表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ある処刑人の憂鬱

 教会は毒々しいほどに赤いリコリスが狂い咲く初秋の第三『黙』曜日を公開処刑の日と決めていた。


――処刑日早朝。この日の教会監獄は異様な静けさに憑かれていた。いつもの、どこからともなく漂ってくるすすり泣きや怨嗟の声が今日に限って聞こえてこない。一日の始まりを告げる小鳥の声だけが奇妙な程、鮮やかに聞こえる。

 鎮まり返った監獄の廊下を一人の若い男が【カツンカツン】固い足音をさせて歩いている。男は屈強な身体を黒の法衣で包み、帯剣し、噴霧器のような機械を背負っていて、そのせいでやや猫背になっていた。獅子のように大雑把な顔は暗く鬱屈し、前方を見据える目は鋭く、危うい。

 この異様な気配を携えた青年こそがこの日の公開処刑を担当する『処刑人』である。彼は度々、大きなあくびをした。彼はここ数日、まともに眠れていなかった。不眠が彼の顔をますます不機嫌な野獣のようにした。


 『処刑人』が向かったのは死刑囚の居る特別房棟だった。

 特別房棟の入り口は看守ではなく、聖騎士達が守っていた。

 『処刑人』の突然の来訪に聖騎士達は少し驚いた様子だったが、何も言わずに『処刑人』を建物の中へ通した。厳重な鉄扉をいくつもいくつも潜り抜けると、壁一面を聖句の赤い字で埋め尽くされた独居房に辿り着いた。

 牢の中には女が居た。女は全身を毛布で包み、天窓から差し込む日の光を避けるように牢屋の隅に身を縮こませている。日の光が毛布から少しだけ飛び出した女の素足にそっと触れる。すると焼きごてを押し当てたみたいに【じゅ】女の皮膚が焼けた。女は表情を変えることなく、速やかに足先を影の中へ引っ込めた。


 女は『夜の怪物』と恐れられた吸血鬼の末裔だった。女は10数年に渡り、30余名の人間の命を奪っていた。


 『処刑人』が牢の中に入ると女はゆっくり顔を上げた。鮮血のように赤い髪が一房、白い顔に零れた。

 女は美しかった。小顔で、額は広くすっきりとしていて、鼻は象牙で作られた雛鳥の置物のように整っていた。目は無邪気な少女のように【パチパチ】よく瞬き、桃色の小さな唇は肉感的だった。どことなく気品のある顔立ちではあったが、かといって上流階級特有の見下したような冷ややかさは感じられない。明るい若さと老成した色気が不思議な割合で混交していて、見ようによっては闊達で愛らしいおてんば姫君に見え、貴族御用達の妖艶な高級娼婦に見え、清らかな聖女に見え、淫らな夢魔に見え、……とにかく一呼吸ごとに『吸血姫』の印象が変わった。まるで万華鏡だ、『処刑人』はふとそう思った。

 『吸血姫』と目が合った瞬間、『処刑人』は首筋にむず痒さを感じた。彼の首筋には白い包帯が巻かれている。全身黒ずくめの彼の中で包帯だけが白い。彼は包帯の上から首筋を掻いた。

「こんばんは、処刑人さん」

 『吸血姫』の挨拶。彼女の声には殺風景な石牢に不釣合いな、熟れた果実の重い甘さがあった。

「おい、俺を舐めてるのか? もう朝だぜ」

「私達『血族』にとって朝は眠る時間、朝は夜、だから“こんばんは”でいいのよ」

 そう言って『吸血姫』は薄く笑ってみせた。笑うと人外である証の、発達した上あごの犬歯が僅かに覗いた。教会は吸血鬼の長い犬歯を『毒牙』と呼んでいた。あの牙が首筋に突き立てられたら最後、老若男女問わず死に至る、……教会はそう喧伝していた。

 ほとんど反射的に浮かべたであろう『吸血姫』の微笑には、傷ついてもなお平然と飛び立とうとする野鳥の気高さ、痛々しさがあった。長い睫に縁取られた『吸血姫』の双眸は悲哀の色で満ちていたが、彼女はそれを強いて誰かに知ってもらおう、理解してもらおうとは思っていないのである。こんな『吸血姫』の殊勝な態度が教会の掲げた悪辣非道な『夜の怪物』像をことごとく否定していた。『処刑人』は自らの職務に対する信念が炎のように怪しく揺れるのが不快で仕方なかった。

 『処刑人』は秩序を保つために悪党や異端を粛清する自らの職務に誇りを持っていた。彼は少年時代より人の役に立つ、社会に貢献できる仕事がしたかったのである。

 彼は当初、医者になる道を歩んでいた。幼時、死病から奇跡的に生還することのできた彼は自分も人の命を救いたいと願い、またそれが生かされた自分の使命だとすら思い込むようになっていた。

 しかし運命とは残酷なもので、ある事情と、貧困によって医者になる道が夢半ばで閉ざされた時、教会が困窮していた彼に与えたのは最低限の衣食住と、そして人を救う医業とは逆の、人の命を奪う『処刑人』という役職だった。人を癒すためには当然、肉体の構造を熟知しておく必要があるが、それは罪人に苦痛を与えることなく速やかに絶命させなくてはならない処刑にも当てはまる。教会にとって医療知識を持っている彼はうってつけの人材だったのである。

『命を救いたいと思って学んだ知識と技術を人殺しのために使うことになるなんて……』

 彼は当初、自らの境遇を呪った。呪いながらも、しかし持ち前の真摯さから職務を忠実に遂行していくうちに、彼はこの薄暗い職業の社会に及ぼす役割に気がついた。……このセカイには誰もが死を望む外道や秩序を乱す異端がおり、心の平穏を望む多くの人達のためにも、誰かが必ず社会の害悪に引導を渡さなくてはならない。他者の未来を奪う『殺人』という行為は悪だ。しかしこの処刑という悪が人々に罪の重さを知らしめ、犯罪の抑止力になっている面も否定できない。 ――天使文書第五章、聖獣の頁『Dios xia saevum beast yuo katze serrer dans les bras.《神は災厄の怪物を愛猫の如く膝に乗せている》』――、教会は奇妙な慣習から処刑人のことを『聖なる怪物』と呼んでいた。

 『夜の怪物』と相対する『聖なる怪物』。『夜の怪物』が『毒牙』を持つように、『聖なる怪物』もまた教会から『牙』を与えられていた。

 『処刑人』の腰には一振りの剣が下げられている。剣は抜き身で一見すると刺突剣のようだが、突くことに特化しつつもあくまで刃物である刺突剣と違い、『聖なる怪物』の持っている剣は刀身が注射針のようになっていた。飾り気のない剣の柄尻からは鉄の導線が伸び、それは処刑人が背負う小型の機械と繋がっている。

――『吸血刀モスキートウ』、処刑人が持つ、武器というよりも医療器具に近い処刑道具を教会はそう呼んでいた。『吸血刀』の、細くかつ強靭な剣針は名工が鍛えたものであり、その切っ先はやすやすと人間の皮膚を、肉を、骨をすり抜けて身体の奥深くに潜り込む。そして柄にあるスイッチを押した瞬間、背中に固定された機械――吸水ポンプが駆動し、切っ先から相手の血液を吸い上げ、ポンプは相手をカラカラに枯れ果てさせるまで止まらない。『吸血刀』、血を奪い取って失血死させる殺人機械、悪を持って悪を滅ぼす、吸血鬼を殺すのにこれほどおあつらえ向きの道具はなかった。

 『処刑人』は揺らぐ信念を押さえつけるように汗ばむ手で『吸血刀』、その異形剣の柄尻に触れた。『吸血姫』はそんな『処刑人』のただならぬ様子をちらりと横目で流し、

「今日はまたどういうご用件ですの? 私の処刑は二時間後と聞いておりましたのに。予定が早まったのでしょうか?」

 『処刑人』は疼く首筋を揉みつつ、

「何か言い遺すことがあるんじゃないかと思ってな。いや、勘違いするなよ、同情からじゃない。外の新聞屋がうるさくお前の事を聞いてくるんだ。お前は知らないかもしれないが、外じゃお前のことで結構騒がれてるんだぜ」

 これは『処刑人』が『吸血姫』の顔を見るがためにでっちあげた適当な口実に過ぎなかったが、

「まあ」

 『吸血姫』は少し驚いたようだった。切れ長の目が一度大きく見開かれた。その後、悲嘆の暗幕に閉ざされた『吸血姫』の目に湯のような光がにじみ出た。微かに涙ぐむ『吸血姫』、女を泣かせた経験のない『処刑人』は激しく動揺した。

「な、なんなンだよ?」

「いえ、少し嬉しくって。死刑前にも関わらず、御用司祭様すら現れない。みんな私のことを病原菌かなにかのように嫌い、避けているものとばかり思ってましたから少しでも私のことを知ろうとなさることはとても救いになりますわ」

 『吸血姫』の本心を聞いて、『処刑人』の顔は恥ずかしいものを見られたように赤らんだ。

「では少しお言葉に甘えさせていただきましょうか、最後に誰かとお話したいと思っておりましたから」



 『吸血姫』は語りだした、まるで歌うように……。



 貴方の世代には信じてもらえないかもしれませんが、300年前、宣教師達がやってくるまで私達『血族』と、この土地の人間は共存していたのです。

 教会は私達の眷属の証である鋭い犬歯を『毒牙』と呼んでおります。確かに私達の牙は人を殺す作用がある、でも決してそれだけではないのです。私達は人間から血を頂く代わりに、死を望むものには永遠の死の安息を与え、生を望むものにはその者の身体に巣くう病魔を血と共に吸い出す。人々はこの私達の力を重宝し、私達も人々を苦しみから救うこの能力に誇りを持っておりました。

 しかし唯一の救世機関でありたい教会にとって私達の能力は面白いものではありませんでした。教会は流入してきた多くの移民とともに私達『血族』を、そして私達を信奉する土地の人々を徹底的に弾圧しました。

 『血族』の中には教会の横暴に立ち向かう者もおりました。血気盛んな若き『血族』と教会との血で血を洗う闘争、それがあなた方の知る恐怖の『夜の怪物』伝説なのです。闘争がどういう形で終結したか、もうご存知でしょう。時も経ち、純粋な『血族』はついに私のみとなりました。



 ここで吸血姫の声が震え始める。



 私はなんとしてでも『血族』の汚名を晴らしたかった、『血族』の存在を無意味なものにしたくなかった。

 私は病に苦しみ、それでも生を望む人達の病魔を患者の血と共に吸い出しました。また、老いと病で寝たきりになり、これ以上家族の足手まといになりたくない、例えばそういった死を願う人達に安らかな永遠の眠りを与えました。『血族』の力を使って最善を尽くす、それがただ一人生き残った私の使命だと、そう信じて私は各地を奔走しました。

 再び、私に協力してくれる人が現れました。しかしそれを見た教会は黙ってはいなかった。教会は各地に私の悪評を流すと同時に私の協力者に苛烈な拷問をしました。

 私はいいのです、どうなろうと。覚悟はしておりました。ただ私のせいで罪のない人達が苦しむことには耐えられそうにありませんでした。捕らえられた人々を救うために私は教会に出頭しました。

 こうして刑死を間近に控えると色々な考えが泡のように浮かび上がります。私は最初、自分の運命に嘆き、また時に憤っておりました。私は最善を尽くした、多くの人々を救った、なのに今、私は大勢の人達から『悪魔』『怪物』と罵られ、無残な殺され方をしようとしている、ひどい! あんまりだ! と。

 でも時間が経つうちにこれは罰なのだ、と思うようになりました。私は自らの能力を自分を、自分の血統を肯定するためだけに使っているところがありました。涙ながらに感謝し、すがりつく人々に私は誇らしい気持ちと、そしてどこか冷めた気持ちでおりました。苦しむ人々はみな私の力を誇示し、認めてもらうための生き証人候補達、ただそれだけ、心のどこかで私はそう思っていたのです。

……そんな私の卑しい心をちゃんと神様は知っておられました。神様は私の奢りに対して罰を与えたのです。真に人の生き死にを決めるのは『牙』ではない! (この『吸血姫』の強い語調に気圧されるように、『処刑人』は自らの『牙』である『吸血刀』から手を離した)。どうして私は死にたいと願う人々を速やかに殺すのではなく、生きる希望を持てるように励まさなかったのか。もっというなら教会の支配下の元で『血族』の力を濫用することの意味をどうしてもっと慎重に検討しなかったのか。

 私は私のことしか考えていなかった。私は人の生き死にを選別する父祖の力に酔っていた。これはその罰。罰を受け容れる覚悟のできた今の私はとても落ち着いている。私の最後の望みは人々の憎しみの声を聞きながら貴方に処刑されること、そして私に憎しみと恐怖を抱いている大勢の人々に真に心の安息をもたらすこと。私が死ぬことで『夜の怪物』は淘汰され、ようやく人々は安らかな眠りにつくことができる。私は早く、こうなるべきだったのです。



……『吸血姫』の語りが終わった途端、激した『処刑人』は『吸血姫』に思いっきり蹴りを入れた。『吸血姫』は大きく吹き飛んで壁にぶつかった。『吸血姫』は苦痛にうめいた。顔を上げる『吸血姫』には突然の暴力に対する戸惑いはあったが、怒りの感情はなかった、憎しみの感情はなかった、あるのは全てを諦め、ただ死を期待する、豚にも劣る殉教者の目だった。この目が処刑人の怒りに火をつけたのだ。

 『処刑人』は首の包帯を力任せにむしり取った。そして首筋にある並んだ二つのほくろのような傷痕を『吸血姫』に見せた。決して消えることのない吸血鬼の噛み痕だった。

 『吸血姫』は息を呑んだ。

「あんたが気まぐれに救った村の、その他大勢の子供のことなんて全く覚えてないだろうな。俺と俺の母親はあんたのおかげで流感から救われたんだ。今、俺が生きていられるのはあんたのおかげなんだ。俺は小さかったが今でも鮮明に覚えている。あんたの慈愛に満ちた励ましの言葉を。俺を救ってくれたあんたの誇らしげな、美しい横顔を。俺もあんたみたいになりたいって強く思った。だから俺は医者を目指した。でもその道を閉ざしたのもあんただ。しばらくして俺と母親は吸血鬼と関わった異端だと教会に吊るし上げにされたんだ。俺は小さかったからひどいことをされなかったが、俺の母親は異端審問官の激しい拷問を受けて死んだ。そして俺は今も異端のレッテルを貼られ、自分のなりたかった医者になれず、ここでこうして人が忌み嫌う仕事をしている。俺の母親を殺し、俺の夢の道を閉ざしたあんたが憎い。殺したいくらいに憎い」

 『処刑人』は『吸血器』を美女の白い首筋に突きつけた。切っ先は細かく揺れていた。

「だが俺がこうしてこの人殺しの職業に何とか誇りを持ってやっていけているのもやっぱりあんたが、いや、あんたの行為に感動した子供の頃の俺がいるからなんだ。罪人達に苦痛を与えずに処刑をすると同時に、処刑人の存在が犯罪の抑止力になる、俺もまた人殺しの怪物だが、俺がいなければ秩序が守られないと言う側面がある。『夜の怪物』だとか、化け物だとか罵られても必死になって地方を駆けずり回って人々を救っていたあんたの、そんなあんたの後姿あったからこそ、俺は自分の仕事を真正面から見つめ、そして自分を、自分の職業を肯定して生きていけた。あんたがいなければ俺の心はとっくに病んでいただろう。怪物であるあんたを殺すことは、同じく怪物である俺を殺すことにもなるのか? 俺はどうしたらいい? 俺はずっとずっと考えてきた。なのに、あんたは思考を止めてしまった。あんたはやっぱり自分のことしか考えていない。あんたは俺のことなんて、救われて感謝している人間の気持ちなんてまるっきり考えちゃいない。俺にはそれが許せない」

 『処刑人』は腰にさげていた鍵束を『吸血姫』の目の前に投げやった。石床に鍵束がぶつかるキンという冷たい悲鳴。

「俺はあんたを助けたいし、でも許せないとも思っている。あんたはどうなんだ。本当に死にたいのか。だったらコロシテヤル。だがまだあんたにできることがあるなら、あんたに生きる目的があるならその鍵を拾え、監獄の鍵だ、それでここから出られる、さあ、どっちだ!」

 『処刑人』の目には、先程から女の首に『吸血刀』の切っ先が食い込まぬように『処刑人』の手を押さえつける小さな手が映っていた。少年時代の『処刑人』が現れて、小さな手で大人の『処刑人』を思い止まらせているのだ。それが幻だということは分かっていた。にもかかわらず『処刑人』の手は震えて動かせない。子供の幻を見ているうちに、『処刑人』は我慢できなくなってついに目から一筋の涙がこぼれた。

 重い沈黙が石牢の中を満たした。『吸血姫』は表情こそ変えないものの、彼女の目は『処刑人』の顔と床に落ちた鍵との間を忙しなく行き来し、血の色が浮かび上がるほどに強く握りこんだ手は微かに震えていた。

……どれ程の時間が経っただろうか。『吸血姫』が重々しく口を開いた。声はかすれていた。

「あなたも私と同じ怪物ならわかるでしょう。怪物にも愛があるの。私にはまだやらなくては、果たさなければならないことがある。信じて欲しい。私が最後に残した役割を果たした時、必ず貴方の前に現れて、貴方の怒りを、その刃を受け入れます。約束します、この誇りに賭けて」

 そう言って『吸血姫』は上あご右犬歯を凄まじい力で引っこ抜くと、その血塗れた犬歯をそっと石床に置いた。歯を抜いた箇所からどっと血が溢れた。血塗れた赤い唇で、歯抜けの笑顔を作ってみせると、

「ありがとう」

 『吸血姫』は鍵束を手に取ると、身を翻し、『処刑人』の脇腹に回し蹴りを食らわせた。吸血姫の回し蹴りは頑健な『処刑人』の身体の半ばにまで食い込んだ。骨が折れ、骨が内臓に突き刺さるのが『処刑人』にはわかった。

 そのまま『吸血姫』は脱兎のごとく牢屋を抜けて、廊下を走り去った。『処刑人』が意識を失う最中、遠くのほうで悲鳴や怒号が聞こえた。



 『吸血姫』を逃がした『処刑人』を教会は弾劾しなかった。凶暴な怪物と化した『吸血姫』が施設護衛に当たっていた聖騎士にも重軽傷を負わせていた。騎士の中には『吸血姫』の凄まじい膂力に恐れをなして逃げるものも多かった。『吸血姫』は光の入らぬ地下水道へ逃げていった。彼女を追う者は誰も居なかった。

 唯一、『吸血姫』に手傷を負わせたのは処刑人だった。『吸血姫』の暴行を受けて意識を失っていた『処刑人』の傍には、彼が折ったと思われる『吸血姫』の血まみれの牙が落ちていた。おかげで『処刑人』は暴走した『夜の怪物』に果敢に立ち向かい、重傷を負いつつも、『夜の怪物』の牙を折った英雄として教会から賞賛された。

 しばらくして『処刑人』は怪我を理由に退職した。『処刑人』には医療費と過分の退職金が与えられた。『吸血姫』を逃した教会は、人々に『処刑人』を英雄視させることで失態をなんとか隠そうとしていた。退職金には報奨金と口止め料が入っていたのだ。

 『処刑人』はもう次にやることはもう決めていた。彼の心は晴れやかだった。逃げる間際に見た『吸血姫』の目には彼が昔に見た彼女の目と寸分たがわぬ輝きがあったからだ。



~A FEW YEARS LATEER~

 元『処刑人』は船着場を目指していた。彼は教会の権威が及ばない新大陸で医者を目指そうとしていた。

「募金、お願いしま~す」

 教会堂の前では何人かの少年少女たちが募金活動をしていた。その中の一人、フードを目深に被った子供が元『処刑人』の前にきて、

「こんばんは、おじさん、募金してよ」

 元『処刑人』は首筋をぼりぼり掻きながら、

「誰がおじさんだ、誰が。それに朝なのに“こんばんは”って何なんだよ」

「僕の中じゃ、朝が“こんばんは”、なのさ。それよりさ、お兄さん、募金してよ。今ね、小さな島国で地震が起きて大変なんだ。食べ物なくて大変な想いしている人、いっぱいいるんだよ。ねえお兄さん、エッチな女の人にお金使うよりも、この募金箱にお金入れてくれたほうがいいよ。お金で命は買えないけれど、食べ物や薬は買える。その食べ物や薬で多くの人が助かるんだ、そうママが言っていた。だからさ、お兄さん、この箱にがっつりお金入れちゃってよ」

「ガキのくせにいっちょまえなこと言いやがる」

 元『処刑人』は子供の頭を軽く指で小突いてやった。その拍子にフードがはだけて子供の顔が露になった。元『処刑人』の目に、ほとばしる鮮血の如き赤い髪と真っ白な肌が飛び込んできた。

「お前……」

 元『処刑人』の脳裏に美しい『吸血姫』の姿がよぎった。

「痛いな~、ナニすんだよ」

「いや、お前の、えーと、母ちゃん、そう、母ちゃんは今どうしてんだ」

「え?う~んとね、聖堂で毎日、熱心にお祈りしているよ。みんな幸せになれますようにって」

 ああ、彼女は彼女なりに最善を尽くしているのだ、決してめげることなく、諦めることなく。元『処刑人』の胸に勇気が湧いた! どんな苦難も乗り越えられそうな強い勇気が!

 うちのママ、すっげ-美人なんだぜ、と言って赤髪の少年はにっと歯を剥いて笑う。上あごの右側の犬歯だけやけに大きくて鋭い。

――ああ、知ってるさ。そう言おうとして元『処刑人』は止めた。彼は黙って財布の口を開いて、大目の献金をしてやった。

「兄さん、ありがと!来世もきっと人間に生まれ変われるぜ」

 そう生意気なことを言って赤髪の少年は駆けていった。子供の後姿を見て元『処刑人』は微かに笑うと彼は、彼の道を歩んでいった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 自分の表現したい世界観をうまく書けた作品だと思います。タイトル名選びも良い。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ