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手野財閥

作者: 尚文産商堂

今や、一つの市の名前にもなっている財閥だ。

その名前は手野財閥。

電車、バス、タクシーといった交通機関網を中核として、繊維、食品の軽工業、自動車やトラック、造船業の重工業を行っている。

自前の自動車製造によって、流通業も行っている。


もともとは、繊維業から始まった。

1798年、豪農の初代手野左武郎(てのさぶろう)が、御家人株を買い、余った麻や木綿を集めて、服を作り、それを大坂で売ることを始めた。

その際、家紋を定め、定紋として繊維の神様として名高い大麻比古神社の神紋をいただき、丸に星型の麻をつかうこととなった。

1800年ごろになると、京都の呉服店へ納入を始めるほどになった。

1820年前後になると、大坂で流行っていることを聞きつけた堅家建造(かたいえけんぞう)と呼ばれる商人の助けによって、江戸にも店を構えるようになった。


1850年ごろ、三代目の時代になると、服を売る傍ら、その商談の最中にお酒やご飯を出すようになった。

その後、独自の店として、茶店を始める。

それが飲食業の始まりである。


また、1860年ごろに至ると、陸運業を始める。

服を製造していたのは、基本的に畿内であったが、それらを運ぶために、別のところに頼んでいたのでは、なかなか儲からないと判断したからである。

陸運業を始めるにあたり、同時に船を使った海運業も始めた。

それら全てを指揮していたのが、四代目手野左武郎だ。

四代目の時代に、業種は一気に広がった。


明治維新を経て、五代目手野左武郎は、明治新政府の困窮している財政を助けるべく、5万両を貸し出した。

それがきっかけとなって、明治新政府の人たちと組むようになった。


五代目が腐心したのは、より一層の手野家の繁栄であった。

そのため、大阪における銀行設立の話が舞い込んできた時、すぐに飛び付いた。

1873年、国立第百三十八銀行と呼ばれる銀行が設立。

今では手野銀行と呼ばれる銀行である。


銀行業を始めると、それからしばらくして政府から殖産興業の一端を担うようにと言う命令がやってきた。

五代目がそれにすぐに反応して、その息子、六代目となる長男に重工業部門を任せることにした。

これが、手野財閥の始まりとされている。

後、手野重工業株式会社が設立、五代目長男(しげる)が社長に就任した。

この手野重工業株式会社の設立と同時に、繊維業部門を手野繊維株式会社、陸運と海運を合わせたうえで運送業部門を手野運送株式会社、飲食業部門を手野食品株式会社としてそれぞれ設立、独立させた。

また、中核銀行として国立銀行条例失効後、国立第百三十八銀行を手野銀行株式会社に組織変更。

繊維には次男(かける)が、運送には長女(かおる)が、食品には次女(ゆう)が、銀行には三男(しょう)が、それぞれ社長に就任した。

それら全ての株式を保有しているのが、持株会社である手野統括株式会社である。

手野統括とも呼ばれるその会社こそ、財閥の中核となる会社だ。

社員は、原則として手野家の面々であり、その主たる収入は、100パーセント出資のそれぞれの系列子会社からの配当だ。


1900年に入る直前のこと、輸送業を細分化するため、バス及びタクシー事業と鉄道事業を分けることとなった。

これが、手野鉄道株式会社の始まりである。

重工業の一部門として設置されていた鉱山運営の会社の運送用として、鉄道を敷くこととなったのが、その発端である。

当時は、軌道条例に従って敷設されたため、一部路面電車となっていた。

蒸気機関を使っていたため、近隣住民から、たびたび訴訟を起こされていたが、その全てにおいて手野鉄道は請求の半額の賠償金を支払っていた。

ただし、最高額は当時の金額で1千円だった。


鉄道は、後に関西に敷くようになった。

これが、今敷設されている手野鉄道の始まりだ。

1905年のことである。


始まりは、姫路と三宮の間だった。

鉄道国有法によって国鉄に合併されるまでの間は、特に山陽鉄道と競合していた。

だが、それ以後は国鉄との競合にとってかわったにすぎない。

当時、姫路と三宮の間だけしか敷設されていなかった関係で、国有化されることは免れたのだ。


それからは、どんどんと伸ばしていくことになった。

運送業は、トラックと電車を組み合わせることとなり、広域輸送網を構築することに成功。

輸送業者として、日本一位となった。


これらすべての会社の本社は、大阪におかれた。

手野統括の本社も同じところにおかれ、そこは、手野町と呼ばれるようになった。

昔からの土地のため、そこに本社や手野家の実家が集まったのだ。

そして、手野家の土地だからということで、明治時代に手野町と名付けられた土地だ。

まだ、1つの5階建ての建物を共有しているにすぎないのだが、将来的には、近隣の土地を買収したうえで、天を突く巨大本社を作る予定だとしていた。


だが、その計画は、終戦によって遮られる。

財閥解体によって、それぞれ無関係の会社とされたのだ。

そのうえ、社長も一族以外の者に入れ替わさせられ、常務などの取締役も一斉に替えられた。

手野統括はその時点で清算となった。


その後、それぞれは独自に発展を遂げることとなる。

一方で、1970年から2年かけて、再びグループ企業化。

持株会社手野産業株式会社が設立され、各旧手野財閥傘下の会社の株式の33.3%を保有することとなった。

以後、今に至るまで、その比率や会社構成は変わっていない。

つまり、手野鉄道株式会社、手野食品株式会社、手野重工業株式会社、手野運送株式会社、手野銀行株式会社である。

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