第五章
赤く色づいた木の葉が、くるくると宙を舞って落ちた。
真紅の絨毯がひかれた、朝日が差し込む森の中に、悠然と佇むログキャビン。
ルギとラシェルは、朝食後、ルークに、枯れ葉の散り積もった空中庭園に呼び出された。
「今日は、二人合同で、遺跡探索訓練を受けてもらいます」
ルークのその言葉に、ルギはポカンと口を開けて絶句し、ラシェルはそんなルギの態度に、あからさまに不機嫌になった。
「…異議はないですね、ラシェル?」
「わ、私はないんですけど…それよりもこっちの人のほうが、何か言いたげぽいですよ?」
そのラシェルの言葉に、ルークはルギを半目でジロッと睨んだ。
「………俺は………」
ルギが呟いたが、その後に話す暇を与えず、ルークはルギに言った。
「貴方は、腕は一流ですが、こちらの盗賊団では新人です。つまりは、4ヶ月前に入団したばかりの、ラシェルの後輩にあたります。今回は、新人同士の能力向上を図るため、既出の遺跡の調査を行っていただきます」
文句を言うな、といわんばかりのルークの眼力に、ルギは黙った。
どうせ、こいつに何を言っても無駄だと悟ったのだ。
オホン、と一つ咳払いをして、ルークは続けた。
「…調査内容は、アジトから少々離れたところにある、修行場として使っていた遺跡―通称『雨の遺跡』―です。先日の台風で起きた土砂崩れで、今まで発見されていなかった新たな通路が発見されました。貴方達は、その通路の奥を調査してきてください」
ルークは、そこで手元にある資料をぱらっとめくり、自分の眼鏡に触れた。
「…通路の先は、未だ未知数です。危険を感じたら…調査を中止し、帰還してください。最終報告期限は三日以内。…以上です」
そういって、ルークはアジト内に立ち去った。
後に残されて立ちすくむ二人を、木々の間から差し込むやわらかい斜光が包み込む。
ラシェルは小さく身震いすると、ルギに向かって言った。
「……別に、私と一緒が嫌なら、断ればよかったじゃない」
ムスッとした顔で、秋風になびく千草色の長い髪の先をいじくる。
最近、ラシェルは、あからさまにルギに避けられているのを感じており、正直、仕事上ペアを組まされても、やりづらいだけだと思っていた。
「あ……いや、そんなことはない」
慌ててルギが否定する。
嫌ではないが、やりづらいと思っていたのは、ルギも一緒だった。
「そう? ならいいけど。じゃあ、九時に現地集合ね」
そう言って、ラシェルは準備をするため、自室に駆けていった。
ルギは、現在の状況が把握できずに、呆然とその場に立ちつくした。
「……どうしてこうなった…?」
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数時間後、二人は「雨の遺跡」の入り口、現地前で集合していた。
先に着き、大岩に腰掛けて待つルギの前に、小走りで駆けてきたラシェルが近づく。
「おまたせっ」
「ああ。…じゃあ行こう」
遺跡探索の経験豊富なルギとは違い、ほぼ何もかも初心者なラシェルは、準備に手間取って遅れてしまっていた。
しかし、ルギは特になにも言わず、言葉少なく、さっさと遺跡に足を踏み入れる。
ラシェルは、遅れたことを気まずく思いつつも、それについて何も言わないルギを、不思議に思った。
(この人って、あんまり感情を表に出さない人なのかな…)
抱きつかれたけど、ということを思い出し、ラシェルはぶんぶんとかぶりを振る。
ルギが先にいってしまうので、ラシェルは急いでランタンを灯し、後に続いた。
既出の遺跡の調査とはいっても、奥のほうは誰も足を踏み入れていない、未開のダンジョン。
二人とも慎重に装備品を着用し、愛用の武器を持ってきていた。
基本的な流れは、ルギが前に出て、罠の発見や解除、調査。
ラシェルはランタンを照らし、マッピングを行っていた。
「遺跡調査に必要なことは、俺がやる。あんたは、明かりと地図記載を頼む」
そういってルギは、率先して先を歩いた。
後輩のくせにっ、と、ラシェルは面白くないまま、ムスッとした顔で、後ろからついていった。
少しづつ、慎重に進んでいくルギの後ろで、ラシェルは地図を作成しながら、色々な情報を書き込んでいく。
毒針の罠が仕掛けられた扉や、落とし穴。
天井が落ちてくる罠。
上に乗ると跳ねる床。
槍が飛び出してくる壁。
そういったものをすべて的確に発見&解除し、「ここはこれがあるから、これに触らないように」というルギの説明どおり、ペンを走らせるのであった。
ラシェルは、自分では発見出来ないような罠なども、ルギがあっさり見つけて解除するので、ルギが先頭でちょっとだけホッとするのと同時に、なんだか訳もわからず、胸がムカムカした。
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一方、ルギは、罠解除や罠発見に集中することで、ラシェルのことを意識しないようにしていた。
ただでさえ、暗い闇の中に二人きりである。
もし、こんな時に、また妹の幻を見てしまったら…
自分では、手を伸ばしたい欲求を、抑えることが出来るかわからない。
だから、最初から、自分が先頭に立ち罠を解除することで、ラシェルを数歩後ろに、サポートとして待機しておかせることにした。
近くにいると思っただけで、やりにくい。
つい、意識がラシェルに飛んでしまう…。
そのため、罠を解除するときは、灯りをラシェルから受け取り、手元に置くか口に咥えるかで、作業を行った。
ランタンを持った彼女が近づくと、ふわりと優しい甘い香が漂い、脳の奥が痺れるような感覚になり、指の先が震えてしまうからだ。
今のところ、罠は複雑なものはなかったが、数をこなしていたので、集中力が切れてきた。
ルギは、フゥ、と息をつき、毒針の仕込まれていた扉の罠を解除したところで、一つの事を見落としていた。
扉を開けて、次の部屋へ進むルギについて、ラシェルがドアをくぐろうとしたとき…
天井から滲み出ていたなにかが、ラシェルの肩に滴り落ちてきた。
ポタッと、肩に違和感を感じ、反射的にラシェルが見上げると…
天井から、ドロッとした触手がラシェルの上に絡み付いてきた!
「きゃあっ!」
ドンッ
「うわっ!?」
ラシェルは、思わず触手を避け、前を歩くルギの方向に飛び出してしまった。
体当たりされたルギはバランスを崩し、扉の先の床に、足を踏ん張る。
途端、床が真っ二つに割れ、奈落の口が開いた―。
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二人の足元に開いた大きな深刻の闇は、底が見えない深さだった。
穴に落ちる瞬間、ルギはラシェルの体を抱きしめ、自分の中に包む。
すぐに受身の体制を―と身体をひねったが、その刻は一瞬だった。
数秒程の間の後に、ルギは背中から、地面へ叩き付けられた。
ドンッ
「ぐっ!」
思わず呻き声が出る。
背中のバックパックがクッションになったとは言え、一瞬呼吸ができず、視界が真っ暗になった。
二人が落ちてすぐに、ゴウゥゥンという石のぶつかる音がして、落ちて来た穴―現在は天井であるが―は、閉じてしまっていた。
「う…」
ラシェルは頭を抱えながら、上半身を起こした。
なにやらドロドロする物体に驚いて、その先の穴に落ちてしまったけど、自分の体に怪我はなかった。
手をついた先がなにやら暖かい物体で、良く見ると、どうやらルギを下敷きにしてしまっているらしい。
ラシェルは慌てて、近くに落下して転がっていたランタンを拾い、ルギに近づける。
「…大丈夫!?」
ルギは眉間にシワを寄せて唸っていたが、
「…ああ、……大丈夫だ」
とだけ、返した。
ホッとして、ラシェルは辺りを照らす。
そこは、ただの石作りの真四角の部屋で、木製の扉が一枚ついているだけだった。
「…串刺しのトラップがなくてよかったな…」
背中の打撲だけで済んだルギが、痛てて、と身体を起こす。
それを見て、ラシェルが呟く。
「…ゴメン」
「いや…。あんたは、怪我はないか?」
「うん、私は平気」
「なら、良かった…」
ハァ、と小さく息をつき、ルギは壁に背を預けた。
「…悪いけど、少し休んでいいか?」
「どこか痛むの!?」
「…いや、そうじゃない。ちょっと疲れた」
そう言ったルギは、立てた膝に片腕を乗せ、顔を埋めた。
「背中、怪我してない?」
と、ラシェルはルギに問い掛けた。
ルギは、顔を見ずに答える。
「ああ…。大丈夫。あんた、軽いから」
「…でも、擦り傷とかついたら、ばい菌が入っちゃうから、消毒しないと…」
「いや…」
ラシェルが、ポケットから消毒液を出そうとすると。
「…スマン。今、俺に近づかないでくれ」
と、ルギはキッパリと言った。
流石にムッとして、
「なんで?」
とラシェルは返す。
すると、ルギは少し動揺した。
「いや……」
そのまま言葉を濁そうとするルギを、ラシェルは鋭い眼光で睨む。
観念したように、ルギは俯き、顔を背けて呟いた。
「…………あんた、いい香りがするから…………」
「は?」
「…………あんたが傍にくると、罠の独特の香りや、毒や空気の臭いがわからなくなるんだ………」
ルギが言ったことは、半分は本当だった。
ラシェルの、髪のフワッとした甘い香り。
その甘美な匂いに酔いしれ、脳が危険に鈍感になり、罠が良くわからなくなる。
それに加え…
先程落ちたときに、庇うためだったとはいえ、うっかり彼女を抱きしめたせいで、自分の鼓動が早鐘のようになり、苦しかった。
今、彼女が傍に来たら、自分がどうなるのかわからなくなる。
ルギは、再び腕に顔を埋め、目をつぶった。
「…少し休んだら、出発しよう」
「…………」
ラシェルは、なんだか良くわからない事を言われたが、自分のせいで罠に引っかかって、ルギを危険な目にあわせてしまったので、何も言えなかった。
ますます機嫌が悪くなり、部屋の片隅に座って、先程の地図の続きを書きはじめた。
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数分後―
二人は、さらに遺跡の奥へと向かっていた。
地下にある遺跡は石壁でしっかり出来ていて、何処かに空気穴もあるのか、息苦しさはなかった。
通路や小部屋が多かったが、遺跡内でこれといった発見はなかった。
「古代人の作った遺跡は、直線的な建築様式が多いから、地図製作は楽だな」
ルギがボソッと言う。
「どういうこと?」
思わず、ラシェルが問いかけた。
「間取りが規則的だから、地図が書きやすいだろう? これが、自然の洞窟を利用している遺跡だと、訳がわからなくなる」
「なるほどねー」
「しかし…罠ばかりだな。宝もないのに」
後ほど、盗賊団が訓練にくるとしても、ほぼ全ての罠をルギが解除しているので、再び誰かが入ってきても、作動しない罠が多い。
ルークは、ここを訓練場に使用するといっていたが、果たして罠解除の訓練に使えるのか疑問だった。
まぁ、罠のある場所すべてに目印を付けたので、あとで当事者が、嫌らしい罠を再度設置するんだろうが…
遺跡に入ってから数時間程経過した頃。
ラシェルの書いた地図を見ていたルギが、だいたいの位置を把握した。
そしてルギはずんずんと進み―しばらく長い通路を進んだあと、急に天井が高くなり、かなり広い空間へ出た。
「わぁ…」
と、思わずラシェルが声を上げそうになり、慌ててルギが大きな手で口を塞いだ。
ラシェルが声を上げた理由、それは―
土砂崩れの地盤変動のせいで、高い広間の天井が崩れ、地下だというのに、地上からの光が斜めに部屋を照らしていた。
その部屋は、崩れかけた石壁と柱が、数メートルも天に向かってそびえ立ち、それぞれに、緑豊かな蔦が幾層にも重なって緑が生い茂っていた。
地面にも、苔と共に、湿地に生息する植物や胞子が生え、さながら地底の森の中のようだった。
天井を支える頑丈な巨大な柱には、規則正しく宝石が埋め込まれ、太陽の光を反射して、数多の星のように瞬いている。
そして、その広間の隅に、まばゆく輝く山のような財宝があり、柱の瞬きと、宝物で反射する光で、部屋の中が虹色のプリズムで満たされていた。
ルギは、ラシェルの口を塞いだまま、通路までズリズリと引きずると、ゆっくり座らせ、耳元で囁いた。
「……やばい敵がいる。手を離すから、静かに聞いてくれ」
ラシェルは黙って、ルギを見上げながら頷く。
ルギは、一つ深呼吸してから言った。
「…広間の奥に、ブラッドスパイダーという、巨大な蜘蛛がいる。あれは、古代人が人工的に作り出した、合成怪物だ…。かなり強いと…思う。で…」
ルギは、広間の奥を見ながら言った。
「遺跡の作り的に、真っ正面に、外に出れそうな通路が続いてると思ったんだが…、見た目には、土砂で埋まってるみたいだ。そこで…」
今度は、広間の右にある、巨大な倒れかけの柱を指さした。
「俺が、敵を引き付けてる間に、あんたはあの柱を登って、天井の隙間から脱出してくれ」
ラシェルは、一瞬キョトンとなった。
「…一緒に出ればいいんじゃない?」
「…俺には、あの隙間は無理だな…」
確かに天井には、細かい隙間が無数に開いていたが、どれもこれも幅が小さいため、ルギが通るのは無理そうだった。
「あんたは、壁登りは得意だろ? 蜘蛛は石壁や柱は上れないから、先にでて、ルークに作成した地図を渡して、報告して欲しい。」
「ルギは?」
「…俺は、あいつを倒しておくから…」
そうルギに言われ、ラシェルは悟った。
ルギが囮になる間に、逃げろと言われているのだと。
ラシェルは、顔を青くして言った。
「…じゃあさ、どちらかが囮になってる間に、もう一人が攻撃したら…?」
しかし、ルギは首を横に振る。
「…正直言うけど、あんたじゃ、囮も攻撃も無理だ。…見たところ、戦闘経験だって殆どないんだろう? 死にたくないなら、あんたは怪物には手を出さない方がいい」
「でっ… でもっ…!」
ひどく焦りながら、他にいい方法がないか一生懸命考えるラシェルを見て、ルギはつい、口元をほころばせた。
(あ…)
ラシェルは、ルギの笑顔を久しぶりに見た。
ルギ自身が、妹の死以降、笑ったのは2回目―ラシェルの前でだけだった。
そうは言われても―、ラシェルは、不安げに、おろおろとルギの顔を見上げる。
一つ息を吐いたあと、ルギは、ラシェルを真っ直ぐ見て言った。
「じゃあ… 俺が戦ってる間、あんたは蜘蛛の背後から攻撃してくれ。 俺が、危なくなった時… その時は、助けを呼びに行ってくれるか?」
「う、うん!」
ラシェルは、何もしないで、一人で逃げるよりはいいと思った。
その嬉しそうな笑顔に、ルギはドキッとした。
久しぶりに、彼女の笑顔を間近で見れたことが、嬉しかった。
思わず、ラシェルに手を伸ばしたくなる衝動にかられて、ルギはグッと、自分の手を抑える。
「どうしたの?」
「いや…なんでもない」
ラシェルに言われ、慌てて目を逸らしながら、ルギは立ち上がる。
その視線の先に…
先程は、土砂のようにしか見えなかった大きな固まりが、垂直に立ち上がるのが見えた。
「~~~~~~っっっっっ!!!!」
ラシェルは叫びそうになり、慌てて自分の口を抑えながら後ずさる。
巨大な…赤紫の蜘蛛。
足がそれぞれ2m近くあり、毛がビッシリ生えた、固そうな甲羅で覆われていた。
身体はどす黒い赤で、1.5mほどはあるだろうか。
その先端に、遠慮がちについた頭部には、複数の緑色の目があり、口には巨大な牙が覗いていた。
「…大丈夫なの…?」
「多分、な……」
(…それに、アレを倒せないようでは、ネオスに勝てない…)
背中から、双剣を抜きながら、心の中で呟いた。
蜘蛛は、ゆっくりと脚を動かし、財宝の山のほうに向かう。
こちらに、調度背を向けた。
チラッとラシェルに視線を移し、ルギは言った。
「…準備はいいか?」
「うんっ」
「…いくぞ!」
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ルギは、二本の剣を構えてダッシュした。
蜘蛛はそれに気づき、長い足をワサワサと動かしながら、真正面から来たルギに突進して行く。
(ひぃぃ~)
ラシェルは、その動きの気味の悪さに心の中で悲鳴を上げながら、蜘蛛の背後に、そおっと周りこんだ。
ルギは、蜘蛛の釜のような前足の攻撃を避けながら、少しづつ打撃を与えて行く。
その度に、蜘蛛の足や身体から、どす黒い血が飛び散った。
ブラッドスパイダーの、前足の2本が、鎖鎌のように鋭く湾曲していた。
ルギに向かって、両方の鎌を振り下ろした瞬間。
ガキィィィィィィン!
と、鋭い金属がぶつかる音が響き渡る。
ルギが頭上で交差した双剣で鎌を受け止め、気合を込めて、その鎌を打ち払う。
「ハッ!!」
気合で押し返したルギは、よろける蜘蛛の頭上に高く飛び上がり、背中めがけて双剣の猛打を浴びせた。
しかし、蜘蛛も長い脚を器用に動かし、すばやく追撃を避ける。
(…す…すごい)
見ていたラシェルは、思わず感嘆の息を飲んだ。
二本の剣を持って、素早い動きで蜘蛛をかわしながら、まるで舞う様に攻撃を入れる。
非常時だというのに、ルギの戦術は、見ていてとても綺麗だった。
ルギが頭上で二本の剣を交差させて、気合いを込める。
「ハアッッ!!!」
すぐさま、双剣の乱舞が始まった。
まるで舞踏のように、ルギの双剣の軌跡が弧を描きながら、宙に紋様を描く。
ガンガン、ガンガンと、蜘蛛の脚や胴を剣が打ち抜き、赤黒い血飛沫を上げながら、蜘蛛がどんどん後ずさる。
―――しかし、そこには。
後ろに回り込んでいた、ラシェルがいた。
ルギの猛攻を受け、すごいスピードで下がってくる蜘蛛を避けきれず、ラシェルは声を上げた。
「きゃっ!」
「ラシェル!」
悲鳴に気づき、ルギが打撃を止める。
その瞬間、蜘蛛が再びルギに向かって突進し、長い二本の鎌状の前脚で、ルギを締め上げた。
「しまった…!」
蜘蛛の鎌はそのままルギを締め付け、頭上へ掲げた。
日本の脚は、革鎧の上から、ギリギリとルギの肺を圧迫した。
「うっ…」
苦しみながらも、まだ手にある剣で、蜘蛛の頭部を狙う。
左腕を振り上げた瞬間――
その左腕に、蜘蛛が鋭い牙を突き立てた!
「ぐあっ!」
皮鎧の上からザックリと深く刺さった蜘蛛の牙は、腕の奥深くまで到達し、ジュウジュウと嫌な音をたてて吸血を始める。
ガッチリと喰わえられた顎に、ルギの腕の骨が、ミシミシと悲鳴を上げるのが聞こえた。
「……………っっ!」
苦痛に思わず目をつぶり、左腕の剣が、ガシャンと地面へ落下した。
「ルギ!」
大変だと思い、ラシェルは、吸血に夢中で動きが止まっている蜘蛛の後ろ脚に、小剣を刺した。
「えい、えい!」
殆どが固い甲羅で弾き返されるが、運よく、関節部分に深く刺さり、蜘蛛がバランスを崩す。
ルギは、そのチャンスを見逃さなかった。
一瞬牙が緩んだ瞬間、無理矢理に蜘蛛の顎から腕を引き抜き、残った右腕の剣に力を込める。
「ヤァーーッッッ!!!!」
と、気合いとともに、頭部の接続部分に剣を突き入れ、剣を捩りこんで、頭部を切り裂いた。
部屋の中を、赤黒の鮮血を迸らせながら、蜘蛛の頭が宙に飛んだ。
―途端、蜘蛛が、八本の肢をばたつかせながら暴れ始める。
胴を締め付けていた鎌が緩んだルギは、急いで落ちていた剣を拾うと、ラシェルを右腕で抱き抱え、通路へ走った。
息を切らせながら通路に座り込み、ハアハアと呼吸を整えながら、広間を振り返る。
頭部を失った蜘蛛は、縦横無尽に暴れまくっていた。
柱や壁、財宝にぶつかる度に、轟音と埃と苔が舞い上がり、砕けた宝石が、キラキラと飛び散った。
「…どうなったの?」
ラシェルが、青い顔でルギに聞く。
ルギは、肩で荒い息をしながら答えた。
「…頭部を切断したから、じきに死ぬだろう。…しかし、虫の生命力は凄いな…」
そう言ったルギの顔が、苦痛に歪んだ。
ラシェルが視線を落とすと、左腕上腕部がいびつにへこみ、肩から下が血まみれだった。
「た、大変!」
慌てて自分の救急道具を取り出し、腕の血を拭く。
しかし、出血がなかなかおさまらずに焦ってしまう。
その様子を見たルギは、ラシェルに静かに言った。
「…大丈夫だ、自分でやる…」
そういうと、ルギは腰から幅のある長い布を取り出し、左腕肩付近に巻き付けると、右腕と口を使って布を縛り上げた。
「…止血すれば、そのうち血は…止まるはずだ…。…くっ…」
そう言っても、痛みに顔を顰める。
ラシェルはそのままにしておけず、汚れた腕を拭いて、傷口を手当してくれた。
「…あんたに手当して貰うのは、二度目だな…」
「私…、治癒術がまだあまり上手くできないのだけれど…。しないよりマシだと思う」
そういって、ラシェルはルギの腕に手をかざし、呪文を唱え始めた。
多分ヒビが入ったであろう左腕に、添え木を当てて、丁寧に包帯を巻く。
ギュッと包帯を縛ったときに、ルギが顔をしかめる。
ラシェルは、顔を上げた。
「大丈夫?」
「…ああ…」
そう言った後、小さくルギが呟く。
「…ありがとう」
「パートナーだから、当然だよ」
「いや…手当のことじゃない」
ルギは目をふせた。
「あんた、蜘蛛が怖そうだったのに、俺のこと助けてくれたろ? …感謝してる」
「だって、あれは…」
ラシェルは、無我夢中で、怖さなんか忘れていた。
とにかく、なんとかしなきゃ、と言う思いでいっぱいだった。
「…それに、俺があんたを守らなきゃいけなかったのに、蜘蛛の動きを読めずに危険にさらしてしまって…すまない」
「そんなの関係ないよ! だって私も、蜘蛛のこと避けきれなかったのが悪いんだし…」
ラシェルは、最初にルギの言うことをきいて一人で逃げていれば、もしかしたらルギが怪我をしなくて済んだかもしれない、と思うと、チクリと胸が痛かった。
「…まあ、お互い、なんとか無事に調査がすんでよかったな。…ほら、出口も出来たようだ」
ルギが指さした方向を見ると、蜘蛛の、最後の命の灯火が消える頃だった。
壁や柱に、縦横無尽に体当たりを続けていたが、最後にぶつかった柱が倒れ、通路奥の土砂と共に、蜘蛛は柱の下に崩れ落ちた。
その向こうには、光のさす出口が見えていた―――
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―――その日の夜は、大宴会だった。
ルギとラシェルが見つけた財宝で、しばらくは、黒烏団の財源が潤うということで、アジト中が活気づいた。
いつもなら、節約節約と煩いルークだったが、今日だけは、どんな贅沢も許可してくれた。
それに便乗し、ダインやシーマは、浴びるように酒を飲んでいた。
ルギは、アジトに帰ってから、もう一度左腕をラシェルに治してもらい、細かい傷やふさがらなかった部分は、包帯を巻いておいた。
宴会の最中、疲れたから、と先にルギは退席した。
宴会が終わり、ルークに褒められたので、ラシェルが良い気分で部屋にもどって、しばらくしたころ。
コン、コンと扉を叩く音がした。
「はーい」
楽しい時間の余韻に浸り、ベッドに突っ伏してゴロゴロしてたラシェルは、少しだけドアを開けた。
「あ…」
そこにいたのは、先に寝たはずのルギだった。
「…今日はお疲れ」
ルギがいう。
「…お疲れ様」
ほろ酔いのラシェルは、少し上目遣いでルギを見た。
先に休む、といっていて、今頃部屋を訪れて来られて、せっかくの余韻が少し冷めてしまった。
「どうしたの?」
ルギは、唐突にポケットに手を入れ、小さな箱をラシェルに差し出した。
無地の包装紙で包まれただけの、手の平にちょこんと乗る四角い箱。
「……?」
訝しげるラシェルに、ルギは言った。
「今日の訓練の労い…と、…先日の…詫びだ…」
暗い廊下の、揺れるランタンの明かりに照らされ、ルギの頬が少し赤い。
「えっ、いらないよ」
ラシェルは首を振る。
「今日はお仕事だったから、お互い全力を出したはずでしょ…? この間のことだって、もうやらないって言って貰ったから、もう済んだことだし」
と、ラシェルが慌てて言う。
しかしルギは、黙ってラシェルを見つめた。
「……いいんだ、俺があんたに、何かをあげたかっただけだ…。いらなかったら、売るか捨ててくれ」
と言って、ルギは小さな箱を、部屋の奥へと投げ入れた。
「あっ…」
「……おやすみ、……ラシェル」
そういって、ルギはバタンと扉を閉める。
ラシェルは慌てて、コロコロと転がる箱を拾い上げる。
綺麗に包装された、とても軽い箱だった。
そして、ふと気づく。
(…今日の労いって、今日は遺跡から真っ直ぐアジトに帰って来たから、買い物には行ってないし…)
今日買ったんじゃないなら、いつ…?
箱を胸に握りしめたまま、バタンとドアを開けたが、廊下にはすでに、ルギの影はなかった―。
* fin *