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ランドフォール・パレード!  作者: 白樺セツ
カシュカシュ
17/19

カシュカシュ

廃墟から出てしばらく歩くと、大小様々な黒塗りの車があった。

 

秀樹が乗った車は一番小型のもので、後部座席に座った秀樹以外には黒スーツの人間が運転手含めて二人しかいなかった。

その内の一人である女性は優しく微笑んで秀樹の隣に座り、車が走っている間いくつかの質問をした。

それは簡単なものだ。氏名、年齢、学校名、別に分からないから聞いているのではなく、秀樹が答えられるかを確認しているだけのように思えた。


「怖かったでしょう。驚いたでしょう。あなたのことはすでに調べが付いています。完全に巻き込まれただけの一般の方。

我々はそういう方に危害を加えません。それが同盟を結んだ地球人との約束事の一つ。ですから安心なさってください」

 

そう言われてすぐに信用できるものか。

だって国木たちを酷い目に遭わせていたのはそちらの組織だ。

派閥が違うというだけではまだまだ不安要素は残る。

 

女性は不意に何かを秀樹の前にかざした。

ぴ、ぴ、ぴ、とゆっくりとした感覚で電子音が聞こえた。

それはちょうど携帯電話くらいの大きさで、真ん中にレンズがはめ込まれ、そのレンズの中央に向かって中に渦巻きがあるのを見た。

その先には白い光がぽつんとあった。

 

 

途端に頭がぼんやりとして女性の顔がぼやけた。


心地良い疲労感が全身にかかる。眠ってしまいそうだ。


「大丈夫ですよ。大丈夫。これは応急処置ですからね。お屋敷に付いたらきちんと処置致します」

 

はい、とほとんど寝言のように返事をした。女性がまた笑った気がした。

 

どこかの屋敷に付くと、秀樹は女性に手を引かれて足を動かした。

屋敷から出てきたのは仲の良さそうな男女だった。夫婦なのだろう。

夫は妻の肩を抱き、妻は胸に手を当てて夫に身を任せて秀樹たちを見ていた。


どちらも優雅で高そうな服で身をつつみ、浮かべる笑みは慈愛にあふれ、穏やかで、ぴくりともその表情を崩すことはなく――


まるで、能面だ。


不意に思ったそれを一瞬疑問に思ったが、深く考えようとする前に屋敷の中へと招き入れられた。


「あら」

 

別室へと誘導されるときに聞こえてきた。


「どうされましたか」


「あの子、里沙ちゃんが拾った少年ですわ」


「娘さんが?」


「ええ。丁重に扱ってあげてね」


「はい」

 

パタン、と茶の扉が閉まった。


秀樹が通された部屋は小さなものだった。

屋敷の正面玄関から入ってきたときには吹き抜けの広い空間に出たと思ったのに、今度は一人分の小さな寝室があるだけだった。

 

秀樹はベッドの端に座らされ、案内してくれた女性が別の椅子に座って秀樹の目に懐中電灯の光を当てたり、体のあちこちに聴診器のような金属製の丸いものを当てられた。


服と体を隅々まで調べられ無遠慮に体を触られたが、何故だかそれに反抗する気も起きなかった。

ただただ体がだるく、女性の指示通りに両手を上げたりだとか横になったりした。

その間、自分が女性の質問に何を答えていたのか。自分の口から発した言葉なのに、発したその次から何を言ったか忘れていった。

 

身なりを正されたあと、部屋へまた誰かが入ってきた。

十二単を来たあの女性だった。


「……うらは派閥の中でも情に厚い。

だからな。少しはそなたのような一般人にも情をかけてやる。

このうらでさえも気の毒と思えたからな。

記憶は改ざんするから今からの話を思い出すことはできなくなってしまうが、経験からの精神的成長だけは残してやろうと思う。

あの娘、国木瑞架の二の舞にはさせんよ。安心して聞け。

 

そなた、昔国木瑞架を傷つけたな。

その際のことを何故だか思い出せなかった、と。そうだな? 

敵味方から集めた情報をまとめると、意外や意外。あの馬鹿者が関係していた。

 

腹立たしいほどに面白い因果じゃ。くるくる回っておる。

王女は腹心の侍女を泣く泣く囮にして逃げた。

地球へたどり着くとあの侍女によく似た少女の体になんと魂だけで逃げ込んだ。

しかしその地球人は過激派の子飼いだった。


一体何があの地球人にあるのだと思えば、それはあの馬鹿者が作ったあの侍女の複製だという。その侍女も誰かの複製だった。

あやつはずっと一人の人間を繰り返し観察している。

自らを不死にした理由がそれだったのだ。

なんという執念。そんな思いを少しはうらにも向けて欲しかった。


そなたは、その執念の巻き添えを食らったのだ。

あの複製を著しく傷つけたからなのか、それともあやつの一興でしかないのか理由は定かではないがな。


奪われたものは取り返せ。記憶というのは脳を潰さん限り消すことはできん。

できるのは上書きだけだ。そなたは暗示をかけられただけだ。


思い出せ。思い出せ。うらの目を見ろ! この目でそなたの過去を引きずりだしてやる! うらに奴の姿を映し出せ!」

 

顔を掴まれ、閉じかけた目蓋を開かれる。

眼前にあったのは黒く渦を巻いたレンズだ。

まるでトンネルのようなそれに、秀樹は吸い込まれるような感覚がした。

 

頭の中枢を貫かれたような鋭い痛みのあと、また誰かが扉を開けて入ってきたのが視界の端に見えた。



    ◇



――持ちかけられたのは、最近学校で流行っている遊びだった。


「『告白ゲーム』?」


うなずいて、気持ち悪い笑みを浮かべるそいつと、取り巻きの三人の顔を見て声に出した。

すぐに口をふさがれ、顔の近くで人差し指を立てて、しー、とやる。


そいつらが俺の机の上に紙の切れ端と短い鉛筆を一本転がした。筆談をしなければならないらしい。

話を持ちかけてきたのが、同学年のクラスでは悪ガキとして名をはせている奴だったからとても嫌な予感がした。 


まず奴が何かを書いて、紙を指で軽く叩いた。

そして教室の中にいた、ある一人の女子を自分たち以外には気付かれないようにして親指で指した。


国木瑞架。普通の女の子で、普通に可愛い。

肌がとても白くて透き通るようで、ちょんと左右にくくった黒い髪は、なんだか柔らかそうですべすべしてそうで、触ってみたいなとも思ったことがある。

大きい目は垂れぎみで、全体的に白と黒しかないように見えたから秀樹はパンダとか黒猫とかを思い浮かべたことがあった。


あの子とは数えるくらいしか話したことがない。

だけど何故か女子と言われたらぱっと思いつくから不思議だ。


紙の切れ端に何が書かれているのかを見て、嫌な予感は的中した。

紙には『告白ゲーム』の新しい『遊び方』が書いていた。


・ラブレターを書いて、国木の下駄箱に入れておく。

・呼び出して、直接国木に「好きだ」と告白する。

・最後に全部ばらす。


彼女に、これをやるのか。


紙から目を離すと、ますますにやついた奴の顔があった。


――イエスか、ノーか。


紙の端っこにそう書いて、鉛筆を渡される。

やるかやらないかを聞いているのだろうが、どうせ『ノー』を選べば、今日からこいつの報復と言う名のいじめが始まるのだ。


ゲームの最後にばらしたら、すぐに謝ろう。

あの子には悪いなと思いながら、秀樹は『イエス』の文字の上から鉛筆でくるりと丸を書いた。



頭をひねりにひねって書いたラブレターは、結構な出来だと思った。

ついでに絶対顔が赤くなっているだろうことは、自分の心臓の音で分かった。


なけなしの小遣いを漫画に使わず便箋に使ったのだ。

引っ張り出してきた国語辞典をもってして、便箋を何度も書き直し、やっと書きあげたのだ。

これは世界でただ一つの最高の手紙に違いないと思った。


国木瑞架の下駄箱にラブレターを入れる際、周囲に人がいないのを確認して入れた。

気が付けば手が震えていて、ぐっしょりと全身に汗をかいていた。


それから後も、呼び出しの時間までずっと同じ状態が続いていた。

もう早退して家に帰ってしまおうかと思った。


呼び出しの時間が直前に迫り、自分がラブレターに書いておいた待ち合わせの場所に移動しようとすると、当たり前のように奴とその取り巻きが付いてきた。

見張りの意味もあるのだろうが、そいつらの行動で不快になるよりも国木瑞架に伝えるセリフを考えるのに必死だったから、実質あまり気にならなかった。


ラブレターに書いた、呼び出しの時間の直前。

ベタと言われそうな場所である体育館裏で、壁を背にして彼女を待っていた。


直前ともなると逆に落ち着けた。

このまま冷静に告白出来るだろう、そう思っていたが彼女……国木瑞架がそろそろとした歩き方でこちらに向かってくる姿を見ただけで、また心臓がうるさくなった。

慌ててもたれていた壁から離れて姿勢を正した。


「あの……手紙……」


そう言って、赤くなってうつむく彼女も、相当緊張しているみたいだ。

今までよりも、一段と心臓が鳴った。


告白、するんだ。


口を開けようとしてもうまく動かなくてやきもきする。

何度も頭の中で練習したのに、考えていたセリフもあったのに、頭の中が真っ白になってしまった。

何も、考えられない。


とにかく、告白すればいいのだ。

俺が、彼女に、彼女のことが好きなのだと、言えばいいだけだ。


「お、俺は!」


自分の気持ちを伝えればいいだけ。


「俺は……お前のことが、好きだ!」


びくっと彼女が驚いて反応する。まずい。大声すぎたか。


少し呆けたような顔をしていた彼女だが、しばらくして真っ赤な顔をさせながら、その口元から、俺が聞きたかった言葉が漏れだして……その瞬間、緊張を打ち破る大きな笑い声が、辺りに響いた。


振り向けば、樹木が密集しているところに、腹を抱えて笑う男子を数名見つけた。

いや、見つけたのではなく『思い出した』のだ。

奴と、その取り巻きたちが自分についてきていたということと、今回俺が『告白』することに至った、もともとの理由を。


俺はあいつらが持ちかけた『告白ゲーム』に乗って、国木瑞架という女子に、その遊びを実行したのだ。

その遊びとは手当たりしだいに『告白』するゲームだ。

それはとても悪質で、嘘の告白をされた相手の反応で楽しむという、


嘘?


俺は、彼女に『告白』をした。

これはあいつらが『告白ゲーム』をしろと持ちかけて来たからで、だから俺は彼女に、『告白』をして。


今俺が言った『好き』は、嘘なのか? 

ずっと、今の今まで俺の中にあった『好き』は、嘘だった?


頭がごちゃごちゃしすぎて、吐きそうだ。


奴が手招きをするから、近づいていけば、お前は笑わないのかと聞いてきた。

取り巻きの一人が、「笑えよ」と、言う。

それは当たり前のことらしい。

どうしていいか分からない。

自分は今、どんな顔をしているのだろうか?


不思議なことに、また「笑え」とせっつかれれば、胸の内から何かおかしさがこみ上げてきて、本当に笑ってしまった。


彼女は、今、どうしているだろうか? 

彼女もまた、笑っているだろうか?

彼女は……



そっと誰かが秀樹の頬をなでた。

何かがぽたぽたとかおに落ちてきた。あたたかかった。

彼女はそこで、泣いていた。



    ◇



薬品の臭いと、額をなでる冷たさで秀樹は目が覚めた。


山下がそこにいて、無表情で秀樹を見下ろしていた。


――気分はどう。何か覚えている?


山下の口が動いた気がしたが、まだ視界はぼんやりとしていて拾った言葉が上手く理解できない。

世界の何もかもが歪んでぼやけて曖昧だった。


――国木さんはどうしたの。雅樹君は? 鳴識先生は? 何があったの?


責めている、となんとなく思った。そうか、彼女は何かを責めているのだ。

そういえば、お金の面で、支援してもらっていた。そのときに山下が出した条件が『変化』。


『変化』、とは。

秀樹はやっぱりまだその条件の意味が分からない。

自分が、何か大それた『変化』を起こせるとも思えない。

だって自分は限りなく普通で、物語の主人公になるような器量などないから。

 

ああそうか。俺は学園祭中に急に倒れたんだ。

転校した先で入った部活はとても本格的で、スクラップブックを作ったりとか、展示に使う写真を撮りに行った。

せっかく支援を受けて、転校したりもしたんだからと頑張って頑張って、頑張りすぎて疲労がたまってしまったのだ。きっと。


「……変化……すみません。まら、起こせてな……い」

 

謝らなければ。謝って、猶予を貰わなければ。

 

その思いだけで秀樹は口を動かしたが、うまく喋れない。舌がしびれたように緩慢に動く。


山下はゆっくり首を横に振り、眉尻を下げた。


初めて見る、悲しそうな顔だった。


「あなたが学園に来たこと、それ自体が変化でしょう?」


今度ははっきりと聞こえて理解できた。

だから「それはどういう意味だ」と聞き返そうとした。

しかし秀樹の目蓋はもう完全に閉じてしまって、喋ることは不可能だった。


小さな嘆息のあと、立ち去る物音が聞こえた。


別にもう、眠くはない。

眠くはないが、どうしてか目蓋がはれぼったくって上手く開けられない。


やっぱり自分はひどく疲れているのだと、分かった。



  ◆◆◆



十六年暮らしていた家へはもう戻れなかった。


瑞架は雅樹の手を握って黒塗りの車に乗り込んだ。

運転席には黒スーツの女性がいた。


目元がはれぼったくなっていて、ヒリヒリしている。

きっと酷い顔をしている。雅樹は何も言わなかった。

そんな雅樹に甘えて、瑞架はその肩に顔を寄せた。


終わり、という言葉が頭に浮かんでくる。

何が終わるのか瑞架にははっきりと想像しにくい。したくない。


クロードとリクは宇宙管理局の穏健派と言う人たちの保護を受けることになった。

それは管理下に置かれるということだ。

瑞架たちは新しい住居を用意されたが、クロードはそれを断り、今隠れ住んでいる場所で暮らすらしかった。

ただ色々と制約などを付けられたらしい。


鳴識先生が組織の人だったのには驚いた。

だけども性格まで偽っていないと知って安心した。

過激派だったらしい『世話役』の人たちはとても機械的で冷たかったかから。

わたしからお母さんをとってしまったから。


鳴識先生は組織の人だけれど、教師って仕事に誇りを持っている。

できる限りわたしたち生徒を守ろうとしている。

クロードさんもただ諦めて穏健派に入ったわけじゃない。

わたしとの約束を忘れていなかった。リクにちゃんと言ってくれた。

大丈夫。大丈夫。きっと雅樹を守ってくれる。


あの十二単の女の人は恐い人。恐いけど悲しそう。最後に田中君の頬をなでることを許してくれた。

目が痛むと言っていた。奪われたから取り返さなければいつだって痛いのだ、と言っていた。

リクはわたしに代わってくれた。ほんとは二人とも優しい。

そう思いたいだけなのかもしれないけど。


車から降りた先には大きなマンションがあった。

広い敷地内には芝生が敷き詰められ、公園があってところどころに木々がある。

玄関口は大理石の床とガラスの壁があった。

女性に案内してもらって、三十六階に着いた。とっても高い。

真横に並ぶドアの一つの前に立つと、女性がドア横の機械にへんてこな形の鍵を差した。


「さ、ドアノブに触ってください」

 

言われるがままにドアノブに手をやると、ひねってもいないのにカタンと音がしてドアが開いた。

女性に言われてドアを閉じ、雅樹も同じようにする。雅樹がぱちくりと目を丸くした。


「登録完了です。全身スキャンですから、セキュリティについては安心してください。

あなた方の荷物はあとで運ばせます。寝具など最低限のものはすでに用意してあるので、今日はどうぞごゆっくりお休みください。学校の方も心配はいりません」


瑞架はすぐに理解する。家にあったものを全て調べているのだ。

ならばクロードも自宅の方へ向かったはず。あの家の周りにある不思議な壁をなんとかしなければ第三者は入れない。


リクが『表』になったとき、クロードが瑞架にかけた何かは取れてしまった。

あれが魔術だとリクを通して理解した。ちょっと前、クロードが瑞架の頬を触ったときにかけたものらしい。


魔術とは術式を用意して魔力を通して初めて使えるもの。

意外にも、それは魔法とは呼ばないらしい。

何かの動作を必要とするもの、すなわち術式を使うものが魔術で、魔法とは意識の決定的な変革によってもたらされる。


例えば嫌いな野菜が調理の仕方で劇的に美味しくなったことで、嫌いが好きに変化するということ。

そんな突発的で瞬間的な覆せない決定的な何かこそが魔法の発動条件であるとリクは理解しているようだった。

リクの好き嫌いはあまり改善していないみたいだが。

 

部屋は広かった。居間も広ければ個室も広い。

生活に必要な電化製品は一式揃い、キッチンは綺麗で二、三人の大人がいても広々と使えそうな広さがあった。

めいいっぱい体を伸ばしてもおつりが来るほどの深さと広さがあるお風呂には、すでに適温のお湯が張られていた。

このマンションに来ると決まったとき、すぐに用意されたのだろうか。

電話機の横にはクリーニングのサービスまであった。

もしかして自分たちはお金持ちの家に迷いこんでしまったのではないだろうか。


「すごいね、全部揃ってる。これ後で使用料とか何かとられないかな?」


「お金要求されてもぼ……おれたち、一文無しだよ。今。逃げられないようにするためかな。全部とられた」


「……良い風にとっておこっか」

 

ここに来るまでに持っていた貴重品や鞄は没収された。制服とこの身一つだ。

 

洗面所に二人分の着替えが用意されていたことに気付き、じゃんけんで順番を決めた。

瑞架が先だ。雅樹が後出ししたことには気付いたが、黙って有り難く受け止めた。



お風呂からあがると、キッチンで雅樹がトントンとニンジンを切っていた。

冷蔵庫にたくさん食材があったらしく、適当に何か作ろうとしているらしい。

雅樹に有無を言わせず交代し、雅樹がお風呂に入っている間に瑞架が料理をすることになった。


残念ながらお米はなく、炭水化物と言えばスパゲッティとジャガイモしかなかった。

スパゲッティを茹でたあとに遅れてソースについて心配したが、すでに冷蔵庫にそれ用のレトルトパウチが二人分あった。ほっとする。


次はお茶を入れようと、あちこち棚を開けて茶葉らしきものを探した。ない。


「……瑞架?」

 

ほかほかとしっかり温まった様子の雅樹が、首にタオルをかけて出てきた。

頬はきれいな桃色になっていて、なんだか可愛く思えた。


「お茶、探してたの」


「あったかいのがいいの?」


「え?」


「冷蔵庫にあったよ。一リットルのペットボトル」

 

雅樹が冷蔵庫を開けて、ドアの裏からペットボトルを取り出してみせる。

灯台もと暗しとはこのことか。気付かなかった。

毒味はもうすんだとのこと。

突っ込まなかったが、毒味はそんなすんなりとするものじゃないと思う。

瑞架は乾いた笑いをこぼした。

 

二人そろって真四角の白いテーブルの席につく。

いただきますの挨拶をしてから、フォークを持った。

マンションでも上の階だからか、外からの騒音はなく静かだった。

静か過ぎて逆に落ち着かなかったので、大型のテレビを付けることにした。

とりあえずニュース番組を選局しておいた。


「落ち着かないね」

 

向かい側に座った雅樹が深刻そうに言う。無理もない。

『世話役』の手伝いをしていたからといって、雅樹はまだ中学生だ。

今の状況は不安でしかないだろう。


「ソースがはねそう」

 

雅樹はフォークでくるくるとスパゲッティを巻きながら、スパゲッティから身を守るようにもう片方の手をかざした。

 

瑞架は一瞬ぽかんとしたあと、自分たちの服装を思い出した。

用意されていた着替えはどちらも真っ白な寝巻だったのだ。


あ、そっち、ね。

瑞架は噴く瞬間になんとか口を押さえ、呑みこんでから腹を抱えて笑いだした。


「ああ、瑞架はねてる! ソースはねてる!」


「あははははは!」


「ちょっと、なんで笑うの! 早くシミ抜かないと!」


「だって……はは」


だって、日常に戻ってきたみたいだから。楽しくて、嬉しくて。

ここはずっと暮らしてきた家じゃないけど、大丈夫だ。雅樹がいるから。

 

――雅樹はわたしがいなくなることを知っているだろうか?


「大丈夫だよ。なんとかなるなる」


「もう、適当なんだから……」

 

ああ、昔に戻れた気がする。


『そーだそーだ、汚れなんか気にしてたらどうしようもない。おら食え! 子どもは食って寝て食って寝るのが仕事だ!』


『ふとっちゃうよー?』


『おねえちゃ、こぼれてるっ』

 

オレンジ色のテーブルクロスを敷いたテーブルに、小さい頃の瑞架と雅樹がいる。

ぴょんぴょんとび跳ねた長い髪を後ろの高いところで結んだ女性が、ソースがついた瑞架の口元を付近で強引に拭いて瑞架が「いた~い」と言って、また笑う。

快活に笑う女性は……瑞架の母は、瑞架たちを慈愛で包んでくれた。


ごめんね、と時折母は言った。そのときの瑞架は理解できなかった。


『好きだからね。あたしは、あんたらのこと、ちゃんと大好きだからね』

 

まるで謝るみたいに言っていたけれど、それは心から言っていると疑わなかったから幸せでいれた。

そう、自覚はしていなかった。あの頃はまだ何も知らなかったから幸せだったのだ。


『俺は……お前のことが、好きだ!』

 

――ああ。


「ごめん」

 

フォークを皿の上に置いた。雅樹の手が止まる。


「ごめんね、ごめん」

 

耐えられなくて、もう一度口から言葉がこぼれ出す。

こんなの、雅樹が困るだけなのに。


もう出尽くしたと思ったのに、涙がまた後から後からこぼれて行く。

前を見れなくってうつむくと、思ったよりもたくさん雫が落ちていくのが分かった。


ふわりと、横から腕が現れて瑞架を優しく抱きしめた。

雅樹が席を立って、瑞架の隣まで来てくれた。

こっちから抱きしめようとするといつも逃げちゃうのに。

雅樹は本当に良い子だなあ。


「おれこそ、ごめん」


「ううん。わたしが雅樹を辛い目に遭わせてたんだ。今までごめん。でも、ずっとそばにいてくれてありがとう」


「うん。おれは……僕は、瑞架の弟だからね」


雅樹の声が涙声になって、瑞架は手を伸ばして雅樹の頭をなでた。



 

食器も何もかも後片付けをし、静かにテレビを見て夜まで時間を潰した。

それでも家の荷物は一向に届く気配がなく、人が訪れるような気配もなかった。

 

時刻は午後十時を回った。

せっかくだから一緒に寝ないかという瑞架の提案は赤面した雅樹に却下され、仕方なくそれぞれ個室で眠ることになった。

 

個室にはベッドも机もあり、等身大の大きな鏡もあった。

シンプルだが綺麗な枠があり、魔法の鏡というような感じがした。


「……リク?」

 

鏡の中の自分を見つめて言ってみた。

リクとは直接話ができない。それは瑞架の口が一つしかないからだ。対話をするとしたら書置きというような手段になる。

 

でもふと思ったのだ。

 

リクと入れ替わる寸前に、瑞架がそれを拒絶したときのこと。リクは瑞架の言葉を聞き入れてそのまま『表』にはならなかった。

リクに瑞架の声が届いたということ。つまり、そこに可能性がある。

もし逆も出来たとしたら――


「その通りだ」

 

鏡の中の自分が、不意に笑った。

怪談でよくありそうなシチュエーションではあるが、不思議と怖くなかった。

もう怖いと思う要素がなかった。


「よく気付いたな。そうだ。鏡があれば会話はできる。

鏡を見ることで、お前はお前じゃない者を見る。

それはお前であってお前ではない。オレはお前の姿を見る。オレにとってそれはお前の姿そのものでしかない。

この対話の形式が大切なんだ。環境を整えて手順を踏めば術は発動する。これが魔術だ」


「リク……リクなんだね。幻覚とかじゃないよね?」


「オレだ」

 

ふふん、と鏡の中の瑞架が何故かいばった。

姿形は瑞架そのものではあるが、なんというか人相が違う。

全身から別人といったオーラみたいなものが放たれている。

なんだかおかしくって、瑞架は小さくぷすっと噴き出した。


「オレオレ詐欺みたい」


「なんだそれ」


冗談を言えるくらいには、気持ちは落ち着いていた。

口だけは代わりばんこで使わなければならないから、その部分がやはり違和感がするが。


初めて話す。自分の中へ逃げ込んできた宇宙人。


「初めまして。国木瑞架です。よくも勝手にわたしの体に入ったね」


「……ちょうどいいところに、まぬけな顔した奴がいたからな」


しん、とすぐに沈黙がおりた。なんだろう。なんだか落ち着かない。

 

もうお互いの記憶にある程度触れているから、あまり話すことが思いつかない。ある意味以心伝心だ。


「あ、ああそうだ。ねえ、わたし街中にあるフランス語のお店の名前とかが読めたんだ。意味が分かった。リクはフランス人なの? でも、日本語話せてるよね」


「たまたま似た言語だったってだけだろ。日本語が使えるのは、お前がそれを日常的に使っているものだからだ。

人形たちは、たぶん声を発していたわけじゃない。仕組みはよく分からないけど、心の声だけが伝わったんだと思う」


「リクがわたしの中に入ったのは」

 

言いかけてやめた。

夢の中で見た瑞架によく似たあの女の子のことを、瑞架の顔で聞いてはいけないと思った。

 

にこ、と鏡の中の瑞架の顔が悲しそうに微笑んだ。

リクはもう分かっている。瑞架が何を聞きたいのか。瑞架が何を知ったのか。

だって心が隣合わせになっている状態なのだから。

鼓動すらも筒抜けなのだ。


「生きたいか?」


唐突に問われる。求められるのは肯定か否定か。


どうしてそんなことを今、言うんだろう。


瑞架は俯きかけたが、途中で鏡を見返した。

リクはそこにいた。あの夢の中で見たリクの姿。あのとき砕けたガラスに映っていた。


光を満たした長い金髪。淡く光を放つミルク色の肌。

その光はすぐに周囲のものに干渉するのだと知っている。

その光を受けていたのはあの瑞架にそっくりな女の子。

周囲の声に揺れていたリクにとって、あの女の子はリクにとっての大事な人。

きっと生き伸びてほしかった人。


「……そんなこと、わたしが言ってもいいの?」


本当は死にたくなんかない。

やっと、やっと彼と心が通じた。そんな気がしたから。

でももう彼は覚えていない。苦しい。生きたいけど、苦しい。

 

でもわたしが生きたいと言ったら、わたしが生きようとしたら、なんでか周りの人が不幸になるの。

それにわたしがその言葉を口にすると、きっとリクはかつてのあの子を重ねてしまう。


「違う。そうだけど、そうじゃない。オレはあいつを助けたかったけど、お前はあいつじゃない。分かってる。もう十分に」

 

胸の内がきゅっと縮まって、熱くなる。重い何かが支配する。

 

そうか。リクは前に進もうとしているからそんなことを言うんだ。


「お前がアシルと何を約束したか知ってる。

だからオレは焦った。焦って、やっと一つの方法を思いついた。

オレはお前に聞く。国木瑞架にだぞ。

生きたいか? 生きたくないか? お前の口からはっきり言って欲しい。そうしたら、オレは変わる気がする」

 

その方法とは魔法だ。リクの意識がもたらす魔法。

だからこそリクが迷っているとそれを実行することはできない。


「ねえリク。ずっと疑問に思ってたことがある」


「……なんだ」


「リクの記憶を垣間見ても、わたしによく似たあの人の名前を知ることができなかった。どうして?」

 

瑞架は胸を押さえた。鏡にいるリクはとても苦しそうな顔をする。


「嫌だって、思ったから……あいつの名前を思い出すと、もっと苦しくなったから、オレ、真っ暗な船の中で、思っちゃった。思い出したくないって。そしたら」


頭の中に電流が走ったようにそのときの情景が思い浮かんだ。

これはリクの記憶だ。

真っ暗で広い宇宙を漂流していたリクはずっと繰り返しあの夢を見ていたのだ。


絶望と恐怖だけでやっと地球にたどり着いた。

追手がやってくる。怖い。誰か助けて。


そして、目に飛び込んできた瑞架を見てリクは混乱した。


あいつは生きていた。あいつは生きていた! きっとまたオレに微笑んでくれる。

優しい言葉で、優しく微笑んで、優しい香りをまとわせて、きっときっときっと!


そうして見たのは、突然現れたリクに対して怯えた瑞架の顔だった。

 

感情の奔流だけがリクを押し進めて、その魂を瑞架へ移した。

思い出したくない記憶の欠片を中途半端に体に残して。××の名前さえそこに置いてきぼりにして。

 

リクの体はいまだに行方不明だ。

あの侯爵と呼ばれていた人がリクの体を捕まえてしまったのかと一瞬ぞっとしたが、そうではなかった。

リクの魂と体はいまだ何かで繋がっている。だから分かるのだ。

リクの体はリクの嫌なものを封じ込めてリクから遠ざけている。それは一種の魔法だったのだ。


「ごめん、ごめん瑞架……オレがこんなだから、お前の魂が弱ったんだ。きっと」


「それは……違うよ。リクが入ってくる前から、なんかしんどかった。たぶん、もともと体が弱かったんだ。もしくは頭をいじられたから、その副作用なのかも。リクは悪くないよ。大丈夫。あ、いや驚いたのは本当だけど」

 

自らの魂を移すこともできる魔法。魔力は生命力。

リクのすごい生命力のおかげで今日まで生きながらえてきたのかもしれないのだ。

 

だからリクは思いついた。

体だけじゃない。瑞架の魂を回復させることはできないのかと。

 

瑞架の体が今日まで無事であったのは、リクの魔力が瑞架の体の治癒力を上げたから。リクが瑞架と体を共有したからだ。

だから、魂さえも共有してしまえばいいのだ。

瑞架がリクの魂の中で眠って、回復を待つ。上手くいけば、いつの日か瑞架はまた心身ともに健康な状態で目を覚ますことができる。

そのときにはリクの問題も解決して皆無事に笑っている可能性もきっとある。

でも、それは自分の命を他人のために削るということだ。


残酷だ。リクにとってもわたしにとっても。こんな選択肢ってない。

それなのに、黙っていても心はどうしたって正直に叫ぶから、隠しようがない。

このまま終わると考えた途端、後悔が生まれた。


わたしはその選択肢を見つけてしまった。欲を見つけてしまった。

叶えられなかったことが、叶う世界があるかもしれない。


「生きたい。もうわたし、どんな手段を使ったってわたしまだ生きたいよ。死にたくない。リク、お願い」

 

わがままでごめんね、と瑞架は涙を拭いて笑顔で言った。


違う。自分はもう声を出していない。もう思っているだけ。心の中で思っているだけ。


鏡の向こうのリクは、一瞬悲しげな顔をしたけれどすぐに笑顔になった。


「ありがとう。失くしたと思ったけど一つ思い出した。

あいつは、実は一度もオレにそんなお願いをしてくれなかった。

オレがいつもあいつにわがままを言ってた。お前は決してあいつじゃない」


そっか。そうか。うまくいったんだね。


瑞架は笑った。リクも笑った。鏡の中で、二つの希望が交差した。


「おやすみ、瑞架。雅樹のことは安心して任せろ」


リクの笑顔に少し影が差した。

何だか、それが雅樹の強がっているときの顔と重なって見えた。


大丈夫だよ、と。安心させたかった。


それは一体誰に対しての大丈夫なのかなんて、瑞架にはどうでもよかった。

ただ言葉をかけたかった。大丈夫、と。


そうして瑞架は、水に溶けていく砂糖のようにリクの中へと同化していった。



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