままで。だからわたしは、だから、だから、わ taシ……?



「……国木、か?」


その少年に問われた途端、瑞架はすぐに走って逃げてしまった。



◆◆◆



走り去る少女の背中を見て、秀樹ヒデキは思わずがくりと膝をついた。


転校してきたばっかりで道が分からなかっただけだ。だから声をかけただけだ。

何もそんな、全力で逃げなくてもいいじゃないか。


肩まで伸びた黒々とした髪。真ん中で癖がついた前髪。驚きに見開いた垂れ気味の目。


その瞳を見た瞬間、秀樹は自分の中で何か痛みが走ったのを感じた。

それと焦燥感。胸をかきむしるような、何か。

それは何か? 分からない。分かったら苦労はしない。


国木瑞架。

確かに今のは彼女だったと思う。

中学まで一緒だった女子。

かれこれ小学生の時から彼女に避けられ続けている。

理由も言わずにずっとそれだから和解のしようもない。

久しぶりだからだろうか。今のは結構応えた。この学校だったのか。


本日、田中秀樹はここ霧霞澄学園に転校してきた。

諸事情で高一の秋という急な転校である。

急すぎて制服は前の学校のまま。

そして周りは暗い赤茶色を基調としたデザインの制服だ。


ボタンは全て金色で、制服としては珍しい気がする紐タイ。

留め具には校章が刻まれている。

形だけならごく一般のブレザーだが、デザインのせいかどことなく優雅な雰囲気がある。


実際に転入するまではちょっと、いや結構そのオシャレな制服に憧れたりもした。

だが今となっては、前学校の制服を着込む秀樹にとって劣等感を刺激するものにしかなりえない。

同じブレザーなのに、鏡で見れば見るほどなんだか安っぽく見えてしまうのだ。

たぶんブレザーのボタンが灰色のプラスチックだからだ。

きっとそうだ。別に自分のあかぬけない風貌とかのせいだけではないはずだ。


秀樹はメディア部という部を探していた。

その名前の通り、メディアを扱う部だ。

転校の手続きをしたとき、秀樹が訳あってその場で入部届けを出した部である。


HRが終わって早々に教室を出たというのに、その部室をいまだ見つけることができない。

時間的にもうかなり遅刻している。地図が欲しい。

だだっ広い校舎内はまるで迷路だ。

 

今日一日、新しい教室へ入ってから自分が浮いている気がしてなんとも居心地が悪かった。

漫画ではよくある、転校生の机の周辺に人だかりが出来てたくさんの質問を浴びせられるということもなかった。皆、俺には興味がないのかもしれない。

できるのならば部活は挨拶だけで、適当な理由を付けてさっさと家に帰りたい。

だけども遅刻した上にそれはやはりまずい。南無三。


「……田中か?」

 

はっと振り返ると、きょとんとした顔の少年が数メートル先に立っていた。


白シャツに橙のベスト、濃紺のジャケット。

首には青色の紐で吊った名札。


違った。この人は教員だ。

手続きの日に秀樹が入部届けを渡した、鳴識遥ナルシキハルカという人である。

ちょっと不思議な感じのする関西弁と、同い年にも見えるその童顔が印象に残っていた。

 

鳴識が膝をついたままの秀樹に駆け寄ってきて手を差し出した。

すみませんと言って秀樹はその手をとって立ち上がる。


「どうした、体調悪いんか?」


「いえ……部室にたどり着けなくて」


「え、それで膝ついとったんか? 大げさやなぁ。案内するわ、ついてき」

 

秀樹はほっとし、鳴識の後についていく。

どうやらすぐ近くまで来ていたらしい。

 

階段をもう一つ上に上がり、角をいくつか曲がり、しばらくすると長い廊下に出た。

電灯はついているものの薄暗い。

壁側に窓はあったがそれほど光は差し込んでいなかった。

ここは他と違って古い校舎であるからか、どことなく不気味である。

その一番奥に、光が漏れている教室があった。


「来たったでー」

 

鳴識がドアを開けると続いて中から「呼んでないよー?」という女子の声が聞こえた。

それを無視して鳴識は後ろにいる秀樹を促す。


「すみません、遅れ、て……」 


そろそろと顔を出す。

教室の半分を衝立で仕切った空間には、中央で一固まりにした机があった。

そこに座っているのは女子三人だけ。

いずれも秀樹を注視していたが、ただ一人だけぎょっとしたように固まった顔があった。

秀樹も思わずどきりとして固まった。

さっき見た顔、国木瑞架がそこにいたのだ。


「途中迷っとったんを先生が連れてきたんやで。ま、とりあえず自己紹介しよか」


鳴識に背中をポンと軽く叩かれ、我に返ってなんとか口を開いた。


「えと……今日一年B組に転校してきた田中秀樹です。どうぞよろしく……」


言っている間に国木はすぐ秀樹から目をそらし、机の上へ視線をやった。


やっぱり、そうなるよな。

悲しくなりつつも秀樹が残り二名の部員へと視線をやった。

最初に目が合ったのは、たっぷりした髪を高い位置でまとめた、くりくりした目の女子だった。


「あたし一年B組、花積智美ハナツミトモミ。よろしく下僕」


椅子の背にあごを置き、ニヤニヤしながら言った。さっきの鳴識の声に返したのはこの女子だろう。そして俺は後半の呼称について何も聞こえなかった。


次に銀縁の眼鏡をかけた女子が席を立ち、秀樹のところまで来て手を差し出す。


「三年A組、部長の山下……もう知っているわね。下の名前は使わない主義だから、覚えていたとしても呼ばないで」


にこ、と笑う。肩まで緩く波打った茶髪がわずかに揺れた。

もちろん知っているし覚えている。

彼女こそが秀樹を部に誘った張本人なのだ。


「……部に誘ってくれて有難うございます」 


秀樹はおそるおそるその白く華奢な手を握った。

ちょっとした皮肉を込めたつもりだったのだが、微笑みは少しも崩れなかった。


カタン、と席を立つ音がした。国木が椅子を机の下に戻しているところだった。


「国木瑞架、です。すみません、学園祭の展示物、制作が遅れているので先にコンピュータ室に行ってきます」 


腕に筆記用具といくつかの本を抱え、国木は秀樹の横を通って教室を出て行った。

目は一度も合わなかった。

……そのときはただ、仕方ないかという感慨しか持たなかった。





学園祭が近づいているため、メディア部では主な展示品として最近の記事をまとめたスクラップブックも制作しているのだ、と花積は説明した。


「あの、すんませ」


「はい次これねー」

 

秀樹の声を打ち消すように、目の前にドサドサドサと大量の雑誌が積まれた。

週刊誌や月刊誌、新聞など様々だ。

雑誌の厚みや形がバラバラなせいでグラリと傾きそうになり、秀樹は咄嗟に両手で支えた。


「チェックして、綺麗に切り抜いて分類して日付もちゃんとね!」


「はぁ……」 


渡されたハサミと雑誌の山を見比べ、それから先輩風を吹かせているポニーテールの同級生を見て、秀樹はため息を吐いた。


「あー女の子の顔見てため息吐いたね! だめだよそれ男として! 世界のルールだよ!」


「そんな決まりがあったんスね……」

 

そうそう、と何度も頷く花積を横目に、仕方なく雑誌の一つに手を伸ばす。

ちらりと見やれば、ここの主である部長、山下里沙ヤマシタリサと目が合った。

その机には何故かティーポットと小皿に乗ったティーカップがある。

 

ふっ。

 

憐れみに満ち、かつ嘲るような冷たい微笑を秀樹に送ったあと、手元のティーカップを口元で傾ける。

さっきから飲み過ぎだと思う。この人こそ働けばいいのに、ずっと紅茶ばっかり飲んで、書類を眺めたり窓の外を眺めたりしているだけじゃないか。

納得いかない。納得がいかない。


「はいはい手が止まってるよー進めて進めてー。とりあえず最近この辺で起きた事件を先にやっちゃってよ」

 

花積が雑誌の山へとさらに雑誌を置いていく。

どんどん解放への兆しが遠のいていく。


「田中君、ちょっといいかしら」

 

はい? とやや不満げに秀樹が山下へと顔を向けると、山下はティーカップを机に置き、窓の外を眺めていた。

人と話すときくらい顔を合わせたらどうなのだ。


「国木さんを呼びに行って。もうそろそろ良い時でしょう」

 

良い時?

腕時計を見る。確かにもうそろそろ最終下校時間である。


「コンピュータ室にいるから。その作業は花積さんにやらせなさい」

 

片手をひらひらと振る山下に花積がえー! と声をあげた。


短い間とはいえ、今国木と二人になるのはどうなのだろうか。

そう気遅れしたが、山下の刺すような視線に促され、秀樹は仕方なく立ち上がった。

ぶつくさ文句を言う花積にハサミと切りかけの雑誌を渡し、秀樹はコンピュータ室へと向かった。





棟の端に向かって廊下を真っすぐ歩く。

小さくキュッキュッと足音がする。

メディア部のあった場所は古い校舎だったが、こっちの校舎は新しいのだ。


床は白くとても硬い。

というのはまあ当たり前だろうが、見下ろせば照明の光が綺麗な帯を引くほどにピカピカだ。

掃除当番というものがなく、業者が掃除をしていると聞いた。

部室へたどり着くまでにホコリを見たから、やらない場所もあるのかもしれないが。


前の学校の白い床は灰色がかり、傷つき、ホコリが階段の隅にため込まれているというのが通常だった。

床を見下ろすだけで前の学校との違いがよく分かる。

環境が変わりすぎている。

場違いだ、とも思ってしまう。


廊下の奥にある教室から光が漏れていた。

コンピュータ室だ。


記憶を深く深く掘り返せば、国木瑞架に避けられ始めたのが小学四、五年の頃だという部分まで思い出せる。


何かをしたという覚えはない。

自分は面倒になりそうなことはなるべく避けて通りたい性格だから、何があっても適当に流して深く関わることはなかった。


ただ一つだけ。身に覚えのないことではあるが、気になっていることがあった。

その頃、流行っていた遊びのことを秀樹は覚えている。悪質な遊びだったから、よく覚えている。


『告白ゲーム』。

嘘の告白をして相手の反応を見て楽しむ遊び。

グループで行われる遊びだ。

罰ゲームと大差ない。秀樹はそんな面倒なことになりそうな遊びには参加しなかった。

されたことは何回かあったが適当にあしらっていた。

その時期の印象に残っている出来事といえばそれぐらいしか思いつかない。


……それを思い出すということは、自分が忘れているだけで、その遊びが原因で何か起こったから、だったりするのだろうか。


ドアの前に立つと、握った汗がよりはっきりと感じられた。


今後のためにも、今こそ避けられるその理由を聞き出したい。

理由も分からないまま避けられるというのは、結構こたえるものなのだ。


ドアにおそるおそる手をのばしかけたそのとき、ドアが勢いよく開いた。

心臓が音もなく飛び跳ね、秀樹の体の動きを封じ込めた。


「お」


声を発したのはドアの向こうから現れた国木瑞架だった。

心の準備を怠っていたようだ。

あれほどごちゃごちゃと考えていたのに、一瞬で頭が真っ白になった。


国木は前髪を片手で掻きあげたポーズのままピタリと止まり、まじまじと秀樹を見た。

驚くでも嫌がるでもなく、ただ秀樹を観察している風だった。


どうしたのだろう。

彼女なら大抵、こういう場合顔を強ばらせたりするのに。驚きすぎている、とか?


「あーえっと、田中君でしたっけ」


思わず息が止まった。

強い違和感。国木とは大分違う、ざっくばらんとした雰囲気。


「え」


こちらがかろうじて声をもらすと、国木は首を傾げた。


「あれ、違ったか」


「いやあってる、けど」


「なんだ、そっか。で、田中君はなんでここに?」


「その、部長さんに言われ、て……呼びに……」


「ふーん」


国木は面倒そうに頭をポリポリと掻き、視線は空を睨みつける。


なんだ、これ。


スタスタと秀樹を置いて出て行く。

通り過ぎていった背中に、やはり違和感を感じた。


見た目は何も変わっていない。

だが何故だろう。

目の前の女子を国木だとは思えない。

二時間前の彼女はあからさまに拒絶の意思を示していた。

廊下で出くわしたときのあの凍りついた顔、そして脱兎のごとく逃げ出した姿。


「あ、あの……」


秀樹の出す声は小さなものだったが、数メートル離れた場所で国木の足が止まる。

怪訝そうな顔をこちらへ向けた。

続く言葉を待っているのだと気付き、秀樹は慌てて口を開ける。


「その」


面倒なものを見るような、怪訝さがにじみ出た目。冷たい目。そこに秀樹は映っている。


冷や汗が噴き出す。

自分は今誰と話しているんだろう。


「国木、だよな?」


やっとの思いで秀樹が言うと、彼女は目を見開き――くすっと笑った。


「当たり前でしょー。早く部室戻ろうよ」


そう言うと、国木は弱冠早く歩き始めた。訳が分からないまま、とりあえず秀樹もその後に続いた。





部室に戻ると、様子が変わった国木を見て花積はうっひゃー! と声をあげた。


「テンション違う瑞架じゃん、ちょっとカッケー方の瑞架じゃん! どうする? また帰りに『チョコレートパイナップル』する?」


「あはは、もう智美うるさい。静かにしなさい――掴むぞ」


「え、何?」

 

ぼそっと言われた最後が聞きとれず花積は首を傾げたが、秀樹には聞こえてしまった。そして見てしまった。視線の先には大きく膨らんだ花積の胸があった。


「戸惑ってるみたいねぇ」


「うわっ」


突然山下が秀樹の肩にしなだれかかり、ふわりとした花の匂いが鼻をくすぐった。

山下が秀樹の顔を覗き込む。息がかかるほどの距離になる。

咄嗟に顔をそらして、山下の腕を持ち上げて逃げ出した。


「露骨なのはよくないのよ?」

 

山下は空になった手を握ったり広げたりして、不満気に言う。


「ろ、露骨にもなります。で、国木……さんの様子が変なのは周知の事実なんですか?」


心臓が飛び跳ねたことをなかったことにしたくて、秀樹はなんとか口を開いた。花積の言い方からすると、どうやら今日に限ったことではないようだ。


「ここではね。教室では知らないわ」

 

山下の視線が向いた先は、じゃれついてくる花積の鼻をつまみ、デコピンをする国木の姿だった。

花積が鼻と額を押さえる間に、国木はてきぱきと荷物をまとめて鞄を持つ。


「じゃ、家で弟が待っているので帰ります」

 

きりりとして言うと、国木はすぐに部室を出て行ってしまった。

 

国木の姿が消えた部室のドア付近を秀樹が茫然と見つめていると、山下につんつんと腕をつつかれた。

山下は片手に花柄の青いペンケースを掲げ持っていた。


「これ、あの子の忘れ物」 


秀樹の手にペンケースを持たせ、山下は秀樹の耳元でささやいた。


「――よく考えて行動しなさいね」

 

耳に息がかかって、後ずさる。

 

フフと笑う山下は手をひらひらとさせた。


「……お先に失礼します」


「ええ。暗いから気を付けて」

 

自分もと帰り支度をしていた花積は山下にそのポニーテールを掴まれ阻止された。

 

机の上を片付けなさい、という山下の声を聞きつつ、秀樹は自分の鞄に国木のペンケースを入れ、部室を出ていった。





ざわざわと、木立が硬くなった葉を重ねて鳴らしている。

 空はすでに暗くなっている上、通学路は街路樹が頭上でトンネルのように枝を重なり合わせているからかなり光が遮られる。


夏は涼しそうだが秋である今は闇しか作りださない。

足下はなんとか見えても、その先となるととんと分からなかった。

地面がはっきり見えないという不安を初めて思い知った。

 

ひゅ、と息を吸うたび口からのどを伝って冷たい空気が温度を奪っていく。

足を早める。国木が走っていなければすぐに追いつく。


街路樹で出来た暗闇の向こうに終わりが見える。

街灯と民家の光がほんのりと明るい。

それを確認したからか、秀樹の足は自然とさっきよりも速度が速まる。

いつまでも闇の中にはいたくない。


ベキャッ、と足が何かを踏んづけた。バランスを崩して地面に突っ込んだ。

手の平の擦り傷がピリピリと痛んだ。

躓いた原因の物を見ようとしたが、暗くて見えない。

気にはなったが落とした鞄を手に取り立ち上がった。


するとまた、向こうで地面に何かが落ちているのに気付いた。

それは街路樹のトンネルを抜けた先で街灯に照らされていて、秀樹は目を見張った。


チャックが開き、中身がぶちまけられた鞄があった。教科書や電子辞書、財布まである。

これはと思って調べると、案の定、『国木瑞架』と名のある学生手帳があった。

鞄の周辺には何故か細かい木片や綿がちりぢりになって落ちていた。

 

国木に何かあった?

 

顔を上げた。

目の前に道は二つ。

真っ直ぐ平坦な道を行けば駅に着く。

左のなだらかな坂を行けば、どんどん山を登っていくことになる。

アスファルトで舗装された左の坂道は奥へ行くほどまた闇が濃くなっていた。

その坂道に点々と続くのは、鞄周辺に落ちていた屑だった。

 

確証なんてものは、ない。


なかったが、秀樹は地面に散らばった荷物を急いでまとめると、その鞄も持って暗い坂の向こうへ走り出した。


土や草の臭いが混じった空気が頬に当たり、肺に入り、気分はあまり良くなかった。

湿気がひどいからか足が余計に重く感じた。

坂の横には背の高い雑草が群生した空き地があり、もう一方にはさっきの街路樹よりも太い木々がいくつか枝葉をだらりと垂らしている。虫の声はどこか悪意を持ったように騒々しく感じた。


坂の上まで来ると、民家から漏れ出る光やぽつぽつある街灯が辺りを薄く照らしていた。

山の上まで道路が長く続いていることからして、歩く道というよりも車の行ききを主とした道なのだろう。

一戸建ても多いが、空き地も負けず劣らず多い。

滑り台しかない小さな公園もあるが、フェンスに囲われていてやはり殺風景だ。


山とはいえ人の手が入り踏み慣らされた住宅地である。

なのに人の気配がしない。

濃い闇がそうさせているのかもしれない。


「国木、いないのか?」


やみくもにここまで来たが、国木がここまで自身の足でやってきたという確証はどこにもなかった。

ぶちまけられた鞄からして何かあったことは明白だが、逃げる間もなく車で連れ去られたという可能性もある。

右往左往するより学校へ助けを求めた方がいいかもしれない。


考えたくはないのに彼女が不審者に襲われるシーンが頭に浮かぶ。

思い過ごしであればいい。


廊下で国木と再会したときと同じ焦燥感があった。

胸をかきむしるような。

それがまた、秀樹の胸で湧きあがっていた。

しかも頭の中身をわしづかみにされたようなズクズクとした鈍い痛みさえ出てきた。


『一刻も早く彼女と話をしなければならない』と、再会したときそう思った。今もそうだ。


何故俺を避けるのか。

そうじゃない。

それじゃない。

本当はそんなことを話したいんじゃない。

なら何を話したかったのか。

分からない。何か、もっと違うことを言おうとしていた。

思いつかないのに衝動だけがあるなんて、やっぱり変だ。


ガサガサと茂みをかき分ける音がして秀樹の肩が小さく飛び上がった。

山と人里を区切るようにして設置された立ち入り禁止という看板のついたフェンスの向こうからだった。

奥に木々が密集していて奥がうかがえない。こちらまで這ってやってきそうな闇がそこにあった。


立ち入り禁止という看板はあるが、鍵はさびつき、きちんと施錠されずにフェンスの取っ手部分にぶら下がっているだけだった。


唾を呑みこみ、覚悟を決めてフェンスの中へと足を踏み入れた。


「くそっ……バカヤロー……」

 

どきりとする。茂みの向こうから誰かがやってくる。

ガサガサと草をかき分ける音がする。

今のは国木の声か?

 

ドサ、と何か大きな物が落ちる音がした。


「ほんとめんどい。お前らすごくめんどい……なんで、なんでオレなんか……」

 

人影が現れる。

だるそうに歩きながら手で顔を拭い、ぐずぐずと鼻を鳴らしながらぼやいていた。泣いている……?


「泥とか、ついちゃった、じゃねえか……雅樹にまた怪しまれ……」


声は唐突に黙った。

街灯の明かりが届いて、伸び重なる木々が造り上げたむらのある闇の中から、顔の輪郭が浮かび上がった。

相手の双眸は驚いたように見開いたが、すぐに険のある光を宿し秀樹を映す。


「国木、か?」


「お前何で」


人影――国木が一歩後退し、構えるようにやや姿勢を低くして秀樹を睨む。

警戒している動物そっくりだと思った。


「とりあえず、寝ろ!」


声の後、こちらが反応する間もなく距離を詰められ拳が秀樹の腹へと入った。


「……あっ、ぐぅ」


想像以上の衝撃が体を打ちぬいた。

痛みよりも先に内蔵が圧迫され、中から押し上げられたように吐き気がこみ上げた。意識が急速に遠のいていく。


自分がその場に倒れたのが分かった。目だけは彼女を追ったが、かろうじて見えたのは疑心に満ちた目だった。

それからほんの少し、鉄と銅の臭いが香水のように鼻孔に届いた。


ああ、俺が学校で感じた違和感は間違いじゃなかった。

お前は、誰だ。




 


「あら起きた?」

 

ぼんやりと目の前が見え始める。見たことのある顔がそこにあった。

明るい茶髪が白い肌にかかって影を作り、銀縁フレームのレンズの向こうで薄茶色の瞳は妖しくゆらめき、唇は上品に弧を描いた。

 

後頭部に何か柔らかいものが敷かれている。

そして段々と相手が誰なのかを認識し始め、秀樹はやっと今自分がどんな体勢なのか気付いた。


「うわ、わ、ああああ!」


転がるようにそのまま素早く動くと、急に浮遊感に襲われ、そして地面に激突した。目に火花が散った。

何が起こったのだと、まばたきを何度もしてあたりを見回す。


ずっと遠くには最寄り駅が見え、その周辺の店の明かりも見え、ベンチを照らすように立つ街灯が見え、ベンチに悠々と座って秀樹を見下ろしている部長の山下が見え、山下が足を組む瞬間が見……ゴホン。

自分はベンチで横になっていたらしい。後頭部の感触の名残については触れないでおく。


「いきなり大声出さないでもらえるかしら? わたしはこれでも心臓が弱いの。労わってちょうだい。で、何があったの?」


「な、何がって?」


「国木さんに忘れ物届けに行ったはずのあなたが、どうして駅近くで倒れていたかということよ。……まさか、あなた国木さんによからぬことをしようとして、逆にボディブローを食らったというの? なんてことかしら!」


「ち、違う! 何がよからぬことだ!」

 

ふうん、と山下が目を細めてじっと秀樹を見る。うっと秀樹はたじろいだがなんとか視線をそらさずにいれた。


空き地でのことはちゃんと思い出せる。

だから違うと断言できる。

できるのに、どうしてこう女子に疑われるとたどたどしくなってしまうのだろう。ボディブローについては本当にあったことではあるが。

思い出したら拳を入れられた箇所が痛みだしてきた。かすかにこみあげた吐き気をなんとかこらえる。


「まあいいわ。あなただって思春期まっさかりなのだから間違いは日常茶飯事よね」


「俺がさも毎日痴漢行為に励んでいるかのような言い方をするな」


「まぁそれは仕方ないこととして、わたしの質問に答えてくれるかしら? 

実は正体不明の謎の人物だった国木さんがあなたを何かの事件に巻き込んだ、という想像が浮かんで仕方がないわ。

ゴシップ記事になるとしても、面白がって情報を求める顧客がいるかもしれないし?」


「いい加減な情報を撒き散らすな!」


とはいえ、恐ろしい程にその想像は当たっている。


やっぱりあの国木は本人じゃない。

行動だっておかしい。

どうしてあんな茂みにいたのか。

それに、かすかに香った鉄と銅の、血独特の臭いが気になる。

どこか怪我をしていたのか。


ここまで秀樹を運んだのは誰なのだろう。

山下でないとすれば国木の顔が思い浮かんだが、そんな馬鹿なと否定する。

華奢な女の子が人一人をそう簡単に運べるだろうか。

 

山下がじっと見てくる。その口が形を変えて「報告しなさい」と言葉を伝える。

秀樹はふい、と視線を下げてため息をついた。


「報告も何も、よく分からないです。国木の鞄が落ちてたから念のため探しに行って……それから記憶がないんです。

ここらへんイノシシが出るって聞いたし、なんか腹も痛いし、イノシシとぶつかったんじゃないですかね。そうです、全部イノシシのせいですよ」


「本当に?」


「俺だって起きたばっかりだからまだ混乱してるんです」


「ふうん。じゃ、風向きが変わるのを楽しみにしているわ。

それに、田中君はもちろんわたしの家から支援を受ける条件をよく覚えているものね? あなたの境遇も含め、一度おさらいしておきましょう。間違いがあったらいけないし」


秀樹は汚れを払いつつ立ち上がると、ベンチにあった自分の鞄を取った。国木の鞄はない。本人が持って帰った……と考えたい。

 

つい最近のことを思い出す。


この霧霞澄学園に転入する前、公立の高校に通っていたこと。

色んな不幸が重なって学校を辞めて働こうと思ったこと。

そこへこの山下里沙という人物の一声で大財閥の山下家が声を掛けてきたこと。

それがあまりにも怪しく、何か裏がありそうな申し出だったこと。


「経済的にヤバイ俺の家にあんた……先輩の家が援助を申し出ました」


「そうね。で?」


「先輩はこう言いました。転入後に『変化』を起こすこと。その兆しがなければ援助は打ち切る。……ほんと、どこのドラマだよ」


「漫画かもしれないわ」


「でも、現実なんだ」


「そうね」


山下が楽しそうにニコニコ笑う。どこか嘘っぽいと思った。

ベタな言い方をするとしたら、仮面を被っているような。だがそれが本当の顔という気もする。


「忘れないでね」


「分かってる……失礼します、先輩」

 

また明日、と。そう聞こえたような気がしたが、気付かなかったことにした。


秀樹は駅へと向かった。向かいつつ考える。

明日はどんな顔で国木と接すればいいだろう。下手に関わらない方がいいのだろうか。

 

そう思ったものの、まだ彼女にペンケースを返していなかったことを秀樹は思い出したのだった。



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